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函館・・・むしろ箱館史跡廻り②

「箱館」2日目は、「そんな所に行ってなにが楽しいじゃぁぁぁぁぁぁッ!」と
嫌がる家族らを説き伏せ、ココに行ってきました。

函館8

碧血碑 です!

戊辰戦争とか幕末史を勉強している者にとっては、聖地といっても過言ではない
くらいの場所ですが、そうでない人にとっては確かに面白くはないかも・・・です。
ご覧の石碑があるだけですからね・・・。
でも!箱館に来たら、絶対に手を合わせたい場所ッ!

函館山の麓、函館八幡宮神社の駐車場に車を止めて、山の中を50~60mも
歩いていくと、目の前が開けてその奥に碑が立っております。
戊辰戦争全体の旧幕府軍戦死者約800人を慰霊する、「お墓」といってもいい
供養碑です。
榎本武揚や大鳥圭介らによって明治8年(1875)に建立されました。題字は
大鳥の書になるもので、「碧血碑」の意味ですが、これは非業に亡くなった忠臣
の血は3年経つと碧玉になる・・・という故事からきています。

ワタクシたちがお参りしたときには、平日だったせいか他に誰もいなくて、静か
な山の中により一層厳かな空気が流れているようでした。

碧血碑の1段下に柳川熊吉翁の碑というのがあります。

函館20

柳川熊吉は、江戸浅草出身の侠客。幕臣と交流があったといわれ、五稜郭
築城のときに人足を率いて箱館に渡り、工事に従事したそうです。
新政府軍は、敗れた旧幕府軍戦死者の埋葬を許可しなかったのですが、義憤
に駆られた熊吉は付近の寺に分けて埋葬し、逮捕されてしまいます。しかし、
その後許されると、熊吉は遺骨を箱館山の中腹に土地を買って改葬、それがこの
碧血碑の場所になるワケです。そして生涯を碧血碑の墓守として過ごしたとのこと。

このエピソードは、何か彰義隊隊士の遺体を埋葬した三河屋幸三郎と重なる印象
がありますね。他にも幕軍水夫の遺体を埋葬した清水の次郎長など、戊辰戦争
では任侠の人が、必ずといっていいほど顔を出します。
今まであまり注目はされていませんが、幕末史を考える上で、こういう任侠世界
の視点が今後必要なのではないかと思っています。

まぁ、でも、いろいろ説明しまして、歴史にほとんど興味のない甥も碧血碑について
「なるほど。見ておいて良かったよ」と言ってくれましたので、一安心。
「でもさ、何も見ないで、そーゆーこと語れるのって、ちょっと怖いよね」
「やかましい!」

車を駐車させてもらっていた函館八幡宮にもお参り。

函館9

社殿が、本殿、幣殿、拝殿と繋がって、権現造になっています。
にしても、あまり見ない様式だなぁ・・・と思い、後で調べてみたら聖天八棟造と
いうのだそうです。

その日はそれから車で江差へ移動。
およそ1時間半のドライブです。
江差の目的はなんといっても、コレ!

函館10

開陽丸!

まぁ、これを見に行くためにレンタカー借りたようなもんですわ。
旧幕府軍の旗艦。
この艦を持っていたことで、旧幕府軍は制海権を握っていたわけですが、松前攻略
のときに座礁、そのまま沈没してしまいました。
もし、開陽丸がそのままであれば、最終的に箱館戦争が新政府軍の勝利で終わった
にしても、旧幕府郡の被害はかなり食い止められたのではと思います。終戦条件も
もう少し違ったものになっていたでしょう。

函館11

艦の中は資料館になっていて、海底から引き揚げられた開陽丸の一部やら備品
やらが、多数展示してあります。
中でも驚くのは、ものすごい数の砲弾です。

函館14

コレ、一部ですけどね。
開陽丸そのものもそうですが、これだけの砲弾を一気に失ったのですから、榎本
さん始め蝦夷共和国の方々のショックは相当なものだったでしょうねぇ・・・。

艦内にはこんな人形も展示してありまして。

函館12

コチラは艦長室の様子。
座って書類を見ながら部下に命令を出しているのは、開陽丸艦長・沢太郎左衛門
さんです。
元々艦長だった榎本武揚が、旧幕府軍全体をまとめる立場になったため、沢さんが
副館長から艦長のポストに昇進していたのです。この2人は一緒に欧州へ留学して
いたこともあり、沢さんは榎本さんの右腕的存在でした。
開陽丸が沈んでからは何をしていたのかというと、その後の蝦夷共和国政府では
開拓奉行に任命されてモロラン(現室蘭)に赴任します。つまり、五稜郭から出され
てしまった。
一見すると左遷?と思いますが、蝦夷共和国のそもそもの目的は独立などではなく、
生活に困窮している幕臣らを蝦夷に呼び寄せ、開拓と外国からの領土防衛をさせ、
自治州として新政府に認めさせるということだったといいます。となると、沢さんの
就任した開拓奉行は榎本構想の重要な柱だったということになります。

沢太郎左衛門の関連する史跡が都内にもありますが、ご存知でしょうか?
それが、板橋区にある圧磨機圧輪記念碑です。

圧磨機圧輪

圧磨機圧輪とは、平たく言うと黒色火薬を作る機械で、こちらは幕末に幕府の命令
で沢が留学先のベルギーから持ち帰ったものなのです。
沢は当時最先端の火薬製造技術を手に入れるため、ベルギーの火薬工場に作業員
として従事し、この圧輪を始めとする多くの機材を輸入させることに成功しました。
幕末から明治初期にかけて、滝野川(石神井川)など水の豊富な板橋の辺りは火薬
工場が作られていたんですね。

開陽丸から車で3分ほど。高台にあるのが土方歳三嘆きの松です。

函館15

明治元年(1868)11月。座礁する開陽丸の姿をここから見ていた土方が、松の木
を叩いて悔しがったと伝わります。たしかに、この場所から海岸がよく見える。
ただし、この話はフィクションとの説もアリ。
でも、真実をゆがめるようなウソ・創作ならともかく、この程度の話はフィクションでも
許される範囲ではないでしょうか。後に宮古湾海戦で、アボルタージュで甲鉄艦を
乗っ取ろうとした歳さんだもの。開陽丸を失った悔しさは事実でしょう。

箱館から江差までは、国道227号線を走って山の中を抜けていくのが一番近い
みたいですね。ナビもそうでした。途中、厚沢部(あっさぶ)の道の駅がちょうどいい
休憩地点になりました。

最終日の3日目は、帰りを夜の飛行機にしたので夕方まで目いっぱい箱館を満喫。
朝市や、ちょうど戊辰戦争企画展をしていた函館博物館や赤レンガ倉庫街、函館山
の教会などを見学。

函館16
市立函館博物館 
常設展示も伊庭八郎の名札とか、中島三郎助の戦友姿絵とかシビれる展示。

函館17
函館18
赤レンガ倉庫
お土産屋さんが中心。修学旅行生と外国人がいっぱいでした。

この近くで食べたジンギスカン、美味しゅうございました。


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函館・・・むしろ箱館史跡廻り

9月に入り、平日に休みが取れたので2泊で北海道は函館に行って参り
ました。
当ブログをご存知の方なら、「管理人が函館に行くなら戊辰戦争の史跡
廻りだな!」とお思いでしょう。まさにそうなのですが、今回は両親やら
妹、甥を連れての家族旅行でしたので、あまりワガママは言いません。
マニアックな史跡はやめておきましたが、定番の史跡・名所はある程度
押さえて参りました。

函館といえば・・・と、ココでは敢えて「箱館」と言いましょう。
箱館に着いて真っ先に向かったのは、やはり五稜郭です。

函館1

五稜郭の敷地内に入っても、大きすぎて公園にいるようにしか感じないの
ですが、お隣の五稜郭タワーに登ると、ようやく全景がわかります。
中央にあるのが復元された函館奉行所です。

この五稜郭を設計したのは、伊予大洲藩出身の蘭学者・武田斐三郎という人。
一般にはあまり知名度の無い方かもしれませんが、さすが五稜郭ではその
功績を讃えた碑やら説明文、銅像などが置かれております。

函館2

斐三郎(あやざぶろう)さん、通称・あややは大坂で緒方洪庵に、江戸で伊東玄朴
や佐久間象山といった人に就いて学び、さらに英仏の築城術などを学んで幕臣
に推挙されました。
五稜郭は幕末当時、最新式の洋式城郭で、あややが学んだ築城術の技術が
導入されています。このほか、箱館戦争で新選組が最後まで戦った弁天台場の
築造もあややが行っています。

このあややの記念碑が東京にもあることをご存知でしょうか?

武田竹塘先生紀功碑

芝東照宮(増上寺の隣り)参道に建っている、「武田竹塘先生紀功碑」です。
教授となり、維新後は兵部省に出仕したあややの功績を讃えた石碑です。
ちなみに「竹塘(ちくとう)」は号、題額は有栖川宮熾仁親王、撰文は幕府奥医師
を勤め、維新後は陸軍軍医監になった石川桜所が行っています。
五稜郭を見たあと、芝に行かれた方は、コチラのあやや史跡にも訪れてみては
いかがでしょう。

函館a
「はっ、スミマセン!」 五稜郭タワー1階にある武田斐三郎像

あ、像といえば!
五稜郭タワーに展示してあるのが、2体の土方歳三像ですね!

函館3
函館4

上の立像は1階のらせん階段横、下の坐像は展望室にあります。
箱館ということで、やはり洋装なんですね。
ちなみにコチラが歳さんの出生地、日野は高幡不動にある土方像。

土方歳三1

それと、土方歳三資料館の庭先にある半身像。

土方歳三2

これで、土方歳三像はコンプリートでしょうか?
まだどこかにありましたら教えてください。
土方家の記録では、明治初期ですが石田散薬を東大和にも販売に来た
記載があるので、若き日の歳さんが東大和にやってきた可能性はあるわけ
です。東大和でも天然理心流を学んでいた家はありましたしね。
荷物を背負って竹刀を抱えた「薬売り・土方歳三像」を作って市役所前
とかに置いたら、みんな見に来てくれるかな?怒られる?

土方歳三といえば、土方歳三最期之地碑はハズせません。

函館6

明治2年(1869)5月11日、弁天台場に孤立した新選組の元に馬で向かった
土方歳三は、一本木関門で敵の銃弾によって絶命しました。
若松公園の敷地内に、一本木関門の複製と碑が建てられています。
この辺りは、五稜郭から箱館山へと行く半島部分の一番細くなっている部分。
一本木関門は、実際には若松公園から西(函館駅方面)に200mほど行った
所にありました。
この碑は昭和33年に若松小学校同窓会、父母・先生の会によって建てられたよう
ですが、北海道には歳さん個人のお墓がありませんので、この碑は歳さん参りを
する人から墓碑の代りとして献花が絶えないのだそうです。

それから、五稜郭と一本木関門の中間点に千代ヶ岡台場という台場が、当時あり
ました。現在は運動公園になっていますが、その近くに中島三郎助最後之地碑
あります。

函館5

中島三郎助も、一般にはあまり知られていない人物かもしれません。
この方は浦賀奉行所の役人で、ペリーが浦賀に来たときに真っ先に対応した
人なのです。そして幕末の動乱期を経て、戊辰戦争では旧幕軍に息子2人と身を
投じ、箱館までやって来たというわけ。まさに、
「は~るばる来たぜ、は~こだて~、息子と食べたい鮭茶漬け~」
元祖・サブちゃんであります。
蝦夷共和国では、サブちゃんは箱館奉行並という要職に就いていましたが、新政府
軍の猛攻が始まり、いよいよ敗色が濃厚となると、上層部に降伏を説きながら自らは
徹底抗戦を貫き、5月16日(五稜郭開城2日前)に息子2人とともに戦死しました。
よく幕末はいつからいつまでを指す時代か、ということを言われます。ワタクシもそう
ですが、、ペリー来航から箱館戦争終結までを幕末と考える方が多いと思います。
そうなると、サブちゃんこと中島三郎助は幕末の最初と最後に立ち会った人物と
いえるのです。

初日はこんなところで・・・。
宿泊は、函館の街と函館空港の間にある湯の川温泉に宿をとりました。

で、夜は函館山の夜景を見に。

函館7

ロープウェイで山頂に登ったのは19;30頃。
もうTシャツ1枚では少し肌寒い感じでしたね。
左側の湾内を見て、「あの辺りに蟠竜が・・・」とか想像してました。


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徳島に行ってきました

昨年、学生時代に一緒に演劇をしていた親友が病気で亡くなりまして、今年の
夏は新盆になるものですから、当時の同期の仲間とともに、彼の墓がある
徳島県に行って線香をあげてきました。

徳島空港 正面a

徳島の玄関「徳島阿波おどり空港」。
そんなしんみりとした想いも、一気にブッ飛ばしてくれるアワオドラー像。
もう20年以上も前になりますが、亡くなった友人と8月に阿波踊りを見にきて、一緒に
踊ったことがありました。

その日のうちに、お墓参りとご実家への挨拶もすませ、旧友らともプチ同期会をして
その日は徳島駅前のホテルで一泊。

せっかく来たんだから、帰る前に周辺をブラついてみようと思いました。翌朝8:20に
チェックアウトをして向かった先は徳島城址。8:30に駐車場が開くので、それに合わせ
て訪れたわけです。

徳島城 堀石垣 (2)a

朝早ければそれほど暑くないかな・・・と思ったのが甘かった。
すでに気温30℃超えではないか?と思うほど。
先ずは堀端を歩きますが、日差しを遮るモノがない。帽子とペットボトルの水が命綱。

徳島城 堀石垣 (4)a

それにしても美しい石垣です。
打ち込み接ぎの積み方でしょうか。乱積みなので荒々しさがあっていいです。
徳島駅や徳島城のある場所は、地図で見ると吉野川河口の中州になるんですね。
なので堀の水は豊富で魚もたくさんいるようです。

徳島城 鷲の門a

徳島城址のランドマーク、「鷲の門」。
三木郭という曲輪に築かれていた門で、明治以降に城が破却された後もこの門だけは
残されていましたが、1945年7月の空襲で焼けてしまい、平成元年(1989)に復元
されたとのことです。

鷲の門を潜り、大手門(枡形だけ残る)を抜けると博物館がありますが、この日は開館
時間前だったし、この後友人らと待合せもあったのでそちらはスルー。

徳島城 蜂須賀家正公像a
藩祖・蜂須賀家政像。

城主の蜂須賀家は「太閤記」で有名な蜂須賀小六(正勝)から始まりますが、阿波
一国を秀吉から与えられたときには、正勝は60歳を超えていたため家督を息子
の家政に譲ります。そのため家政が初代藩主ということに。正勝は「家祖」って
ことでしょうか。
ちなみに、この家政像の場所には大正時代から戦前にかけては正勝の銅像が
建てられていたようです。Wikipediaなど見ると、その写真が出ていますが、長い
鎗を持った鎧武者姿の像です。しかし、戦中の金属供出で溶かされてしまったとか。

家政像の側から石段を上がって、本丸跡を目指します。
標高60mほどですから、たいした距離じゃない。しかし、気温すでに30℃か?って
中の登り道ですから昭和世代のおっさんには、わりとキツイ・・・!

徳島城 石垣a

なんとなく緑色がかった石は、青石といってお隣の眉山から運んだ石だそうです。
江戸城や外堀など、東京の石垣は伊豆石(安山岩)なので、それを見慣れていると
青石の石垣は新鮮味がありますね。
ワタクシは鉱物への知識があまりないのですが、たぶんこの石は秩父石(緑色片岩)
と同じモノなのではないかと思われます。関東だと、板碑に使われる石ですね。
板状に割りやすいので板碑に使われたというのを、何かで読んだ記憶がありますが、
同じ理由で石垣にも使われたのでしょうか。

徳島城 東二の丸 天守跡a

山の中腹に開けた場所。東二の丸です。
ココにかつて天守があったそうです。
なぜ、本丸のある頂上に天守を築かなかったのかは、わかっていないとか。

徳島城 本丸跡a
本丸跡です。今は何もないですけど。
ちょうど東側から西側に向かって写真を撮っています。
ここに立てば城下を一望できますが、夏で樹々の葉が生い茂り、下がほとんど
見えません。景色を堪能するなら、秋冬が良いと思われます。
眉山は写真の左方向にあります。

この後、友人らと合流して午前中いっぱい、喫茶店で談笑。
秋にOB会をやろうぜ!ってことで話がまとまり、幹事になってしまいました。

友人らと別れたあと、ワタクシの乗る飛行機の時間までまだ余裕があったので、また
ちょっと寄り道することに。
市内と空港のちょうど真ん中あたりに、興源寺というお寺があり、そこに蜂須賀家の
墓所があるので行ってみることにしました。

興源寺 山門a

臨済宗のお寺。
山門が特徴的です。

興源寺 山門 仁王像a

やたら原色な、仁王像さまがイカス。
墓域は山門をくぐらないで、左へ真っ直ぐ進みます。

興源寺 蜂須賀家墓所 家祖正勝a
蜂須賀家 家祖正勝の墓(右)
左は正室・松の墓
他の蜂須賀家の藩主の方々とは離れた場所にあります。

初代藩主家政からの歴代藩主の墓は、墓域の奥にまとまってありますが、これが
ビックリするくらい広い墓域です。

興源寺 蜂須賀家墓所a

少年野球なら軽くできそうなくらいの広さです。
開放感があって、近所に住んでいたらぜひお散歩コースに入れたい場所です。

興源寺 蜂須賀家墓所 藩祖家政 (2)a
初代藩主家政の墓。

正勝をはじめ、他の歴代藩主の墓石は五輪塔を用いていますが、家政の墓は
角柱の墓石が採用されています。

ここまで見て、そろそろ飛行機の(というよりレンタカー返却)時間が気になって
きましたので、徳島阿波おどり空港に向かいました。
サヨナラ徳島。
イ○ジ(友人)、また来るよ。

今回の徳島訪問は8月最初の土日。
今頃は徳島市内は阿波おどりで熱狂している頃でしょう。

最後に・・・。
空港のショップで買った、ウケ狙いスイーツ。

うどんキャラメルa
後ろはこんな。
0109214fabb335a6ed8c7828dead4a9594e5a2a39ba.jpg
観光課係長/うどん健、イイ男ですね。スーツの袖がなに気にプレスリー仕様。
実写化の際は大谷亮平さんを希望。

え?味ですか?
こーゆーグッズにそんなコトを聞くのは野暮ってもんですゼ、ダンナ。


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幕末の銃砲展② 幕府の輸入銃を考えてみる

では、他にもこんな元込め銃をご紹介。

カットラー銃
これはカットラー銃
トリガーが二つあります。珍しいでしょ。ワタクシも実物は初めて見ました。
前方のトリガーを引くと銃身が折れて、弾丸を装填できるようになってます。
薬莢は金属製。金属製の薬莢は湿気に強い、装填が楽、銃尾からガス漏れがないので
威力と射程がグンバツ!など、いいこと尽くめ。
で、このカットラー銃。伊庭八郎が銃を持っている写真があるんですが、その銃と同じ
タイプのモノだそうです。

レミントン銃 スペンサー銃
上段はレミントン銃
撃鉄を上げると、銃身尾部のフタが開いて、弾丸が装填できます。
時期的にはスナイドル銃と同じ頃の銃でしょうか。

下段はスペンサー銃
会津戦争で山本八重がブッ放してた銃です。
騎兵用に開発された銃で、銃床の中に弾倉があって7発の弾丸を込められます。
弾丸はスプリングで押し出されてくるので、連発が効くというワケです。
ところが、この写真のスペンサー銃は肝心の銃床がなぜか切られちゃってます。
解説文によると、この銃は明治以降にも猟銃として使用されていたらしいのですが、
持ち主が「おら、火縄銃の方が使いやすいだ」ってんで、銃床を短くしてしまったのだ
そうです。ちょっと、もったいないリサイクル。

和製元込め銃
これも珍品じゃないでしょうか。和製元込め銃だそうです。
こんなのを日本で作ってたんですね。日野市所蔵とのことですので、幕府が作った銃
でしょうか?仕組みはカットラー銃と同じです。
形が西洋銃とは明らかに違って火縄銃的なのが、興味深いですね。
先ほどの猟師の話にあるように、当時の日本人は火縄銃タイプの銃の方が馴染み
やすかったのでしょうか。
ところで、この銃、元込め式ではあるのですが、銃身にライフルが刻んでありません。
だから威力、射程の性能はゲベール銃程度だったのでしょうね。

ワカクシも以前行った韮山の江川代官屋敷で確認しましたし、今回の企画展の学芸員
さんにも効きましたが、幕末時点で銃身にライフルを刻む技術は日本では完成でき
なかったようです。

あと、こんなのも。
ペッパーボックス銃
ペッパーボックス銃
拳銃の展示もあったのですが、一番の変わり種がコレでしょうね。
連発で撃てるようにって作ったらしいんですが、重くて命中精度に欠けるため、
リボルバー式との競争に負けたらしいです。
技術革新の過渡期には、短期間で消えて行ったものがよくありますが、空回り
の元気みたいなのが感じられて楽しいです。

展示品は銃や付属品だけではなく、紙史料もあったのですが、ワタクシが興味を
引かれたのはコレ。
歩兵練法
歩兵の調練用の教科書なんですが、右側の本はオランダ式の教本。左側はイギリス式
教本だそうです。
江川太郎左衛門は高島流西洋銃術を学んでいたので、ゲベール銃での戦闘を想定した
オランダ式の訓練法でした。すでに文久2年にはミニエー銃を想定したイギリス式調練法
が幕府に伝わっていましたが、江川支配下地域の農兵にはオランダ式の調練がそのまま
伝わっていたと思われます。
しかし、日野の農兵隊では名主佐藤彦五郎の子、源之助が横浜で新式銃を20挺購入して
きたという話が残っていますので、このような新しい訓練法を記した教本を独自に入手して
いたことがあったのかもしれません。

さて、ここでワタクシにはちょっとした疑問が出てきました。
当時のミニエー銃は英国製のエンフィールド銃が大半のようですけど、果たして幕府が購入
していた銃もそうなのだろうか?米国製のスプリングフィールド銃の方を幕府は購入して
いたのではないだろうか、ということです。
というのも、東大和市、武蔵村山市、西東京市には幕府が当時、湯島の鉄砲製作場に命じ
て作らせた「国産ミニエー銃」と思われる銃が現存しています。そして、そのモデルとなって
いるのは英国式エンフィールドではなく、1855年式米国製スプリングフィールド銃だから
なのです。

この1855年式スプリングフィールド銃は大きな特徴があって、雷管をメイナードテープ式
雷管という特殊な雷管を採用していることにあります。
DSCF0097a.jpg
コチラが東大和市に現存するミニエー(スプリングフィールド銃)。
DSCF0099a.jpg
巻紙式のテープ雷管を装着するため、銃身の横に大きな窪みがあります。

なぜ幕府が国産のライフル銃を作るときに、この米国製銃をモデルにしたかといえば、
1854年にペリーが幕府に献上した物品の中にライフル銃1挺が含まれていました。
幕府ではその銃を基に、改良を加えた複製を1挺作り、万延元年(1860)の遣米
使節団に持たせます。アメリカでは日本が簡単にライフル銃の複製を作ってみせた
ことに驚いたそうです。(1860年6月2日付ザ・タイムス紙)
幕府はこれで「よし、いけるゼ!」と思ったのでしょうね。国産ライフル銃の大量生産に
踏み切ったワケです。

ところが職人が手作業で1挺作るならともかく、大量の銃にライフルを刻むことは非常
に難しく、結局国内技術だけではライフル銃を作ることは不可能でした。
その結果がこの写真の銃です。
製作時期は文久元年(1861)11月から翌年正月頃と思われます。
見かけは米国製1855スプリングフィールドですが、中身は先込め滑腔銃。つまり性能
はゲベール銃と同じ。先ほどの国産元込め銃と一緒です。

そのため、幕府は銃身にライフルを刻む機械を米国から輸入しようと計画します。
しかし、最新技術の流出を嫌がる米国は簡単に機械の輸出を許可しません。
この間(文久~慶応年間)、幕府はライフル銃を海外からの輸入で賄わなければなら
なかったわけですが、アメリカのご機嫌を取るために米国製スプリングフィールドを購入
する方が自然に思えるのですよね。

結局、ライフル製造機械は、日本と米国の交渉中の誤解やら、攘夷計画による鎖港
問題などでとん挫したため輸入はできず、国産ライフル銃計画は泡と消えました。
それと、スプリングフィールド銃のテープ雷管ですが、テープが紙製ということで雨に
弱く、1861年からは通常の雷管式に変更されています。
なので、文久以降にスプリングフィールドが輸入されているとしたら、通常雷管式だ
ろうし、幕府が国産化を目指したのもソチラに変更になっていたでしょうね。

ということで、学芸員さんに当時幕府はエンフィールドとスプリングフィールドのどちら
を多く輸入し採用していたのかを聞いてみました。
結果は、わからないそうです。
んー、まぁそうだろうな。そんなこと細かすぎる話か。
全国のミニエー銃をお持ちの博物館さま。今一度、お宅の銃のライフルの溝の数、
確かめてみませんか?


今年一年間、当ブログにご訪問いただきありがとうございました。
みなさま、よい年をお迎えください



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幕末の銃砲展①

12月19日に神保町アカデミーの講座がありまして、それが年内最後の講座
でした。そこまでは、ちょい忙しかったものでブログもお休みしておりました。
で、その間ずっと気になっていましたのが日野市立新選組のふるさと歴史館で
開かれていた「戊辰戦争150年 幕末の銃砲展」でありました。

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展示終了のギリギリガールズになってしまいましたが、ようやく時間ができたので観に
行ってまいりました。

特別展は常設展との共通料金で200円。展示は2階です。
歴史館に足を運ばれた方はご存知かと思いますが、2階展示スペースはそれほど
広くはありません。
しかし、今回の展示資料の濃密さといったら!
特別展のタイトルに偽りナッシングの幕末銃砲類の多さ。同時代史料、そして解説板
など目をみはる内容です。
しかも、一部の資料を除いて写真撮影可という太っ腹。
ワタクシ、元祖カメラ小僧・篠山紀信が南沙織を撮るがごとく、ゲベールちゃんたちを
撮りまくってまいりました。ま、スマホですけど。

今まで本を読んでいても分からなかったことも、理解できたところがあったのが、何より
の収穫です。
というコトで、その一部をご紹介。

ゲベール銃 ミニエー銃
上段がゲベール銃。下段がミニエー銃です。
鳥羽・伏見の戦い辺りでは主力になった銃ですね。
ところでこのミニエー銃は「再生ミニエー」だそうです。ミニエー銃は南北戦争終結で
大量に余ってるところを「これ、日本にだったら売れんじゃね?」てことで高っかい
値をつけて外国は幕府や諸藩に売ったワケです。
藩によっては少しでも安い銃を買いたいってのもあったのでしょうね。壊れた銃を
買い取り、それを修理して使ったらしいんですね。それが再生ミニエー銃。
事故車をニコイチにするみたいなモンですな。

ところで、ミニエー銃というのは「先込め式ライフル銃」で、おフランスのミニエーさんが
発明した銃のこと。その後、各国の工場で同様の銃が作られるようになり、イギリスで
作られた銃はエンフィールド銃。アメリカで作られたのはスプリングフィールド銃と呼ばれ
ます。この名称は作られた造兵廠(ぞうへいしょう)から取られています。
これらの銃は銃身の中のライフル(螺旋)の数が違うくらいで、特殊なモノ以外は外見
では製作造兵廠の刻印がない限り、その違いはわからないそうです。
なので、研究者でもない限り、エンフィールドだろうがスプリングフィールドだろうが、
奥様方が日々の会話の中で話されるならミニエー銃とまとめて言っても構わないでしょう。
「あら、奥さまのミニエー、ちょっとステキ」「でしょ?英国製ですのよ。ホホホ・・・」

ミニエー弾
ミニエー銃の弾丸は椎の実弾とか、プリチェット弾とか表記されますが、呼び方を色々
言ってるだけで、全て同じモノだそうです。
先が細くなった砲弾型で、お尻の部分に窪みがあるのが特徴。銃の口径よりも小さく
作ってあり、銃口の先っちょから入れるのが簡単。弾丸のお尻には窪みがあって、そこ
にコルクで詰め物をしています。発射時のガス圧でそれが膨張し、銃身に密着して回転
しながら飛んでいくということですな。
写真の弾丸は頭の部分が平になってます。これは不良品ではなくて、こうすると射程距離
と貫通能力は劣るのですが、かえって弾丸が体内に残りダメージを多く与えるという
恐ッそろしいタイプです。「その弾丸、アカンやつやッ!」

スナイドル銃①
スナイドル銃②
写真が後ろの銃と重なって、分かり辛くてスミマセン。
元込め式のスナイドル銃です。アメリカ人のスナイダーさんが作ったので英語読みを
すればスナイダー銃になります。当時の日本は英語よりまだまだオランダ語の方が
馴染みがあったのでしょうかね。

ここで、学芸員さんから教えていただいた元込め銃の歴史について。

世界で最初に大量生産が可能な元込め銃として開発されたのは、プロイセンのチュント
ナーテ・ゲベーア銃。通称ドライゼ銃です。
ところがプロイセンはこのドライゼ銃を1836年に作ったもののなぜか極秘扱いにして、
ずっと黙っていたのだそうです。で、30年後に勃発した普墺戦争(プロイセンVSオース
トリア)で初使用。周りを「聞いてないよぉ!」と言わせました。
元込め銃になると弾丸も変わってきまして、それまで別々に装備した弾頭・火薬・雷管
を一つにまとめた「薬莢」を使用するようになります。

イッセー「ナポレオンが幕府に贈ったというシャスポー銃は・・・?」
学芸員「アレも元込め銃ですね。ただ、ドライゼもシャスポーも紙薬莢なんです。だから
     湿気に弱いのが弱点だったんです。排莢作業はいりませんが」
イッセー「スナイドルは金属薬莢でしたね(写真参照)」
学芸員「元込め銃が出てくると、それまでの先込め銃は全く不利になります。大量に
     余ったミニエー銃をなんとかしろと、軍が懸賞をかけまして。で、スナイダー
     という人がミニエーの改造型として発明したのがスナイドル銃です」
イッセー「なるほど!スナイドルの銃弾装填口は、ミニエーの形そのままですね」
学芸員「ミニエーを改造すればできたので、スナイドルはすぐに普及したんです。
     ドライゼやシャスポーはすでにボルトアクションだったんですけどね。で、
     1870年頃にシャスポーを金属薬莢式に改良しまして。これが初代の村田銃
     (日本陸軍最初の国産銃)に繋がっていくのです」
イッセー「ところで、よく映画やドラマで敵兵の残した弾を拾って、自分の銃に使ったり
      してますけど、弾丸の互換性はあったんですか?」
学芸員「ないですね!どの銃も作られた工場によって口径はバラバラなんですよ。
     そのうちに規格ができてきたと思うんですけど、戊辰頃はないですね」

この企画展担当のMさんという学芸員の方、とても親切に教えてくれまして。
どうも長々とお聞きしてスミマセンでした。
ありがとうございました。

長くなりましたので、以下次回。

※日野市立新選組のふるさと歴史館の「戊辰戦争150年 幕末の銃砲展」は
12月24日に終了しております。


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