疫病送り

安政3年(1856)7月21日。
江戸幕府今日から夏休みに入る。
--------ではなくてッ!!

アメリカ合衆国から第2の刺客、タウンゼント・ハリスがやって来ました。
夏休みどころじゃありません!

さぁ、幕末がわからなくなっちゃうポイント、ここですよ。奥さん。
結論から先に言うと、このハリスと幕府は日米修好通商条約を結びます。
この条約は「日本が結ばされた」条約です。故にこの後、幕府批判が噴出し、
幕府側も対抗策として井伊直弼による弾圧(安政の大獄)が起きるんですね。

ペリーとの交渉では、林大学頭が判定勝ちにまで持ち込み、人道的支援に限る
日米和親条約の締結までで済ませ、通商は拒否りました。
ペリーとハリスとの交渉の違いは何だったのでしょう?
学校の授業では混同しがちなトコロです。

ペリーは軍人で、しかも当時の最先端技術である蒸気船のエキスパートでした。
だから日本をチカラで征服できると思ってたんですね。
ところがハリスは貿易商人。アジアでの商売経験が長い、経済のエキスパート
だったんです。
「世の中チカラやない。ゼニや、ゼニで東の果てのこの国に、ドーーンとデカイ
銭の花咲かせちゃるッ!!」

まぁ、そう言ったかどうかわかりませんが(←たぶん言ってない)、ハリスが軍人
ではなく商人だったことは大きく関係していきます。
まず、ハリスは和親条約の内容をよく読み、11条にこう書いてあるのを見つけ
ます。
「アメリカ合衆国の役人は、仕事上下田に駐在することがあっても良い」
アメリカ人の日本滞在について、やや曖昧に書かれていましたが、この条文を
根拠に日本への滞在を申し出たのです。
そして、下田の玉泉寺に領事館を置かせました。
「ココを拠点にワイの貿易大作戦が始まるんやッ!見とれやァ、ヤス!」
「ヘィ、兄さん」(←誰?)
「太平洋にデッカイ銭の橋かけたるでェェェッ!」
(ハリス繁盛一代記・・・つづく・・・)


さぁ、そんなとき、東大和では何が起きていたのでしょう?

実はこの頃、東大和周辺では全く異なった恐怖に村人が晒されていたのです。
それは、疫病・・・赤痢でした。
お隣の武蔵村山に残る「指田日記」には、この年の8月28日にこう記されて
います。
「村の中に赤痢患者が多く、病死のものが多く出た。中でもとりわけ橋場組だけで
10人の老人や子供の死者が出たので、赤痢の邪気送りをしたいという事を
村方役人へ相談した。
一同そうするべきだというので、疫病送りのしきたりに則り、村中の人が私の家に
集まり、思い思いの異形の出で立ちをして、常宝院(修験者)と私が祈り主として
丸山台まで送った。その時、小川村(小平市)に奉公に行っている原山の弥次郎と
いう者が、馬を引き杉皮をつけて、夕方に邪気送りの輿の所まで来たとき、向う
から車が来たので馬がそれに驚くのを避けるため、道の端に馬を引き込むと、輿の
中に入ったので、恐怖心に囚われ身の毛のよだつような気持ちだったが、途中から
発熱し、その夜から赤痢となって家に帰り薬を飲んだが、近所の二人の子供が
赤痢になったので、また頼みがあり、常宝院と私の二人と組合の者だけが丸山台に
患者を送った。」


実はこの3日前の8月25日、江戸では大暴風雨がありました。
前年の大地震から復興しかけていた江戸の町は、またしても大きな被害に見舞われ
ます。
この大嵐(たぶん台風)と赤痢は直接関係はないと思いますが、ハリス来日の中で
庶民はかなり不安な毎日を過ごしていたことが想像できます。

この幕末当時でも、疫病などが流行すると、患者を村々の境界線まで連れて行き
邪気を追い出す疫病送りが行われていたんですね。
その際には皆、異形の出で立ち・・・これは白い被り物やお面をつけていたそう
ですが、いきなりこんな集団に出会ったら腰抜かして泣き出しますよ。
丸山台は、現在芋窪街道(多摩モノレール沿い)に同名のバス停や住宅地があり
ますが、そこではなく、そこからもっと西にあった場所だといいます。

方や近代的科学力フル装備でやってくるアメリカ。
方や疫病に邪気送りで対処しようとする東大和周辺の村人。
どっちが進んでいる、遅れているっていうんではなく、幕末という時代がちょうど
近世から近代に変わる絶妙のポジションにあるという、その一端が垣間見える
のではないかなぁ、と思いこのエピソードをご紹介しました。

今晩、夢見るぞ。
異形の集団、邪気送り。

20120828.jpg

マジです、マジ。
でも、そういう話って大事にしたいよね。


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安政大地震

安政2年(1855)10月2日、江戸に直下型の大地震が起きました。
そう、安政大地震です。

東日本大震災以降、過去の大地震を振り返ることがマスコミなどでも増えて
きましたので、この安政大地震も皆さん聞かれたことがあるかと思います。

江戸時代を通じて、大きな地震は何度も起きているんですが、その中でも
江戸周辺に範囲を絞ってみますと、先ず元禄16年(1703)の関東
大地震。
この地震は震源域が、房総半島の南側から神奈川県のほぼ全域と考えられて
いて、マグニチュード7.7~8.2。震度6以上の揺れが出た地域は
房総半島南部・東京東南部・神奈川県全域だったようです。

その4年後の宝永4年(1707)の宝永地震もマグニチュード8.4と
いう強力なものでした。しかし、このときは津波が紀伊半島や四国土佐に
押し寄せ、南海地方に被害が集中しました。
ただ、この地震の一月半後に富士山が噴火したんですね。関東南部はこの
降灰で深刻な被害を出しました。

そして150年後の安政大地震です。
マグニチュードは7.0と考えられていますので、同じ江戸を襲った元禄
の関東地震よりもパワーは少ない地震でした。
しかし、直下型、しかも震源が下町地区の真下だったことから、被害は
人口密集地域に集中。より甚大なものとなりました。
被害が大きかったのは庶民だけではありません。
当時、大名の上屋敷は登城に便利なように江戸城の近くに建てられていました。
老中や若年寄など幕府の重役ともなると、今風に言えば官邸が西の丸下に
与えられていたんです。
しかし、あの辺りは元々湿地帯でしたから地盤が悪い。
恐らく液状化して建物倒壊はひどかったと思います。

さて、里正日誌の内野杢左衛門さんはこの10月2日所用のため浅草に来て
いました。そこでこの地震に遭遇したようです。
「何度となくゆり返し、震動ミリミリとして建物のつぶれる音や、カラカラと
瓦の落ちる音はまるで山が崩れるようかと思われた。食べ物を求めたがどこ
にもなく、淀橋を越え中野村馬宿で前日の残り飯をもらい、ようやく朝食に
ありつき3日の夕刻に帰宅した。」


まさに震災後の帰宅難民ですね。
この震災では強い揺れにみな逃げることに精一杯で、火事が起きても消火活動は
不十分であったといいます。
浅草からよく無事で帰って来れました。

そして地震から3日後の10月5日。
東大和や周辺の村々から20人の人足が集められ、とある場所に向かいました。
さて、どこに行ったのでしょう?

向かった先は、本所割下水。江川太郎左衛門の江戸屋敷でした。
江川さんの屋敷は全倒壊してしまったようで、そのお見舞いと片付けにやって
来たのです。
お見舞い金としては、蔵敷村、奈良橋村、高木村、後ヶ谷村、宅部村、清水新田、
廻り田村、廻り田新田から高100石につき永287文を集めたようです。
これらの行動は強制的なことではなく、村人たちの自発的なことのようです。
幕末の領民と代官の関係を理解する上で、なかなか興味深いと思います。
まぁ、江川さんは名代官と云われた人ですから、人望も高かったのでしょう。
ちなみに、お台場砲台を提言した英龍さんはこの年の1月に亡くなっています
ので、このときの当主は息子の英敏さんでした。

ところで、元禄大地震のときも安政大地震も、東大和は震度6以上の被害地域には
入らなかったようです。
元々、狭山丘陵の麓という立地の上、水に乏しい地域ということがかえって
地盤を安定させて、地震に比較的強い土地なのかもしれません。
ま、素人推測ですけどね。

20120821.jpg

こういった鯰絵は200種類ほどが現存しています。
しかし、当局の検閲を受けずにゲリラ的に出版されたものが
ほとんどですので、作者がわからない絵が多いです。




夏休み

「大変だーッ、勇さん!このブログの筆者が夏休みとかで
南の島にバカンスに行っちゃったぞ!!」

「なんだって!?南の島ってことは・・・尖閣諸島か?トシ」

「そんなデリケートな場所じゃないと思うけど・・・。
いや、場所はともかく、ブログを書く人がいないんじゃ更新
できないってことだよ」

「そいつぁ困ったな。せっかく江戸文化歴史検定の公認ブログに
採用されたというのに・・・」

「え?それホントですか。こんなへっぽこブログが?
そいつぁ上手いコト言って検定を騙したんでしょう、ハハハハ・・・」

「笑いごとじゃないぞ、総司。とにかくアレだ。
今回はブログを書くヤツがいないんだから、我々の漫画だけで
更新するぞ」

「全国の歴史ファンや新選組ファンを敵に回しているという、この
漫画か?
最早、ひがしやまとでも、幕末でもないけど・・・」

「いいんだよ。こんなの勢いだッ!ウリャァァァァーーーー!!」

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日米和親条約

以前、少し書きましたけど、日米和親条約をちょっと補足して
おきましょう。
学校の日本史の授業で必ず取り上げますので、皆さんご存知だとは
思いますが、どのように先生に教わりましたか?

「アメリカのペリーの武力交渉に屈する形で、幕府は開国をせざるを
得ませんでした。ここに250年に渡る鎖国は終わったのです。」

こんな感じじゃないでしょうか。

でもホントにそうなの?
幕府が弱腰外交の末に開国させちゃったの?

そこンところを、新選組総長で物知りの山南さんに語ってもらい
ましょう。
教えて、山南さん!

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アメリカ側の最大の要求は通商です。しかし、ペリーは日本側の交渉相手を
過小評価していました。
条約を結ぼうというのに法律の専門家を連れてきてはいなかったのです。
「艦砲で脅せば楽勝ッス」とばかりに、アヘン戦争でアメリカが得た利権の
部分だけを抜粋して、これを日本にも当てはめようとしたのです。

しかし、以前もお話したように、幕府側代表・林大学頭は外交のプロ。
アヘン戦争の情報も長崎経由で入手し、すべて理解していたと云います。
「漂流民の救助や、燃料・食料の補給については人命尊重の考えから幕府も
理解している。長崎だけでは不便というなら箱館と下田を開港しよう。
しかし、交易と人命は全くカンケイない話!断固、お断り!」
こう言って貿易を拒否したのです。

江戸時代も日本は完全に外国と交渉を絶っていたわけではありません。
皆さんもご存知の出島がありますよね。
幕府としては、時代の趨勢として長崎一港主義は捨てざるを得ない。しかし、
箱館も下田も江戸から遠いへき地(地元の人ゴメンね)であり、外国人の
移動距離を制限すれば開国を許した事にはならない、という認識でした。
交渉は日本側の成功だったと言ってもいいんです。

では、なぜ私たちは「アメリカに屈して和親条約を結ばされ開国した」
というイメージを持っている・・・ていうか、歴史の授業でそう教わった
のでしょうか?

一つには、その後安政5年に締結された日米修好通商条約とセットになって
覚えてるから、というのがあるでしょうね。歴史って、同じような名称の
事柄をまとめて暗記しますからね。
もう一つ。
明治に入ると歴史はすべて薩摩や長州が書きました。その中で、自分たちの
敵だった幕府はなるべく「マヌケで腰抜け」である方が都合が良かったのです。
腰抜け幕府は倒されるべきであり、倒した薩長こそが正義である。だから政権を
担うのである、という理由付けが必要だったのですね。
幕府にも有能な人はいたけど、国民は知らなくていいから・・・てなもンです。

明治に薩長が「作った」歴史を、私たちは基本的に今でも学習し続けていると
いうことを念頭におかないと、本当の歴史は見えてこないと思います。

だって、日本のほとんどの人がペリーを知ってるのに、その交渉相手の日本側・
林大学頭や江川太郎左衛門を知らないって・・・日本人としてヘンだと思いません?




神明社の大木

いろんな事があった嘉永年間でしたけど、いろんな事があり過ぎたので嘉永7年
11月27日に改元することになりました。
新しい元号は安政です。
ワレワレが知っている改元といえば、昭和→平成ですよね。それ以前の大正→
昭和とか明治→大正を目撃した人ってのは、おそらくこのブログなんか見て
ないでしょうな。
平成になる時、小渕さんが「平成」って書いたボードを持って全国にテレビ中継
されましたが、江戸時代は改元というとどれくらいの速さで全国に伝わったので
しょうね?
ちなみにこの時、東大和地区には12月5日に改元の知らせが届いたそうです。
なんかノンビリした感じですが、当時の情報伝達はこんな程度だそうです。

元号が安政に変わってすぐの12月21日、アメリカ、イギリスに続いてロシアと
幕府は和親条約を結びます。(イギリスとは前年の8月23日に締結)

そんな頃の東大和です。

今回は市内の史跡を、一カ所ご紹介。

006.jpg

こちらに見えますのが、安政2年に建てられました「消防第二分団」です。
・・・・ってそんなワケは有馬温泉、ありません。

場所は東大和市狭山の志木街道沿い。
この場所にかつて「神明社」という神社がありました。
現在ではご覧の通り、まるっきり跡形もありません。私も小学生の頃はこの辺りを自転車に
乗り遊んだものですが、神社があったとは最近まで知りませんでした。

神明社

平成7年に碑が建てられ、今は神社があったことが確認できます。
ここから西に少し行った所に「狭山神社」という神社があり、ご神体はそこに合祀されて
います。

ところで、神明社の周りには何本もの巨木が生えていたそうですが、今ではそちらの痕跡も
見ることはできません。
ここにあった木は、元号が安政と変わってすぐの安政2年3月4日に伐り倒されてしまい
ました。
えッ! なぜ!?

里正日誌ではありませんが、杉本家の日誌には「神明宮の欅を御用船に用いるため、深川
原屋角兵衛に25両で売り渡した」と書いてあるそうです。

「当社の神木欅は周囲が1丈2尺余あるが、立ち枯れとなりキツツキの巣食いなどもあった
が、文政の頃の大風でついに倒れてしまった。他に周囲1丈4尺の欅があり神木と呼ばれた
が、文化年間に別当である円乗院の本堂建て替えのための建材にしようとした。住職が
読経し、吉凶2本のおみくじを神前に供えて無心無垢の小さい子供に引かせたところ、凶
と出たので伐採を中止した。
ところが嘉永に入り異国船が来航してきたので、幕府も蒸気船を作ることになり、具合の
良い木が急遽必要となった。御用商人の原屋角兵衛がやって来て商談したが、おみくじの
事を話し応じなかった。さらに、江川太郎左衛門にも伐採赦免の願い出をした。しかし、
幕府で使う用材なので理由はあろうが、相当の代償を支払うので売り渡すよう命令があった
ので、代金25両で売り渡し、角兵衛の手代である粂川村の升五郎が伐採し用材とした。

村内の関田忠右衛門は根っこの切り屑をもらい焚き木にしたら、火事で隠居家が焼失した。
その後盗賊が質蔵に入り家財を奪った上、火を掛けた。久米川村の升五郎は大熱病を患い、
これは神罰だと悟り毎日お参りをしたが妻が死んでしまった。
当時の村用掛だった真野彦四郎ら役人一同、氏子一同もこれらの事に大いに驚いて、売却
金25両で25座の神楽を演奏して神にお詫びしたが効果なく、疫病が流行し村民も次々と
患い、5年後にようやく収まった。
あまりの不思議さ、恐ろしさに境内の落ち葉や下草、枯れ枝などが溜まっても誰も取る人
がいない。まして他の大木は立ち枯れのまま残ったが手をつける者はいなかった。現存
するのは周囲9尺3寸の楢の大木である。」


幕府も欧米に負けないような蒸気船を作らなければならなくなり、その建材が江戸近郊
の村々から調達されたことが表されています。
この記述がおもしろいのは、後半がちょっとオカルトになっているところ。
実際にこの後、安政3年には赤痢、5年にはコレラが流行します。

こういった外国から持ち込まれた病気にも、ご神木の祟りと考えているところに庶民の
「目に見えぬものへの怖れ」が見てとれて興味深いですね。



20120807.jpg

「しれば迷い・・・」は土方さんの有名な句ですね。
「燃えよ剣」では沖田さんに苦笑されてますが。

「とうかん森」も木が弱ったことから最近伐採されて、
ちょっと寂しくなりました。

狭山地域

日米和親条約とその前後

嘉永7年1月23日、代官の江川太郎左衛門さんは幕府に呼ばれます。
「おめでとう、江川くん。ペリーとの交渉にキミが当たったよ!」
当初、幕府はペリーの金沢沖への退去交渉を、江川さんにさせる予定でした。
ところが、前回でも書いたようにペリーさんはノリノリで待ち構えています。
「ワレワレは日本の近海に軍艦を50隻待たせてありマース。さらにー、
カリフォ-ルニアにも50隻の軍艦をスタンバイさせてマース。連絡すれば
20日以内には来ちゃうのココロヨー。 シェゲナ・ベイベー!」
もちろん、ハッタリなんですが、アメリカの軍事力は認めざるを得ない幕府は
開国交渉をしないわけにはいきません。

幕府は林大学頭(はやしだいがくのかみ)に交渉を命じます。
彼は昌平黌という幕府の学校の学頭、今でいうなら東大の学長でしょうか。
なぜ、一国の命運を賭けた大事な交渉に、政治家ではなく学者先生にその全てを
任せたのでしょうか?
万が一交渉が失敗に終わったとしても言い訳が立つから、という考えもあります。
しかし、林家は代々外交文書を扱ってきた家でした。出島から入ってきた海外
情報も把握しています。
一方のペリーはゴリゴリの軍人ですから、交渉は脅迫交渉の一手です。
そこに情報分析能力の長けた先生を持ってくるのは、幕府の作戦でもあったの
でしょう。
大学頭と幕府の間には江川太郎左衛門が入り、綿密な調整役を果たします。

さぁ、この林大学頭・江川VSペリー提督の交渉は、とても面白いのですが、
それはまた別の機会に譲りましょう・・・。

日米交渉の間にも、台場建設は続いていました。
江川さんの計画では、台場は1号~11号まで作る予定でした。
ところがこれ、皆さんも大概想像がつくと思いますが、かなりの建設費用がかかり
ます。幕府が計上した予算は1号~6号の台場建設だけで、なんと76万3871両
2分。これに大砲、砲弾、大船製造費用なども入れると、約91万6500両もの予算を
計上したといいます。
このころの幕府には、もう金蔵に余裕はありません。
幕府トップ(今でいえば首相)の老中・阿部正弘は、立案者の江川さんを呼んで言います。
「キミ、言い出しっぺなんだから、なんとかして。」
西洋通で開国に積極的だった江川さんと、開国慎重派だった阿部ちゃんは、あまり仲が
良くなかったみたいなんですね。
仕方なく江川さんは、自分の支配地に献金を呼びかけました。

「なぜ、ワシらが払う?」そういう思いも村民にあったでしょうが、献金は集まるんですね。
東大和の蔵敷組合6ヶ村も44両のお金を献金しました。
確かに全体から見れば微々たる金額ですが、満足な米も生産できなかった土地からこれ
だけの金額を出すのは大変だったと思います。
特に村民から反対の動きがなかった所を見ると、「江川代官の頼みなら仕方ない」という
気持ちがあったのでしょう。江川さんは領民に慕われた代官だったそうですから。
献金は江戸の町人、豪農商層にも命じられました。

すると、嘉永7年2月に、老中の阿部ちゃんから「献金ありがとう」のご褒美が出されま
した。
里正日誌には、所沢村の名主から以下の通達があったことが記されています。
「ご褒美の件だが、上納金高に比例してくだされるので、来る7日に出金人一同へ割
渡す。請取り証文の連印を役所へ出さねばならないので、お金を出した人全員にもれなく
通達し、当日の12時までに御出会いくださるように。」


ご褒美は献金1両につき銀1匁8分5厘だったそうです。

こうまでしてガンバッテ作った台場ですが、嘉永7年3月3日に日米和親条約が締結
されたため、台場建設は中止となりました。江川さんとしては欧米の技術を取り入れ、
台場に強力な大砲を据えて海防を充実させたいという思いがあったでしょうから、
台場中止はとても残念だったと思います。
ところが、この伝達がうまくいかず、資材の伐り出しが続けて行われていたのは、前に
書いた通りです。

そして、ペリー来航や台場建設の騒動から、江戸では米の売り惜しみや値段の高騰が
起きる事態となりました。幕府は江戸近郊の村々へ、米価高騰抑制の命令を出した
ようです。まぁ、この頃からの幕府は外から内から次々と問題を抱え大変です。

里正日誌には嘉永7年2月12日に、幕府の命令に対し所沢村の名主が了承したという
請書が書かれています。
「異国船がやって来て、船中廻りの改め方や入港に関して特に問題はないのに、関東
近郊の者で考え違いをして、米相場で一儲けを狙い売り惜しみする者がいる。
そうすると江戸で米不足となってしまう。自分たちが食べる分を除き、米穀承認が
蓄えている米は勿論、百姓達の持つ余剰米をできるだけ多く江戸へ正しい値段で
販売するよう勘定奉行からの命令なので、村々はよく相談して行き届くようにせよ。
もしこの趣意に背くものがいたら早速訴えよ、とのご命令は承知しました。」


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さかなクンも食べることは供養・・・みたいなコト言ってましたね。
惣次郎は総司を名乗る前の、沖田さんの名前です。

蔵敷地域