江川太郎左衛門英龍(大河ドラマの主役にぜひ!)

現在、このブログと大河ドラマの「八重の桜」がほぼ同じくらいの時代を
進行中ですね。
東北復興支援大河とはいうものの、この時代の中心はやっぱり京都。
徳川慶喜も西郷隆盛も桂小五郎も坂本龍馬も新選組も、幕末オールスター
はみんな京都に出張中です。
会津では綾瀬・八重ちゃんが尚之助さんと結婚しましたけど、多摩では
これまた大きな動きが起きようとしていました。

時代はやや遡りますが、文久3年(1863)幕府から江川太郎左衛門支配
の代官領で農兵の設置が認められたのです。
農兵とは「農民による洋式近代武装兵」のこと。
この農兵の出現は幕藩体制の大きな転換を表すとともに、その後の明治
時代における多摩地域に重要な影響をもたらすのです。
まー、それくらい歴史のキーポイントだとワタクシは思うのですが、これが
案外知られてないんス。

さて、今回はその農兵プランを打ち立てた張本人をご紹介したいと思います。
それがこのブログでも何度も出てきてる名前、そう、
江川太郎左衛門英龍さんなのです!
本によっては江川坦庵ていう名前で書いてあるものもあるかもしれませんが、
同一人物です。
この人が幕末期に「世直し江川大明神」とよばれた名代官なんですが、今回
は特に農兵に絞って話をススメましょう。

英龍さんは享和元年(1801)に伊豆韮山の代官・江川太郎左衛門英毅の
次男として生まれました。太郎左衛門てのは、江川家当主を表す名前です。
20歳のとき4歳年上の兄が病死したため家督を継ぎました。
代官として受け持った地域は、相模・武蔵・甲斐・伊豆・駿河に及ぶ、約8万
石。この武蔵国の中に東大和を含む多摩地域が含まれています。
代官というのは天領(幕府の直轄地)を支配しますが、通常は何年かの任期が
あって交代となります。ところが江川家の場合、中世豪族の生き残りで代々伊豆
を支配してきた一族なので「世襲代官」という特殊な旗本でした。
天保の頃(1930年代)になると、日本に外国船が頻繁にやってくるようになり
ます。英龍さんは伊豆韮山が本拠地ですから、自然と海防に感心が向くわけです。

外国の脅威から日本を守るためには、外国のことを知らなくてはならないという
ことで、英龍さんは勘定吟味役の川路聖謨さんに渡辺崋山を紹介してもらい、
共に西洋の勉強を始めます。
当時は西洋学=軍事学ですから。
英龍さんや川路さんは海岸線を含む天領を支配していたので(代官は勘定奉行の
支配下)、危機感は幕臣の中でも特に強かったのだと思います。

さらに英龍さんは砲術家の高島秋帆(たかしましゅうはん)に弟子入りして
高島流砲術を勉強します。
秋帆さんは長崎奉行所直轄の鉄砲方の家に生まれ、出島を経由して入ってくる
西洋の最新式の鉄砲や砲術の知識・技術を持っていました。
英龍さんは秋帆先生について、新式の銃や大砲について、その鋳造方、さらには
西洋式軍隊編成を学びます。

そんな英龍さんが日本の海岸線を守る策として提唱したのが「農兵」です。
先ず外国船がやってくるであろうと予測できる伊豆を任されながら、その防備策の
不十分さを痛感していた英龍さんは意を決し、天保10年(1839)5月「伊豆国
御備場之儀ニ付申上候書付」という建議書を幕府に提出します。
「平時は農民で、非常時に武器を与え、調練時には苗字帯刀を許す。
農兵は早急に役立つものではないが、日を重ねて訓練すれば、必ず国家の御役に
立つものである。定期的手当にはおよばないが、調練には経費を必要とする。
また、武器弾薬も幕府から貸与して訓練に出精させ、若干褒美を与え、上達した
者には1~2人扶持を下し、さらに緊急事態などで非常勤務につく場合には手当
を支給し、功ある者には褒賞をしてやれば、すすんで稽古をするようになる。」


とまぁ、これがその内容です。
とーぜんのことながら幕府は却下。当然というのは、農民に武器を持たせるという
のは「兵農分離」という幕府の根本政策にハナっから抵触するワケで、幕閣から
すれば「ありえないし」という提言なんです。

英龍さんを「こいつヤルじゃん」と評価して、引き上げていたのは、時の最大権力
者、老中の水野忠邦でした。
彼は「天保の改革」の失敗で「ダメ政治家」の烙印が押されてる印象が強い人で
すが、さに非ず。当時の海外情勢については、一番理解力のあった政治家なん
ですね。
江川英龍、川路聖謨、それと羽倉外記っていう房総地方を治めていた代官がいる
んですけど、彼らは「幕府三兄弟」と称されるほど西洋事情や西洋武器・技術の
習得に長けていました。その3人を抜擢していたのが水野忠邦だったんです。
水野さんは高島流西洋砲術などにも関心が高く、行く行くは幕府軍も西洋式の
近代軍制に移行させる肚積もりがあったでしょう。
英龍さんを幕府の鉄砲方にまで就かせているくらいですから。

ところが天保14年(1843)に上知令の失敗で水野さんが失脚すると、水野一派
と目された英龍さんは川路さんらと共に左遷されてしまいます。
英龍さんは鉄砲方を罷免され、代官職だけをやらされることに。

しかし、弘化元年(1844)~3年にかけて、フランス船やイギリス船が琉球に
来航。アメリカ東インド艦隊司令長官ビッドルが浦賀に来航。フランスインドシナ
艦隊司令官セシュが長崎に来航、と日に日に日本列島に外国船がやって来るよ
うになり、幕府の鎖国政策はだんだんと行き詰って行く事態に。
そんな中、マリナー号事件というのが起こります。

これはマリナーズのイチローがヤンキースにトレードされた事件なんですが、と
いうのは嘘なんですが、嘉永2年(1849)閏4月にイギリス船のマリナー号が
江戸湾にやってきて、勝手に測量をおっ始めたという事件です。
すぐに下田奉行が退去勧告するんですけど、艦長は「けっ、木端役人が!」と侮って
シカトを決め込むばかり。
急遽、英龍さんが交渉相手に任命されます。すると英龍さん、いつもは質素倹約に
務め木綿の着物しか着ないのに、この時は日本橋の越後屋で最高級のキンキラ
キンの野袴と陣羽織をあつらえ、手代たちにも新品の羽織を買い与えて交渉に臨み
ました。そして
「拙者が人民15万人を支配する政府の役人であーるッ!!」
と挨拶すると、艦長はその堂々とした態度とセレブな出で立ちに「やべっ、マジで
政府の高官が出てきちまったよ」と恐縮して、すぐに退去していったんです。
相手を読んだ、英龍さんのファインプレー。

これで英龍さんは再評価され、江川株価も急上昇。
翌嘉永3年(1850)6月に「豆州下田湊海防御備向存寄之趣申上候書付」を
幕府に提出します。
「下田警備の常備軍の設置、台場築造に加え、伊豆・駿河の天領から農兵を取り
立てて備えたい。農兵については十分な考えがあってのことなので、質問がある
なら別に答申書を提出したい。」

ここで英龍さんは、天領での農兵取り立てと台場の建設を提言しています。

幕府内部でも、英龍さんの意見に多少耳を傾ける雰囲気が出てきました。
水野忠邦が失脚した後に幕府トップの座についたのは阿部正弘でしたが、彼は
当初英龍さんや川路さんらを「水野一派」として疎んじていたんですね。
ところが、だんだんと「仕事はデキるやつらじゃん」と評価するようになり、川路
さんも勘定奉行へと取り立てらるようになったんです。

英龍さんの提言も一部では理解され、農兵の利便性も半ば認められるようには
なったんですが、
「農兵に取り立てられられたことに寄せて、何らかの弊害が生じないとも言えない。
このことを深く考えて、人物をよく選び抜いた上で日頃から十分に教育し、ついに
屯田兵として認められたならば、その時は終生の手当をもって採用しよう」

と、親友の川路さんですらこのように一揆や反乱を警戒し、兵農分離の大原則を
曲げることには大きな抵抗を感じていたようです。

農兵計画はなかなか実現しませんが、台場建設は実行に移されました。
しかしこれとて嘉永6年(1853)にペリーが来航してからですから、英龍さんと
しては遅きに失したと思っていたかもしれません。
それに当初、英龍さんは浦賀水道を守るラインで台場を建設するプランを立てて
いたのですが、完成まで何年もかかってしまうという理由で却下。品川沖のライン
まで引き下げられちゃったんですね。
もっとも英龍さんは台場建設前の検分をした後の報告書で、重要なのは軍艦の
購入と製造、航海の習熟であり、そのためにはオランダへ留学生を派遣し、地球を
一周するくらいの技術を身につけることだと言ってるんです。
「たとえ台場を作ったとしても、申し上げたように軍艦を製造しないのでは誠に
窮屈な計画になり、とても十分な備えとは申し上げられません。」

どうスか、このセンス。勝海舟や坂本龍馬あたりより先を行ってるでしょ。

結局、農兵計画の実現を見ないまま安政2年(1855)1月に英龍さんは55歳で
この世を去ります。しかし、家督を継いだ息子の秀敏は引き続き農兵策を幕府に
建言し続け、その弟・英武の代の文久3年(1863)についに認められることと
なります。その話は、また次回。

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江川太郎左衛門代官所江戸役宅跡
本所南割下水という場所で、近所には津軽藩上屋敷がありました。また、浮世絵師で
有名な葛飾北斎もこの近くで生まれています。
現在は公園となり、何も残っていませんが「江川太郎左衛門終焉の地」の案内版が
立ててあります。

せっかくなんで、もうちょっとお付き合いしていただくことにして。
英龍さんのその他の業績をいくつかご紹介のコーナー。

 「剣術道場建ててあげたよ」
英龍さんは剣術のウデもなかなか凄くて、神道無念流・岡田十松の門人でした。実際
に稽古をつけたのは兄弟子の斎藤弥九郎でしたが、弥九郎が独立して道場「練兵館」
を作ったとき、その資金を出したのが英龍さんでした。「練兵館」は千葉周作の北辰一刀
流「玄武館」、桃井春蔵の鏡新明智流「士学館」とともに「江戸三大道場」と呼ばれました。
弥九郎はその後、英龍の相談役・補佐役として支え続けます。

 「種痘を広げたよ」
ジェンナーが発明した天然痘予防法の種痘は嘉永2年(1849)に日本に入ってきました
が、英龍さんは翌3年に自分の子供2人に接種させ効果を確認すると、自分の支配する
領内へ普及させました。接種した医師の伊東玄朴は伊東俊斎とともに英龍さんの庇護を
受け、安政5年(1858)種痘所を設置させます。

 「パンを焼いてみたよ」
パンは戦国時代に日本に伝わり、長崎出島でだけ作られていました。これを高島秋帆が
乾パンにすれば保存食になるよと教えたところ、英龍さんは本格的なパンの製作に乗り
出します。自分の家臣にパン製法を学ばせた他、韮山の江川邸ではパン釜の切石が
見つかっています。全国パン協議会は英龍さんに「パン祖」の称号を贈っています。

 「掛け声を考えてみたよ」
西洋式軍隊の調練をするとき、一番困ったのが号令のかけ方だったようです。最初は
オランダ語をそのまま使っていましたが、これに抵抗感を感じるものもいたからです。
そこでオランダ語の掛け声を和訳し、さらに命令調の言い切り型にするなどの工夫を
加えて、日本式の号令を発明したのです。
「右向け、右」「気を付け、前へ習え」などはこのときできた掛け声。

DSCF0925 a

芝新銭座大小砲習練場跡
幕府は生前の英龍さんの功に報いるため、江川家に浜御殿脇の海浜地帯8200坪
余りの土地を与え、ここに大小砲の練習場、役宅、与力・同心の長屋などを作りました。
家督を継いだ秀敏はここに「縄武館」を作り、門人の指導に当たりました。
現在のJR浜松町駅の近くです。

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英龍さんは兵糧・備荒食料としてパンを勧めています。これは代官として天保の
飢饉などを経験したことからくる対策だったのだろうと思います。
ということで、英龍さんのパン製作は乾パン作りを中心に行われたのですが、
英龍さんの指示や製作者の報告の中に、砂糖や卵で味付けすることが述べられて
いるとのことなので、菓子パンの製作も行われたと思われます。

ところで、新選組の人たちはパンを食べたのでしょうか?
北海道まで行った土方さんや島田魁さんらは、箱館政府の中にフランス軍の派遣
指揮官がいましたから、彼らと一緒に食べたことでしょう。
てゆーか、時間があったら土方さんは自分でパン作りとかやっちゃいそうな気が
するんですよね。着物の修繕なんか得意だったっていうし、なんか「家庭科系」の
仕事に凝りそうな気がするんですが・・・いかがですか?



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清河八郎登場!

村の名主が書き残した記録を読んでみて、以外に目につくのが手配書です。
いわゆる人相書きってヤツね。
もちろん似顔絵なんてものは残ってないんですが、顔の特徴とか背格好とか、
着ているものや持ち物なんかまで書いてあるものもあります。犯人が着替えて
たら、その情報かえって余計なんじゃない?って思うんですけど。

で、手配されてる犯人はっていうと「父母に乱暴をはたらいた上州八太郎」とか、
「外国人に傷をつけた」誰それとか、ほとんど世間には知られていないマイナー
選手がほとんどなんですが、中にはいるんですよね。現役バリバリのメジャー
リーガーが。
つまり、歴史に名前を残すような有名人!

文久2年(1862)3月、そんな大物の人相書きが東大和の村々に届きました。

清河八郎!

デデンデンデデン・デデンデンデデン(ターミネーターより)

「??誰だよ、知らねーよ。歴史とか幕末とかわかんねーって言ったじゃん。で、それは誰?
前川清と東八郎のハイブリッド?」
せっかくBGMを用意しての紹介だったんですが、ご存知ない方もいらっしゃるよう
なので、先ずはその手配書からお読みいただきましょう。

「    清川八郎
 一、年齢31歳くらい
 一、中肉中背でやや太りぎみ
 一、色は白く、眼光並びに話し方はするどい
 一、花が高く、顔は角ばっている

右の者は坊主に変装して、江戸の市中へ潜伏しているとの風聞がある。
長い間隠れていることはできないだろうから、必ず他国へ向かうことが予想されるので、
見つけた場合は逮捕するよう厳重に伝え、村々の組合の大小の惣代へも早急に連絡し、
対処できるよう取り計らうこと。
この廻状は名主が刻付をして順次村々を廻し、最後の村まできたら役所へ返すこと。
               内藤新宿御用先
 戌(文久2年)3月11日   関東取締出役
                 杉本麟次郎
                 加藤泰輔   」


清河八郎という人物は、浅草芸人・東八郎の師匠・・・ってワケではなく。
幕末の思想家・運動家なんですね。この人。
長州に吉田松陰っていたでしょ。高杉晋作とか桂小五郎、伊藤博文なんかの先生。
あの松陰先生の「東日本版」が清川八郎だと思っていただければ、まぁOK。

出羽国庄内藩出身で、本名は斉藤元司っていうんですね。
子供の頃から学問ができて、上昇志向が強かったんでしょうな。18歳で江戸に出て
私塾や昌平黌(幕府の学校)で学び、剣も北辰一刀流を修めたんですね。
で、ついには自分で神田三河町に私塾を開いちゃった。生徒が40~50人は集まった
ってんだから、たいしたもんですよね。時に安政元年(1854)25歳のとき。
でも八郎はコレでよしとはしないんです。上昇志向強いから。
実はこの私塾を開いた頃に、名前を清河八郎と改めるんです。出身地の清川村から
取ったっていうんですけど、それなら清川八郎でいいじゃんと思いますよね。
でも「川」より「河」の方が大きいからって清河を名乗ったんだそうですよ。
ん~ン、上昇志向~ッ。

世の中は尊王攘夷論で沸き返っている時でしょ。八郎さんもコレに共鳴して、もともと
弁舌の立つほうなんで、たちまち同志たちのリーダーになるんですな。
当然、幕府・奉行所からはマークされる。
で、ついにやっちゃったんです。
何をって・・・、奉行所の下っぴきを斬り殺しちゃったんです。
こうなりゃ大変なコトですよ。全国指名手配です。
で、ご紹介の人相書きとなるわけ。
なにせ捜査官が殺されたんですから、奉行所も威信にかけて探し回る。東大和の村々
にも手配書が廻ってくるってもんです。

さて、この八郎さんがなぜ日本史の中でメジャー選手と言われるか・・・?
彼は逃亡中に、江戸周辺の浪人を集めて傭兵部隊を作ったらどうかと、友人を通じて
幕府に献策するんです。
幕府としては、治安問題になっている尊攘派の浪人たちを管理できると考えて、この
策に乗っかります。で、「ナイス・アイデア賞」として八郎さんの罪をチャラにしてくれた
んですよ。
八郎さんとしちゃ、まずはこっちの方が狙いだったんだから、やっぱ頭イイっすわ。
で、クローズアップされたのが、傭兵部隊として集められた浪人たち。
彼らは「浪士組」と名付けられるんですが、この「浪士組」の中から生まれたのが、あの

「新選組」なんですね。

八郎さんは幕府が集めた浪人たちを自分の支配下に置いて、逆に彼らを討幕の兵隊に
使おうと考えてたんですが、まぁ、世の中そう上手くはいきませんや。
集まった浪人の中に試衛館道場の面々や、水戸脱藩の芹沢鴨といったクセの強い人たち
がいまして、これが八郎さんの計算違い。
近藤勇や芹沢鴨らは、「そりゃ話が違うだろ」ってんで八郎ミッションに乗らなかったんです
ね。そして分離して作ったのが「新選組」。
モチロン、その過程にはいろいろと紆余曲折があるんですが、「新選組」誕生のきっかけ
を作ったのは、清河八郎と言えるんですよね。
八郎さんからすると、討幕派最大の敵を自分で作っちゃったことになります。あらららら。

彼が下っぴきを斬ったのが文久元年(1861)5月。この人相書きが東大和に廻って
きたのは1年近く経った文久2年(1862)3月になっています。
この頃、実際に八郎さんは九州辺りにいたんじゃないかと思われます。
久留米の真木和泉(まきいずみ)とか、筑前の平野国臣とかっていう尊攘派の大モノと
会って顔を売っていたんですね。たぶん討幕の話なども出ていたでしょう。
坊主に変装していたかはわかりませんが、こういった幕末のメジャー選手の手配書の写し
が、ここいらの村に残っていたということに、ちょっとビックリいたしました。

さて。
試衛館の連中が「浪士組」に参加したのは、永倉新八さんがその情報を持ってきたからと
いう説が有名です。
ところがもう一つの説があるんですね。
それは、勇さんが鈴ヶ森の刑場で、遺体を食い荒らす野犬を追い払ったことがあったそう
なんです。で、それを目撃した清河八郎が勇さんの腕前に感心して浪士組参加を持ち
かけたっていうんですよ。
偶然すぎるかもしれないけど、こっちの方がドラマチックですよね。

20130109.jpg

で、その後の清河八郎がどうなったかっていうと・・・利用されたことに
気づいた幕府も黙っちゃいなかったんですね。
文久3年(1863)4月13日、江戸麻布で幕府方の佐々木只三郎という
侍に暗殺されてしまいます。享年34歳でした。
ちなみに佐々木は、坂本龍馬を斬った男でもあります。




阿部老中 逝く

番組の途中ですが、ここで訃報のお知らせです。

安政4年(1857)6月17日、備後福山藩の藩主で幕府老中の要職にありま
した阿部伊勢守正弘さんが亡くなられました。39歳でした。

「えええーーーーーーーッ!?」
衝撃的なニュースが全国を駆け抜けました。
テレビ画面にテロップで流れるくらいじゃすみません。番組中断して
報道センターからの大ニュースです。

もちろん、この知らせは東大和にも伝えられます。
「巳6月29日御支配御役所から廻状
御老中、阿部伊勢守様卒去につき、鳴り物は28日から晦日までやめるように。
普請はそのままでよい。」


「里正日誌」によれば、亡くなってから12日遅れて伝わったことがわかります。
当時はエライ方が亡くなられると、その裳に服するということで大きい音のする
もの、行為は禁止されました。
まぁ、鐘や太鼓、楽器の類はわかるんですが、建築現場の金づちで釘を打つ
音なんてのも規制されました。
けど、今回は「普請は不苦候」とありましたので、大工さんは仕事ができた
ようですよ。

まぁ、しかし何ですな。
2か月前にピクニック・・・もとい視察にいらしたばかりですよ。
多摩周辺の村人はビックリしたと思いますねぇ。

死因については、ブーちゃんだった体型が痩せてきていたとか、下痢が続いてた
とかいわれていて肝臓癌が有力候補です。
それと、この頃向島・長命寺門前のさくら餅屋におとよという15歳の「まゆゆに
似た」激カワの女の子がいて(←「」内は私の妄想)評判を呼んでいたんですが、
なんと阿部ちゃんこのコに一目惚れ。AKBを脱退させて(←妄想)側室にしちゃった
んですよ。それから間もなくの死だったので
「なんかさー、ガンバリすぎちゃったんじゃないのー?」
みたいな噂もたったようです。
それはやっかみだとしても、結局のところ、外国交渉での激務が命を縮めてしまった
のでしょうね。
25歳で老中に出世したエリート政治家でしたが、早過ぎる死でした。

20120918.jpg

大河ドラマ「新選組!」では、ツネを田畑智子さんが演じてましたね。
ツネさんはとてもよくできた奥さんだったそうです。
ちなみに、二人の結婚は正確には万延元年(1860)です。

勘定奉行 川路左衛門尉

前回のお話の続きです。

外交やら将軍継嗣やら問題が山積する中で、幕閣御一行様のまるでピクニックに
行くかのような行動。
こういった事は教科書にも出てきませんから、もうちょっと詳しく「里正日誌」を見て
みましょう。

この玉川上水御検分は当初4月13日に予定されていたようです。
2日前の11日に、江川太郎左衛門さんの支配所から次のような廻状が田無村から
羽村までの、通行ルートにあたる村々に出されています。

「御老中や若年寄の方々が、羽村の上水取水口の御検分としてお越しになる際、
一里の間ごとに馬口の洗い水を差しだすようにしなさい。
ただし、五間ほどの間隔で四斗樽の醤油樽や手桶に柄杓をつけ差し出すこと。
新品の桶を用意などはしなくてよい。
一、御通行の時は御先払人足、鉄棒引、破竹箒持人足らを差し出すことは決して
しないように。
一、御休所以外の場所に村役人が罷り出て来ることは必要ない。
一、御馬通りの橋の手入れや穴を塞ぐ必要のある時は、わざわざ人足を雇わず
そこに住んでいる者が行い、橋に手すりを付けたり砂盆その他を取り繕う事は
決してしないこと。
一、曲り道が分かりづらいところは、仮に不要の道に縄を張っておく。もっとも、
道行く人々の差支えがないようにするべきこと。
ただし、曲がらずにすむ場合は横道にまで縄張りをしなくてもよい。
一、小荷駄馬も通行することに差支えはない。もっとも、一行がお通りの間は
邪魔にならないよう控えるように、村内の馬持ちに申し渡しておくようにしておくこと。
一、道筋での商売はもちろん、屋根を葺くことなど休むには及ばない。もっとも、
御一行のお供の者へ酒を売ってはならない。


時代劇に感化されちゃってますと、お殿様が通る道筋では庶民は微動だにせずひれ
伏して、気がつかずにヒョコヒョコ出てきた婆さまが「無礼者ッ」って斬り殺されちゃう
場面しか想像できないんですが(その後、残された孫娘が仕事人に復讐を依頼)、
けっこう事実はそうでもないんですね。
むしろ、庶民に気を遣っているような印象さえ受けます。

村民たちは道路の補修など済ませて御一行を待っていたんですが、生憎13日は雨に
なってしまいました。で、21日に順延となったわけです。

東大和市蔵敷村の名主・内野杢左衛門さんや他村の名主は、前日の20日にルート
途中にあたる小川村(小平市)に集まり、江川太郎左衛門の手代から御一行が
休憩中のお世話をするよう指示を受けます。

「支配所のお手代衆は草鞋のままで外縁、あるいは土間へ手をついて敬礼を尽くして
いた。
給仕の者は草履だったので、お座敷に上がり茶菓の給仕をいたしていると、お言葉も
あり、御勘定奉行はすべて江川とお呼びなされた。当方は御老中・若年寄様方へ
越後なきよう気を付けるべく仰せ聞かされていたが、お手軽であった。
御老若様方は表白裏金の陣笠をお召しになり、堅付御着用で馬に乗っておられた。
御付きの衆も御乗馬が多く、お役人方は何れも懐中時計をご持参になり、最早何時に
なったかと聞かれ時計と引き合わせ、あるいは里数をお尋ねになるのでお答え申し
上げると腰から扇子を御取り出しになり、裏表とも内藤新宿から羽村までの道筋・
休憩所の村名・里数・橋・枝道まで絵図面に顕し、その摺板の扇面とお引き合いなされ
るので、言い漏らしのないようにしていた。」


青梅橋5
老中阿部正弘御一行さま方が通っていった青梅橋の現在です。
青梅橋は野火止用水に掛る橋でしたが、用水は暗渠となり横断歩道の下になりました。
当然、橋はなくなりましたが、地名だけが残されています。

青梅橋2

青梅橋1
案内板に書かれている江戸時代当時の青梅橋の様子です。
「御嶽菅笠」という当時の旅行案内書に描かれた絵です。


東大和市駅前
青梅橋は現在、西武拝島線東大和市駅前となっております。
写真奥に見え辛いですが赤信号があります。ココを左折すると桜街道です。
御老中さま方は、この道を羽村へと向かいました。

杢左衛門さんの日誌を読むと、かなり和やかなムードが漂います。
扇子の両面に通行ルートが細かく書かれているなんて、なんか遠足の栞みたいじゃない
ですか。あるいは江戸時代のカー(馬)ナビですか?
面白いのは、みなさん懐中時計をお持ちのこと。早速、舶来品を手にしていたので
しょうか。それをわざわざ取り出して見たりして。私も腕時計とか嫌いじゃないんで、この
気持ちわかりますね~。ホントは時間を特に確認したいわけじゃないの。時計そのものを
見て悦に浸りたいワケですよ。
男の子の趣味は今も昔も変わらんな~。

「ここに一奇談がある。御勘定奉行の川路左衛門尉(聖謨・としあきら)様がお立ちになり
御乗馬されるので御馬脇に付き添い、青梅橋方面にご案内したところ、色々とお話しした
際に、これからサンホクまで何里あるのかとお尋ねになる。羽村まで御通行の道筋に
サンホクと申す村名・地名はありませんと申し上げると、例の扇面をお見せになり、ここに
正に記してあるがどうか?と仰せになるので拝見すると、三ツ木村の内、字サンホリ(残堀)
の間違いでございますと申し上げた。すると、なるほどサンホリのリとクの書き損じ。筆者の
間違いとハッキリした、と手を打ってお笑いなされた。
その方の心遣い満足した。これまでのこと大義に思う。早々帰り、跡乗の役人へも右の趣
申し伝えよとのことで、お暇をいただいた。

実に承応年間、武蔵野嚝野、御掘割以後、今度のような大通行は未曽有のおとであった。
この日幸い晴天で都合よく、無事に夕方までに御用を済ませ、出張のお手代衆も大喜びの
由と申された。かつ、日帰り行程のことだったので、お荷物は前日少々ばかり継立があった。
しかしながら、小川村では人足600人あまりも遣い払ったようだ。」


川路聖謨さんて人は一般にはマイナーな存在ですが、幕末史を見ていく上ではかなりの
重要人物です。どれ位かって言うと、ジャイアンツなら山口くらいデキル男です。
元々は豊後(大分県)日田の下級役人の子でしたが、幼少の頃御家人の川路家の養子に
入ります。しかし、川路家は小普請という窓際中の窓際族。フツーは出世を見込める家柄
ではないんですが、彼はそこからガンバったんですね。
努力を重ねて旗本に取り立てられると、勘定吟味役、佐渡奉行、大坂町奉行、勘定奉行と
ジャパニーズドリームを邁進します。佐渡奉行として赴任するときは、大名並みの行列で
行くことを許され感激の涙を流したと言います。一生涯を幕府に捧げると誓った39歳の夏。
彼の一番の大仕事といえば、安政元年(1854)にロシアと日露和親条約を締結させた事
でしょう。若い頃に江川太郎左衛門や渡辺崋山らと、尚歯会で蘭学を学んだ経験が生きた結果
でしょうか。

でもね。こんなこと聞いたって歴史ビギナーの方にはちっとも面白くないでしょ。
わかってますよ、ダンナ。このブログならではのトシアキラ情報。

「彼ったら、とってもブサイク」

もうこの頃の人って写真とかあるから、ホントにわかっちゃうんですよね。ビジュアルが。
川路さんはそう言っちゃなんですが、ブサイク・オブ・ザ・イヤー(幕末編)受賞クラスの
見事なファニーフェイスです。
御子孫の方がいらっしゃったら、ゴメンナサイ。
あ、顔写真はご自分で探してくださいね。このブログ、私が自分で撮った写真かイラスト
以外は載せないのさぁ♡ うひょひょ。

ただ、川路さんのエライのはここからですよ。
彼は自分のブサイクを知ってて、それをネタにしてたんですな。
先ほど書いた日露和親条約交渉でのこと。ロシア側が記念にと川路さんの写真を撮ろうと
したところ、
「いやー、僕みたいなブサイクが日本の顔の代表だと思われたら困るんで、勘弁して」
と言ってロシア人たちを笑わせたそうです。
このように、ユーモアあふれる一面を持ち合わせていたんですね。
杢左衛門さんの証言からも、そんな川路さんの人柄が覗えませんか?

残堀2
現在の武蔵村山市残堀(ザンボリ)。桜街道を西へ進んだ方角になります。
この写真は残堀川に掛る橋の上に立って撮りました。
残堀川は、瑞穂町の狭山池から武蔵村山市、立川市の昭和記念公園内を通って多摩川へと
流れています。ちょうど、立川断層に沿っていると考えていいそうです。

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幕末のアツき男・川路聖謨。
彼も後には悲劇の最期を迎えることに・・・。





御岳菅笠の青梅橋