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幕末、銭勘定!もうかりまっかッ!?

いよいよ夏休みですが、海外に行かれる方も多いのではないかと思います。
海外旅行でイマイチ面倒なのが、お金の計算ですよね。
円からその国の通貨に替えなければならないでしょ。滞在先が1ヶ国なら
それほどでもないですが、2~3ヶ国を回るなら、イチイチ両替しなきゃならな
くって面倒ですよねぇ。
ヨーロッパならだいたいユーロになったんで便利なようですけど、ワタクシは
以前、ベトナム・カンボジア・タイ辺りを回ったコトがありまして、めっちゃ面倒
くさかったです。
まぁ、米ドル持ってればオールマイティーに使えるんですけどね。

江戸時代のお金は、金貨・銀貨・銭貨と3種類ありまして、それぞれが独立
した形態をもっていました。このあたりの事情は歴史の授業でも習ったかと
思います。
つまり、日本国内の中で3種の通貨が使われてたってことですね。
今風で喩えるなら給料は円で貰って、昼食の吉牛はドルで払い、夜の合コン
はユーロでね、というカンジでしょうか?

なので、江戸時代の人たちはお金に関する計算が、現代人より格段に優れて
いたように思います。
「里正日誌」でもご紹介しましたが、御褒美にいただいた「銀貨」をその時の
レートで村人に「銭貨」で分け与えるなど、とても複雑な業務を平然とこなして
います。
江戸時代人を現代に連れてきたら、みな優秀な銀行員になれますよね。

さて、今回はその複雑な江戸時代のお金が、この幕末期さらに複雑になって
いった、というお話です。

慶応元年(1865)閏5月25日、支配所より次の回状が廻ってきました。

「近来諸国とも銭が底を尽き差支えがある。このことは銅の値段が高値になり、
銅銭への釣合いがとれなくなったからだと聞く。
真鍮銭、文久銭、銅小銭とも、それぞれそのままの相場に任せ、1枚につき
相応の歩合を増して通用させること。百文銭、鉄銭はこれまで通りなので、
何れも差支えなく通用致すべきこと。このことは世の中を滞りなく通すという
考えがあってのことなので、その旨を心得ること。
万が一にも両替商が利徳のために不正の取り計らいをしたならば、罰せられる
べきことである。
但し、銅小銭の内、耳白銭は引き替えさせるので、両替商たちの方へ差し出す
べし。代りの銭は相当の相場を以て渡されるので、貯め込まずに差し出すよう
申し付ける。」


寛永通宝っていう、銭形警部平次親分が投げる、あの小銭。
あれは江戸時代を通じて作られた銭貨なんですけど、実は年代によってマイナー
チェンジされてるんです。
一般に寛永通宝って銅でできてるんだろうなぁ、と思いがちですが、銅の供給
不足などの理由で元文4年(1738)頃から鉄一文銭という鉄銭を使うようになり
ました。
でも、これがあまりに評判悪いんで明和5年(1768)に、銅と亜鉛の合金ででき
真鍮銭を作ります。この硬貨は裏に波の模様が描かれてるので、波銭なんて
言われてます。
ところが幕末期になるとまたもや銅の値が上がったんで、銅の量を少なくした銭貨を
作ります。これが文久銭です。

つまり、同じ寛永通宝でも(文久銭は文久永宝ですが)作られた時代によって材質
が変わるため全く価値が異なっちゃってるんですね。
平成元年に作られた10円玉と平成25年に作られた10円玉とでは、価値が違うと
いうようなもんです。

さぁ、ご紹介した回状は、そういった銭貨事情が銅の高騰などでまたまた変わってきた
ため、新しく銭貨の中でレートを決め直すよ、っていう内容なんです。
そして、6月7日。支配所から以下の回状が廻ってきました。

「この度、真鍮銭・文久銭それぞれそのままの相場に任せ、1枚につき相応の歩合を
増すことで通用させることを発表された。 
真鍮銭1枚につき   12文
文久銭同じく      8文
銅小銭同じく      4文
 但し、銅小銭のうち、耳白銭は1枚で銭6文に相当することとして、引換えること。
右の通りに歩合を増して通用すること、両替商たちより町奉行へ申し立て取り決めた
ことなので、右の趣旨を以て通用にて支配所へ早く達するべきこと。」


基準となるのは鉄銭なのでしょう。真鍮銭1枚は鉄銭12枚(12文)の価値があるよ、と
こういうワケですね。
耳白銭というのは正徳年間(1711~15)に作られた、質の高い寛永通宝です。
つまり銅貨の中でもさらにランクの上下があったことがわかります。
銭貨の中でもこれだけの「1枚の価値の違い」があったということで、この回状が
廻る前には相当の混乱もあったことでしょう。
御褒美の分配金で理解し辛い表記があったことも、このことが原因なのではない
でしょうか。

とにかく、江戸時代の人々はこのような複雑な貨幣を自在に扱っていたのですから、
相当の財テクにも長けていたのではないか、という想像もできますよね。
金・銀・銅の相場を読んで一儲け、なんてことはあったでしょう。
そうすると、献金にあれだけの金額を納められるという村の財力は、こんな所にその
ヒントがあるのかもしれません。

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幕末志士の中で一番人気といえばこの人、坂本龍馬さんでしょう。
しかし、かなりの龍馬ファンが「実像」よりも「小説」の中の龍馬が
好きなのではないかと思うのですが、いかがでしょう?
まぁ、そんなコト言ったら土方歳三さんだって、その通りかもしれま
せんけどね。
龍馬さんは「志士」というよりも「経営者」の視点で行動し、未来を
見ていたとワタクシは思います。そこが当時の佐幕や薩長の志士たち
との違いであるし、新鮮味もあるのでしょうね。



「波動砲、発射ッ!」
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将軍、上洛!

江川代官の支配地で農兵訓練が始まりつつあったその頃、歴史も大きな
曲がり角を迎えようとしていました。
第二次長州征伐です。
度重なる敗戦により、長州藩では上層部が幕府恭順に傾いていました。
池田屋事件や蛤御門の変などで、久坂玄瑞や吉田稔麿といった改革派の
リーダーも失っています。
ところが、ここで出てきたのが一人の奇人・高杉晋作です。
彼は一般庶民からなる軍隊「奇兵隊」を作り、これを使ってクーデターを起こし
桂小五郎らと共に藩の方針を反幕府に転換させました。
そこで幕府も再度、長州藩を討つべしと、まぁこーなったワケです。

長州藩再征伐の命令が幕府から出されたのは慶応元年4月のこと。
第一次征伐のときに、総督の徳川慶勝が参謀西郷隆盛の意見を入れて、
長州へぬる~い処罰しか与えなかったことに、幕府内ではずーっと不満が
ありました。
で、今度こそ長州をギッタンギッタンにしなくちゃイカン!ってんで、将軍自ら
出陣して総大将になっていただきたい、というリクエストが多く集まったんです。
新選組の近藤勇も、家茂の出陣を熱心に訴えていた一人です。
周りの期待に応えたいという気持ちが、誰よりも、ミスター長嶋さんよりも
強い家茂さん。将軍の長州征伐出陣が決定します。

将軍家茂さんが江戸を出発したのが慶応元年5月16日。
さぁ、このことがまたしても代官支配地に影響を与えることとなります。
5月24日、蔵敷村名主の杢左衛門さんは、田無村に滞在していた江川代官所
の手代・根本慎蔵さんから呼び出されました。
杢左衛門さんは翌25日早朝、早速田無村に出かけます。

「将軍様が長州へご進発されたことについて、幕府領一帯に献金のご沙汰が
あった。組合村々へ内論書の内容をじっくりと説き、速やかに献金する身分相応
の者は進んで請印し、名前と人数を書いて願い出るよう、相談し取り計らうよう
仰せ付けられた。野口村名主勘左衛門もお呼び出しくだされ、彼にも一応お話し
して頂きたい旨を申し上げたところ、即刻手紙を差し出し、同日夕方に出頭した
勘左衛門もお請け申上げた。いろいろと相談の上、委細を申し上げ、26日午後
出立し帰宅した。」


キターーーーーーーーッッ!!
世界陸上ッ!もとい、献金です。
将軍が自ら率いて行く正規軍の行軍費用を、民間からの献金に頼ろうってんです
から、勘弁してよと言いたくなります。ほぼ強制でしょ、コレ。
もう、幕府の金庫は底をついていたってコトですかね。
この献金要請は、全国の寺社、豪農商に出されたようです。

「 覚
この程長州ご征伐のことについては、禁裏に向かって発砲した容易ならざる事件
につき、将軍がご進発されたのである。ところで、近年幕府の財政は不用意の
出費がかさんでいる。これまで江戸城の火災、海防費用などにつき、国から受けた
ご恩をわきまえて天領の村々の者たちから上納金を納めてもらったが、将軍がご進
発されたこの度の事については、天下万民挙げて力を尽くさなければならないのは
もちろんの事である。昔より京都のご恩を受けない者はなく、ことに200有余年平和
に浴してきたのは代々の将軍様のご恩によるものである。そこで、何れの者も冥加
金を、その身分に応じてわきまえて早々に納めるべきことを、支配所村々の者たちへ
厚く申し聞かせ、趣意を貫き、話が進むように取り計らうこと。
右の通り、その筋より代官所へ言い渡され、ついては麦作検分を兼て、代官自身
が村を廻ったときにお話しされるとの伝達もあった。
すでに伊豆・駿河の支配地では代官が村を廻られるところ、場所が広大なので武蔵
・相模の宿村は自分に村を廻るよう仰せつけられた。大小の百姓銘々がその身の程
に応じて払うべき献金額を進んで出すように、その方たちより申し諭し早々に金額と
名前を取り調べ、申し立てること。

右のように根本様から仰せ渡されたことを一同承知いたしました。よって、請印を差し
上げます。」


では、蔵敷村組合ではどれほどの献金をしたのでしょうか?
「御支配所村々献金員数書上帳」には次のように記されています。
「  1両 清水新田     15両 後ヶ谷村
  21両 日比田村     21両 奈良橋村
   8両 宅部村      21両 高木村
 116両 南秋津村     16両 野塩村
  17両 廻り田村      2両 廻り田新田
  63両 粂川村      45両 野口村
  21両 蔵敷村
 都合金367両也。」


この金額は献金予定額であり、実際に集まったお金はやや少ない354両だった
ようですが、それにしてもよく集めました。
特に南秋津、粂川、野口など、東村山市域の村が多くの献金をしています。
南秋津村は太右衛門って人が一人で100両も献金してるんで、こんな多額になって
ますが、彼は農兵を作る際にも個人で100両を献金した人です。いや~、ある所には
ありますな~。

長くなるので詳しくは書けませんが「里正日誌」にはこの時の江川代官領全体の献金
額が書かれています。その金額は4847両だったそうです。
蔵敷村組合以外では、東大和市域では芋窪村が唯一入った拝島村組合は827両の
献金。近くでは青梅村組合が400両、日野宿組合が624両、八王子組合が1696両
の献金をしています。
幕末期の代官支配地の村々って、けっこうお金あったんですね~。
お上が彼らの懐(ふところ)をアテにしたい気持ちもわかります。

さて、5月16日に江戸城を出発した家茂将軍は、ややゆっくりめのペースで東海道を
西に進みます。
そして24日、駿州の吉原宿で江川農兵の調練を視察していきます。
多摩地域には直接関係ないんですが、あまり知られてない話ですし、「里正日誌」に
記録されているのでご紹介します。

「(略)この度長州をご征伐のため、公方様は当丑5月16日江戸城を立たれご進発
遊ばされた。5月24日駿州吉原宿へ、お代官・江川太郎左衛門様御警衛として、
駿河・伊豆の農兵400人をお連れ立ちになってその筋へお申立てなされたところ、
将軍がその話を聞かれ、農兵の調練を明日ご上覧遊ばされると仰せられたので、その
用意を致し、24日雨中に富士川の河原において農兵調練をご上覧遊ばされたところ、
将軍の御意に叶い、お代官江川様に直接、心を込めた上意があった。御紋付、御提物
、引胞のお品2品を拝領仰せ付けられた。農兵の中にも苗字、あるいは帯刀御免になる
者もいた。当お代官様は御年が13歳である。お家柄とは申しながら英才のお代官で、
恐悦至極有難いことである。」


将軍がとても喜んで、江川英武代官に御褒美をされたほか、農兵の中からも武士の
待遇を許された者があったことが書かれています。これは、実際の訓練上達度もある
でしょうが、献金が多かった者だったんじゃないかなぁと思います。いかかでしょうか。

ま、こんなワケで支配地の献金に頼った将軍の長州ご征伐。
こーして考えると・・・
糸井重里サン、やっぱり赤城山中に徳川埋蔵金なんて残ってないワ・・・。

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家茂将軍が長州征伐に向かったその頃、一人の土佐藩士が獄門の露と消えました。
京都市中で「人斬り」と恐れられた岡田以蔵です。
武市半平太の土佐勤王党に加わるものの貧困層の出身だったために学がなく、暗殺
専門の仕事しか与えられず、獄に入ってからは口封じに毒まんじゅうを食わされそうに
なったのでそれを恨み自白した・・・ていうのが一般的な以蔵さん観ですね。
でも、これらはみな小説に書かれたフィクションで、実際の以蔵さんは一般的な郷士層
の出身で教養もそれなりにあったそうですし、暗殺も仲間との協議の上で実行していた
ようです。また、代名詞の「人斬り」と呼ばれたこともありませんでした。
しかし、彼の自白により土佐勤王党が壊滅したのは事実であり、地元でも慰霊祭が行わ
れることはなかったそうなんです。が、大河ドラマ「竜馬伝」でイケメン・佐藤健クンが以蔵
を演じてイメージアップ!人気上昇で慰霊祭も行われたそうです。
歴史上の人物も、イケメンに演じてもらうもんですな~。
昔ね、「新春スターかくし芸大会」でジュリー(沢田研二さま)が龍馬を演じた「竜馬がくる」
ってミニドラマを放送したことがありましたんですよ。
その作中で岡田以蔵を演じていたのは内田裕也でした。シェゲナ・ベイベー。
なので、ワタクシの中で岡田以蔵ってゆーと、ロッキンロール裕也なんですナ。

あ、ジュリーは「幕末青春グラフィティ 坂本龍馬」では佐々木只三郎役で、武田鉄也の
龍馬を斬る方も演じてますね。ダ~リ~~ィン~♪


ポチっとな

天狗党と水戸藩の悲劇

二月ももう終わりに近づいてきましたね。この時期、日本史で有名な
事件といえば、昭和11年(1936)に起きた二・二六事件でしょう。
前回の記事に書きました「天狗党の挙兵」。これは水戸藩の中で起きた
「幕末の二・二六事件」と言えるかも知れません。

前回ご紹介した、元治元年(1864)5月の関東取締出役からの廻状に
続き、8月にも同役所から廻状が東大和市域の村々に廻ってきました。

「子(元治元年)8月25日関東取締出役様よりの廻状の写し
筑波山に集まった賊徒どもは、ことごとく討ち取られたと然るべき筋から
知らせてきた。村々においてもその事を心得て、賊徒どもが金銭の押し
借りなどに来たときはもちろんのこと、潜伏や徘徊などしていたときは
竹槍やその他の武器を使って躊躇なく打ち殺すようにすること。
ついては、村ごとに小百姓の末々まで相互に話し合い、仲間をよく調べ
て賊徒どもに同意したり内通などしている者があれば、たとえ親族の
間柄であっても少しも容赦することなく取り押さえ、最寄の取締出役が
廻っている村へ早々に申し出ること。もし、見逃したことが発覚するよう
なことがあれば厳重に追及するとのことである。この度の賊徒どもの追討
のご趣意をありがたく心得て、組合ごとに申し合わせて行き届くようにし
て、大小惣代ならびに寄場役人たちは一所懸命に力を尽くすように世話を
すること。」


書状の冒頭に「賊徒どもは、ことごとく討ち取られた」とあります。
まさにその通り。天狗党は悲劇の末路を迎えるのです。
前回はサラッと流しちゃいましたけど、このように東大和に資料も残って
いることですし、水戸藩と天狗党についてちょっと触れてみましょう。

そもそもの発端は東野英治郎・・・もとい光圀公が始めた「大日本史」の
編纂事業です。これは水戸藩のライフワークとして江戸時代を通して校訂が
重ねられたんですけど、やっぱりって言うか、まぁ有りがちだよねって言うか、
内容を巡って二派に分かれ対立してしまうんです。
これが幕末の藩主選びにまで発展。幕政を改革しようとする一派に推された
徳川斉昭が第9代の藩主になります。
とーぜんのことながら、斉昭は自分を推してくれた改革派を登用し、それまで
の重臣である保守派を退けました。このとき保守派が悔し紛れに改革派の
ことを「天狗」と呼んだのでありますね。

斉昭さんは当然攘夷派ですから、幕府が勅許も得ずにアメリカと条約を結ん
のが許せないんですが、大老の井伊直弼に疎まれて蟄居させられちゃう。
さらに戊午の密勅事件というのが起こり、水戸藩は大パニックに巻き込まれて
しまいます。
ふつう、天皇からの勅書は関白を通して出されるのですが、この時は関白を
通さずに水戸藩に出されたので「密勅」といいます。(戊午は安政5年のこと)
密勅の内容は「朝廷の許可を受けず通商条約に調印した幕府は許せまへん
から糾弾し、他大名と連携して攘夷を実行しなはれや」というもの。
幕府(てゆーか直弼)は激怒して「そんなモン突っ返せ!じゃねェと、いくら御三
家といっても取り潰すからなッ」と竹内力バリに水戸藩に詰め寄ります。
水戸藩では勅書を「返す」という保守派と、「返さない」という改革派=天狗党
でさらに藩内の対立を深めることになったんです。
この改革派の藩士がマジメにも各地に飛び攘夷を呼びかけますが、幕府の手
でことごとく逮捕され処刑されてしまいます。安政の大獄ですね。
さらにこの反動が桜田門外の変を呼びます。

桜田門外の変から少しして斉昭さんも亡くなります。水戸藩内では保守派が
実権を奪い返してきます。起死回生を目指した改革派がとった行動=それが
「天狗党の挙兵」だったんです。
お話したように水戸藩の複雑な事情が絡んで、内戦は長期化。幕府軍も出動
して沈静化に努める事態。
ご紹介した書状を読むと、天狗党は攘夷を全面に押し出して騒乱でも起こそう
かというような印象を受けませんか?
しかし、この時、天狗党には「騒ぎを大きくして幕府の基盤を揺るがしてやろう」
なんて気持ちはさらさらなかったようなんです。
挙兵という手段に訴えれば、幕府も攘夷に本腰を入れてくれるだろうという、
言っちゃーなんだけど、かなり青い考えでヤラかしちゃったんですね。
ある意味ピュア。
このあたりが「二・二六事件」とよく似てるな、と思うのです。

ピュアな人の考えは、時に常人の思いもよらぬ境地に至ることがありまして。
「こうなったら京都にいる一橋慶喜に会って、我々の訴えを聞いてもらおう」
と京都に進軍する決定をします。で、使者を送るというのならわかるんですが
「全員で行くべし」となるんですね。全員ピュア。
800人ですよ。これが追討軍を避けながら山中を行軍してゆくんです。
どんな道を行ったかというと、日航ジャンボ機が墜落した御巣鷹山ってあるで
しょ。あの近くを通ってるんです。先祖伝来の鎧兜に馬を連れて、大砲まで
引っ張っていったっていうんだから、苦行以外のなにものでもありません。

ところが慶喜曰く「許さん!」
幕府の屋台骨を支える立場となっていた彼は、たとえ自らが出身の藩の藩士
でも「騒乱を起こした賊徒」以外の見方を変えなかったのですね。
加賀藩に捕えられた天狗党の、首謀者の武田耕雲斎、藤田小四郎以下400
人以上の者を処刑したんです。

「賊徒どもは、ことごとく討ち取られた」顚末です。
関東取締出役が多摩地域に出した書状は、この「天狗党挙兵」を一例にあげて
「不穏な行動は一切許さんよ!」という幕府の姿勢を示したものなんですね。

水戸藩は尊王攘夷という考えの発祥の地であり、有能な人材も抱えていたんで
すが、藩内の対立とこの天狗党の一件で「そして誰もいなくなった」状態に
なっちゃったんですね。
明治新政府の要職に水戸藩の人は一人もいません。

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京雀たちは新選組=壬生浪士組を「壬生浪(みぶろ)」とか、着ている着物が
汚いことから「みぼろ」などと呼んだといいます。しかし、「壬生狼」とオオカミ
にたとえたという話はなく、「壬生狼」は後世の創作だと思われます。
でも、あえてネタにしてみました。
前回から今回までの間の2/22は「猫の日」。2/23は当ブログのマスコット、
テンちゃんの誕生日。
ってことで、こんな四コマ。

030 a

マジですよ、テンちゃん。


第一次長州征伐

前回の「日野市立新選組のふるさと歴史館」レポートが意外に好評だったので
驚いています。皆さん、ああいうのお好き?
以前も流山をやりましたけど、これからも時々あぁいうレポートものをやって
いきましょうね。

さて、前々回の続き。
蛤御門の変でボッコボコにヤラれた長州藩。
こうなると、「まだまだ、これでもかッ」ってくらいに長州に逆風が吹きまくります。
小林幸子か坂東英二に対するマスコミかっつーくらいの逆風です。
長州派のいなくなった朝廷では「御所に向かって鉄砲を撃つなんて、大罪にも
ほどがありますワ!家茂はん、やんなはれ!やんなはれ!」
と、幕府に対して長州征伐の勅命を下しました。

「毛利大善父子へのご征伐をお始めなされ、ご出発されたことにつき、通行途
中にあたる東海道美濃より大坂・播州・備前・芸州辺りの諸大名へ、それぞれ
の城を征伐軍の宿泊所に使わせるよう仰せつけられた。
しかし、御取締りの向きは格別にあるわけではなく、むやみに取り繕うことは
しないこと。道路や橋なども通行に支障があるような箇所があれば、簡単に
補修してあればよい。

一、松明(たいまつ)、草履、篝木、ムシロ、縄、竹木、俵、桶、樽の類、並びに
柄杓、鋤(すき)、鍬(くわ)、ノコギリ、カナヅチなどの品々について、各宿場
はもちろん、最寄の村々へかねて用意させておくこと。
   八月
  
毛利大善父子反逆につき、近隣の諸藩へ追討を仰せられたことについてで
あるが、武器や米穀をはじめ、諸国より長門・周防の両国への物資の輸入は
禁止する。万が一、海路陸路を使い長州へ物資を運んだ者がいれば、近隣の
国において必ず差し止めること。もっともその時の判断によっては討ち取って
しまってもかまわない。その事をよく心得て、右に記した物資を差し止めた時は
各領主が取り上げておくことを申し聞くように仰せつけられた。道中の宿場、村々
へも申し渡した。もっとも無益の失費は無いようによく考え、宿場、村に用意
した品々も程々に申し付け、道路なども万が一危険な場所がある場合は早々に
申し聞くこと。
   八月」


以上は「里正日誌」に記録されている廻状の写しです。
まぁ、直接東大和市域に関係はないんですが、少なくとも名主クラスの人たちには
急激な時代の流れを伝える情報が、逐一入っていたことがわかります。

長州征伐軍は36藩15万人の兵力で長州に進軍したといいます。
総督には尾張藩主の徳川慶勝(会津藩主・松平容保の兄)、参謀には薩摩藩の
西郷隆盛が任命されました。
ココで注目なのは、幕府・会津・薩摩は同盟軍であり、バックには朝廷がついてい
るってことです。で、対する長州が朝敵・賊軍なんですね。

長州は急進派の人たちが勢いを失い、保守派の勢力が実験を握るようになり幕府
に恭順します。
多摩地域は幕府の直轄領が多い地域でしたから、この時点での政情については
まだ安心していたんじゃないでしょうか。

しかし、東大和市域にまたイロイロと難問が降りかかってくるのは、これからなん
ですよ!奥さん!

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新選組の巨魁隊長と云われた芹沢鴨が、粛清(暗殺)されたのは文久3年
(1863)9月18日(あるいは16日)の深夜でした。
芹沢は乱暴狼藉が絶えず、周囲に迷惑をかけることが多かったのは事実です
が、元水戸藩の尊王攘夷派としてのカリスマ性に、隊内での人望は厚かった
ようです。
漫画にもあるように、生糸問屋の大和屋を焼き討ちしたことが会津藩の怒り
に触れ、近藤らに芹沢捕縛の命令が出たといいます。
しかし、大和屋は生糸を買い占め価格を吊り上げ、外国との商売で大儲けして
いたので世間の評判も悪く、焼き討ちには町人らも参加していたようです。
新選組の隊士もかなりの人数がこの焼き討ちに参加していたようで、芹沢の
影響力の強さが覗えます。
会津が出した捕縛の命令が、粛清に変わったのは、隊の実権を完全に
掌握したいという天然理心流グループの思惑があったからだと思われます。


蛤御門の変、起きる

文久3年(1863)に将軍・家茂さんが上洛をします。
そのときにボディーガードとして雇われた荒くれ浪人集団の中から
生まれたのが新選組です。
彼らが来るのを待っていたかのように、歴史の表舞台は関東から
京都へと変わっていったんですね。

「てぇへんだ、てぇへんだッ!!」
「どうした?前田敦子がキンタロー。に対マンでも申し込んだか?」
「おぉ、そりゃ見てみてぇや・・・て、違うッスよ。京で大事件があった
らしいんで!」

元治元年(1864)7月、全国に、そして東大和市域にもビックリする
ようなニュースが飛び込んできました。
「   子(元治元年)7月26日ご廻状の写し
去る19日卯の刻(午前6時)頃より松平大善大夫の家来が、御所へ
乱入、発砲する事件があったが、諸藩から大人数が出張ったので
おおよその者は討ち取り、残党はいずれも逃げ去った。
未だ詳細はわからないが、天皇はお立ち退きもなさらず禁裏にいら
っしゃる。親王、准后様方も安全だったとのことが、京都より報告が
ありました。

一、京都にて乱暴を働いた者があり、御所の近くに発砲し火事を出し
た事件につき、お上があれこれとご配慮をお考えになる間、当分は
神事祭礼、鳴り物などは見合わせるようにいたすべきこと。」

※准后・・・高い位の公家

それは、蛤御門の変(禁門の変)を知らせる廻状でした。
松平大善大夫(まつだいらだいぜんだいぶ)っていうのは、長州藩主・
毛利敬親(たかちか)のことです。
松平っていうと徳川の親戚かと思いがちですが、徳川に勲功のあった
者には「松平姓」をご褒美として与えることがあったんですね。なので
賜った方は表向き松平を名乗るワケです。
蛤御門の変は、長州藩士たちが御所の蛤御門に押し寄せ、会津、
桑名や薩摩の藩兵、新選組らと戦った事件です。
なんでこんな事件が起きたのかといいますと・・・

長州藩は過激な思想家・吉田松陰の影響もあって急進的な尊王攘夷
論を掲げていました。で、朝廷を抱き込んで政局の主導権を握ろうと
考えていたんですね。
ところがこれに危機感を持った京都守護職の会津藩と、あくまでも幕府
内の改革を望んでいた薩摩藩がタッグを組んで、文久3年8月18日に
長州藩とそれに同調する公家たちを京都から追放してしまいました。
(八月十八日の政変)
しかし、京都に隠れ残った一部の長州藩士らは、土佐藩等のやはり
過激な尊王攘夷派と手を組んで、ある作戦を計画します。
それは風邪の強い日に京都の町中に火を放ち、天皇を拉致しようとい
うアルカイダも真っ青のテロ計画でした。
ところが新選組がこの計画を察知し、元治元年6月5日、長州藩士らが
集まっていた旅籠の池田屋を急襲。ほぼ全員を討ち取るか逮捕したん
ですね。(池田屋事件)
京都を追われるわ、仲間は殺されるわで、長州藩の中で過激派がバク
ハツ!「もーガマンできんッ!」てことで出兵騒ぎを起こしたのが、この
蛤御門の変なんです。
結果は長州藩の大敗でした。

「    子7月晦日ご廻状の写し
今般京都において松平大善大夫の家来が徒党を組み、御所へ乱入し
発砲におよび乱暴を働いたことにつき、おおよその者は討ち取られたと
のことであるが、残党らがこの上東海道、中山道を横行し、または変装
して5人、7人と偽名を使って通行し、江戸市中に立ち入り暴発する可
能性も考えられる。
ついては代官支配地域の旅籠、主要道路はもちろんのこと、脇道や海
岸なども厳重に取り締まり、怪しい者が徘徊していたら差し押さえ、もし
手に余るようであれば討ち取っても仕方ないと、支配地域の者たちへ
申し渡し、手付・手代たちも村を廻り取り締まりを行き届くようにし、彼ら
の噂など探索してどんな事でも聞いたならば、大小の別なく速やかに
報告すること。」


当時、京都で起きた大事件が、約1週間遅れて江戸周辺の村々に伝わ
っていたんですね。
神事祭礼や鳴り物も禁止されたというのは、事件の大きさを物語って
います。やはり御所を巻き込んだドンパチだったからでしょうか。
次いで廻ってきた廻状では、逃亡してきた長州藩士らが江戸にまで来て
暴れる恐れアリと警告しています。実際にそんなことはなかったんですが、
幕府がかなり警戒していたことを表しています。

しかし、おそらく東大和のほとんどの村民が京都など想像もしなかった
この時代。
この事件が、どれくらいのリアリティをもって彼らに受け取られたので
しょうか。なかなか興味深いところではあります。

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「新選組」「新撰組」、どちらが正しいの?
よく聞く質問です。正解は「どちらでもよい」です。局長の近藤さんが
どちらの字も使っているので、そういう事になってます。
江戸時代の人は読み方が同じなら、漢字はテキトーに使っていたという
トコロがあるんですね。
元々会津藩に「新撰組」という部隊が存在していたことがあり、その
隊名を、藩主の松平容保(かたもり)公が近藤さんたちに与えました。
「撰」には「エラぶ」という意味の他に「ソナえる」という意味もあるのだ
そうです。
現在はどうでしょう、「新選組」と書かれた本やドラマの方が多いように
感じるんですが・・・大河ドラマも「新選組!」でしたね。

昭和3年に平尾道雄が「新撰組史録」という本を出し、これが近代新撰組
研究の嚆矢と云われます。平尾さんは明治時代に出された「新選組始末
記」という西本願寺にいた西村兼文の書いた本を参考にしたといいます。
しかし、会津藩の公文書に従って「新撰組」で統一したそうです。
ところが、ほぼ同じ頃に子母澤寛が「新選組始末記」という、西村兼文と
まったく同じタイトルの本を出版します。
子母澤さんはこのタイトルがとても気に入っていたらしく、そのまま拝借
したんだそうで・・・今なら訴えられますが。

「新撰組史録」は半ば研究書のスタイルを取っていて、資料・文献も多数
紹介されているんですが、やや読みづらいんですね。
ところが「新選組始末記」は子母澤さんの取材になるものとは言いながら、
小説ですから読みやすい!面白い!アッという間にベストセラーとなり
「新選組異聞」「新選組物語」と続編が出されました。
一般的に「新選組」の方が人気が高いのは、これがきっかけではないかと
思います。

ちなみに、私も本音を言えば「新撰組」派なのです。隊士だった永倉新八
も自著に「新撰組」を使っていますし。
しかし、一般的な浸透度を考えてブログでは「新選組」としています。