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戸田・プチャーチン史跡廻り

伊豆の史跡廻り最終回です。

Oさんにワガママを言いまして西伊豆の戸田に連れていってもらいました。
戸田は「トダ」ではなく「ヘダ」です。
戸田は修善寺から1時間近くも車で行かなければならない場所。
東京から行くとなると、かなり交通が不便なトコロです。
今回の旅行は歴史仲間が集まったということで、このチャンスを逃しては
ならぬ!ってことで、Oさんにお願いした次第です。

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山の上の見晴台から見た戸田の港。
海岸線まで山の稜線が迫っていまして、ほんのわずかの平地に家々が並んでいます。
実にのどかな風景です。

嘉永7年(1854)、ロシア使節のプチャーチンディアナ号に乗って下田にやって
きます。そこで幕府全権の川路聖謨らと和親条約の話し合いが持たれます。
ところが交渉直後に安政の大地震が起きるのです。
沿岸は津波が襲い、下田の町は大きな被害を受けますが、プチャーチンのディアナ号も大破。
さらに大きな風波によってディアナ号は沈没してしまいます。

プチャーチン
エフィム・プチャーチン(1803~1883)

そんなプチャーチンらロシア使節一行が避難場所として滞在したのが戸田なのです。
プチャーチンは幕府に船の建造を要請し、許可をもらいます。
伊豆周辺の船大工たちが集められ、ディアナ号に保管してあった大型船の設計図を元に
洋式帆船の代船建造が始まりました。建造取締約には江川坦庵が命じられ、実際の造船
指揮はロシア人の技術者が当たりました。
坦庵さんからすれば、外国船の技術・仕組みを理解する恰好の機会でもあったのでしょう。

3ヶ月後にできあがった船はディアナ号の半分ほどの大きさでしたが、プチャーチンは日本の
船大工と滞在中に好意を寄せてくれた戸田の村民に感謝し、この船にヘダ号と名付けます。
ディアナ号の生存乗員の大半は、実はチャーターしたアメリカ船で帰国の途についたのですが、
プチャーチンと50名ほどの乗員がヘダ号で帰国することができたのでした。

てことで、この戸田が日本における洋式帆船発祥の地ということになっておるのです。

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造船碑
大正12年(1923)3月に建立されたものです。

プチャーチンとヘダ号の歴史がわかる、こちらが戸田造船郷土資料博物館です。

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外観は博物館というよりドライブインみたいですが、館内には津波によって遭難したディアナ号
からヘダ号造船に至る経過の説明や、資料などが展示されております。

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博物館入口の前には、ディアナ号の錨が置かれています。
全長4,78m、幅3,235m、重量は約4t。
後で調べたところでは、この錨は昭和29年(1954)に引き上げられたものだそうで、さらに
昭和51年(1976)にもう一つの錨が引き上げられ、静岡県富士市にモニュメントとして
飾られているそうです。
それにしても、「碇知盛」もビックラの大きさです。

ところでこちらの博物館は、隣りに「駿河湾深海生物館」というのが併設されています。
深海生物の標本が多数展示されているのですが、この博物館をプロデュースしているのが
ココリコの田中直樹なのだとか。
なんか、テレビ番組がきっかけみたいですね。

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タカアシガニ
この辺りの名産らしいですね。菜々緒クラスの足の長さ!

海岸線から少し奥に細い道を入っていくと、お寺があります。

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宝泉寺です。
ディアナ号が沈没し、ヘダ号ができあがるまでプチャーチンが宿舎としていた所です。
プチャーチンは地震の津波で流された日本人を救助したそうで、地元の人との関係は
友好的だったようです。
そもそもプチャーチンは来日するにあたってシーボルトから「日本人はルールを重んじる民族
や。相手をリスペクトする心があらへんと失敗するで」とアドバイスをもらっていて、事実、その
通りに日本との交渉に臨みました。
そこが砲艦外交でやってきたペリーと違うところ。

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本堂の脇にあるこのお墓。露国水兵の墓です。
説明板にはこうあります。
「戸田で亡くなった二人の水兵を祀っています。丸い石塔は安政二年に建てられ、当時の
過去帳に安政二年四月二十八日「造船中に当時に宿滞候事水兵一名やあしか、なべわり
食死裏墓地〇石の下に埋葬」と記録されていますワシリーヤーシカバケエフの墓石。もう
一方の墓碑は安政二年三月二十五日病死したアレクセイポトーキチン、牛ヶ洞に埋葬し墓石
を建てましたが、水害で流出したので、昭和四十四年、当時の村長が前述の一人と合祀し、
新しい墓碑をここに建立して、旧ソ連大使一行の臨席で慰霊法要を行い今日に至っています。」


平成22年発行の沼津市教育委員会の造船郷土資料博物館パンフレットの宝泉寺の写真
には、水兵の墓は境内の別の場所にあるように見えるので、最近になって墓所を移した
ようですね。

ヘダ号やプチャーチンの史跡は、一度訪れてみたいと思っていたのでいい機会でした。

その他、観光として寄ったところ。

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伊豆市の萬城の滝
高さ20m、幅6m。近くで見るとなかなかの迫力です。
以前は滝の裏側も通れて「裏見の滝」とも呼ばれたそうですが、現在は通れませんでした。

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同じく伊豆市中伊豆の筏場のわさび田
総面積14,7ha、1500枚のわさびの棚田が広がっています。これまた壮観。
現在日本農業遺産に指定され、世界農業遺産に申請中だそうです。

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戸田から韮山へ行く途中、伊豆市の狩の川屋
鮎料理のお店ですが売店もあって、同行のUさんがぜひ寄って!というので途中停車。
ここの「鮎の干物」が絶品とのこと。
鮎の干物は珍しいと思い、ワタクシも便乗してお土産に買いました。
帰宅後、焼いて食べましたが、確かに美味い!
小ぶりなので頭からバリバリ食べられます。

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北江間横穴群
山の斜面の岩石に横穴がたくさん開けられています。
ご想像の通り、古代人のお墓で7世紀後半から8世紀前半のものだそうです。
小さな穴もあって、それは火葬骨を埋めたものだそうで、全国的にも特徴的なものだとか。

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コチラは地震動の擦痕。南江間の公園前にありました。
天然記念物らしいんですが、何コレ?って思いますよね。
写真の茶色い物体は魚雷なのだそうです。
昭和5年(1930)11月26日に最大震度6の大地震(北伊豆地震)が起きたのですが、その
とき台石が針となって魚雷の表面にキズをつけたのですね。これが地震計のように地震の
大きさを形で残すことになったというわけです。
こんな形の天然記念物もあるんですね。


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石丁場を見てきました。

江川太郎左衛門史跡を中心にした今回の伊豆旅行でしたが、ココからは江川代官以外の
史跡もご案内です。
こんなトコロにも行って参りました!

我々がお世話になった江戸検1級同期のOさんの別荘は、東伊豆の富戸にあるの
ですが、その東伊豆の海岸を散策していますとこんなモノがゴロゴロしております。

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高さ180cm、幅150cmほどのデカイ石。
そしていかにも人の手による小さな四角い穴が一列にあいております。
これは江戸城を作るときの石垣石、それが使われずに海岸に残されたものです。

江戸城は家康が各大名に命じて作らせました。石垣はその大名たちが伊豆の山中から
切り出して、船で江戸湾まで運んだといいます。

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こちらが東伊豆山中の石丁場
けっこう勾配のキツイ斜面に大きい石が地面から露出しております。

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大きい石があると、その石に楔(くさび)を打ち込んで1列に矢穴という穴を作ります。
その矢穴にキチキチの大きさの木の杭をはめて水をかけ、一晩置いておきます。
すると水分で杭が膨張してバキッと石が割れる・・・ということだそうです。
ただ、とあるテレビ番組が再現したところでは、楔をそのまま打ち込んで石を割る方法が
とられていましたから、そういうやり方もあったのでしょうね。
で、いい大きさに割った石を海岸線まで運んでいったということです。
ただね、写真では伝わりにくいかもしれませんが、この場所はかなり足場が悪いんですよ。
よくそんな力仕事ができたなぁと思うと共に、かなりの事故があったに違いないことも確信
いたしました。
1枚目の海岸に残された石は、その場で割ろうとしてやめちゃったモノでしょうか?

東伊豆の町中にはこんな石も残されています。

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これは畳石
石の側面に「御進上 松平土佐守 十内」と刻まれています。
土佐藩主山内忠義の石丁場は稲取にあったそうで、土佐藩は2240個の築城石を納めた
のだそうです。ただ、その後、もしかしたら幕府から石の追加発注があるかもしれない。
そうなったときのために少し多めに切り出しておいて、いつでも運び出せるようにしておいた
石。それがこの石なのだとか。
こんな石が町中に10個あるそうですが、この畳石はその中の代表格だそうです。

コチラは山中の道路脇にありました。

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ぼなき石
ぼなきってのは、土地の言葉でぼやきってことだそうです。
プロ野球風にいうと「ノムさん石」ですね。
「途中まで運ばれたのに、ここに残されるんかい。どうせぇっちゅうんじゃ、ホンマに・・・」
切り出されたものの、この場所に放っておかれたので石がぼやいてるってことのようです。
「ワシは月見草やわ・・・・」ぼやいてるとか、いないとか。
でも、もしかしたら、畳石のように予備として置かれたものかもしれないですね。

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ちなみに、このぼなき石にはこんな刻印がありました。
どちらの家中の刻印でしょうか?カタカナの「ナ」を二つ合わせたようなデザインです。
お分かりの方、教えてくださいませ。

ところで、東伊豆のありがたくない観光名所といえば・・・

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この吊り橋・・・!
「嫌だッッ」っていうのに、みんな渡るもんだからさぁー。
「だって車はこの先に駐車してるし」とか言われちゃうしさぁー。
仕方なく渡りましたよ・・・。
怖えー、怖えー!
昔、学生時代のサークル仲間とこの吊り橋に来て、あのときもさんざん高所恐怖症をからか
われましたが、怖いモノは怖いんだす!

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吊り橋の近くにあるのが黒船防備砲台跡
伊東市観光課の説明板によると、外国船からの防備として幕府は江川代官に伊豆、相模、
上総、下総、安房の海辺防備と巡視を命じ、沼津藩水野家では富戸、川奈に砲台を築き、
大砲4門を据えたのだそうです。
こちらはその砲台の跡。
モルチール砲はレプリカでしょうが、いかにも海上の外国戦艦までは届きそうにない佇まい
ですね~(汗;)
坦庵さんが反射炉の鉄でカノン胞を作りたかった気持ちがわかります。

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韮山・本立寺と反射炉を訪ねる

前回の続き。

江川代官屋敷のすぐ近くに大成山本立寺があります。
江川家の墓所がある、日蓮宗のお寺です。

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この日は土曜日で、代官屋敷の方はそこそこ観光客・見学者がいましたが、お寺の方は我々
以外全く墓参者がいませんでした。
まぁ、マニア以外、ほとんどの人はお墓には興味がないのかな?

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但庵先生の石造も待ってくれています!
(注! これはお墓ではありません!)

日野などに行くと、土方歳三資料館(実家)とお墓(石田寺)はセットでみんな両方行きます
けどねぇ・・・。

本堂の脇の坂道を上がっていくと、左手に江川家の墓所があります。
かなり広い範囲に渡って江川家墓所があります。寺伝では江川家6代目がこのお寺を開山し、
坦庵さんは36代目ですから、墓域は広くて当然です。
その一番奥に坦庵さん・・・太郎左衛門英龍の墓があります。

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その向かいと隣りには、坦庵さんの2人の息子で37代当主と38代当主を務めた英敏、
英武
の墓もあります。

IMG_1129ab.jpg 英敏墓
IMG_1130a.jpg 英武墓

当ブログは農兵の話とか多いので、その頃の代官といえば英武さんになります。

江川家当主のお墓は、基本的に全てこの形ですね。
円柱の上に屋根が付いた墓石です。
で、おそらく妻や娘なのでしょうか。女性(戒名が大姉)のお墓は角柱でした。

車に乗りまして、次はいよいよ韮山反射炉へ向かいます。

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世界遺産に登録された直後は、行列ができてゆっくり見られない状態だったそうですが、
すっかり落ち着きを取り戻したようで、この日(15時頃)も観光バスは1台だけ駐車場に
止まっているだけでした。お昼頃はもっと混んでいたのかな?

反射炉は見る角度によって2基に見えたり、3基に見えたりしますが、実際には4基あります。
この角度からだと、よく分かります。

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お土産ショップの前にいらっしゃいます坦庵先生越しの反射炉。
煙突が4本見えますね。

そう、煙突なんですよ!
韮山反射炉っていうと、この天に伸びた建造物が写真などでも紹介されますが、コレは
あくまで煙突なのです。
肝心の反射炉は、その下の部分です。

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コチラが反射炉の本体。
右側の穴が「焚口」といって燃料を入れるところ。左側が「鋳口」で材料となる銑鉄をここから
入れます。炉の中は煉瓦でドーム状に作られていて、その中で熱が反射して炉内が高温に
なるという仕掛けだそうです。
今回の同行者に金属を扱う仕事をしていた方がいらっしゃって、詳しく解説してくれました。
Tさん、どうもありがとうございました!

それと、反射炉の煙突は現在鉄骨で補強されていますが、「元々こういうもの」と思って
いらっしゃる方も多いようです。

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上の写真を見ていただければわかるように、本来は煉瓦を組み立てただけのものです。
補強を重ねていくうちに、あんな鉄骨で囲まれた形になったという次第。

反射炉でできた鉄を使って作ろうとしていたのがコレ。

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カノン胞です。砲身の長い大砲で、水平に長い距離を弾丸が飛んでいきます。
これをお台場などに取り付けて、外国船からの防御に当てようとしたわけです。
写真の大砲は24ポンド・カノン砲。オリジナルのものではなく、当時の図面を基に再現した
ものだそうです。

でも、コチラは当時のホンモノ。反射炉手前の資料館にあります。

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モルチール砲です。
臼みたいな形をしてるので「臼砲」ともいいます。
鉄ではなく銅でできています。
こんな砲身の大砲で、相手まで届くのかい?なんて思っちゃいますよね。
確かに弾丸は山なりに飛び射程距離は短くて、海岸からは外国船を攻撃するには向いて
ないようです。
ところがどっこい大作、戊辰戦争では意外にコイツが活躍するんですね。
日本の土地は山が多く、開けた所が少ないので、城攻めにはカノン胞よりモルチール砲の
攻撃の方が都合がよかったようなんです。会津の若松城に砲弾の雨を降らせたのは、この
モルチール砲だったそうです。

ところで、韮山周辺を車でまわって初めて知ったのですが、江川太郎左衛門以外にも、史跡
のなんと多いことか!
源頼朝が平清盛によって流された蛭が小島がこの辺りだったというのを、初めて知りました。
「小島」なんていうくらいだから、海の近くかと思っていたのですが、全然違っていました。
畑や住宅地の真ん中、公園になっているような場所になってるんですね。
ということで、近くには「北条政子の産湯の井戸」とか北条時政のお墓のある「願成就院」など
鎌倉北条氏関連の史跡が多いこと!
さらに、室町時代の堀越公方の館もこの場所にあったというのも初めて知りました。
願成就院には足利茶々丸のお墓もあるんですね。

鎌倉時代、室町時代、そして幕末と、日本史の重要なポイントの舞台に韮山が絡んでいたの
ですね~。
しかし、しかし、今回の旅行では時間がなくて残念ながら伊勢宗瑞(北条早雲)が居城にした
韮山城跡に行けませんでした。さらに願成就院の運慶作仏像も観られませんでした。
これらはヒジョーに心残りであります。
いずれまた訪れて、リベンジすることにいたしましょう。

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韮山・江川代官屋敷を訪ねる

前回の記事から1ヶ月近くが経ってしまいました。
江戸楽アカデミーの講座があったりして、なかなかブログに手が回らなかったのですが、
ようやく落ち着きましたので再開することにいたします。

私と江戸検一級同期で、伊豆に別荘を持っていてほぼそちらに生活の拠点を移している
Oさんという方がいるのですが、「こっちに遊びにきて史跡廻りでもしないかい?」という
お誘いをうけました。
そこで先日、他の一級同期の仲間たち数人と伊豆へ行ってまいりました。

伊豆といえば、当ブログでも関係が深い場所が韮山です。
幕末に狭山・多摩地域の代官を務めた江川太郎左衛門の本拠地です。

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ワタクシ、修善寺までは行ったことがあるのですが韮山は初めてで、ようやく行くことが
できました。

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こちらが代官屋敷。
千鳥破風の立派な玄関ですね。
ただし、ここからは見学者は入れません。裏の土間から入館します。

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かなり広い土間です。
ここから邸内に入れます。
昔は屋敷の奥まで公開されていたそうですが、屋敷の痛みが多くなってきたため、現在は
資料が展示している一部の部屋が公開されています。

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坦庵(太郎左衛門英龍)さん愛用の品々・・・というよりも、作成した品々。
中央の脇差も坦庵さんが作ったというのですが、刀身?柄?鞘?
何にしても、器用な人だったのですね。

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こちらは甲州を探索したときの有名な自画像ですね。
現物は初めて見ましたが、けっこう大きい絵だったのですね。
隣りにいるのは斎藤弥九郎でしたっけ?
ほっかむりをして、いかにも「潜入するゼ!」感が出ているところが好きですww

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上の2枚の絵は坦庵さんが描いた「農兵調練の図」だそうです。
韮山塾では、こうやって坦庵さんが絵で見せて塾生を指導していたのだそうです。
大砲などを使っていますから、農兵というよりも幕臣や他藩士の塾生に西洋戦術を指導して
いたときの絵ではないでしょうかね。

あ、コレはちょっと面白いなと思ったモノです。

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「角打ち」・・・つまり射撃訓練をしたときの的ですね。
15間(27m)の先から2寸(6cm)四方の的を撃ったものだそうで、上が韮山塾の塾生。
いろいろな藩から塾生が集まっていたことがわかります。
下は江川家の手代・手附。後に大坂から新選組たちを乗せて引き引き上げてきた「富士山」
の艦長となる望月大象、戊辰戦争で榎本艦隊の輸送艦「長鯨」の艦長になる松岡(柴)弘吉
の名前が見えます。
で、この的を奉納額にしているのが面白いと思いました。弘化2年(1845)正に奉納角打ち
を行なって、鎮守社に奉納されたものだそうです。

日野の八坂神社に残る天然理心流の奉納額を思い出しました。

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コチラは木製の施条機械です。

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つまり、銃身や砲身の内側にライフルを刻むための機械だそうです。
このライフルがあることによって、弾丸はより遠くへ正確に飛んでいくわけで、坦庵さんもこの
研究に打ち込んだようです。
しかし、銃身にライフルを刻む技術というのはとても困難なものらしく、幕末期においては
国産銃でのライフルは製造できなかったようです。
幕府は神奈川領事フィッシャーを通じ、アメリカ政府にライフル銃製作機械を発注しようとしま
したが、「他国に容易に渡すことはできない」と断られます。当時としては最先端の兵器技術
だったのですね。
東大和市に残る「農兵銃」は、一見スナイドル銃に見える国産小銃ですが、残念ながら銃身に
ライフルが刻んでありません。当時の国産技術の限界です。

ところで坦庵さんといえば、「日本パン作りの祖」としても知られています。

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こんなデッカイ「パン祖の碑」がありましたよ。
石の台座に天然木を立てて、さらに石で笠を乗せてあります。
書を書いているのは徳富蘇峰です。
生きていた時代も違うし、どんな関係があるのでしょうか・・・?

で、コレがその「江川パン」。

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坦庵さんが作ったレシピに忠実に作ったモノらしいです。
これが硬いんだ、すっごく。
まぁね、硬くて当然なんですよ。坦庵さんは兵糧の代りとしてパンに注目したワケですから。
要はカンパンだと思えばいいんです。
たぶん、坦庵さんが作ったパンはコレよりももっと硬いモノだったんじゃないかと。
今、復刻して売られているのはソレよりもマイルドな仕上がりになっているのだとは思います。
パンよりもビスケットを想像した方がいいかもしれません。
口の中の水分を全部もっていかれますから、お飲み物とご一緒が正解です。
スープなどに浸して食べるのも、いいかも。

世界遺産の「韮山反射炉」は、また次回の記事で!

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