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文京学院大学生涯学習センター 「江戸の名勝地・王子」④

王子駅前はかつて一面の田畑で、その中に反別7畝28分の村有地があったと
「王子町史」にあります。俗に装束畑と称し、常に雑草の生い茂った寂しい場所
だったそうです。その中央に榎の古木がそびえており、この木を装束榎といいま
した。江戸時代までは2本あったと「新編武蔵風土記稿」にあります。明治中期に
榎の大木は枯れましたが、装束榎の記念碑が建てられました。戦前は榎町という
町名にもなっています。
新しい榎も植えられましたが、昭和4年(1929)、道路拡張のために榎は切り倒され
てしまいます。
それが、前回ご紹介した、王子の黄色いランドマーク「ほりぶん」前。

装束榎が切り倒されたあと、その東部に社が建てられ記念碑も移されました。昭和20
年(1945)の空襲で東南方面から延焼してきた火災がここで止まり、北西一帯の住民
が助かったことから社殿が建立されることになります。
それが装束稲荷神社です。

101 装束稲荷神社a

地元の方の話によると、王子稲荷神社、装束榎跡(ほりぶん前)、そしてこの装束稲荷
神社は一直線でつながるんだとか。地図で見ると、確かに!

装束榎碑

これが元々、榎のあった場所に建てられていた装束榎の記念碑
史跡の写真を撮るなら夏よりも秋冬がいいですね。夏はこうやって植物が生い茂って
見事に被写体のジャマをしてくれます。
冬になったら、もう1回写真撮り直しに行こう、だわ・・・。

駅前に戻りまして、ぜひとも寄りたいのがコチラのお店。

70 扇谷a

卵焼きの扇屋さんです。
音無親水公園から王子駅へ向かう間にあります。
扇屋は、慶安元年(1648)に初代弥左衛門が農業のかたわら「農間煮売商人」の
看板をかけ掛茶屋をしたのが始まりで、現在15代目。寛政11年(1799)に料理屋と
なり、八尾善、平清、酔月楼と並び一流と評され、主に武家を客としました。
落語「王子の狐」にも出てきますので、思い出す方も多いのでは。

扇屋a

コチラがかつて、料理屋を営んでいた頃の扇屋さん。
明治期に3階部分を建て増した頃の写真だそうです。

現在、諸々の御事情により料理屋は閉店されていますが、名物の卵焼きをスタンドで
販売されています。
これが、ヒジョーに美味し!
江戸風の甘い味付けであります。王子のお土産といったら、コレです。

もし、お店に15代目のご主人が出ていらっしゃったら、ラッキー!
ご主人は王子の観光ガイドもされていらっしゃるので、王子の歴史について
聞けばいろいろと教えていただけます。

以上をもちまして、文京学院大学生涯学習学習センター講座 「江戸の名勝地・王子」
のまち歩き、終了です。
実際にはブログでご紹介した史跡の他にも、立ち寄った所はありましたが、中心の
ポイントだけを書き出しておきました。

最後に、講座らしく王子に関係する2人の著名人をご紹介しておきましょう。

先ず1人目は、二代目瀬川菊之丞

二代目瀬川菊之丞a
「執着獅子」 三代目歌川豊国

江戸中期の歌舞伎役者。屋号は「濱村屋」。俳名「路考」。
王子の農家・清水半六の子として生まれますが、初代・菊之丞が王子の農家の
娘に産ませた子という説が有力で、寛延3年(1750)5歳のときに初代の養子と
なります。宝暦6年(1756)初代が演じた「百千鳥娘道成寺」を披露して、二代目
を襲名しました。
容姿にすぐれ、地芸・所作、時代・世話を兼ね、本格的な女形としては初の江戸
出身だったため「王子路考」と呼ばれて、大人気をとりました。「路考髷」「路考茶」「路
考櫛」など路考にちなむファッションが、女性の間で大ブームを呼びました。現在の
歌舞伎・日本舞踊でも人気演目である「鷺娘」は、二代目菊之丞が初演したものです。

2人目は万延元年(1860)10月、開港直後の日本にやってきたイギリス人のロバート・
フォーチュン Robert Fortune


ロバートフォーチュンa

スコットランド生まれ。エジンバラ王立園芸協会所属の著名な園芸学者で、東洋植物の
ヨーロッパ移植を成功させた先駆者として知られます。
日本に滞在していた約1年余りの間に、長崎、神奈川、江戸、兵庫などを訪れました。その
旅行中の見聞記「江戸と北京」(Yedo and Peking, 1863)には、王子を歩いたときのことが
印象的に記されています。

王子は、言わば、日本のリッチモンド(ロンドン西郊の住宅地)で、そこにはイギリスの「スター
・アンド・ガーター・ホテル」に匹敵する有名な茶屋がある。ここは江戸の善良な市民達が一日
の遊楽や気晴らしに来る所で、たしかこれ以上の娯楽場を探すのはむずかしいだろう。
やがて道は小丘の下へ出た。道の両側には、郊外の平凡な住宅や庭の生垣がつづいていた。
村に近づくと多勢の人々が外国人を見に出て来た。近頃では外人もとくに珍しいことではない
のに・・・・・・。幾人かの子供に馬をあずけて、われわれは茶屋の中へ案内され、愛想のよい
娘に迎えられた。
茶屋のささやかな庭には、木々の枝や緑の岸や美しい花々でおおわれた小川が流れていた。
近辺一帯がすこぶる愉快で、娯楽を求める江戸の人びとが愛好するに足る場所だと思った。
われわれの前に運ばれた茶や菓子、ゆで卵その他珍味のお相伴をしてから、その辺の田舎
へ散歩に行こうとした。 「三宅馨・訳」


幕末当時の日本の庶民の様子が、外国人の視点からよく描写されています。
リッチモンドとか、スター&ガーターホテルって、そんなに王子やそこにあった茶屋に似てるのだ
ろうかと、いろいろ検索してみましたら、出てきました。

スター&ガーターホテルa
Star and Garter Hotel

こ、これ・・・王子に似てます・・・?

ちなみに下の絵が「江戸名所図会」に出てくる、音無川と周辺の茶屋の絵。

江戸名所図会・音無川a

・・・・・・・・・・・・・・。
まぁ、その・・・。
フォーチュン兄さん、褒めていただき、あざーす!!

「江戸の名勝地・王子」編 完。


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文京学院大学生涯学習センター 「江戸の名勝地・王子」③

王子駅前まで出たら、ガード下を潜らず線路と平行するように西に進みます。
やがて見えてくるのが王子稲荷神社です。

71 王子稲荷神社a

なかなか趣のある山門です。
写真の左端に水色の柵のようなモノが見えます。これ、滑り台だったかな。
神社には幼稚園が併設されてまして、平日に行きますとクレヨンなシンちゃんたちが
キャッキャと元気な声を上げております。
この門は幼稚園の正門も兼ねているようで、開園日は閉まっていてここから境内へは
入れません。横に廻って坂道を登ると直接境内に通じる入口があります。
まち歩きガイド当日は土曜日でしたので、このまま中へ入れました。

さて、この王子稲荷。元は「岸稲荷」と称していました。
創建は不詳ですが、治承4年(1180)に源頼朝が、義家の腹巻・薙刀を奉納したと
いいます。
往時から関東総社と称し、関西の伏見稲荷に対して、関東の稲荷社を総括統一してい
ました。康平年中(1058~1065)に源頼義が奥州征伐の際に立ち寄り、「関東稲荷
総司」としたのですが、この「関東」を別当寺である金輪寺が、陸奥国までも含む「東国
三十三国」と解釈したため、江戸中期までは「東国三十三国稲荷総司」の扁額を掲げて
おりました。これを、寛政の改革で「関八州稲荷総司」に変更させられたといいます。
「お前、守備範囲が東日本は言い過ぎ。せいぜい、関東までだわ」
ってトコロでしょうか。

まぁ、そういう歴史マニア向けの話はさておいて、この神社が有名なのは、というより
王子が全国的に有名なのは、毎年、大晦日の夜、日本各地から狐が集まり、少し
離れた場所にある大榎(装束榎)で装束を整えて王子稲荷に参詣した、という言い伝え
があるからなのです。この時に見える狐火の様子で、土地の農民は田畑の吉凶を占った
といいます。
そんなワケで、ここ王子とこの王子稲荷は狐のメッカということになっているのです。

装束榎a
名所江戸百景「王子装束ゑの木」 歌川広重

「名所江戸百景」は広重の代表作ですが、画題は全て実際のリアルな風景(多少の
誇張はあるでしょうが)なのですが、この「王子装束ゑの木」だけは幻想的な狐が
集まる絵となっています。広重もそう描かざるをえないほど、王子といえば狐のイメ
ージが江戸の庶民に根付いていたんですね。
この画面の右中ほどに描かれた山が王子稲荷のある場所で、手前の装束榎という
大榎に集まった狐たちが稲荷を目指して行列をつくって歩いていくわけです。

では、その装束榎があった場所はどこかというと・・・

ほりぶん

ここです。JRのガードを越えて王子駅前からやや西方の、交差点のド真ん中。
道路拡張の影響などにより、榎はもうありません。
「ほりぶん」というやたら目立つ黄色いビルが目印です。これは食品スーパーらしい
のですが、現在は営業をやめているようです。

王子稲荷に戻りましょう。
本殿の裏は武蔵野大地の高い崖になっていますが、階段を上っていくと狐の穴
祀られております。

79 王子稲荷神社 狐穴a

こういうのを見ると、狐伝説もまんざら全くのデタラメではないのかな、と。

東京はけっこう「狐の穴」の史跡があって、私が今までまち歩きガイドをした中でも
文京区の沢蔵司稲荷、上野公園の弥左衛門狐の穴稲荷などがあります。
江戸の人たちにとって狐はリアルに身近な動物だったのですね。
私の住んでいる東大和市も、大正時代頃までは狐がいたそうですが、今はいません。
狸は狭山丘陵の山に今でもいますが、狐は里に住む動物なので環境の変化に敏感
なのでしょうね。

王子稲荷をさらに西に進むと、前回ご紹介した金輪寺、その隣に名主の滝公園
あります。

名主の滝公園

安政年間(1854~1860)、王子村の名主・畑野孫八が自らの屋敷地に滝を築き、
茶を栽培し、一般に開放したのがはじまりです。将軍が鷹狩りのときに立ち寄られた
こともあり、名声を得たとのこと。
この公園に王子七滝の一つ、名主の滝がありました。

名主の滝

コチラが、現在の公園内にある滝の一つ「男滝」。
明治中期以降、公園として整備され、男滝、女滝、独鈷の滝、湧玉の滝の4滝が
作られていて、かつての王子七滝をイメージさせるものになっています。
もっとも、現在の滝は自然のものではなく地下水をポンプで汲み上げているそうです
けどね。

次回につづく。


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文京学院大学生涯学習センター 「江戸の名勝地・王子」②

不動の滝a
名所江戸百景「王子不動之滝」 歌川広重

飛鳥山を降りると目の前に石神井川が流れています。王子の辺りでは音無川とも
呼ばれています。豊島氏が紀州にちなんで名付けたのは、前回に書いた通り。
武蔵野台地と川との落差により王子周辺にはかつて多くの滝があり、「王子七滝」
と呼ばれていました。
王子が江戸の名勝地と呼ばれる由縁の一つですね。

上の絵は、王子七滝の中でも最も有名だったと云われる不動の滝です。
「新編武蔵風土記稿」は「病者ツトイ来テ浴セリ」と書いています。

しかし、川がたびたび氾濫したので、近代以降は護岸工事が行われ景観はすっかり
変わり、ほぼ全ての滝が姿を消してしまいました。
不動の滝があった場所は正受院というお寺の裏。正受院は現在も残っていますが、
滝が流れていた所は、今はこんな感じ。

不動の滝b
矢印の辺りが滝の流れていた場所と思われます。

石神井川の流れも江戸時代とはだいぶ変わってしまっています。
かつては飛鳥山の麓を沿うように流れていましたが、現在は飛鳥山の下を暗渠として
通しています。

53 音無橋a

この橋は音無橋。江戸時代にはこの場所に橋はありませんでした。
石神井川(音無川)の王子神社傍らに渡したアーチ型鉄筋コンクリート橋で、昭和4年
(1929)12月に起工し、同6年1月に竣工しました。王子町と滝野川町を繋ぎ、交通の
便が図られました。渋沢栄一が建築や音無橋開通式協賛会へ支援したといいます。
川はこの橋の手前から暗渠になっています。

渋沢栄一といえば、飛鳥山に邸宅を構えていたことで知られていますね。
庭園が公開されていますし、史料館もあります。
今回のまち歩きでは時間の関係で寄りませんでしたけど、新紙幣の肖像画に渋沢栄一
が採用されたとあって、王子では今、ちょっとした渋沢ブームが起きています。

33 渋沢資料館a

渋沢が紙幣の顔に選ばれたのは、彼が日本経済の父というところからなのでしょうけど、
元はといえば幕臣で、陸軍奉行支配調役として京都に赴任。新選組の土方歳三と捕物
に出動したこともある人物です。
明治以降、紙幣の肖像に選ばれた人物は、文化人や学者を除けば明治新政府側の
人物ばかりだっただけに、江戸幕府の中枢にいた人が初めて選ばれたということに、佐幕
派のワタクシとしては感慨深いモノを感じます。

さて、暗渠になってしまった音無川の替わりに、その流れを再現した公園が音無橋の下に
作られています。音無親水公園です。

68 音無親水公園a

この写真を撮った日は平日でしたし、まち歩き当日は小雨模様だったので人影はまばら
ですが、休日ともなれば子連れファミリーが大勢やってくるようです。今頃は水遊びで
盛況でしょうね。
ちなみに、この水路の水はろ過装置による循環水だそうです。

写真に橋が写ってますが、もちろんコレは公園を整備するときに作った橋。
今はもうありませんが、現在の王子駅のやや西側、ガード下のあたりに、あすか橋という
橋があったことが古地図を見るとわかります。
この橋は、あすか橋を再現しているのかも、と思いました。

順序が逆になってしまいましたが、先ほどの音無橋を渡るとすぐ右側にあるのが
王子神社です。

58 王子神社a

それ創建年代は不明ですが、平安時代の康平年間(1058~1064)に源義家が
前九年の役で立ち寄り、戦死した兵を弔うために金輪寺を建立し、この神社には甲冑
を納めたといいますから、それ以前の建立ということになりますね。
ただし、この頃はまだ王子神社という名称ではなく、祭神もわかりません。

豊島氏代々が崇敬していましたが、元亨2年(1322)に豊島氏が紀州熊野三社より王子
大神を勧請して、「若一(にゃくいち)王子宮」又は「王子権現」として再興しました。
祭神は、伊邪那岐命、伊邪那美命、天照大神、速玉之男命、事解之男命の五柱の神様。
これらの神様を総称して「王子大神」といいます。若一王子は天照大神のことです。
王子は熊野三社権現(本宮、那智、新宮)の御子神の呼称です。
ざっくり言えば、熊野権現=王子権現ということになります。
明治以降、王子神社と改めました。

元々、この辺りは岸村と言っていたのですが、これより王子村と村の名前も変わります。

さて、義家が建立した金輪寺は、王子権現の別当寺(神社を管理するお寺)として江戸
時代まで広大な寺域をもっていました。歴代将軍が鷹狩りや日光参詣の際に立ち寄り、
御膳所や休息所としても使われました。
ところが、幕末に火災にあい、その後の廃仏毀釈の影響でそのまま廃寺となってしまい
ます。現在の北区区役所のある辺りが金輪寺のあった場所です。

北区区役所

明治36年(1903)に、湯島の霊雲寺と地元の檀家がはかり、残っていた支院(塔頭)の
藤本坊に金輪寺の名跡を継がせます。
これが、王子駅の西方にある、現在の王子山金輪寺です。

88 金輪寺a
写真ではわかりませんが、本堂の屋根に葵紋が燦然と輝いております。
将軍家との繋がりを感じさせますね。

以下、つづく。



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文京学院大学生涯学習センター 「江戸の名勝地・王子」①

もうひと月前になってしまいますが、6月に文京学院大学生涯学習センターで
恒例の江戸文化・江戸散歩講座をさせていただきました。
今回は北区・王子を取り上げまして、1日目は座学、2日目はまち歩きを行って
まいりました。
当ブログで告知しなかったんですが、それというのも、講座募集の告知を出して
すぐにソルドアウトになってしまい、急遽参加人数の追加までしたからであります。
「まだ参加募集してるの?」という誤解を招かないため、ブログでのご紹介は
控えておりました。
みなさま、いつも本当にありがとうございます!

で、事後報告という形になりますが、2日目のまち歩きで廻ったところを備忘録
代りに書いていきたいと思います。

まち歩き当日は雨模様。
集合場所はJR上中里駅。お昼頃にかけてかなりの雨だったんですが、スタートの
午後1時になると少し小降りになってきました。それ以降、小雨が降ったりやんだり
みたいな天気でした。
※ブログ上でお見せする写真は、別の日に撮影したものです。

集合を王子の隣の上中里にしたのは、王子の歴史を語るには、ここにある平塚神社
が欠かせないからなのです。

7 平塚神社aa

王子は中世の時代、平家の流れを汲む豊島氏によって支配されました。
王子はかつて岸村と呼ばれていました。すぐ北に荒川が流れているように、この地は
物資の集積地、東北征伐軍の補給地としての重要な土地だったのです。

平塚神社は、かつて豊島氏が築いた平塚城の跡地です。
平安時代後期、後三年の役(1083~1087)に出陣した源義家が、東北からの帰りに
豊島城に逗留しました。豊島家当主近義は手厚く義家をもてなしたので、義家は感謝の
証として鎧一領を近義に下賜しました。近義は後に、この鎧を城の守り本尊として塚を築き
中に埋めます。この塚は高いものホームからではなく、平たかったことから「平塚」と呼ばれたとのこと。
この塚は本殿(写真)の裏にあるのですが、非公開の立入禁止となっています。

上中里駅ホーム

上の写真は上中里駅のホームから平塚神社方面を撮ったもの。
樹木がうっそうとした所がありますが、ここがその立入禁止区域だと思います。
この角度から見ると、平塚神社がかつて中世城郭だったというイメージが掴めやすい
ですね。

室町時代に入り、関東管領の上杉氏が関東で力を伸ばすと、豊島氏は上杉氏に味方
していましたが、やがて扇谷上杉氏の家裁だった太田道灌と対立。
豊島氏は本拠を石神井城、練馬城に移していましたが、道灌はこの2城を攻め落とし、
平塚城に逃げた豊島氏をさらに攻めて落城させます。
ここに豊島氏は歴史の表舞台から姿を消すことになりました。

平塚神社鳥居の前の道が岩槻街道。日本橋を出た中山道が本郷追分で分かれた道
です。かつて徳川将軍が日光参詣へ使った道なので、日光御成道と云われました。
平塚神社から街道を西へ進むと見えてくるのが、西ヶ原一里塚

30 西ヶ原一里塚a

街道の両側に当時の原型を残している一里塚は、都内でもここだけという貴重な史跡です。
大正に入り、東京市電の軌道延長路線上にこの一里塚が位置していたため、撤去されそう
になったのですが、渋沢栄一や、東京市長、滝野川町長を中心とする地元住民の運動で
保存されることに成功しました。中央分離帯側(写真左)の塚には、その保存の経緯を記し
た「二本榎保存之碑」があります。

と、これが北区の説明なんですが、板橋区の志村には中山道の「志村一里塚」があって、
板橋区はコチラの一里塚も都内にそのままの形で現存する一里塚だと主張しています。
まぁ、こういった地域によって異なる説が出てくることはよくあります。
当事者にとっては色々と主張したいこともあるのでしょうが、トンデモ話であれば別ですが、
研究者でもないワレワレ第三者は「こういう説もありますので・・・」とご紹介だけするのに
とどめておいた方がいいと思います。

ところで、この西ヶ原一里塚。ぜひとも道路を渡って中央分離帯側に行ってみたいところ
ですが、横断歩道も信号もなく、交通量も多いため渡ることはできません。
車の来ない一瞬を見計らって渡ろうとしても、実は対面に警察署があるので、それも
やめておいた方が良さそうです。
警察署の3階からレイバンのサングラスをかけて、ショットガンを構えた大門部長刑事が
絶えず見張っているので注意です!

さて、一里塚を過ぎたらすぐ飛鳥山です。

32 飛鳥山公園a


飛鳥山は上野から北に連続する武蔵野大地の北端にあります。そのため「山」ではない
のですが、石神井川が台地を横切るように流れ、谷を作っているため高い山のように見え
るのです。この地形と、豊島氏が紀州の飛鳥明神を勧請したことにより、「飛鳥山」と呼ばれ
るようになりました。

江戸時代に8代将軍徳川吉宗が、この飛鳥山にたくさんの桜の木を植えて、庶民に開放
したことが有名ですね。当時、江戸の桜の名所といえば上野の寛永寺。庶民も桜を見る
ことはできましたが、なにせお寺ですので音曲などは禁止。
当時、享保の改革で節制を強いられていた庶民に、吉宗が「ここでならドンチャン騒ぎも
OKだぜ、ベイベー!」と、ガス抜きとして考えられた政策だったんですね。

36 飛鳥山之碑a

飛鳥山にはいくつか石碑がありますが、その中で江戸時代からあって有名なのが、この
飛鳥山之碑
元文2年(1737)に、徳川吉宗による飛鳥山の事績を顕彰するために建てられました。
飛鳥山を管掌していた金輪寺の住職・宥衛が紀州熊野の石を用いて建立したそうです。
撰文は儒者の成島道築。日本一難解な碑文と云われ、当時の川柳に「此枝を折るな
だろうと石碑みる」「飛鳥山なんと読んだか拝むなり」などと詠まれています。
難解だというのは、漢文だからというのもあるんですが、この石は天然石でしょ。近くで
見るとわかるんですが、石の表面にあちこち筋が走っていて、その筋を避けるように文字
が斜めになったり、あるいは筋と同化してたりして、それで読みづらいワケです。

中世の豊島氏は一時、紀州の熊野に地頭として赴任していた時期があり、それで紀州に
所縁のある「飛鳥山」「音無川」などの名称を、地元にも名付けたのだといいます。
その伝承を聞いた吉宗は、紀州出身なものだから嬉しくなって、飛鳥山を観光の名所に
したのだとも云われます。

飛鳥山 広重a
名所江戸百景「飛鳥山北の眺望」 歌川広重
遠くに見える山は筑波山です。

35 飛鳥山から見るa
ほぼ同じ場所から見た令和の「飛鳥山北の眺望」。

次回につづく。


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月光露針路日本を観に行きました

またまた1ヶ月近くが経ってしまいました。
今年の二月から講座やらまち歩きガイドやらを、コンスタントにやらせていただき
まして忙しかったのですが、今月の22日で一区切り。秋までは講座もガイドも
入りませんので(夏に東京でまち歩きなんぞやったら死人が出ますでな)、ブログを
書く時間もできると思います。

さて、そんな中なのですが、待望のお芝居を観てまいりました。
歌舞伎座六月公演「月光露針路日本」であります!
え?読み方がわからない?そうですね、歌舞伎ってのは、ワザとみたいに難しい読み方
をつけますからな。コレで「つきあかり めざす ふるさと」と読ませるそうでございます。

こちら、三谷幸喜が脚本を書いた新作歌舞伎。原作はみなもと太郎の歴史漫画「風雲児
たち」。
この原作・脚本のペアでは、去年ですか、NHKのドラマスペシャルで杉田玄白や前野良沢
の解体新書のエピソードを取り上げていましたね。
今回は別ストーリーを歌舞伎で、ということになったようであります。
今回のお芝居は1700年代末に、漂流の末にロシアへたどり着き、女帝エカテリーナ二世
に謁見した大黒屋光太夫のお話です。

主なキャスティングは
大黒屋光太夫・・・松本幸四郎
庄藏・エカテリーナ二世・・・市川猿之助
新蔵・・・片岡愛之助
小市・・・市川男女蔵
九右衛門・・・坂東彌十郎
磯吉・・・市川染五郎
口上・・・尾上松也
ラックスマン(父・子)・・・八嶋智人
三五郎・ポチョムキン・・・松本白鸚  などなど。

ここからは、ネタバレ注意です。まぁ、ほぼほぼ史実の通りなので、隠す必要もないの
ですが。
光太夫は江戸時代の外交史でもよく語られる人物ですが、彼は能動的に何かを成し
遂げようとしたワケではなく、たまたま漂流してしまった結果、数奇な運命を辿ってし
まった人物です。
舞台の幸四郎光太夫も船の上では経験の浅い、どこか頼りない男。
しかし、だからこそ彼はなんとか仲間全員で日本へ帰るという意思を、ハッキリと皆に
宣言し、実行します。ロシア語を覚え、現地に溶け込み、少しでも可能性があれば
遠くの町にまで責任者に会いにいく。
その真っ直ぐな思いと実行力が、彼を風雲児に押し上げたのでしょう。

さすが、三谷幸喜の脚本だけあって、全編の85%は爆笑の連続。
しかし、光太夫以外の登場人物も、歴史ファンの三谷さんだけあって、とても魅力的
に描かれています。
少しやさぐれた庄藏を全編で演じながら、クライマックスでエカテリーナを演じた演之助。
久しぶりに女形を見させてもらいました。それが、まさかドレス姿とはww
わざと冷めた所を見せる新蔵の愛之助、頑なにロシア語を覚えようとしない九右衛門、
反対に完璧にロシア語を覚える磯吉。
唯一、歌舞伎役者ではない出演者の八嶋智人はラックスマン父子。登場の一瞬でその
場の空気を変えるところはサスガです。

ロシア側の代弁者として出てくるポチョムキンに白鸚。さすが、ヨーロッパ貴族スタイルは
似合います。ところでワタクシ、世界史はあまり知らないのですが、ポチョムキンって
この時代の人だったんですね。もうちょっと後の頃だと思ってました。
ていうか、サイレント映画の「戦艦ポチョムキン」しか知らないス。しかもタイトルだけww

クライマックスからは涙なしには見られない別離のシーン。
一緒に帰るハズだったのに、新蔵と庄藏はキリスト教に改宗してしまい、残留を希望。
二人はすがるものが欲しかったからだと言いますが、真実は凍傷から片足を切断しな
ければならなくなった庄藏が、日本語教師になることを条件に手術をさせてもらったこと
がわかります。
この辺りのエピソード、史実なのかどうかワタクシは知らないのですが、光太夫を安心
させて送り出したあと、望郷の思いから号泣する新蔵と庄藏に、胸が熱くなりました。

結局、遭難した17人のうち帰国できたのは光太夫のほか二人だけ。
しかし、そのうちの一人小市は船の上で亡くなってしまいます(史実では根室に着いて
かららしい)。
昔観た「天平の甍」という映画を思い出しました。奈良時代に鑑真和尚を日本に連れて
こようとした遣唐使の話です。この話でも、帰国を前に無念にも亡くなる遣唐使が描かれ
ていましたが、その姿が重なりました。
現代では簡単に外国へ行けるし、帰ってもこれるから、当時の遣唐使や漂流者の望郷
の思いは想像もできません。

というわけで、大満足の観劇でした。
歌舞伎ファンの中には「こんなのは歌舞伎ではない」と仰る方もいるかもしれません。
たしかに「伝統的演目」ではありませんが、私はこのような新作歌舞伎、特にエンター
テイメントに徹した演目は大歓迎で、どんどんやってもらいたいと思っています。
所作(踊り)はともかくとして、元々江戸時代の歌舞伎狂言はワイドショー的な人気を
狙った演目が多く、そのために大衆の人気を呼び、現在まで続く芸能となったわけです。
現代に多くのファンをもつ演出家や脚本家を招いて、どんどん新作を作っていくことは
歌舞伎の将来に繋がります。その上で伝統芸である所作や時代ものを見たいと思う
ファンが増えてくれれば、それが一番いい。

なんてコトを書いていましたら・・・8月の歌舞伎座も(例年8月だけは3部構成です)
2部で、これまた幸四郎と猿之助が恒例の新作ギャグ歌舞伎「東海道中膝栗毛」を
上演するとのこと。
この2人、仲いいなぁー。この弥次喜多シリーズも何作目だろう?
コレも観にいかなくちゃだわ。

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注・サタデー・ナイト・フィーバーに非ず!


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