江川太郎左衛門英龍(大河ドラマの主役にぜひ!)
現在、このブログと大河ドラマの「八重の桜」がほぼ同じくらいの時代を
進行中ですね。
東北復興支援大河とはいうものの、この時代の中心はやっぱり京都。
徳川慶喜も西郷隆盛も桂小五郎も坂本龍馬も新選組も、幕末オールスター
はみんな京都に出張中です。
会津では綾瀬・八重ちゃんが尚之助さんと結婚しましたけど、多摩では
これまた大きな動きが起きようとしていました。
時代はやや遡りますが、文久3年(1863)幕府から江川太郎左衛門支配
の代官領で農兵の設置が認められたのです。
農兵とは「農民による洋式近代武装兵」のこと。
この農兵の出現は幕藩体制の大きな転換を表すとともに、その後の明治
時代における多摩地域に重要な影響をもたらすのです。
まー、それくらい歴史のキーポイントだとワタクシは思うのですが、これが
案外知られてないんス。
さて、今回はその農兵プランを打ち立てた張本人をご紹介したいと思います。
それがこのブログでも何度も出てきてる名前、そう、
江川太郎左衛門英龍さんなのです!
本によっては江川坦庵ていう名前で書いてあるものもあるかもしれませんが、
同一人物です。
この人が幕末期に「世直し江川大明神」とよばれた名代官なんですが、今回
は特に農兵に絞って話をススメましょう。
英龍さんは享和元年(1801)に伊豆韮山の代官・江川太郎左衛門英毅の
次男として生まれました。太郎左衛門てのは、江川家当主を表す名前です。
20歳のとき4歳年上の兄が病死したため家督を継ぎました。
代官として受け持った地域は、相模・武蔵・甲斐・伊豆・駿河に及ぶ、約8万
石。この武蔵国の中に東大和を含む多摩地域が含まれています。
代官というのは天領(幕府の直轄地)を支配しますが、通常は何年かの任期が
あって交代となります。ところが江川家の場合、中世豪族の生き残りで代々伊豆
を支配してきた一族なので「世襲代官」という特殊な旗本でした。
天保の頃(1930年代)になると、日本に外国船が頻繁にやってくるようになり
ます。英龍さんは伊豆韮山が本拠地ですから、自然と海防に感心が向くわけです。
外国の脅威から日本を守るためには、外国のことを知らなくてはならないという
ことで、英龍さんは勘定吟味役の川路聖謨さんに渡辺崋山を紹介してもらい、
共に西洋の勉強を始めます。
当時は西洋学=軍事学ですから。
英龍さんや川路さんは海岸線を含む天領を支配していたので(代官は勘定奉行の
支配下)、危機感は幕臣の中でも特に強かったのだと思います。
さらに英龍さんは砲術家の高島秋帆(たかしましゅうはん)に弟子入りして
高島流砲術を勉強します。
秋帆さんは長崎奉行所直轄の鉄砲方の家に生まれ、出島を経由して入ってくる
西洋の最新式の鉄砲や砲術の知識・技術を持っていました。
英龍さんは秋帆先生について、新式の銃や大砲について、その鋳造方、さらには
西洋式軍隊編成を学びます。
そんな英龍さんが日本の海岸線を守る策として提唱したのが「農兵」です。
先ず外国船がやってくるであろうと予測できる伊豆を任されながら、その防備策の
不十分さを痛感していた英龍さんは意を決し、天保10年(1839)5月「伊豆国
御備場之儀ニ付申上候書付」という建議書を幕府に提出します。
「平時は農民で、非常時に武器を与え、調練時には苗字帯刀を許す。
農兵は早急に役立つものではないが、日を重ねて訓練すれば、必ず国家の御役に
立つものである。定期的手当にはおよばないが、調練には経費を必要とする。
また、武器弾薬も幕府から貸与して訓練に出精させ、若干褒美を与え、上達した
者には1~2人扶持を下し、さらに緊急事態などで非常勤務につく場合には手当
を支給し、功ある者には褒賞をしてやれば、すすんで稽古をするようになる。」
とまぁ、これがその内容です。
とーぜんのことながら幕府は却下。当然というのは、農民に武器を持たせるという
のは「兵農分離」という幕府の根本政策にハナっから抵触するワケで、幕閣から
すれば「ありえないし」という提言なんです。
英龍さんを「こいつヤルじゃん」と評価して、引き上げていたのは、時の最大権力
者、老中の水野忠邦でした。
彼は「天保の改革」の失敗で「ダメ政治家」の烙印が押されてる印象が強い人で
すが、さに非ず。当時の海外情勢については、一番理解力のあった政治家なん
ですね。
江川英龍、川路聖謨、それと羽倉外記っていう房総地方を治めていた代官がいる
んですけど、彼らは「幕府三兄弟」と称されるほど西洋事情や西洋武器・技術の
習得に長けていました。その3人を抜擢していたのが水野忠邦だったんです。
水野さんは高島流西洋砲術などにも関心が高く、行く行くは幕府軍も西洋式の
近代軍制に移行させる肚積もりがあったでしょう。
英龍さんを幕府の鉄砲方にまで就かせているくらいですから。
ところが天保14年(1843)に上知令の失敗で水野さんが失脚すると、水野一派
と目された英龍さんは川路さんらと共に左遷されてしまいます。
英龍さんは鉄砲方を罷免され、代官職だけをやらされることに。
しかし、弘化元年(1844)~3年にかけて、フランス船やイギリス船が琉球に
来航。アメリカ東インド艦隊司令長官ビッドルが浦賀に来航。フランスインドシナ
艦隊司令官セシュが長崎に来航、と日に日に日本列島に外国船がやって来るよ
うになり、幕府の鎖国政策はだんだんと行き詰って行く事態に。
そんな中、マリナー号事件というのが起こります。
これはマリナーズのイチローがヤンキースにトレードされた事件なんですが、と
いうのは嘘なんですが、嘉永2年(1849)閏4月にイギリス船のマリナー号が
江戸湾にやってきて、勝手に測量をおっ始めたという事件です。
すぐに下田奉行が退去勧告するんですけど、艦長は「けっ、木端役人が!」と侮って
シカトを決め込むばかり。
急遽、英龍さんが交渉相手に任命されます。すると英龍さん、いつもは質素倹約に
務め木綿の着物しか着ないのに、この時は日本橋の越後屋で最高級のキンキラ
キンの野袴と陣羽織をあつらえ、手代たちにも新品の羽織を買い与えて交渉に臨み
ました。そして
「拙者が人民15万人を支配する政府の役人であーるッ!!」
と挨拶すると、艦長はその堂々とした態度とセレブな出で立ちに「やべっ、マジで
政府の高官が出てきちまったよ」と恐縮して、すぐに退去していったんです。
相手を読んだ、英龍さんのファインプレー。
これで英龍さんは再評価され、江川株価も急上昇。
翌嘉永3年(1850)6月に「豆州下田湊海防御備向存寄之趣申上候書付」を
幕府に提出します。
「下田警備の常備軍の設置、台場築造に加え、伊豆・駿河の天領から農兵を取り
立てて備えたい。農兵については十分な考えがあってのことなので、質問がある
なら別に答申書を提出したい。」
ここで英龍さんは、天領での農兵取り立てと台場の建設を提言しています。
幕府内部でも、英龍さんの意見に多少耳を傾ける雰囲気が出てきました。
水野忠邦が失脚した後に幕府トップの座についたのは阿部正弘でしたが、彼は
当初英龍さんや川路さんらを「水野一派」として疎んじていたんですね。
ところが、だんだんと「仕事はデキるやつらじゃん」と評価するようになり、川路
さんも勘定奉行へと取り立てらるようになったんです。
英龍さんの提言も一部では理解され、農兵の利便性も半ば認められるようには
なったんですが、
「農兵に取り立てられられたことに寄せて、何らかの弊害が生じないとも言えない。
このことを深く考えて、人物をよく選び抜いた上で日頃から十分に教育し、ついに
屯田兵として認められたならば、その時は終生の手当をもって採用しよう」
と、親友の川路さんですらこのように一揆や反乱を警戒し、兵農分離の大原則を
曲げることには大きな抵抗を感じていたようです。
農兵計画はなかなか実現しませんが、台場建設は実行に移されました。
しかしこれとて嘉永6年(1853)にペリーが来航してからですから、英龍さんと
しては遅きに失したと思っていたかもしれません。
それに当初、英龍さんは浦賀水道を守るラインで台場を建設するプランを立てて
いたのですが、完成まで何年もかかってしまうという理由で却下。品川沖のライン
まで引き下げられちゃったんですね。
もっとも英龍さんは台場建設前の検分をした後の報告書で、重要なのは軍艦の
購入と製造、航海の習熟であり、そのためにはオランダへ留学生を派遣し、地球を
一周するくらいの技術を身につけることだと言ってるんです。
「たとえ台場を作ったとしても、申し上げたように軍艦を製造しないのでは誠に
窮屈な計画になり、とても十分な備えとは申し上げられません。」
どうスか、このセンス。勝海舟や坂本龍馬あたりより先を行ってるでしょ。
結局、農兵計画の実現を見ないまま安政2年(1855)1月に英龍さんは55歳で
この世を去ります。しかし、家督を継いだ息子の秀敏は引き続き農兵策を幕府に
建言し続け、その弟・英武の代の文久3年(1863)についに認められることと
なります。その話は、また次回。

江川太郎左衛門代官所江戸役宅跡
本所南割下水という場所で、近所には津軽藩上屋敷がありました。また、浮世絵師で
有名な葛飾北斎もこの近くで生まれています。
現在は公園となり、何も残っていませんが「江川太郎左衛門終焉の地」の案内版が
立ててあります。
せっかくなんで、もうちょっとお付き合いしていただくことにして。
英龍さんのその他の業績をいくつかご紹介のコーナー。
「剣術道場建ててあげたよ」
英龍さんは剣術のウデもなかなか凄くて、神道無念流・岡田十松の門人でした。実際
に稽古をつけたのは兄弟子の斎藤弥九郎でしたが、弥九郎が独立して道場「練兵館」
を作ったとき、その資金を出したのが英龍さんでした。「練兵館」は千葉周作の北辰一刀
流「玄武館」、桃井春蔵の鏡新明智流「士学館」とともに「江戸三大道場」と呼ばれました。
弥九郎はその後、英龍の相談役・補佐役として支え続けます。
「種痘を広げたよ」
ジェンナーが発明した天然痘予防法の種痘は嘉永2年(1849)に日本に入ってきました
が、英龍さんは翌3年に自分の子供2人に接種させ効果を確認すると、自分の支配する
領内へ普及させました。接種した医師の伊東玄朴は伊東俊斎とともに英龍さんの庇護を
受け、安政5年(1858)種痘所を設置させます。
「パンを焼いてみたよ」
パンは戦国時代に日本に伝わり、長崎出島でだけ作られていました。これを高島秋帆が
乾パンにすれば保存食になるよと教えたところ、英龍さんは本格的なパンの製作に乗り
出します。自分の家臣にパン製法を学ばせた他、韮山の江川邸ではパン釜の切石が
見つかっています。全国パン協議会は英龍さんに「パン祖」の称号を贈っています。
「掛け声を考えてみたよ」
西洋式軍隊の調練をするとき、一番困ったのが号令のかけ方だったようです。最初は
オランダ語をそのまま使っていましたが、これに抵抗感を感じるものもいたからです。
そこでオランダ語の掛け声を和訳し、さらに命令調の言い切り型にするなどの工夫を
加えて、日本式の号令を発明したのです。
「右向け、右」「気を付け、前へ習え」などはこのときできた掛け声。

芝新銭座大小砲習練場跡
幕府は生前の英龍さんの功に報いるため、江川家に浜御殿脇の海浜地帯8200坪
余りの土地を与え、ここに大小砲の練習場、役宅、与力・同心の長屋などを作りました。
家督を継いだ秀敏はここに「縄武館」を作り、門人の指導に当たりました。
現在のJR浜松町駅の近くです。

英龍さんは兵糧・備荒食料としてパンを勧めています。これは代官として天保の
飢饉などを経験したことからくる対策だったのだろうと思います。
ということで、英龍さんのパン製作は乾パン作りを中心に行われたのですが、
英龍さんの指示や製作者の報告の中に、砂糖や卵で味付けすることが述べられて
いるとのことなので、菓子パンの製作も行われたと思われます。
ところで、新選組の人たちはパンを食べたのでしょうか?
北海道まで行った土方さんや島田魁さんらは、箱館政府の中にフランス軍の派遣
指揮官がいましたから、彼らと一緒に食べたことでしょう。
てゆーか、時間があったら土方さんは自分でパン作りとかやっちゃいそうな気が
するんですよね。着物の修繕なんか得意だったっていうし、なんか「家庭科系」の
仕事に凝りそうな気がするんですが・・・いかがですか?
進行中ですね。
東北復興支援大河とはいうものの、この時代の中心はやっぱり京都。
徳川慶喜も西郷隆盛も桂小五郎も坂本龍馬も新選組も、幕末オールスター
はみんな京都に出張中です。
会津では綾瀬・八重ちゃんが尚之助さんと結婚しましたけど、多摩では
これまた大きな動きが起きようとしていました。
時代はやや遡りますが、文久3年(1863)幕府から江川太郎左衛門支配
の代官領で農兵の設置が認められたのです。
農兵とは「農民による洋式近代武装兵」のこと。
この農兵の出現は幕藩体制の大きな転換を表すとともに、その後の明治
時代における多摩地域に重要な影響をもたらすのです。
まー、それくらい歴史のキーポイントだとワタクシは思うのですが、これが
案外知られてないんス。
さて、今回はその農兵プランを打ち立てた張本人をご紹介したいと思います。
それがこのブログでも何度も出てきてる名前、そう、
江川太郎左衛門英龍さんなのです!
本によっては江川坦庵ていう名前で書いてあるものもあるかもしれませんが、
同一人物です。
この人が幕末期に「世直し江川大明神」とよばれた名代官なんですが、今回
は特に農兵に絞って話をススメましょう。
英龍さんは享和元年(1801)に伊豆韮山の代官・江川太郎左衛門英毅の
次男として生まれました。太郎左衛門てのは、江川家当主を表す名前です。
20歳のとき4歳年上の兄が病死したため家督を継ぎました。
代官として受け持った地域は、相模・武蔵・甲斐・伊豆・駿河に及ぶ、約8万
石。この武蔵国の中に東大和を含む多摩地域が含まれています。
代官というのは天領(幕府の直轄地)を支配しますが、通常は何年かの任期が
あって交代となります。ところが江川家の場合、中世豪族の生き残りで代々伊豆
を支配してきた一族なので「世襲代官」という特殊な旗本でした。
天保の頃(1930年代)になると、日本に外国船が頻繁にやってくるようになり
ます。英龍さんは伊豆韮山が本拠地ですから、自然と海防に感心が向くわけです。
外国の脅威から日本を守るためには、外国のことを知らなくてはならないという
ことで、英龍さんは勘定吟味役の川路聖謨さんに渡辺崋山を紹介してもらい、
共に西洋の勉強を始めます。
当時は西洋学=軍事学ですから。
英龍さんや川路さんは海岸線を含む天領を支配していたので(代官は勘定奉行の
支配下)、危機感は幕臣の中でも特に強かったのだと思います。
さらに英龍さんは砲術家の高島秋帆(たかしましゅうはん)に弟子入りして
高島流砲術を勉強します。
秋帆さんは長崎奉行所直轄の鉄砲方の家に生まれ、出島を経由して入ってくる
西洋の最新式の鉄砲や砲術の知識・技術を持っていました。
英龍さんは秋帆先生について、新式の銃や大砲について、その鋳造方、さらには
西洋式軍隊編成を学びます。
そんな英龍さんが日本の海岸線を守る策として提唱したのが「農兵」です。
先ず外国船がやってくるであろうと予測できる伊豆を任されながら、その防備策の
不十分さを痛感していた英龍さんは意を決し、天保10年(1839)5月「伊豆国
御備場之儀ニ付申上候書付」という建議書を幕府に提出します。
「平時は農民で、非常時に武器を与え、調練時には苗字帯刀を許す。
農兵は早急に役立つものではないが、日を重ねて訓練すれば、必ず国家の御役に
立つものである。定期的手当にはおよばないが、調練には経費を必要とする。
また、武器弾薬も幕府から貸与して訓練に出精させ、若干褒美を与え、上達した
者には1~2人扶持を下し、さらに緊急事態などで非常勤務につく場合には手当
を支給し、功ある者には褒賞をしてやれば、すすんで稽古をするようになる。」
とまぁ、これがその内容です。
とーぜんのことながら幕府は却下。当然というのは、農民に武器を持たせるという
のは「兵農分離」という幕府の根本政策にハナっから抵触するワケで、幕閣から
すれば「ありえないし」という提言なんです。
英龍さんを「こいつヤルじゃん」と評価して、引き上げていたのは、時の最大権力
者、老中の水野忠邦でした。
彼は「天保の改革」の失敗で「ダメ政治家」の烙印が押されてる印象が強い人で
すが、さに非ず。当時の海外情勢については、一番理解力のあった政治家なん
ですね。
江川英龍、川路聖謨、それと羽倉外記っていう房総地方を治めていた代官がいる
んですけど、彼らは「幕府三兄弟」と称されるほど西洋事情や西洋武器・技術の
習得に長けていました。その3人を抜擢していたのが水野忠邦だったんです。
水野さんは高島流西洋砲術などにも関心が高く、行く行くは幕府軍も西洋式の
近代軍制に移行させる肚積もりがあったでしょう。
英龍さんを幕府の鉄砲方にまで就かせているくらいですから。
ところが天保14年(1843)に上知令の失敗で水野さんが失脚すると、水野一派
と目された英龍さんは川路さんらと共に左遷されてしまいます。
英龍さんは鉄砲方を罷免され、代官職だけをやらされることに。
しかし、弘化元年(1844)~3年にかけて、フランス船やイギリス船が琉球に
来航。アメリカ東インド艦隊司令長官ビッドルが浦賀に来航。フランスインドシナ
艦隊司令官セシュが長崎に来航、と日に日に日本列島に外国船がやって来るよ
うになり、幕府の鎖国政策はだんだんと行き詰って行く事態に。
そんな中、マリナー号事件というのが起こります。
これはマリナーズのイチローがヤンキースにトレードされた事件なんですが、と
いうのは嘘なんですが、嘉永2年(1849)閏4月にイギリス船のマリナー号が
江戸湾にやってきて、勝手に測量をおっ始めたという事件です。
すぐに下田奉行が退去勧告するんですけど、艦長は「けっ、木端役人が!」と侮って
シカトを決め込むばかり。
急遽、英龍さんが交渉相手に任命されます。すると英龍さん、いつもは質素倹約に
務め木綿の着物しか着ないのに、この時は日本橋の越後屋で最高級のキンキラ
キンの野袴と陣羽織をあつらえ、手代たちにも新品の羽織を買い与えて交渉に臨み
ました。そして
「拙者が人民15万人を支配する政府の役人であーるッ!!」
と挨拶すると、艦長はその堂々とした態度とセレブな出で立ちに「やべっ、マジで
政府の高官が出てきちまったよ」と恐縮して、すぐに退去していったんです。
相手を読んだ、英龍さんのファインプレー。
これで英龍さんは再評価され、江川株価も急上昇。
翌嘉永3年(1850)6月に「豆州下田湊海防御備向存寄之趣申上候書付」を
幕府に提出します。
「下田警備の常備軍の設置、台場築造に加え、伊豆・駿河の天領から農兵を取り
立てて備えたい。農兵については十分な考えがあってのことなので、質問がある
なら別に答申書を提出したい。」
ここで英龍さんは、天領での農兵取り立てと台場の建設を提言しています。
幕府内部でも、英龍さんの意見に多少耳を傾ける雰囲気が出てきました。
水野忠邦が失脚した後に幕府トップの座についたのは阿部正弘でしたが、彼は
当初英龍さんや川路さんらを「水野一派」として疎んじていたんですね。
ところが、だんだんと「仕事はデキるやつらじゃん」と評価するようになり、川路
さんも勘定奉行へと取り立てらるようになったんです。
英龍さんの提言も一部では理解され、農兵の利便性も半ば認められるようには
なったんですが、
「農兵に取り立てられられたことに寄せて、何らかの弊害が生じないとも言えない。
このことを深く考えて、人物をよく選び抜いた上で日頃から十分に教育し、ついに
屯田兵として認められたならば、その時は終生の手当をもって採用しよう」
と、親友の川路さんですらこのように一揆や反乱を警戒し、兵農分離の大原則を
曲げることには大きな抵抗を感じていたようです。
農兵計画はなかなか実現しませんが、台場建設は実行に移されました。
しかしこれとて嘉永6年(1853)にペリーが来航してからですから、英龍さんと
しては遅きに失したと思っていたかもしれません。
それに当初、英龍さんは浦賀水道を守るラインで台場を建設するプランを立てて
いたのですが、完成まで何年もかかってしまうという理由で却下。品川沖のライン
まで引き下げられちゃったんですね。
もっとも英龍さんは台場建設前の検分をした後の報告書で、重要なのは軍艦の
購入と製造、航海の習熟であり、そのためにはオランダへ留学生を派遣し、地球を
一周するくらいの技術を身につけることだと言ってるんです。
「たとえ台場を作ったとしても、申し上げたように軍艦を製造しないのでは誠に
窮屈な計画になり、とても十分な備えとは申し上げられません。」
どうスか、このセンス。勝海舟や坂本龍馬あたりより先を行ってるでしょ。
結局、農兵計画の実現を見ないまま安政2年(1855)1月に英龍さんは55歳で
この世を去ります。しかし、家督を継いだ息子の秀敏は引き続き農兵策を幕府に
建言し続け、その弟・英武の代の文久3年(1863)についに認められることと
なります。その話は、また次回。

江川太郎左衛門代官所江戸役宅跡
本所南割下水という場所で、近所には津軽藩上屋敷がありました。また、浮世絵師で
有名な葛飾北斎もこの近くで生まれています。
現在は公園となり、何も残っていませんが「江川太郎左衛門終焉の地」の案内版が
立ててあります。
せっかくなんで、もうちょっとお付き合いしていただくことにして。
英龍さんのその他の業績をいくつかご紹介のコーナー。

英龍さんは剣術のウデもなかなか凄くて、神道無念流・岡田十松の門人でした。実際
に稽古をつけたのは兄弟子の斎藤弥九郎でしたが、弥九郎が独立して道場「練兵館」
を作ったとき、その資金を出したのが英龍さんでした。「練兵館」は千葉周作の北辰一刀
流「玄武館」、桃井春蔵の鏡新明智流「士学館」とともに「江戸三大道場」と呼ばれました。
弥九郎はその後、英龍の相談役・補佐役として支え続けます。

ジェンナーが発明した天然痘予防法の種痘は嘉永2年(1849)に日本に入ってきました
が、英龍さんは翌3年に自分の子供2人に接種させ効果を確認すると、自分の支配する
領内へ普及させました。接種した医師の伊東玄朴は伊東俊斎とともに英龍さんの庇護を
受け、安政5年(1858)種痘所を設置させます。

パンは戦国時代に日本に伝わり、長崎出島でだけ作られていました。これを高島秋帆が
乾パンにすれば保存食になるよと教えたところ、英龍さんは本格的なパンの製作に乗り
出します。自分の家臣にパン製法を学ばせた他、韮山の江川邸ではパン釜の切石が
見つかっています。全国パン協議会は英龍さんに「パン祖」の称号を贈っています。

西洋式軍隊の調練をするとき、一番困ったのが号令のかけ方だったようです。最初は
オランダ語をそのまま使っていましたが、これに抵抗感を感じるものもいたからです。
そこでオランダ語の掛け声を和訳し、さらに命令調の言い切り型にするなどの工夫を
加えて、日本式の号令を発明したのです。
「右向け、右」「気を付け、前へ習え」などはこのときできた掛け声。

芝新銭座大小砲習練場跡
幕府は生前の英龍さんの功に報いるため、江川家に浜御殿脇の海浜地帯8200坪
余りの土地を与え、ここに大小砲の練習場、役宅、与力・同心の長屋などを作りました。
家督を継いだ秀敏はここに「縄武館」を作り、門人の指導に当たりました。
現在のJR浜松町駅の近くです。

英龍さんは兵糧・備荒食料としてパンを勧めています。これは代官として天保の
飢饉などを経験したことからくる対策だったのだろうと思います。
ということで、英龍さんのパン製作は乾パン作りを中心に行われたのですが、
英龍さんの指示や製作者の報告の中に、砂糖や卵で味付けすることが述べられて
いるとのことなので、菓子パンの製作も行われたと思われます。
ところで、新選組の人たちはパンを食べたのでしょうか?
北海道まで行った土方さんや島田魁さんらは、箱館政府の中にフランス軍の派遣
指揮官がいましたから、彼らと一緒に食べたことでしょう。
てゆーか、時間があったら土方さんは自分でパン作りとかやっちゃいそうな気が
するんですよね。着物の修繕なんか得意だったっていうし、なんか「家庭科系」の
仕事に凝りそうな気がするんですが・・・いかがですか?

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