関東取締出役事件控 窃盗編

廣瀬鐘平さんの関東取締出役事件控。
最終回の今回は窃盗・強盗です。
江戸時代の犯罪はやはり窃盗が一番多かったようですね。
廣瀬さんの報では、盗みが2件、押し込みが1件、切り解きが1件となって
います。
切り解きとは、人の荷物をスキを見て持って行ってしまうという犯罪です。
荷物を刃物で切って中身だけ奪っていくので、こう言うのでしょう。
江戸時代ならではという手口ですので、今回はこちらをご紹介しましょう。

「 上州堀エ村
   非人小屋頭万蔵倅太次郎 こと 伊三郎 馬30歳

右の者を問い質したところ、親の万蔵は弾左衛門の配下で上州堀エ村非人小屋
の頭をしていました。家族3人暮らしで村内より扶持方をもらい受けて、火の番を
勤めておりました。の
伊三郎は万蔵の元で仕事を手伝っていましたが、身持ちが悪く、度々意見などを
受けども聞き入れず、12年前の弘化4年(1847)2月中に無沙汰となり、欠落
しました。」


と、先ずはいつものように被疑者のプロフィールの書き出し。
続いて事件の内容ですが、この一件についての書状はとても長いので、一部を
抜粋しながらご紹介いたします。

「常州石塚村出身の伊三郎と申す者であると偽り、身分を隠して渡り馬士
して街道の所々に立ち回っていたところ、知り合いとなった日光道中間々田宿の
馬士を営む善吉方へ卯の年(安政2年・1855)6月に手紙を出し、善吉を請け人
として同宿場の旅籠屋安兵衛方へ馬士として雇われ奉公した。
その年の7月9日夜、江戸室町にある京屋弥兵衛の飛脚荷物5駄と、それに付き
添う見張り番が旅籠屋平吉方に泊まりに来た。

翌日10日の朝、勘定のとき安兵衛方に伝馬役が当たったので、申付けを受けて
伊三郎は七ツ半(午前5時)頃に平吉方へ馬を引いてきた。
荷物のうち1駄分は筵(むしろ)包み4個、渋紙包み1個の都合5個を馬に付けた。
見張り番はあとに残り、他の荷物の勘定の手配をしていたので、伊三郎は一人で
先に馬を引いて道中を野木宿へ向かった。

その途中、伊三郎は何気なく過去のことを思い返してみた。非人の身分なのでこれ
まで一般の人の間に入ってきてはみたが、これから身寄仲間から見咎められては
どうなるかわからないと考えながら野州の友沼村に通りかかった。
その折、ふっと悪心が出て、付けてきた渋紙包みは金子に違いない、これを奪って
国境を越えてしまえば、気がかりすることなく一般に交わることもできると一途に
思った。」


太次郎は名前や身分を偽って伊三郎と名乗り、フリーの馬子になっていたようです。
しかし、安定した収入が欲しかったのでしょうか、知り合いとなった者の紹介で間々田
宿の雇われ馬子となりました。
江戸からの荷物を一人で運ぶことになったことから、ふいと悪心が芽生えてしまった
ようですが、しかし荷物だけ先に行かせた見張り番もどうかと思いますよ。
危機管理精神が著しく欠けていると言われても仕方ありません。なんでこんなヤツを
見張り番にしたのでしょうか?

「同村の街道から2丁(約220m)ほど西の人家から離れた山林へ馬を引き入れ荷物
を降ろし、網入れにした渋紙包みを背負って、この場所からなお1丁(108m)ほどの
林の中で切り破いたところ、およそ600両ほどもあったが、全部は持って行けない。
このうち1分銀25両包みを8つ、200両を奪い取った。
持っていた胴巻へ隠し入れて持ち逃げ去り、越後国塩沢辺りへ向かった。」


有り金全部ではなく、細かいお金で200両だけ取っていくという手口。伊三郎は手馴れ
ているのかもしれません。
まぁ、当時は紙幣ではなく金貨・銀貨ですから、600両全て持って行くのは一人では
困難だったのかもしれません。
事件発覚後、役人が捜索すると、友沼村の現場から残りの530両3分が残されている
のが発見されました。

「それより、伊三郎は高田郡新潟辺りや、そのほか所々立ち回ったが、一時に多額の
金を使えばたちまち犯罪が露見してしまうと思い、神社の縁の下へ埋めて隠し置いた。
少しづつ4年間に渡って残らず酒食に遣い捨てたと思われることもなく、やがて関東筋
に立ち戻ったところをこの度召し捕えたことである。
この他に悪事に携わったことはないとの旨を申すので、口書きを差し出し申します。」


一度に豪遊するでもなく、少しづつ使うところなど性格的に計画的・几帳面な印象を
受けますね。もし、関東に戻ってこなければ、そのまま逃亡し切れたかもしれません。
けど、盗賊ってホントに盗んだ金を神社の縁の下に隠すんですね。

伊三郎が捕まったのは安政5年(1858)のこと。日付はわかりません。
火付盗賊改・豊田藤之進配下の与力、堀荘右衛門が捕縛しましたが、関東取締出役
が兼て追っていた犯人ということがわかり、6月14日に廣瀬さんにその身柄が引き
渡されました。
そこから例によって、丹念な身元調査が行われるのですが、今回は広瀬さんがすぐに
捜査に入れない事態となってしまいます。
それは、なぜか?
廣瀬さんの報告書を見てみましょう。

「この度差し出しました上州堀エ村の非人伊三郎について、京屋弥兵衛の飛脚荷物を
切り解いて奪い取った金子を越後国へ持って行き使い捨てたことを申し立てたことです。
伊三郎の証言を引き合い、先々で取り調べたことを本多加賀守殿へ伺い奉るところで
すが、6月18日の御付札をもって御下知があり、関東の内外を一通り探索するには
決め難いこととなりました。

捜査中に異国船が渡来してきたので、私(廣瀬)は神奈川宿へ
詰め切りになってしましました。
この御用を済ませて引き続き取り調べを差し出すべきことはもちろんなのですが、その
頃ほかに差し掛かった御用もありました。
その上、囚人を武州川越役場の仮牢に預けていたのですが、悉く湿毒を発症して臥せ
たまま立つことも難しくなったので、専ら療養中であり、役場より申し越した事情に悩み、
取り調べも出来かねると聞きました。
特にその頃は探索も行きかねることもあり、仕方なく過ぎてしまいました。」(以下略)


廣瀬さんは捜査の途中で、異国船来航のため警備の仕事が入り、捜査官としての任務
を一時中断しなければならなくなってしまいました。

安政5年6月といえば、ちょうど日米修好通称条約が結ばれたときです。条約の調印は
神奈川沖に停泊されたポーハタン号の上でしたから、神奈川の警備に多くの役人が
差し向けられたのでしょう。

廣瀬さんは神奈川警備を解かれた後に捜査に戻り、裏付け捜査を完了させ12月12日
に報告書を提出しています。
幕末、外国との交渉は、こんな所にも影響を与えていたのですね。

メガ30
犯罪者を取り締まるための八州様までが警備に借り出されちゃうんだからね。


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関東取締出役事件控 凶悪犯編

廣瀬鐘平さんの事件控、前回は「博奕」で捕縛されたケースをご紹介しま
した。しかし、博奕は言ってみれば軽犯罪の部類で、誰かを傷つけるという
ものではありません。
今回ご紹介するのは、凶悪犯罪のケースです。
強盗殺人が1件、放火窃盗が1件、追剥ぎが1件となっています。

最初は強盗殺人のケース。

「今年(安政5年)9月24日、久世大和守殿領内の下総国猿嶋群長洲村にて
召し捕えた無宿人秀海を、人殺しの上衣類金銭を奪い取った始末を訊問した
ことを、左に申し上げ奉ります。
      武州大宝村 無宿 秀海 38歳

右の者を訊問したところ、彼は武州大宝村百姓太郎右衛門の三男であったが、
幼年の頃より病弱で農業をすることが難しいので、世間から離れたいと両親に
の取りすがって、同国東大輪村の新義真言宗密蔵院住職の高憧の弟子になり、
この者が21歳のときに出家得度をして大就と名乗り、所化僧となって修行して
いたところ、教道など取り乱して堕落いたしまして、11年前の嘉永元年4月中に
出奔して無宿人となりました。」


書き出しは犯人のプロフィール。前回と同じです。
廣瀬さんは密蔵院の役寺(寺務を代行する寺)の真福寺という寺に行き、その
裏付けを取っています。
その後、書状には犯行の様子が非常に細かく書かれているのですが、とても
長いので要約させていただきます。

「大就は秀海と改名し各地を転々としていたが、所沢村の知人へと向かう途中で
北田新田の真言宗宝泉寺に寄った。そこの住職であり旧知の間柄である好円は
とても懐かしんで引き止めるので、泊まることになった。
秀海が自分の不遇である過去を話すと、好円はその身を慎んで一寺を守ってい
れば、貧しくはあるが衣食住には困らない。何ごとも辛抱だと諭してくれた。」


最初のうちは感謝する秀海でしたが、酔った好円が囲炉裏端で寝入ってしまうと
ダークサイドの自分が段々と顔を出してきます。
普段の心がけとは言いながら、好円に比べて自分はその日暮らしにも困る状況。
う、う、羨ましいぃ・・・・メラメラメラ~~~。
悪意の炎が燃えだしてしまいました。
以下、閲覧注意 残酷描写アリ。

「同夜九ツ(0時)頃、衣類その他貯めてある金銭を盗み取ろう。もし見咎められた
ら殺害してしまおうと決心し、納戸道具箱の上に置いてあった鉈(なた)1挺を持って
酔いつぶれて寝ている好円の枕元に来た。試しに声をかけると目を覚ましたよう
だったので、最早これまでと思い鉈を理不尽に好円の上方から右耳へかけするどく
斬りつけ、ひと声叫んで起き上がったところをさらに上から右耳下へ斬りつけると、
好円は手で受け止めたので指まで切り落とし苦しんでいたので、後ろからと襟元に
も一時に斬り倒し、ようやく絶命した。
死骸へ蓙(ござ)をかけ、鉈を薄べりの上敷の間に差し込んでおいた。
納戸の箪笥等から3品出したうち、衣類その他21品、金1両2分3朱と当百銭8貫文
を奪い取り、荷物にして背負い持ちだした。
白張りの傘はその場に捨て置き、所々立ち回っていたところを召し捕えた。
奪い取った金銭は酒食に使い捨て、品物は残らず所持していたので取り上げた。
この他には悪事はしていないと申しているので、口書きを差し出し申します。」


犯罪者というものは大抵自分勝手なモノでしょうが、あまりと言えばあまりに短絡的な
犯行です。
盗んだ衣類(袈裟など)や数珠をいつまでも持っていたというのが、なんか間抜けな気も
するのですが、どこかの寺にでも潜り込むつもりだったのでしょうか。
犯行弁場は寺社奉行の管轄地ですが、こういうときこそ広域捜査官の関東取締出役の
出番です。秀海は下総で召し捕えられたとありますので、そこまで捜査の手が回って
いたのでしょう。

次は放火犯のケース。

「先月晦日、鈴木四郎左衛門知行の相州愛甲郡山際村内において、召し捕えた無宿人
金蔵が火付いたした始末を訊問しましたので、左に申し上げ奉ります。
    相州宮原村 無宿 金蔵 28歳

右の者を訊問したところ、彼は相州宮原村百姓権右衛門の次男であったが、権右衛門が
去々年辰年(安政3年)に病死したので文次郎の厄介となっていたが、身持ちがよくなく、
度々意見を受けたが取り入れず、今年(安政5年)2月中に無沙汰となって家を出て無宿
となった。小遣い銭にも差し支えるようになったことから家に火を付け、騒ぎに紛れて盗み
を働こうと悪心が起きた。」


自ら火事を起こして盗みに入るという、とんでもなく悪いヤツですが、この金蔵という男が
凶悪なのは、短期間に4件もの放火をしている点です。
つまり、10月17日夜六ツ時(18時)、同日五ツ時(20時)、19日夜六ツ時、同日夜四ツ時
(22時)と、1日に2件もの火付けを働いています。
というのも2日とも、1回目の放火では隙が窺えず何も盗めなかったようで、再度の犯行に
及んだようなんですね。しかも19日の場合は、2回目の放火でも盗みが働けなかったよう
で、かなり効率の悪いコトをやってます。

「今月17日夜六ツ時頃、相州上俣野村の八郎右衛門方に罷り越し、薪小屋に入り、そこ
にあった豆穀を取り出し、居宅の羽目ぎわに積み置いた薪へ乗せ、兼て持っていた火打
道具でそっと火を作り、ほくちより付け木へ火を移し付け火をしたけれども、火移りが悪かっ
たのでそのままにしておき、この薪小屋へ立ち戻り残しておいた豆穀へまた火を付けた。
すると、前に付けた方が燃え上がり騒ぎとなったので、隠れて見ていたら鎮火し、間もなく
薪小屋の方も燃え立ったけれども消えてしまったので、盗む間もなくその場を逃げ去った。」


実は「里正日誌」では、この金蔵についての書き抜きが途中から欠損しています。ですから、
もしかすると金蔵は捕縛される晦日までの間に、まだ犯行を繰り返し、その記録も記載され
ていたのかもしれません。

江戸市中は火災が多く、消防が未発達だったため多くの犠牲者を出しました。
ですから火付は「火あぶり」という特別刑が言い渡されるほどでしたが、放火犯というのは
意外に多くて、明治に入って書かれた旧幕府役人の証言録である「旧事諮問録」によると、
火あぶりの刑は1年に5~7件ほどもあったそうです。
幸いにも、金蔵の放火では犠牲者は出ていませんが、極刑は免れないでしょう。

最後に追剥ぎです。

「今年8月9日、長澤内記知行の相州愛甲郡川入村内において、召し捕えた入墨無宿人の
幸次郎が追落しをした始末を訊問しましたので、左に申し上げ奉ります。
    武州大丸村 入墨無宿 幸次郎 25歳

右の者を訊問したところ、武州大丸村の百姓弥兵衛の三男だが身持ちが悪く、度々意見を
受けたが取り入れず、去る巳年(安政6年)中に無沙汰となって家を出て無宿となった。所々
に立ち廻っていたところ、同月中に火付盗賊改坂井右近の組の者に召し捕えられ、同年
10月中に盗みを働いて、その科により敲きの上、入墨のお仕置きを受け、身寄りの者に
引渡しとなったが、なお素行は改まらなかった。」


さて、一般には「追剥ぎ」という言葉はよく使われます。
なので見出しにはそう書きましたが、史料には「追落し」と書かれています。
追剥ぎと追落しは違うのでしょうか?
幸次郎の事件を見てみましょう。

「今年8月4日夜六ツ時過ぎに、武州八王子八日市の野道において追落しをしようと思い、
そのとき寺号は知らないが禅東院の境内に居候をしている老年の男が1人通りかかった。
待て、と声を掛けて持っていた百文銭5貫文を渡すように強勢に言って脅し、理不尽に奪い
取って立ち退き、残らず酒食に使い捨てた。」


「追剥ぎ」とは、盗み目的で突き当ったりケンカを吹っ掛けたりして、羽織など着ているものを
ひったくって逃げていくことを言いました。
一方「追落し」は、追いかけたり突き当ったりして、相手が落とした財布などを奪い取っていく
ことを言ったそうです。
どっちも同じようなモンだと思いますが、当時の刑法では「追剥ぎ」は獄門、「追落し」は死罪
と決められていました。
まぁ、どっちも今でいえば死刑ですが、獄門は斬首されたあとに3日間さらし首にされるという
ことで、1ランク重刑ということになります。身につけているものまで力ずくで盗っていくという
ことで追剥ぎの方が性質が悪い、と判断されたのでしょう。
しかし、追落しで奪った物の方が追剥ぎで取った衣類よりも高額というケースも当然あります。
それに財布を取られる方だって必死に抵抗しますから、追落しだって結局は力ずくです。
幕府は追剥ぎと追落しの区別を明確にするように評定所に命じましたが、結局は奉行や評定
所が個々のケースで判断せざるを得なかったようです。

幸次郎が追落しと判断されたポイントは、金を奪うのに声で脅しただけだったからでしょうか。
衣類も奪ってないようですしね。

メガ29
「鬼平犯科帳」などの時代劇を見ていると、江戸市中では毎週のように大店が盗賊の
「急ぎ働き」にあい、店の者が斬殺されているような印象を持ってしまいます。
しかし、江戸時代の刑事事件に相当する犯罪のほとんどは窃盗、博奕、詐欺などで
凶悪な殺人事件などは「ケンカの末に相手が死んでしまった」などのケース意外は
案外少なかったようです。
前出の「旧事諮問録」によれば、湯屋で半纏1枚を盗ったというような小盗でも、いちいち
奉行が最初に訊問をしなければならず、そうでないと犯罪者を牢に入れることもできない。
町奉行は容疑者が連行されてきたときは夜中でも叩き起こされたそうです。

もしも、殺人事件などが多ければ奉行はそちらに集中しなければならず、小盗などは
与力に任せたままでもよかったはずです。
湯屋での窃盗は「板の間稼ぎ」といって、一番軽い盗みと設定されていました。
そんな事件に夜中でも町奉行がわざわざ対応するほど、江戸市中は凶悪犯罪が少な
かったということでしょう。
もっとも、このブログの背景である幕末になると事情が違い、犯罪発生率はダントツに
高くなり殺人事件なども多くなってきます。

「板の間稼ぎ」でフンドシが多く狙われたというのは、杉浦日向子さんの本にそう書いて
ありました。


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関東取締出役事件控 博奕編

「里正日誌」は多摩郡蔵敷村を中心とした現在の東大和市の歴史を今に
伝える文書なのですが、その記事の中には東大和市域や多摩郡だけ
ではなく、もっと広範囲の地域に渡る話も出てきます。

このブログの初期に関東取締出役という、江戸時代後期に設置された
幕府の役職をご紹介しました。
「関東取締出役って・・・ナニ?」クリック!)
この役職は、水戸領を除く関東一円に、管轄の支配を超えて警察権を
持っていた、いわば江戸時代のFBIです。

「里正日誌」には、安政5年(1858)12月に取締り出役が勘定奉行に
提出した「事件と逮捕者」の報告書が出ています。
今回はそちらをご紹介して、幕末の天領ではどんな事件があり、捜査は
どのように行われていたのかを見ていきたいと思います。
ちなみにワタクシ、刑事ドラマが大好きです。

取り上げられているのは、安政5年8月から10月にかけて逮捕された
犯人らの記録です。全部で11人。事件が起きた場所は武蔵、相模、下野
と広範囲に渡っています。
報告書を出した取締出役は広瀬鐘平という人。
こんな記録が日誌に残されたのも、筆記者の内野杢左衛門さんが一村の
名主だけにとどまらず、組合で重要な役割を果たし、また江川代官と親密
な関係にあったからでしょう。

罪状は、博奕が4人、盗み・強盗が4人、追はぎが1人、強盗殺人が1人、
放火が1人となっています。
先ずは博奕から見ていきましょう。

逮捕された4人は、栄助(上州無宿)、銀次郎(上州無宿)、房吉(三州無宿)、
万兵衛(武州百姓)。もちろん、それぞれ別個の事件(博奕)で捕まっています。
無宿人多めですが、博奕は無宿人のイメージありますもんね。
実は全逮捕者11人のうち8人までが無宿人と、犯罪者の無宿人率はかなり
高いです。
やっぱりね、といった所でしょうか。
この中の一人、栄助にスポットを当ててみましょう。彼だけは万延元年(1860)
に捕縛されています。

「今年正月6日、久世大和守領内の野洲都賀郡葛生町内地において、召し捕えた
無宿栄助が、博奕をした始末を問い質しましたので左に申し上げます。
    上州籾谷村 無宿 栄助 34歳

右の者を問い質したところ、上州籾谷村の百姓惣右衛門の倅だったが、身持ちが
悪く、たびたび意見を受けたが取り合わず、去々年(安政5年)11月中に連絡も
せず出奔し無宿になった。」
(※野州は上州の間違いか)

報告書はたいてい、このような書き出しになっています。
無宿人でも自供によって、自分の出生地、親が明らかになっています。無宿となった
理由はほぼ全員「身持不宜」となっていて、個人的な素行不良で家を出たという形
になっています。これに続けて、

「久世大和守殿領分の上州都賀郡籾谷村役人へ問い質したところ、無宿栄助
の申し立てた通りに一致しました。安政5年11月中に連絡せず家出をして帰らず、
身持ちが悪くなってからはどうなったのかわからず、領主の役場へ申し上げて
帳外しにしましたことを書付けによって差し出します。」


このように、出身地の村役人から犯人の経歴のウラを取っていることがわかります。
栄助は人別帳から外されているので親類縁者とはもう無関係である、という書類が
同時に提出されたのでしょう。
そして、犯行の記録と続きます。
この栄助、現行犯逮捕された時を除いても5件の博奕を自供しています。その中で
一番最初の一件をご紹介します。

「去る(安政6年)12月24日の夜、四ツ時(22時)頃に、上州北大嶋村の河原におい
て、名前・住所を知らないもの5人で勝負をし、土台銭として5貫文を持ち出し、100
文・200文を賭ける博奕の貸元をして、寺口銭2貫文を賭けた者より取り立てた。」


時代劇など見ていると、江戸市中の博奕場は大名や旗本屋敷の中間部屋と決まって
ますが、村々での博奕場は河原とか空き地、野田といったオープンエアな場所だった
ようですね。
他者を見ても、博奕で捕まっている場合、ほとんどが貸元です。博奕を主催した者が
逮捕されるということだったようですね。

1回の寺銭の儲けが2貫文。通常、1両=4貫文(4000文)で今の価値に換算すると
10万円と言われています。しかし、幕末に鋳造された万延小判は金の含有量が低
かったので1両=10貫文で5万円の価値とも言われています。
となると、栄助が博奕1回で儲けた寺銭は1万円ほど。

「この他博奕は渡世と同様に、年月場所など確かに申し立てることは難しいとの旨を
申しますので、口書きを差し出します。」


報告書にはこのようにあって、立件したのは6件だけれど、栄助が行った博奕は何回
あったかわからないとしています。栄助はプロの博奕打ちだったのですね。
その儲けが1回で1万円とは、なんとキビしい稼業なのでしょう・・・。
もっとも、栄助は万延元年正月2日、3日、4日と場所を変えて三日連続で開帳し10
貫文余りを稼いでいます。
正月2日から博奕とは・・・箱根駅伝でも見てろよと言いたい所ですが(ないない)、それ
ほど博奕を受け入れる下地が、関東に広がっていたことが窺われますね。

博奕に関する報告書は、他の者も大抵このような形です。
ただ、4人の逮捕者のうち房吉だけは出身が三河国でした。そのため、房吉が自分の
経歴を自供したあとは

「本文の身元を確かめるべきところではあるが、遠国のため行き届き難く、彼が申し
立てたままを差し出します。」


とあって、廣瀬さんはウラが取れなかったことがわかりました。
関東一円では強い権力を持った「八州様」ですが、管轄外の土地ではなかなか思う
ように仕事ができなかったことを感じさせます。

メガ28
時代劇のウソの代表例としてよく取り上げられるのが、銭形平次の投げ銭ですね。
寛永通宝って薄くて軽いから、いくら下手人に向かって投げた所でヘロヘロ~っと
して当たりゃしません。
そこで、どうしても寛永通宝を武器にしたいという平次親分には、銭さしに通した
ままで使ってみてはどうでしょう、という提案です。
1貫文ほども繋げて使えば、「投げて良し」「殴って良し」、このスタ子ちゃんのように
「首を絞め失神させて良し」と使い方は無限大。

このネタで、マンガ1本描けるね。


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関東取締出役・・・ってナニ?

黒船再来日の当日、早速江川代官から「悪党を取り締まるように」との命令が
出されました。←(前回の話)

さらにその3日後の、1月19日です。
今度は東大和の村々を含む、狭山丘陵の48ヶ村(所沢組合村といいます)の
代表者が関東取締出役に呼び出されました。

ん?関東取締出役?
なにソレ?偉いんかい?

「かんとうとりしまりしゅつやく」。これが江戸時代終盤の関東地方には
欠かせない役人なんですね。なのでちょっと寄り道して、このお仕事を見てみる
ことにしましょう。

時代劇で「八州廻り」とか「八州さま」とかいうセリフを聞いたことがありま
せんか?博奕打ちなんかが「八州廻りが来るんじゃ賭場が立てられねぇ」
とか言ってるシーン。この八州廻りの正式名称が関東取締出役です。
ちなみに八州とは、武蔵・相模・上野・下野・常陸・下総・上総・安房の事で、
関東地方・・・今で言うなら一都六県ですね。
関東地方は幕府の直轄地(天領)が多かったんですが、その直接の管理者は
代官です。お代官さまですよ。

さて、この天領で何か事件が起こる、あるいは他の土地で犯罪を犯した人が
天領に逃げ込んで来たとします。
当然、お代官さまが取り締まってくれるものと思いますよね。
ところが、さに非ず。お代官さまはほとんど動いてくれません。
実は代官は徴税官であり、年貢を滞りなく納めさせることがメインの仕事です。
警察権もあるにはありますが、こちらはいくら犯人を検挙しても上役からの
評価の対象外ですから、力を入れる人もいません。
そもそも、代官の管轄地域ってのは広大で、5万石~10万石の任地を任されます。
代官本人は江戸の屋敷にいて、それぞれの支配地域には部下を駐在させて
業務をさせているわけです。代官本人は重要な案件ができたときだけ出張する
わけですから、そりゃ本人が警察業務なんてできないですよ。

前回の代官からの命令書で、「悪党どもが街道に入りそうになったら、村人たちで
取り抑えろ」なんて、ずいぶん人任せだなぁと思われた方がいるかもしれません
が、それが当時の状況なんですね。

当然、時代が進むに連れて関東周辺は犯罪者や博奕打ちの巣窟と化していく、と。
これじゃイカンだろ、ということで文化2年(1805)にできたのが関東取締出役です。
関東地方を巡回して悪党・無宿人を取り締まる。しかも、幕府領だろうが旗本領
だろうが管轄に制限ナシ。特別移動警察、江戸時代のFBIですよ。

この八州廻りには代官の部下が選ばれて就きました。
代官の部下には手附(てつけ)と手代(てだい)の2種類がありまして、手附は
「小普請組」っていう窓際族の御家人から選ばれた人たち。御家人は浪人さえ
しなければ、仕事してなくても生活が保障されましたから、こういう手附はあんまり
仕事熱心じゃないんですね。
手代ってのは侍じゃありません。農家の二・三男で出来のいいのが代官に雇われる
パターンです。これが雇われている間は侍の身分ですし、さらに成績が良いと代官が
新規召し抱えドラフト1位として手附になることもできました。
だから、手代から出役に就いた人の方が真面目に仕事したらしいです。

時代劇では「泣く子も黙る」「鬼の八州」などとも言われますが、いや実際に
スネに傷のある輩にはそーとー怖かったようですよ。
身分は今言ったように町方同心(例えば中村主水とか)より低いのに、房つきの
十手を持って、百たたき程の軽犯なら自らの裁量で決めることができ、無宿人や
犯罪容疑の濃い者は有無を言わさず強制逮捕。手向かいすれば討ち捨てておかまい
ナシってんだから、そりゃコワイですわ。

さぁ、1月19日。江川代官からの命令書に続けて、関東取締出役サマからの
お呼び出し。いったいナニを言われるのやら・・・。
「疑わしい者、あるいは長脇差を持った者を見かけたら直ちに捕え、関東取締出役に
届け出よ。人気不穏という虚に乗じて、悪党たちが村々にやってくる可能性がある
ので、村人たちは理由のない外出をせず、火の用心をしてお互いに相談しあい
村ごとに取り締まりをせよ。村役人は村中を絶えず巡回して、無頼のものがいたら
召し捕えよ。」

まぁ、言われてることは江川代官とだいたい同じことですね。
でも「理由なく外出するな」とか「村中絶えず巡回しろ」とか、お上も相当神経質に
なっていそうなことは覗えます。
背景として、江戸時代後半~幕末のこの時代、江戸の周辺にはそうした犯罪者予備
のような人たちが大勢いて、関東取締出役を置いたものの、その心配の種は尽きる
ことがなかった・・・ということなんでしょうね。

ところで、文中の長脇差ってのは、言葉の通り脇差の長いヤツ。
「日本刀って、太刀だとか脇差だとか小刀とか色々あって・・・その上、長脇差
だなんて、もぉわかりません!教えてくださいッ!!」
もし、武井咲ちゃんにそう聞かれることがあっても、困らないように。

侍が腰に差している2本の刀のうち、長い方が太刀で長さは最大2尺8寸(84cm)。
短いのが脇差(脇指)で最大1尺7寸(51cm)と決められていました。
それより短い1尺(30cm)以下の刀は小刀とか匕首とかいいます。
腰に太刀と脇差を2本差すのは武士のみと決められていましたが、脇差1本だけなら
旅行の護身用などとして庶民も持つことができました。
ところで脇差の長さですが、幕末になると世の中が物騒になってきたせいか、より
実戦に有利な長いものが好まれるようになったようです。
新選組の土方副長は1尺9寸5分(59cm)、近藤局長に至っては2尺3寸1分
(70cm)の脇差を使っていたと云います。
これだけの長脇差となると、もう太刀と変わりませんね。

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香取慎吾くんもゲンコツを口の中に入れてましたね。