「農兵OKだけど・・・」幕府から代官への注意事項

文久3年(1863)11月に幕府は農兵取立ての許可を出しました。
しかし、支配地の代官には以下のように付け足すことも忘れてはいませんでした。
「里正日誌」には「別紙」として、次のような長い注意書きが添えられています。

「関東幕府領の取締りを決めて以来、関東を支配する者たちは残らずこのことを
申し合わせ、取締出役たちをそれぞれ両人づつ差し出し、これまで陣屋が無かった
場所には見立てて陣屋を建設し、在陣するようにすること。
もっとも馬喰町詰め、並びに地回り担当の者は江戸御用の仕事もあるので、手近の
場所に出張陣屋を建てて、折々罷り越しなさい。在陣のときでも御用の都合によって
は、出かけていくことは勝手次第である。
出役たちを指揮して取締りを第一に世話すべきこと。

ただし、陣屋を建設する場所については、各代官の支配所に便利だというだけに
拘らず、なるべく御府内の警備、且つ関東一円の取締りが可能な場所にやりくり
して建てること。
もっとも、1万石以下の領地は地元の者を差し向け、各最寄りの陣屋へ身分次第で
3、4人づつ地元の者が仰せ付けられる。万が一異変があったならば、互いに助け合う
よう仰せ渡されたはずなので、そのつもりで申し合わせの場所を決めたら早々に申し
聞かされること。そのほか、出役が増員されたときは前々の通り人選した上で達する
べきであるが、各々にて然るべき見込みのある者もあるであろうから遠慮なく申し聞か
されたい。

一、各々一同については関東取締の心得として、過分のことなく諸事申し合わせ、支配地
私領地をも面倒を見ることはもちろんのことであるが、最寄りの陣屋に応じておおよその
持場を決めておくこと。心がけることは持場に拘らず、相互に申し合わせて便宜をとる
よう取り計らい、出役たちには誰の手附手代に拘らず捕物・戦いに召し遣わし、出役たち
が廻村するときは各持場に拘らず御用第一にいたすべきこと。

一、取締出役たちへ自分たちより御用の筋を申すとき、又は出役より自分たちへ申立て
があるときは、直ちに申し立てたことはこれまでの通り心得るべし。、

一、百姓たちが武芸いたすことはご禁制であるが、この度より陣屋ごとに稽古場をつくり、
取締組合大小惣代そのほか村役人、または平百姓でも身元宜しい者、あるいはこれらの
倅などのうち、真面目な者で武芸を希望する者には農業に支障のない範囲で鎗・剣の
稽古を免じ、心底の見届けられぬ者や困窮身薄の者はこれまでの通り決して武芸をさせ
まじきこと。

一、稽古人のうち、天領百姓で身元宜しき者の厄介などで、陣屋に詰めていても農業の
妨げにならない者のうちより選んで、陣屋詰めの者を定め置き、平日日割りで詰めて、
そのほかの稽古人大小惣代村役人らは異変が起これば早速駆けつけること。かつ、銘々
が暮らす村に異変があったときも相互に助け合い、陣屋でも早速対応するよう、兼てから
鳴り物などで図るよう定めておくこと。もっともこのような時は、村中の壮年の者は残らず
出てくるように申し渡しておくこと。

ただし、陣屋へ普段から詰めている者たちは20人までは、わずかではあるが日数に応じ
てお手当をくだされるので、人数を取りまとめ次第申し聞かされたい。

一、御旗本や御家人の厄介などのうち、槍・剣が得意な者は両3人宛に各々へ附属仰せ
付けられ陣屋ごとへ差し遣わされる。これらの者は稽古の世話を致すが、他所の者を門人
にしたり、他所の者を留め置いたり、内々に供行きすることは厳しく制するようにいたす
べきこと。

一、鉄砲については、筒、玉薬など陣屋ごとに備え置き、農業の間を見計らって誰でも
稽古をすることは構わない。そのときには教授も差し遣わす。もっとも陣屋警備用として
準備されていない筒、玉薬を貯めておくのは、返って取締りに不都合だとも申しがたく、
このことは算段した上で追って申し聞かす。

一、隠し鉄砲については厳重に相改め、見逃すことのないようにいたされるべきこと。

右の通り、百姓たちが武術修行をいたす上は、万が一に限らず急用が生じることもある。
あるいは悪事を企てる輩がいれば耕作が放棄される土地もできてしまう。
各勤め方はいよいよ肝要になってくるので、年貢をはじめ村々に決められていることに
格別精を出すことを申し入れ付ける。
気が付いたことは遠慮なく申し聞かせよ。かつ取締出役たちはもちろんのこと、各々も
手軽に廻村し、このほど前書の通り仰せ出されたことも、つまるところ百姓たちの難儀
にならないようにとの意味があるのだということを申し諭す。
そのほか、村民の心得ることをも絶えず教え諭すように致されるべきことである。

   文久3亥年11月         」


長い文章にお付き合いくださり、ありがとうございます。
幕府が農兵取立を許可した際に、代官たちに改めて言い渡した書状と見受けられます。

前半では関東取締出役についての注意点が書かれており、地域防衛の柱は八州廻りで
あることが強調されています。
また、旗本や御家人の次三男で鎗や剣術が得意な者を教授方にしようとしていたり、調練
を武芸と表現したりしています。江川英龍が目指していた農兵は西洋式歩兵軍隊ですが、
幕閣はこの段階で武士団的なイメージを持っていたのかもしれません。

最後の2~3行の部分に、幕府にとって一番大事なことを約束させられています。
村民の心得ること=農業による年貢を納めること、これを教え諭すことが代官にとって重要
なことなのだ、というわけです。

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農兵の取立ての流れを追う!

農兵については、過去に当ブログでもご紹介しました。
ただ、そのときは農兵が設置された文久年間の「里正日誌」がまだ出版されて
おらず、東大和市史などを参考にブログ記事を書きました。
昨年、ようやく「里正日誌」の文久編が出版されましたので、重複する部分も
あるかと思いますが、再度農兵について触れてみたいと思います。

前回、安政6年(1859)に勘定奉行から江川英敏代官に「親父を見習って精進に
励めよ」という内容の申渡し書が出されていたことをご紹介しました。
この書状を、農兵でまとめている記事類の先頭に持ってきているのが注目されます。
農兵の準備を、すでにこの頃から打診されていた傍証と考えていいのではないかと
思えるからです。
蔵敷村がそうであったならば、田無村や日野宿など農兵に協力的だった地域でも
同様の動きがあったに違いありません。

次いで日誌には次の書状が記録されています。

「天領の村々で農兵をお取立することであるが、松平豊前守殿へ伺いましたところ、
土地人民たちが難渋せずご警衛の向きが行き届くよう、主法勘弁の上なお伺うべき
旨を仰せられた。銘々、支配所の土地情勢に応じた見込みを早々に取り調べ、申し
立てられるべきことである。
      文久3亥8月14日    」


幕府の直轄領において、農兵の設置を松平豊前守へ伺ったことが書かれています。
松平豊前守は老中です。
これに続いて書かれているのは、

「一紙をもって啓上いたします。
本日14日、松村忠四郎が御勘定所へ罷り出ましたところ、天領の村々で農兵をお取
立てすることにつき、別紙の通り奉行衆から仰せ渡されたことを、星野録三郎が申し
達しました。
先ごろから非常事態のときの支配地の防衛について、法律で取り決めた通りの計画
を申し上げるべきこととお達しがありました。
農兵をお取立てすることの可能性を仰せられたお方は、この度の可能性については
及ばないとのことです。これまた同人より申し達しました内容ですので、回覧として
写しました。お廻しいただきたく一紙早々順番に送って、最後の方よりご返却していた
だきたく存じます。以上。
                                 福田所左衛門

   亥8月14日
                江川太郎左衛門様
                伊奈半左衛門様
                三宅鑑蔵様
                山田源太郎様
                木村宗左衛門様      」


文久3年8月14日に、おそらく関東の代官たちが老中に農兵の設置のお伺いを出した
のでしょうね。支配地の民衆が困らないようによく調査せよ、と言われたようです。
しかし代官の一人、松村忠四郎が奉行所に出頭したところ、勘定奉行たちの総意として
「今までのルールでやりなさい」と星野録三郎から云われてしまった・・・ということで
しょうか。
星野は慶応2年の暮れに勘定奉行並に出世していますが、当時は勘定吟味役だったと
思われます。

松村さんから「こんな言われたッス」というのを、同じく代官の福田所左衛門が廻状にして
他の代官にも廻したようです。福田さんは松村さんと同席していたのかもしれません。

農兵といえばその立案者は江川英龍ですから、江川さんが奉行所に行けばよかったの
ではないかと思いますが、英龍の後を受けた英敏が前年に24歳の若さで亡くなっていて、
この時は英敏の弟・英武が10歳で代官です。とてもじゃないですが、奉行所で談判は
できないでしょう。

ところが、それからどういう急展開が幕閣の中であったのでしょうか。
次のような命令が下りました。

『「農兵取立ての下知 文久3亥10月6日、御殿海防掛吉田揚之助殿より達し」
   申渡し
                   御代官 江川太郎左衛門

農兵取立てについては、まずその方の支配所に限って計画の通り銃隊をつくるように
いたすべきこと。
もっとも、差あたって苗字帯刀については許可しないというご沙汰である。
右は有馬遠江守殿へ伺った上、申し渡す。

 右のことを仰せ渡されたので承知奉り恐れ入りました。早々に太郎左衛門に遣い
を出し申し上げます。以上。
    亥10月6日   江川太郎左衛門手附元締め 上村井善平 印  』


拒否られて2ヶ月後、江川代官の支配地に限って農兵設置の許可がおりました。
このお達しは江戸の代官屋敷に届き、そこから韮山の英武の元に伝わったようです。

幕府が英龍の農政政策になかなか承知しなかったのは、農民に武器を持たせるという
ことは「兵農分離」の原則を壊し一揆を誘発するのではないか?という疑念が幕閣
の間に根強くあったからだと云われています。
沙汰にも、銃隊を作るのは許可するけど苗字帯刀は許さないよとある通り、武士と
農民をハッキリと分けておきたい幕閣の思いがわかります。

しかし、江川英龍は自分の領地韮山にしても(金谷農兵)、支配地の多摩地域にしても、
千人同心のように武士と農民の垣根がそもそも低い地域では、そういった心配は杞憂
であることを確信していたのでしょう。

では、なぜ幕府はこの時期になってようやく農兵設置に許可を出したのでしょう?
●安政5年(1858)日米修好通商条約により、外国人の行動範囲が多摩川を越えない
 範囲までと決められた。
●文久元年(1861)玉造周辺や、東禅寺のイギリス人を殺傷した水戸浪士たちが立ち
 寄ったら捕縛するよう、天領に命令が下る。
●文久3年(1863)将軍家茂の上洛に合わせて、八王子千人同心もその警護につく。
ざっと見ただけでも、江川代官支配地治安維持の武装化は急務であり、そのためには
農兵に頼らざるをえなくなったと、幕府も考えたのかもしれません。

メガ58


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江川太郎左衛門英龍の遺志

「里正日誌」の文久3年(1863)の箇所は少し編集の仕方が変わっていて、ほぼ
全編が農兵に関する記録になっています。
時期も文久3年だけではなく、元治・慶応と続き、最後は明治8年(1875)の「鉄砲
請印帳」まで記載されています。

農兵政策は「幕府末期における天領の防衛策」と考えがちですが、明治の世になって
幕府もなくなり、あさちゃんが「びっくりぽんなカッパを作らなアカンのだす!」と言って
いるご時世になっても、農民の自衛政策が事実上生きていたということですね。
農兵の制度自体は御一新で廃止になったハズですが、警察・軍隊がまだ整っていない
時代の現れではないでしょうか。西南戦争が終わるまで「江戸時代」は終わってはいない、
という考え方があるのもわかるような気がいたします。
(※カッパ・・・カンパニーのことですがな by 近藤正臣)

さて、「里正日誌」文久3年の巻頭は次の言葉で始まります。

「文久当役日誌第三

文久3年癸亥8月、御代官江川太郎左衛門殿より支配所から一般農兵をお取立になる
ことを仰せ出された。引き続き組合村々で、農兵の編成、修練、そのほか鉄砲の御貸し
渡しなどに関し、慶応元乙丑年12月までの諸筆記、もっとも同年丙寅からはその年の
日誌中に記しておく。この件について別集するのは、この編に依るものである。
農兵の発端は先々代の太郎左衛門英龍君が常に幕府へ致されてことである。
先代の英敏君においても深く苦慮なされ、当代の太郎左衛門英武君に至り、その筋より
御下知となった。
安政6未年2月12日をもって、御鉄砲方附きの教授方が常々出精勤め、一層研究して
いる・・・云々の申し渡し書を巻頭に揚げ序言に代える。」


農兵政策は英龍が幕府に何度も建白し、3代に渡って訴え続け、英武の代になってようやく
採用された経緯が書かれています。
では、その「安政6年の・・・云々」とはどのような申し渡し書でしょう?

「                            江川太郎左衛門へ

御鉄砲方附きの教授方を始め、常々出精勤め、砲術に関することを追々一層研究している
ことである。
なおこの上は互いに隔てなく意見を話し合い、年の若い者どもが格別に奮発勉強して、いずれ
も熟練の域に達するように、精一杯世話をされるべきである。

もとより、自分だけの功をひけらかし、方々の能力を競うことは毛頭ないはず。
つまるところ国家の御為に心力を尽くすことであり、追っては銘々新しい発明品もあるべき処、
あれこれと内輪の意味合いなどを生じるようでは、自然と以前と同じ工夫も進まぬようになって
しまう。先代太郎左衛門の報国精忠の遺志を厚く守り、幾重にも精勤いたすべきである。
そもそも誰も文武の心がけを厚く、気概を厳然として、淀むことがないのは全て先代の太郎
左衛門が国家のために教育を丁寧に行った故のことで、本当に感激に堪えないことである。
そのような中、近来はいろいろな方面からの引き合いが広くなるに従い、自然にあれこれと
気向の心配をしているが、なんとなくやさしく流してしまおうということを止めるものがなく、
万が一にも惰性となるような、遊びや怠けが生じるのはもっての外のことである。
くれぐれも先代太郎左衛門の丹精を込めたことを忘れずに、砲術のことは申すまでもなく
平素から文武を怠けることなく心がけるように率いられるべきことである。
そのうちに、御用を見計らって銃術やその他の訓練を検分いたすべきことである。

もっとも、特別他人へ打太刀を頼みこむのは無益のことなので、銘々相互に打太刀をいたす
ようにして、部屋住みや厄介などの者でも希望する者は前書を差し出すことは苦しからず。
このことを申し渡しておく。

    安政6未2月12日

右 土岐下野守殿より佐々木道太郎殿へ御直渡  」


この書状は安政6年(1859)2月に勘定奉行(土岐下野守)から江川英敏に対して渡された
申渡書です。
安政2年に英龍が亡くなっていますが、その先代の遺志を守り西洋式銃砲をはじめとする
近代戦術の習得に励むように書かれています。
幕府の中で江川英龍の功績がいかに評価されていたかが、わかります。

冒頭書きましたように、ほぼ全てが農兵に関わることで占められている「里正日誌」文久3年
の項目の最初にこの申渡書をもってきて、「序言に代える」と杢左衛門さんは言っています。
多摩・狭山の江川支配地域の農民たちにとって、農兵政策は文久になって降りてきた命令
ではなく、すでに英龍生存中から計画されていた政策とみてよいのではないでしょうか。
少なくとも、杢左衛門さんのような名主クラスの指導者層には、その心構えはできていたと
考えてもよさそうです。

メガ57


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高札~江戸のルール~

以前当ブログで高札について取り上げました。
明治新政府になったので、新しい高札を立ててくださいと村がお願いをしたと
いう一件です。「新しい高札」クリック!)
この時には、新政府が立てた高札は幕府が立てた高札と中身が変わってない
じゃないか、ということをご紹介いたしました。
幕府は庶民が守るべきルールとして、正徳、享保、明和の三期に渡って4つの
高札を立てています。明治元年の「里正日誌」では、高札の具体的な記述が
書いてありませんでしたが、万延元年の「里正日誌」には高札の内容が詳しく
書かれてありましたので、それをご紹介したいと思います。
江戸時代の庶民が守らされてきたルールとは、いかなるモノだったのでしょう。

万延元年(1860)4月4日、蔵敷村では高札が古くなり文字が読みにくくなって
しまったため、役所へ持って行き書き替えを願い出ました。そして10日に高札
はリニューアルされて返ってきたようです。
その文面が日誌に残されています。
杢左衛門さんは几帳面なので助かります。写メじゃなくて、ちゃんと手書きなん
ですからね。
まずは正徳元年に出された2枚。

「きりしたん宗門は累年ご禁制である。自然と不審なる者があるときは申し出る
こと。ご褒美として
 ばてれんの訴人  銀500枚
 いるまんの訴人  銀300枚
 立ち返り者の訴人  同じ
 同宿ならびに宗門の訴人  銀100枚
右のとおり下される。たとえ同宿・宗門の内であるといっても、申し出る内容に
よっては銀500枚が下される。匿っている他所から見つかった場合については
そこの名主五人組まで一同共に罪を着せられることになる。」


これはキリシタン禁令に関するものですね。
「ばてれん」「いるまん」は司祭や宣教師のこと。キリシタンの者はどれくらいの
量刑を受けるよというよりも、密告した場合のご褒美の値段が詳しく書かれて
いるのが特徴です。
江戸時代の農村は、五人組などお互いがお互いを監視する体制が基本でした
が、それがよく生きている文面だと思います。

「一、火をつける者を知ったら早々に申し出ること。もし、隠しておけばその罪は
重い。たとえ同類であったといえども申し出たときはその罪を許され、きっと
ご褒美をくだされることである。

一、火をつける者を見つけたらこれを捕えて早々に申し出ること。見逃したり
しないこと。
 附 怪しい者がいれば探って早々に奉行所に召し連れてくること。

一、火事が起きたらみだりに集まってこないこと。
ただし、役人や指図をする者は特別である。

一、火事場へ下々の者がやってきて、理不尽に通ることはご法度であることを
申し聞かせ通すな。承知しない者は搦め捕えよ。万が一異議に及ぶ者がいたら
討ち捨てるべし。

一、火事場その他いずれの場所にても、金銀金めのものを拾ったら奉行所まで
持参すること。もし隠して他所から出てくることがあれば、その罪は重い。たとえ
同類であったとしても、申し出た者はその罪を許されご褒美をくだされる。

一、火事のとき、地車・大八車に荷物を積んではいけない。鎗・長刀・刀・脇差
などは抜き身にしないこと。

一、車長持は停止とする。たとえ誂えたものがあったとしても作るべからず。
一切売り買いしないこと。」


こちらは火災についてのものです。江戸時代は火事が多かったので、火災に関
する注意はこと細かく書かれています。
前半は放火についてですが、やはり密告を奨励しています。共犯だったとしても
申し出れば許された・・・というかご褒美までもらえるというのはホントでしょうか?
後半の火事場泥棒についても、同じことが書かれています。
注目するのは避難時についての注意。
地車は四輪、大八車は二輪の荷車ですが、火事のときはこれらで荷物を運ぶこと
を禁止しました。
三田村鳶魚の「江戸の白波」によれば、明暦の大火のときにこれらのものが往来
の妨害になったからだとしています。
車長持とは、同じく鳶魚によると大長持というデカい箱に車輪がついたモノのよう
です。これは地車や大八車よりもかさばるし、さらにこの車長持に火がついて火災
が広がったという前歴もあり、製作自体が禁止されました。

享保6年の高札を見てみましょう。

「各所にて、もし鉄砲を撃つ者がいれば申し出ること。ならびに、御留場内で鳥を
取るものを捕えるか見つけたならば、早々に申し出ること。きっとご褒美をくだされる
ものである。」


鉄砲と、禁猟地域についての規制です。
そして最後に明和7年の高札。
こちらは明治元年の日誌では詳しい中身が語られていませんでしたが、万延の日誌
で詳細がわかりました。

「何ごとによらずよろしくない事に、百姓が大勢申し合わせをして徒党を唱え、徒党
して請い願いごとを企てることを強訴という。あるいは申し合わせて村を立ち退くこと
を逃散と申す罪により御法度とする。右のことがあれば居村・他村に限らず早々に
その筋の役所へ申し出ること。ご褒美として
 徒党の訴人  銀100枚
 強訴の訴人  同じ
 逃散の訴人  同じ
右のとおり下される。その品格により帯刀苗字を許されている間、たとえ一旦同調
しても、発言者の名前を申し出ればその罪を許され、ご褒美を下されることである。

一、右のように訴人する者がなく、村々が騒ぎ立てたときに、村内の者を差し押さえ
徒党に加わらせず、一人も差し出さない村があれば、村役人で重職の者はご褒美
の銀を下され、帯刀苗字を許されている者でもそうであれば、それぞれご褒美を
下されることである。」


「新しい高札」のブログを書いたとき、明和の高札は強訴・逃散の禁止を書いたもの
ではないかとのコメントを読者の方からいただきましたが、その通りでした。
さらにココでも密告をした場合のご褒美価格を明示して、奨励しています。

こうした基本ルールが高札に書かれ、村民は守らされました。
と同時に、村の中で村民同志がお互いを監視しあうというシステムで幕府は村々を
支配していたんですね。

メガ18


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太政官札、使えってば

明治新政府が新しい国づくりとしてやらなければならないことは、いろいろ
あったのですが、真っ先に手をつけなければいけないことに「お金」の問題が
ありました。
戊辰戦争で莫大な経費が嵩んだ上、まだ藩が存続していましたから全国から
政府に税収があるというワケにはいかない・・・ということで政府の財政は逼迫して
いました。
さらに、旧幕時代から通貨不足を回避するために、幕府はその都度改鋳を行い
ましたが、貨幣の品質を落としていったため慢性的なインフレになっていました。
そこへ幕末期、大量の金が海外へ流出していったので、通貨不足はさらに加速
していたのです。
また、当時の国内には幕府が発行した金・銀・銭貨の他に、各藩内で通用する
藩札があるなど、貨幣事情も複雑でした。

そこで政府は通貨と経済をコントロールする政策に打って出ます。
会計方で福井藩士の由利公正の建言を入れ、太政官札という紙幣の発行
を行ったのです。
紙幣であれば材料に実際の金・銀を使う必要はありません。当時の欧米ではすでに
紙幣が使われており、また由利は藩札発行により福井藩の財政を立て直した実績
もありました。そこでGO!となったのでしょう。
慶応4年(1868)閏4月に布告され、5月に発行されました。
ちなみにこの時点で発行された太政官札(金札)は「10両・5両・1両・1分・1朱」
で、まだ旧幕時代の貨幣単位を使っていました。

「辰閏4月
一 金札を作られた上は、列藩は石高に応じ1万石ごとに1万両を拝借することを
  仰せつけられたので、その筋へ願いでるべきこと。
一 返納するときは必ずその金札を以て、毎年暮れにその金高より1割を差し出し、
  次の辰年まで13ヶ年をかけて上納を済ますこと。
一 列藩が拝借した金札は富国の基礎のために使われる趣意を奉り、これを以て
  産業を起こし国益を引き起こすようにするべきこと。その藩ごとの役場において
  みだりに使い込むことは決してならぬこと。
一 京都、摂津及び近江で商売をするため借金を願いたい者は、金札役所へ願い
  出るべし。金高は取り扱う産物高に応じて貸渡しになる。
一 諸国府県を始め、諸侯の領地内での農業・産業のために借金を申し出るときは、
  その身元が厚いか薄いかを見た上で、金高を貨し渡し産業が成り立つように
  遣わすこと。もっとも返納は年々相当する元利を支払うこと。
  但し、遠く離れた村や片田舎といえども金札は京や摂津の商売の様子を見て
  取り計らうようにいたすべし。
一 拝借高のうち上納の札は会計官において決めること。
  但し、正月より7月までに拝借の分はその暮れに1割の上納、7月より12月まで
  の拝借分は5分割上納いたすべきこと。」


当初は京都や大坂などの関西地区で使われたようです。
ところが、世の中そううまくは行かないモノですわな。
紙幣は国に信用がバッチリあるからこそ通用するものです。ところが現状はまだ
戊辰戦争の最中。まだ二転三転する可能性だってゼロではなかったわけで、各藩も
自分の所の兵力を「国の軍」ではなく、「藩の軍」として持っていた状況です。
つまり、明治新政府にまだ信用がなかったのです。
額面100両の太政官札を正金に換えようとしても、40両にしかならないというような
状態でした。
加えて庶民には紙幣というものがイマイチわからない。馴染みがない。
政府が思い描いたようには流通してくれないワケです。

その状況を打開するため、政府は次のような廻状を村々に出しました。

「皇国一円に金札が通用するようにと仰せられた上は、当辰年(明治元年)の租税の
金納分と諸々の上納品は東京では金札で納めるべきこと。
右のとおりに御布告があったので、その意を得てこの廻状を刻付けをもって順に送り、
最後の村より返却すべきこと。
   辰12月15日  東京韮山県   」


租税は太政官札で払いなさいって言うんですね。
こうなりゃ、否が応でも使わなければなりません。
さらに同じく12月、杢左衛門さんたち韮山県下多摩地域の村々の6ヶ村の名主たちに、
以下のことが言い渡されました。

「(韮山県役所の)高木鏈平殿から申し渡されたことは、皇国一円富国の基礎として
お考えなされ、金札御製造となったことについて、その方たちへ金札の使用を命令され、
金札の貸し付けをすることになったので、請書を差し出すよう仰せ渡された。それぞれ
の数は左の通り。
一 1朱札 4000枚 250両
一 1分札 7200枚 1800両
一 1両札 200枚  200両
一 5両札 50枚  250両
一 10両札 40枚  400両
 金札合計2900両  」


政府から韮山県を通して、多摩の豪農クラスの民間人に2900両の太政官札を貸し
付けるから、なんか有効利用せぇ!というんですねぇ。
で、各々どのように分配されたかといいますと・・・。

「一 金札500両  砂川村(立川市)名主  村野源五右衛門
 一 金札500両  福生村(福生市)名主  田村重兵衛
 一 金札550両  新町村(青梅市)名主  吉野文右衛門
 一 金札550両  友田村(青梅市)名主  細谷五郎右衛門
 一 金札300両  田無村(田無市)名主  下田半兵衛
 一 金札500両  蔵敷村(東大和市)名主  内野杢左衛門  」


使えって渡されましたけど、未だ価値の不安定な太政官札。
どうします、杢左衛門さん?

メガ8
うそ、うそ。

先日の6月29日の午後・・・もう夕方に近い時間でしたが、多摩地区はものスゴイ
豪雨に見舞われたのですが、皆さまのお近くはいかがでしたか?
なんかね、東大和市では1時間の雨量が40mmもあったそうですよ。
ワタクシちょうど車に乗って帰ってきたところだったんですが、駐車場から出ること
ができず、30分ほどボーッと車中から滝のような雨を見ておりました。

なにせ道路が川みたいでね。ちょっと坂になってるのか、ヘンなものが流れてくる
んですよ、上流方面から。
道路から敷地に車が乗り上げるときに、段差を解消するブロックみたいのがある
じゃないですか。アレって最近はコンクリじゃなくて樹脂みたいな軽い材質ででき
てるでしょ。
それのコーナー部分の三角形をしたのが、雨水に押し流されて流れてんの。
小さいからプカプカ状態なのね。
雨がやんで水は引いたんですが、三角の乗り上げブロックは我が家の前の道路に
置き去りのまま。
で、二日が経って。
・・・まだ家の前にあります。ジャマだから端っこに置いてあるけど。
保護者の方、早く引き取りに来てくりょうッ!


「このボタンは人間の脳ミソをトコロテンにする機械だよ、和登サン」


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