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月光露針路日本を観に行きました

またまた1ヶ月近くが経ってしまいました。
今年の二月から講座やらまち歩きガイドやらを、コンスタントにやらせていただき
まして忙しかったのですが、今月の22日で一区切り。秋までは講座もガイドも
入りませんので(夏に東京でまち歩きなんぞやったら死人が出ますでな)、ブログを
書く時間もできると思います。

さて、そんな中なのですが、待望のお芝居を観てまいりました。
歌舞伎座六月公演「月光露針路日本」であります!
え?読み方がわからない?そうですね、歌舞伎ってのは、ワザとみたいに難しい読み方
をつけますからな。コレで「つきあかり めざす ふるさと」と読ませるそうでございます。

こちら、三谷幸喜が脚本を書いた新作歌舞伎。原作はみなもと太郎の歴史漫画「風雲児
たち」。
この原作・脚本のペアでは、去年ですか、NHKのドラマスペシャルで杉田玄白や前野良沢
の解体新書のエピソードを取り上げていましたね。
今回は別ストーリーを歌舞伎で、ということになったようであります。
今回のお芝居は1700年代末に、漂流の末にロシアへたどり着き、女帝エカテリーナ二世
に謁見した大黒屋光太夫のお話です。

主なキャスティングは
大黒屋光太夫・・・松本幸四郎
庄藏・エカテリーナ二世・・・市川猿之助
新蔵・・・片岡愛之助
小市・・・市川男女蔵
九右衛門・・・坂東彌十郎
磯吉・・・市川染五郎
口上・・・尾上松也
ラックスマン(父・子)・・・八嶋智人
三五郎・ポチョムキン・・・松本白鸚  などなど。

ここからは、ネタバレ注意です。まぁ、ほぼほぼ史実の通りなので、隠す必要もないの
ですが。
光太夫は江戸時代の外交史でもよく語られる人物ですが、彼は能動的に何かを成し
遂げようとしたワケではなく、たまたま漂流してしまった結果、数奇な運命を辿ってし
まった人物です。
舞台の幸四郎光太夫も船の上では経験の浅い、どこか頼りない男。
しかし、だからこそ彼はなんとか仲間全員で日本へ帰るという意思を、ハッキリと皆に
宣言し、実行します。ロシア語を覚え、現地に溶け込み、少しでも可能性があれば
遠くの町にまで責任者に会いにいく。
その真っ直ぐな思いと実行力が、彼を風雲児に押し上げたのでしょう。

さすが、三谷幸喜の脚本だけあって、全編の85%は爆笑の連続。
しかし、光太夫以外の登場人物も、歴史ファンの三谷さんだけあって、とても魅力的
に描かれています。
少しやさぐれた庄藏を全編で演じながら、クライマックスでエカテリーナを演じた演之助。
久しぶりに女形を見させてもらいました。それが、まさかドレス姿とはww
わざと冷めた所を見せる新蔵の愛之助、頑なにロシア語を覚えようとしない九右衛門、
反対に完璧にロシア語を覚える磯吉。
唯一、歌舞伎役者ではない出演者の八嶋智人はラックスマン父子。登場の一瞬でその
場の空気を変えるところはサスガです。

ロシア側の代弁者として出てくるポチョムキンに白鸚。さすが、ヨーロッパ貴族スタイルは
似合います。ところでワタクシ、世界史はあまり知らないのですが、ポチョムキンって
この時代の人だったんですね。もうちょっと後の頃だと思ってました。
ていうか、サイレント映画の「戦艦ポチョムキン」しか知らないス。しかもタイトルだけww

クライマックスからは涙なしには見られない別離のシーン。
一緒に帰るハズだったのに、新蔵と庄藏はキリスト教に改宗してしまい、残留を希望。
二人はすがるものが欲しかったからだと言いますが、真実は凍傷から片足を切断しな
ければならなくなった庄藏が、日本語教師になることを条件に手術をさせてもらったこと
がわかります。
この辺りのエピソード、史実なのかどうかワタクシは知らないのですが、光太夫を安心
させて送り出したあと、望郷の思いから号泣する新蔵と庄藏に、胸が熱くなりました。

結局、遭難した17人のうち帰国できたのは光太夫のほか二人だけ。
しかし、そのうちの一人小市は船の上で亡くなってしまいます(史実では根室に着いて
かららしい)。
昔観た「天平の甍」という映画を思い出しました。奈良時代に鑑真和尚を日本に連れて
こようとした遣唐使の話です。この話でも、帰国を前に無念にも亡くなる遣唐使が描かれ
ていましたが、その姿が重なりました。
現代では簡単に外国へ行けるし、帰ってもこれるから、当時の遣唐使や漂流者の望郷
の思いは想像もできません。

というわけで、大満足の観劇でした。
歌舞伎ファンの中には「こんなのは歌舞伎ではない」と仰る方もいるかもしれません。
たしかに「伝統的演目」ではありませんが、私はこのような新作歌舞伎、特にエンター
テイメントに徹した演目は大歓迎で、どんどんやってもらいたいと思っています。
所作(踊り)はともかくとして、元々江戸時代の歌舞伎狂言はワイドショー的な人気を
狙った演目が多く、そのために大衆の人気を呼び、現在まで続く芸能となったわけです。
現代に多くのファンをもつ演出家や脚本家を招いて、どんどん新作を作っていくことは
歌舞伎の将来に繋がります。その上で伝統芸である所作や時代ものを見たいと思う
ファンが増えてくれれば、それが一番いい。

なんてコトを書いていましたら・・・8月の歌舞伎座も(例年8月だけは3部構成です)
2部で、これまた幸四郎と猿之助が恒例の新作ギャグ歌舞伎「東海道中膝栗毛」を
上演するとのこと。
この2人、仲いいなぁー。この弥次喜多シリーズも何作目だろう?
コレも観にいかなくちゃだわ。

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注・サタデー・ナイト・フィーバーに非ず!


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随分と久しぶりの更新となってしまいました。
なかなか記事が書けなかったのは、前回までにもご紹介したように講座が近づき
その準備に時間をとられていることもありますが、それ以外にも理由がありました。

つい先日、ワタクシの祖母が亡くなりました。
死因は老衰。

祖母はずっと自宅で介護を受けていましたが、今月10日過ぎくらいから食べものを
取れなくなってきて、ワタクシも近所に住んでいるものですからなるべく見舞いには
行っていたのですが、先日の午前中に永眠いたしました。

祖母は大正3年(1914)生まれ。
8月に誕生日を迎えて104歳になったばかりでした。
大きな病気もなく、自宅での大往生であります。
誕生日には市役所からお祝いを持ってこられた方から「東大和市で現在2番目のご
長寿になられましたよ」と言われたばかりでした。

ワタクシは中学生まで祖父母と一緒に暮らしていましたので、祖母には思い出も沢山
あるんです。しかしながら、亡くなったときに出てきた感情というのは「悲しみ」よりも
「よく頑張ったね」という称賛の思いでした。
まぁ、例えていうなら、マラソン選手をゴールで迎える心境に近いかもしれません。

祖母は自宅で叔母や介護士の介護を受け、大きな病気もせず、物忘れはかなりあり
ましたが痴呆にはならず、亡くなる前日までは意識もハッキリとしていました。
そんな中で104年生きるというのは、人間が生きる限界に近いと思うのですよね。
真新しいノートに字を書いていって、最後のページまで真っ黒に字を埋めて、もう書く
場所無いよ、という所だと思うのです。
食べるものを受け付けなくなったとき、点滴でもすれば少しは寿命も延びたかもしれま
せんが、100歳を過ぎたときから本人の希望もあり、過度の延命措置はしないことに
していました。ただ、亡くなる前日から呼吸が荒くなったので、簡素吸入器だけは付けて
もらいましたが、そのまま眠るように逝きました。
老衰ってのは、ああいうのを云うんですね。

なんでも今の日本には100歳以上の方が6万人以上もいるそうで、104歳もそれほど
珍しくはないのかもしれませんが、ワタクシにとっては100オーバーの人間を側で見て
いるここ何年かは、奇跡を目撃している感覚でした。

葬儀が終わって荼毘にしたとき、火葬場の係員の方から「ものすごく立派なお骨ですね」
と言われました。「高齢になられると骨がもろくなって形が残らない方が多いのですが、
肋骨など薄い骨もしっかりと残っていますね。なかなか見られないですよ。」
確かに96、7歳のとき転んで腰を骨折したのですが、2ヶ月ほどの入院で復活しましたね。
若い頃からスポーツなど全くしたことがなく、いたってインドアの祖母でしたが、案外骨格
的にはアスリートに向いていたのかもしれません。
機会さえあれば、霊長類女子最強の称号を最初にもらっていたかもしれず、残念!

ということで、今月半ばからは、そんなことでバタバタしておりました。

しかし、大正3年生まれですよ。
新選組の永倉新八や斎藤一が亡くなったのが、同4年ですから、わずかの時間ながら
同じ空気を吸っていたことになるワケですよ。
やはり、奇跡だなぁ・・・。

メガ108

ちなみに祖母の出身地は茨城県。常陸国府のあった石岡です。
江戸時代は水戸藩の支藩府中藩(明治2年に石岡藩と改名)のあった所。
石岡には新選組から御陵衛士に移った鈴木三樹三郎(伊東甲子太郎の弟)の
お墓もあるそうです(東耀寺)。三樹三郎が亡くなったのは大正8年だから、もしか
したらリアルに道ですれ違ったりしてたかも知れないですねww
もう祖母の親戚も住んでいませんが、今度訪ねてみたいと思います。

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横浜歴史博物館 「戊辰の横浜」展

Twitterのフォロワーさんからの情報で、横浜歴史博物館で幕末関連の企画展がある
ことを知りました。題して「戊辰の横浜」
この中で横浜の農兵隊についての展示もあると知り、多摩の農兵隊を調べていく上で
何か参考になることもあるのではないかと思い、先日の休みに行ってまいりました。

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サブタイトルの「名もなき民の慶応四年」とあるように、民衆の側から見た戊辰戦争や
明治維新前後の様子を知ることができるワケです。この中に農兵隊も含まれるワケ
ですね。

いつもは空いている平日に美術館や博物館に行くワタクシが、わざわざ休日に行った
のは、学芸員さんのガイドがあるからでした。
展示は3部に分かれておりまして、

①新政府軍が横浜にやってきた
②幕府代官編成の農兵 綱島農兵と川崎農兵
③治安と支配 上野戦争前後


という編成になっております。

ガイド解説の始まる1時間前に着きましたので、ぐるっと一回りして先ずは展示品や解説
を一通り見学。展示品のほとんどは古文書の類なので、一見すると地味な印象ですが、
書かれてあることは今まで知らなかったことばかり。
非常に興味あることばかりです。

14時になり、学芸員さんのガイドがはじまりました。
見学者は40人ほどもいたでしょうか。最初に展示品を見ておいてよかったです^^;

先ずは①のコーナー。
鳥羽・伏見の戦いのあと、新政府軍は江戸へ向けて進軍してきますが、横浜へは東海道軍
と東征大総督有栖川宮熾仁親王の一行が通行していきます。
その様子を戸塚宿の記録で知ることができます。
戸塚宿の定助郷を務める鍛冶ヶ谷村(栄区)の小岩井家の記録によれば、同宿には計12
藩、5500人の新政府軍が三日間に渡って通行し、それに対応するために2000人余りの
人足が継立に従事したということです。
学芸員さんが仰るには、近隣だけではなく離れた村々からも人足を求めたそうです。この辺り
は東大和市域の村々も蕨への助郷を命じられた経緯と似ています。
この東征軍御一行の行列を、なんと当時15歳の郁之助くんという少年がオールカラーの
絵巻物に描いて残しています。これが非常に細かく描かれていてビックリします。資料として
もかなりの価値があるのではないでしょうか。
これはぜひ、ご覧になっていただきたい!

また、東征軍の進軍に先立って、鳥羽・伏見の戦いに敗れた会津兵が敗走する様子を書いた
古文書も展示されています。それによると、会津兵らは草履、下駄を履き、鎗や刀は鞘もなく、
紙を刀身に巻いていた状態だったそうで、生々しい様子が感じられます。

東征軍通行を円滑に行うために働いたのが、武州金沢藩米倉氏(藩主・米倉昌言)と韮山代官
江川氏(当主・江川英武)で、戸塚~神奈川宿を米倉氏、神奈川~品川宿を江川氏が賄い方
を担当したとのことです。
「里正日誌」によれば、江川英武は新政府に恭順するため上京していますが、残された代官所
ではこんな仕事をさせられていたんですね。この担当地域は江川氏の代官支配地域ではない
ので、元々の支配地域である多摩の村々はこの状況をどう思ったのか、興味のある所です。

さらに興味深く思ったのは、川崎宿の賄い方下役を務めた市場村名主の添田七郎右衛門が
その功績を認められて、江川氏から苗字を名乗ることを許されているんですね。川崎は江川氏
の支配地域ではないけれど、賄い方を江川氏が務めていたため江川氏が許したとのこと。
こういう例は初めて知りました。

②はいよいよ農兵の話。ワタクシにとってはメインディッシュ。
横浜市域には綱島農兵隊、川崎農兵隊(呼称は便宜上)という2つの農兵隊がありました。
これは綱島村寄場組合、川崎村寄場組合という文政の改革組合村を基に編成されたようで、
多摩の蔵敷村組合や田無村組合のように、農兵のために新たに編成され直したものではない
ようです。
農兵隊結成の契機となったのは慶応2年(1866)6月の武州世直し一揆で、多摩農兵隊が
一揆鎮圧に活躍したのを見て、当地の代官今川要作が取り立ての意向を示します。組合村
でも取立願いを提出し慶応3年(1867)1月に結成されました。
ただ、綱島村では世直し一揆の際、日野宿農兵隊と連絡を取り合い、多摩川の渡船場警衛
についているので、元々の自衛意識は高かったものと思われます。

今回の展示では、日野宿名主・佐藤彦五郎の日記の一部も展示してあります。
慶応4年(1868)1月、彦五郎の日野宿農兵隊は横浜で20挺の元込め小銃を買いつけ
ますが、それは長尾村の人物(具体的には不明)の伝手によるものだったそうです。
時期的には鳥羽・伏見の戦いの直後であり、日野農兵隊は独自の行動をとりますが、
そこに川崎周辺も何らかの関係を持っていたことを窺わせます。

綱島・川崎両農兵隊とも、小銃は代官からの支給ですが、かかる経費は村負担という所は
江川農兵隊と変わりません。目的が地域自衛という所も一緒です。
しかし、彼らは代官以外に神奈川奉行の支配も受け、有事の際には横浜の港やその周辺
も警衛する役目を負っていました。
蔵敷村組合農兵では2回ほど臨時で観音崎台場の警衛に行かされたり、芝新銭座の代官
屋敷に詰めるように命令がありましたが、村では免除の願いを出していました。この辺りは
違いがあったようですね。
庄内藩による薩摩藩邸焼討事件の際には、逃げてきた薩摩藩邸の浪士2名を綱島農兵隊
が取り押さえるという手柄も取っています。

また興味深いのは、江戸城開城前の3月12日に横浜市域に入った新政府軍の岡山藩が
農兵隊の銃を回収していったということです。これは綱島・川崎の農兵隊だけではなく、周囲
の村々の獣害対策用の火縄銃まで回収し、さらには農兵隊の制服などまで持って行ったと
いうのですから、かなりの念の入れようです。このことによって、事実上農兵隊は解散。
蔵敷村組合でも、戊辰戦争終結後からしばらく経った明治3年(1870)4月に政府が銃の
回収を行いますが、このような早い時期に、しかも岡山藩という一藩がこのような行動を
とったというのは面白いですね。どのような理由があったのでしょうか?

③は上野に屯集した彰義隊が、ときどき横浜にもやってきて、献金を求めてきた資料などが
目を引きました。
村々では一応要求には答えるものの、要求額を一部に押さえて支払うなどしてやりすごした
ようです。これも東大和市域に振武軍がやってきたときと同じ対応ですね。
中にはニセ彰義隊もあったようで、ニセモノだとバレたときには人足たちから制裁を受けて
しまったとか。きっとボッコボコにされたんでしょうね。悪いことはしちゃダメです。
さらには正体不明の報恩隊という部隊や、仁義隊なども金銭を要求。仁義隊は「里正日誌」
に出てきた八王子に屯集して、村々から献金を要求した部隊と同じ隊でしょうか。

ざっと、こんな感じの企画展。
もっとたくさんの内容がありますし、展示品もゲベール銃やミニエー銃、上野戦争の錦絵など
もあり、充実しております。
学芸員さんも仰っていましたが、今回の企画展には一般的に有名な人物は出てきません。
(かろうじて江川英武あたり?)また、横浜は戊辰戦争の戦闘の舞台にはなっておりません。
ただ、そんな中だからこその、リアルな民衆の視線から見た幕末・維新を感じられたような
気がいたしました。
学芸員さんのお話で、多摩と横浜の農兵の比較ができて余は満足。

お近くにお住まいの方はぜひ!
(まぁ、ワタクシは車でちょい渋滞有りーので、片道2時間かかったけどね)


                                    

前回の記事でご案内した江戸楽アカデミー講座 「世間を騒がせた江戸の女性たち」 は
おかげさまで申込み数が上限いっぱい、SOLD OUTになりました。
ありがとうございました。ガンバリマス!


メガ106


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八王子千人同心史跡を廻る②

了法寺の前で甲州街道を渡ると、その先にお寺があります。興岳寺です。
千人頭の石坂家が開基した曹洞宗の寺院です。
石坂弥次右衛門(1809~1868)のお墓があります。

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石坂弥次右衛門義礼墓
弥次右衛門は千人頭の石坂家11代目。第二次長州征伐に従軍し、大坂や九州へ転戦する
など活躍します。慶応4年(1868)日光火の番を務めているときに戊辰戦争が勃発。日光へ
進軍した板垣退助率いる新政府軍の対応に迫られます。弥次右衛門は戦うことなく日光を
明け渡して千人隊50人を率いて八王子に帰りました。
ところが、戦わずして帰ってきたことを問責する声があり、弥次右衛門は帰郷したその日の
深夜に一人責任を取って自刃します。享年60歳。
墓石には「源義禮之墓」とあります。

ということで、戊辰戦争の中で千人隊の悲劇の象徴のような方なのですが、コレはちょっと
疑問に思うところがあります。
弥次右衛門は確かに千人頭の旗本ですが、彼の兵力はたかだか50人の同心。
板垣が東照宮に進軍してきたのは、大鳥圭介率いる旧幕府陸軍を追ってきてのことだし、
一戦交えるかどうかの判断は大鳥と板垣の判断で決められたハズ。弥次右衛門は大鳥と
話し合いをもったでしょうが、大鳥の決定に従ったまでのことではないでしょうか。
何も腹を切るほどの責任ではないと思うのですが・・・今となってはその真意はわかりません。
現在では日光を戦火から守った功績者として称えられ、墓石の前の香台は日光市から贈られ
ています

興岳寺を出て中央線の線路を渡り、昨年の夏、清宮(現日ハム)擁する早実を破って甲子園
に西東京代表として出場をした八王子学園高前を過ぎると、南大通りに出ます。通りを東に
進むと見えてくるのが信松院です。

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武田信玄の四女(六女とも)松姫(1561~1616)が開いた曹洞宗のお寺です。
松姫は織田信長の嫡男信忠と婚約しましたが、両家が対立したため縁組は破談。松姫は
18歳の若さで仏門に入ります。昔の日本人て、現代人の目から見ると人生選択の振り幅が
大きいですよねぇ。
武田家滅亡のあと、一族の女性らと武蔵国に逃げてきた松姫は信松尼と号しました。
江戸幕府開府後の松姫は、姉の見性尼とともに二代将軍秀忠の四男・幸松の養育をした
ことで知られます。この幸松が保科正之であり会津松平家の藩祖となるのですから、新選組
ファンとしても全くカンケイないお方ではないですね。

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松姫尼公墓
出家していますので、無縫塔(卵塔)です。
松姫は武田家の人だったので、千人同心にとっては精神的な拠り所だったようです。
お墓の周りの玉垣は延享5年(1748)に千人同心が寄進したものです。

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「窪田」「石坂」「原」といった千人頭を勤めた家の名前が並びます。

本堂の奥には松姫百回忌の正徳5年(1715)に作られた「木造松姫坐像」が安置されて
います。松姫の月命日にあたる毎月16日だけ公開しているとのことですが、今回特別
に拝観させていただきました。
300年前に作られたとは思えないほど美しい像です。ただ、やはり木製ということで、所々
ヒビが入っていて、ご住職は「今のうちにレプリカを作っておいた方がいいかもしれません」
と仰っていました。

信松院の前の道は「松姫通り」といいますが、その通りを北に向かい再び線路を越えると
産千代(うぶちよ)神社があります。

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鳥居の左横の石柱には史跡大久保石見守長安陣屋跡とあります。
大久保長安は元武田の旧臣で、主家滅亡後家康の家臣となります。全国の検地、石見銀山
奉行、佐渡金山奉行を歴任。八王子代官頭としてそれまで八王子城下にあった町を現在の
場所に移し、甲州道中の整備、石見土手、千人同心の組織など八王子宿づくりに貢献しま
した。
この陣屋の周辺には十八代官と呼ばれる配下の代官が陣屋を構えていたそうです。

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境内には長安陣屋井戸があります。

こんなカンジで、この日の10時から13時ころまで千人同心ゆかりの史跡を、八王子市郷土
資料館学芸員の方に案内していただきました。

で、このあと昼食をはさんで14時頃より、甲州街道八幡町交差点から国道16号を北上。
歩いて「八王子千人同心日光道中」を歩いて行く、というイベントに突入したのであります。
実は今回の集まりは百街道一歩氏という、街道歩きの専門家が企画したイベントだったので、
ココからが「本日のメイン」ということだったのです。

百街道一歩さんのHP 「百街道一歩の道中記」
※ワタクシの江戸検1級の同期生であります。

とにかく旧街道をひたすら歩くというのがポリシーですので、八王子からひよどり山を越えて
滝山城の麓を行き、拝島橋を渡って拝島駅まで行ったところで日が暮れて終了となりました。
途中、神社仏閣や道標、石仏石塔などの史跡があれば確認しながら行きますので、当然
時間もかかります。
ワタクシのカメラの電池がなくなってきたので、あまり写真が撮れなかったのですが・・・

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極楽寺にある塩野適斎の墓
塩野適斎(1775~1847)は千人同心組頭。八王子の重要な地誌書「桑都日記」の著者です。

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コチラはひよどり山を越えたところにあった石仏群。
左端の庚申供養塔は屋根付きの立派なもの。享保16年(1731)とかなり古いものですが、
保存状態がとても良かったです。真ん中2体はお地蔵さま。右端は「光明真言供養塔」です。

この日、18km、30000歩強。
ふだんあまり歩かないせいか、疲れました~~~。
後日、拝島から先の道中も誘われているのですが、どうしようか・・・考え中です。

メガ99
昼食は扇町谷宿(埼玉県入間市)でやっと食べられたそうです。
フヘ~~~、ですね。


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八王子千人同心史跡を廻る①

先日、江戸検1級同期の方に誘われ、八王子の千人同心史跡廻りに行ってきました。

八王子千人同心は、元々甲斐・武田家の長柄(槍)隊だった武士を、主家滅亡のあと、
徳川家康が家臣として迎え、甲州道中の守りとして八王子に配置したものです。
当初は千人頭、同心合わせて500人でしたが、関ヶ原の戦い直前にさらに500人を
増員し1000人の軍団になっています。このとき、武田遺臣だけでなく、北条遺臣や
牢人、有力富農層なども加わったと考えられています。

千人同心の大きな特徴は、千人頭(9~10人)は旗本の身分でしたが、組頭・同心は
戦闘時には武士となるが、普段は百姓として農業に従事するということです。
大坂の陣までは戦闘に参加した千人同心ですが、幕府が安定すると武士としての働き
は日光東照宮の火の番ということになりました。
江戸時代後半になると、千人同心の身分は株として売買され、八王子や周辺の富裕な
農民層が同心株を買い千人同心になりました。こうして、当初は八王子に集中していた
千人同心も東は東京都三鷹、西は神奈川県津久井、南は神奈川県相模原、北は埼玉県
飯能まで居住域が広がるようになりました。
実際、東大和市にも高木と芋窪に千人同心がいたと伝わっています。
千人同心は東大和にも無関係ではないということで、史跡廻りに行ってみましょう!

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JR中央線西八王子駅前を北に向かいます。
写真が小さくてわかり辛いですが、銀行の入口前に「馬場横丁」と書かれた標柱があります。
この先に千人同心の屋敷が並んで建っていました。

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この行先を示す標識がイカしてます。
ポールの先が火事現場で使う鳶口みたいになってる。これは、千人同心が日光火の番を
務めたからそのようなデザインにしたのではないでしょうか。
さらに看板にも注目。

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上の方は陣笠を形取っていますし、下には「千」の字が入ってますね。
千人同心は鎗奉行支配下に置かれていましたが、幕末の文久3年(1863)講武所支配、
慶応元年(1865)には陸軍奉行支配となり、名称も「千人隊」と改めます。そのときに隊士が
使用した提灯と韮山笠にこの「千」の模様が入っているのです。

そのまま甲州街道を超えて北に進むと宗格院というお寺です。

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千人頭山本家の生まれである价州良天和尚が文禄2年(1593)に草創した、曹洞宗の寺院
です。ちなみに、八王子宿のお寺は曹洞宗が多いです。
こちらには、千人同心組頭だった松本斗機蔵(1793~1841)のお墓があるのですが、墓域
の一番奥にあり、先日の雪がまだ残っていて行くのが困難とのことで、お参りは見送りました。
残念!後日、暖かくなったら再度訪れたいと思います。
松本斗機蔵は江戸の昌平黌で学び、探検家で有名な最上徳内と親交を温め海外の知識を
深めた人物です。「献芹微衷(けんきんびちゅう)」という海防の提言書を書き、水戸の徳川
斉昭に上覧を願ったといいます。渡辺崋山や江川太郎左衛門英龍とも親しく、「献芹微衷」を
書いた際には江川に意見を求めたそうです。

宗格院を出て陣馬街道を渡った先にあるのが多賀神社

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社伝によれば天慶元年(938)に源経基が勧請して建てられた、八王子宿の西の鎮守です。
慶応2年(1866)に千人同心が第二次長州征伐に出兵した際、組頭の神宮寺金一郎、川村
豊左衛門、塩野幸七郎が大坂で、こちらの扁額を作らせたそうです。それほど千人同心の
信仰も厚かったのですね。
その扁額は郷土博物館に保存されているそうなので、機会をみて行ってみようと思います。

ところで、ここには境内社としてこんな神社も祀られていました。

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機守神社です。
織物業が盛んだった八王子らしい神社です。
東大和は生糸の生産として、桑畑が多く作られたので蚕影神社が祀られました。どちらも同じ
繊維業の振興を祈念する神社ですが、こういうところで地域差をうかがい知ることができます。

陣馬街道を東に進むと甲州街道とぶつかります。つまり、江戸方面からやってくると、そこが
甲州道中と陣馬街道の追分です。
その追分から西側が千人同心の屋敷地でした。

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八王子千人同心屋敷跡碑
現在の陣馬街道は石碑の右側の広い道路ですが、元の旧道は石碑左側の細い道です。
寛政元年(1789)の宿場絵図を見ると、追分付近の陣馬街道の北側(写真右側)は千人頭
原家の屋敷になってます。ということは、この石碑を含めて新道は原家の屋敷地の上に作ら
れたということになります。

追分の甲州街道側にあるのが、コチラ。

IMG_0798a.jpg

追分の道標です。
文化10年(1813)に建てられたものですが、昭和20年(1945)の空襲で破壊されてしまった
とのこと。よく見ると3本の亀裂が入っていることがわかります。
写真には「左 甲州道中高尾道」と書いてある側が写っていますが、上から2段目の「甲州道」
と書いてある部分と、一番下の「道」と書いてある部分がオリジナルで、他の部分は空襲で欠損
したものを作り直して建てられました。

ところで、この道標の一番下の部分に面白いモノを発見。

IMG_0800a.jpg

漢字の「不」に似た記号が刻まれているのがわかりますか?
これは明治初年のイギリス式測量の几(キ)号水準点です。つまり高低測量を行うために
設けた基準点。全国的に残っているのは少ないそうなのですが、ここでお目にかかれるとは。
都内では神楽坂にある善國寺(毘沙門天)の石虎にあるものが有名です。

甲州街道を少し西に進むと了法寺というお寺があります。
なんでもゲームだかアニメだかの舞台になった、いわゆる「聖地」らしいのですが、我々おっさん
は「何のことやらさっぱりわかりませんわ」状態ですのでスルーです。

IMG_0802ab.jpg

何のキャラざんす?情報求む。

長くなりましたので、以下次回!

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