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仙台にて

仙台市博物館を後にして、その日は作並温泉まで行き宿泊。
ゆっくり温泉につかり、牛タンを」食べて、友人たちと久しぶりに夜中まで
談笑・・・というと聞こえはいいけど、つまりは学生時代と変わらぬバカ話。

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泊まったホテルの部屋から見た景色。
ちょうど紅葉が始まった頃でした。

「車でちょっと走れば山形だよ。」
と言って、友人が連れていってくれたのが東根市にある関山大滝。

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夏になるともっと水量が多くなって、迫力もあるんだそうですが、これはこれでイイ感じ
だと思います。

再び宮城側に戻って、また滝見物。鳳鳴四十八滝。

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滝って、なんか知らんけどテンション上がるよね!
コチラの滝は不動の滝とも云われてるようで、その名のとおり側には不動像が祀られて
いました。記録するの忘れましたが、幕末の作だったと思います。

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この後、定義山西方寺というお寺へ。

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ここは去年も連れてきてもらったのですが、参道もにぎやかで参拝客も多く、
関東でいうなら規模はともかく成田山に雰囲気が近いでしょうか。
「取り敢えず一回は行っとこーぜ!」みたいな。
参道で売っているデカい油揚げが名物とかで、みんな食べてる。
これが旨いんだ!前回来たときに食べました。
今年は昼食のあとだったので食べませんでしたが、コレはまた機会があれば
いただきたい。

西方寺というのは、平安時代の平重盛の重臣だった平貞能という武将が、壇ノ浦の
戦いの後に落ち延びてきてこの地にたどり着き、安徳天皇と平家一門の冥福を
祈って阿弥陀如来を安置したのが始まりだとか。
後で調べてみると、「定義」というのは貞能(さだよし)が改名した名前だそうです。

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これは鞘堂ですが、この中に阿弥陀堂が置かれております。
この鞘堂も、先ほどの写真の山門もけっこう時代があるように見えたのですが、昭和に
入ってからの建造ということで、ちょっと意外でした。

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鞘堂(六角堂)の中には自由に入れまして、阿弥陀堂も見ることができます。
以前はここが本堂だったのでしょうが、現在は少し離れた場所に近代的なビッグな
新本堂が建てられておりまして、ご本尊はそちらにお移りになっているようです。

六角堂の隣りには、こんな御社が。

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説明書きを読みますと、勝軍地蔵とあります。
その内容は、要約するとこんな感じ・・・。

「その昔、ある村人が戦に向かう途中、奇妙に光る石を見つけたんだそうじゃ。
不思議に思ってその石に無事帰れるように祈ったところ、村人は祈ったとおり
帰ることができたのじゃ。それでその石に勝軍地蔵と名前を付けて、ここに安置
したというわけじゃよ・・・」(語り・常田富士男のイメージで)

勝軍地蔵というと、徳川家康が関ヶ原の戦いの戦勝を祈願したという愛宕山の
勝軍地蔵が有名ですが、ふつう、甲冑を身につけ馬に跨っている姿で表され
ます。
ところがこの勝軍地蔵は、何も刻まれていない石の板。
まぁ、伝承の通りと言ってしまえばその通りなのですが、このような勝軍地蔵は
初めて見ました。
地元に伝わる伝承と、既存の勝軍地蔵が結びついたものなのかもしれない
ですね。

勝軍地蔵の裏に小高い場所がありまして、そこは天皇塚と呼ばれています。
安徳天皇の遺品を埋めて祀った所なのだそうです。

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遺品を埋めた塚の上に2本のケヤキを植えたところ、この木が成長するに連れて
つながりだしたことから連理の欅と呼ばれるようになり、縁結び・子育ての信仰を
集めるようになったのだとか。
ワタクシ、平安とか鎌倉あたりはよく知らないのですが、安徳天皇にまつわる史跡が
壇ノ浦から遠く離れたこの仙台にあるとは知りませんでした。

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五重塔も有りーの。
但し、昭和61年建立。
沢尻エリカさんと同い年←どーでもいい情報。


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仙台市博物館「戊辰戦争150年展」

しばらく記事を更新していない間に、アッという間に12月です。
師走です。
金八先生も「ボクは死にましぇん!!」と言いながら走る季節です(嘘)。

先月の上旬になりますが、仙台に行ってきました。
東北に住む大学時代の友人と会い、そして仙台市博物館で開催されている「戊辰戦争
150年展」の企画展を見るためでした。
ここ何年か、仙台には毎年のように遊びに行ってるのですが、ワタクシの住む東大和市
からですと、大宮駅を経由して新幹線はやぶさに乗れば2時間で仙台駅まで行けるので、
案外近いのですね。

仙台駅で友人に車で迎えに来てもらい、仙台市博物館に連れていってもらいました。

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コチラの企画展、7月から8月にかけて新潟県立歴史博物館、9月から10月にかけて
福島県立博物館で催されまして、10月下旬から仙台市博物館で開催されています。
10月までは仕事やら講座やらがあり忙しかったので、ようやく友人を巻き込んで見学
に行けたという次第です。

で、仙台の展示でも前期・後期と内容が若干変わるようなのです。
でもワタクシの都合が前期の期間中しかなかったことと、前期だけの展示となる「奥羽
越列藩同盟旗」をどうしても見たかったので、この時期に行ってきました。

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※チラシの真ん中にある、星印の旗ね

去年から幕末・明治維新150年ってことで、いろいろな場所で、それぞれの博物館などで
企画展が行われています。
我が東大和市でも9月から10月にかけて、やはり市内の郷土博物館で企画展が催されて
おりました。ワタクシの講座もその流れのようなモノです。
しかし、この新潟・福島・仙台で開催された企画展の先ず目を引くのは、明治維新ではなく、
「戊辰戦争150年」と銘打っているところです。
まぁ、その気持ちはわかります。
やらんでもいい戦争に突入せざるを得なかった東北・北陸の方々から見れば、150年前
の出来事は維新などというスマートな言葉ではなく、戦争の一言に尽きるでしょう。

ということで、今回の企画展は仙台では「最後の藩主 伊達慶邦の決断」とサブタイトルが
付けられているものの、仙台藩だけの史資料だけでなく、長岡、会津、二本松、庄内等の
列藩同盟に関わった諸藩の史資料が一同に並び(モチロン、新政府側も)、見応え十分、
いや十分過ぎるほどの内容量でした。

中でも一番感動したのは、複製ではあったけど松平容保公が死ぬまで身に付けていたと
云われる御宸翰ですね。自分は逆賊では決してない!という絶対の証であり、心の依り
どころだもんね・・・。泣けるわ。

別の意味で心を動かされたのは、ワタクシの大好きな細谷十太夫の衝撃隊(別名鴉組)
の軍装束があったこと。
いやね、彼らは全身真っ黒クロスケの服装でゲリラ戦を展開してたっていうから、地味な
隊服を想像していたのですが、これがスゴイの!陣羽織だと思うのだけど、黒地の背中に
赤い日の丸が描かれ、その中に1羽の八咫烏。裾には荒れ狂う波がしらと水しぶきが
豪快に描かれているという、まるで火消しの頭が見にまとうような派手な一品。
もちろん、これは隊長の細谷十太夫の羽織で、他の隊員がみんな着ていたワケではない
んだろうけど、さすが細谷さん。博奕打ちのようなアウトローを上手く手懐ける人だけあって、
やっぱりケレン味のある趣味をしていたんだなぁ、と嬉しく感じました。
アヴィレックスとかバズリクソンでこのデザインを背中にプリントしたフライトジャケットとか
発売されたら、間違いなく買うな!

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コチラは写真撮影オケの、幕末のおしゃれ番長・額兵隊のリバーシブル軍装。
150年前にこのセンスってシビれるわ~。
さすが、隊長・ドン小西「どんどん防虫!」 (嘘。ホントは隊長・星恂太郎)

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これもお約束ですね。新選組はやっぱりハズせないもの。
展示資料には隊長・山口二郎のときの「新選組名簿」、猪苗代に援軍を求める「土方歳三
書状」、「母成峠布陣図」、中島登の「袖章」「戦友姿絵」などなど。
現在行われている後期展示では、最近発見された「藤田五郎写真」も展示されているハズ。
(この時にはありませんでした。)

企画展は12月9日までなので、仙台周辺の方はぜったい行くべき!



で、ワタクシの幕末趣味に友人を付き合わせてしまったので、友人の趣味にもお付き合い
させていただきました。

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仙台文学館で開催されていた「ガラスの仮面展」。
ワタクシ、全然読んだことないのですが、世代的にはドンピシャの漫画ですよね。
そういや、演劇部の同期に、コレに影響されて入部してきたヤツがいたもの!
そんなせいか、会場内は同世代と思わしき方々がいっぱい。
ワタクシも友人のガイドでけっこう楽しめました。
・・・泥まんじゅう、じゃり、じゃり・・・。


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世界遺産記念特集 都内の「潜伏キリシタン史跡」

長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産が、このほど世界遺産に登録されました。
世界遺産登録に向けて活動してきた方々、本当におめでとうございます。

ところで「潜伏キリシタン」てナニ?「隠れキリシタン」とどう違うの?という素朴な疑問を
持った方もいらっしゃるのではないでしょうか。
実はワタクシもその一人でした。
ていうか、そもそも潜伏キリシタンなんて言葉、最近になって初めて聞いたくらいです。
ということで、この二つはどう違うんだろうとネットで調べてみました。

島原の乱を経て鎖国が完成するのが1639年。以降、キリスト教が解禁される明治
6年(1873)まで、日本人キリシタンはひたすら隠れてキリスト教を守り続けました。
それはたった一人の指導者もいないまま230年間も教義を守り続けるという、世界でも
例を見ない独特の信教でした。
彼らが守り続けた教義はカトリックです。これをひたすら230年間迫害を避けながら祈り
通した信者たちを「潜伏キリシタン」と呼ぶそうです。
明治6年解禁となって、全てのキリシタンが新しくできた教会に駆け込み神父様からの
教えを乞いました・・・となれば話は早いのですが、実はそうではなかったようなのです。
一部の信者は、教会にも行かず、ひたすら江戸時代のままのように隠れながら先祖から
伝えられたキリシタンの教えを守り続けたのです。
なぜか?

先にも言いましたが、230年間正当な指導者も無いまま語り継がれた「日本キリスト教」は
在来の仏教や神道にも影響され、独自のオリジナル宗教へと変化していました。
ですから、その教えを守り通してきた人々にとっては、正当なカトリックも受け入れられず、
キリスト教が解禁となった後も、隠れて独自のキリスト教を守ったんですね。
つまり、「隠れキリシタン」とは、明治6年以降も上記のような理由で隠れて信教していた
キリシタンらも含めた呼び名だというのです。

今回、世界遺産に登録された関連遺産は、江戸時代から明治6年までの間、迫害を避け
ながら守り通したカトリック系キリスト教徒に関する遺産、ということで「潜伏キリシタン」の
名称が付けられているようです。

前置きが長くなってしまいましたが、長崎や天草だけではなく、東京都内にも探してみると
潜伏キリシタンの史跡はけっこうあります。
そこで、今回はワタクシが都内ガイドや街歩き講座などで訪れた、都内のキリシタン史跡を
ご紹介してみることにいたします。

都内のキリシタン史跡で一番有名なのは、三田の住友不動産ビル前にある「元和キリシタン
遺蹟の碑」だと思いますが、それと同様の碑が高輪にもあります。

③高輪教会
こちらカトリック高輪教会
品川駅から柘榴坂を上がりきったところにある教会ですが、写真の正面階段を上がった
ところにその碑はあります。
④江戸の殉教者顕彰碑
元和9年(1623)、徳川家光は宣教師を含む50人のキリシタンを三田の刑場で処刑
しました(江戸の大殉教)。
その殉教者の中には家康の家臣だった原主水もいました。彼は岡崎を追放されますが
それでも布教を続けたため、手足の指と足の腱を切られてしまいます。それでも江戸に
潜伏して布教していたため、ついに捕まり処刑されました。
この碑は昭和31年(1956)に三田の刑場跡に建てられましたが、後にここに移されました。
なお、原主水は2008年に福者に列せられたとのことです。

高輪教会から高輪通りをまっすぐ北へ歩くと浄土宗のお寺光福寺があります。
⑤光福寺山門
江戸時代、ここには相福寺というお寺があったのですが、明治の廃仏毀釈の中で寺の数を
減らす動きがあり、「同じ宗派ならかまわねぇだろ」という乱暴な理屈で芝の源光寺というお寺
と一緒にさせられてしまいました。いわゆる、ニコイチです。で、お寺の名前もニコイチ。
なんともかわいそう・・・。

このお寺の境内に置かれているのがコチラ。
⑥切支丹灯籠
切支丹灯籠です。
別名織部式灯籠とも云われている形式の灯籠です。
元は上に灯籠部分があって、そこに灯りをつけると十字が浮かび上がったといいます。
正面にお地蔵さまのような絵が刻まれていますが、これが切支丹灯籠の基本図形です。
八頭身の人物がガウンをまとった姿なのだそうです。八頭身というのは、宣教師が教えた
最高の美意識だそうで、ギリシャ文化あたりから来ている考えだとか。
東洋人はまったく眼中にないっスね!
写真はちょっと見え辛いですが、ガウンの下から足が出ていまして、これが外ワニ足といって
靴を履いているようにみえるんですね。
通常の灯籠は地面の上に置かれますが、切支丹灯籠は地面に直接埋め込んで立てられる
という特徴もあります。
キリスト像もマリアの絵も飾ることができなかったキリシタンにとって、切支丹灯籠は大切な
崇拝対象だったのでしょうね。
ちなみにこの灯籠は昭和37年(1962)に近所から出土したものだそうです。

ちなみにココ光福寺はゆうれい地蔵というのがあることで知られています。
⑦ゆうれい地蔵
品川沖からあがったという、このお地蔵さま。確かに不可解な形をしております。
別名子安栄地地蔵尊といい、子育ての信仰を集めています。
切支丹に関係はないモノですが、珍しいのでご紹介。

切支丹灯籠はこの近くにもう一つあります。
柘榴坂を下った、品川駅のすぐ近くの高山稲荷神社です。
①高山稲荷神社
こちらの境内にあるおしゃもじさまと呼ばれる石造物がそれです。
②おしゃもじさま
名前の由来はよくわからないのですが、この神社では縁結びの神様として祀られています。
海中から引き揚げられたものとも、処刑された宣教師を供養するために立てられたとも
云われているそうですが、おそらく切支丹灯籠だろうと思われます。
外ワニ足がよくわかります。

切支丹灯籠がきれいな形で保存されている場所が目黒にあります。
目黒駅から行人坂を下り、目黒川を渡って山手通りにでると大聖院という天台宗のお寺が
あります。
⑧大聖院
本堂はご覧のように近代的な建築ですが、お寺の創建は弘治3年(1557)と古く、隣りにある
大鳥神社の別当を務めていました。
この境内に、切支丹灯籠が3基あります。
⑨切支丹灯籠
非常にいい保存状態ですね。
左右の灯籠を見ると、下から柱が上に延び、途中で左右に膨らみがあって、また上にちょっと
延びているのが分かりますでしょうか。
この形は十字架をデフォルメしたものだと云われています。
まんま十字架を作ったら命がないので、このような形を考案し、日本によくある灯籠に似せて
作ったことが分かります。
ココには目黒区が立てた説明板もありますので、参考になりますよ。
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日本が鎖国体制に入っても、日本にキリスト教を布教しようとして密入国をした宣教師は
いました。しかし、彼らは捕えられ江戸に送られ収監されてしまいます。
そういった密入国宣教師を閉じ込める専用の牢屋敷が、小石川小日向(文京区)にあり
ました。
それを切支丹屋敷といいます。
⑫切支丹屋敷跡
閑静な住宅街の中に、石碑だけが置かれています。
元々、この場所には大目付兼宗門改役だった下総高岡藩主・井上政重の下屋敷がありま
したが、正保6年(1646)にその敷地内に伴天連のための牢や見張り番屋が建てられました。
ここには寛永20年(1643)密入国し捕まったジュゼッペ・キアラやペトロ・マルクエズなど
10人が収監されたほか、宝永5年(1708)には屋久島に上陸したところを捕まったイタリア人
宣教師のシドッチも入れられました。
当時、6代将軍家宣のブレーンだった新井白石はシドッチを尋問し、そのことを「西洋紀聞」に
まとめます。このシドッチ以降、密入国宣教師は来なくなったため、寛政14年(1792)に
切支丹屋敷は廃止となりました。
⑬八兵衛の夜泣き石
平成26年(2014)、この場所で発掘調査を行ったところ、3体の人骨が出土しました。
DNA解析の結果、そのうちの1体はイタリア人男性であることが判明。シドッチのものである
ことがほぼ確定したそうです。
残る2体については、シドッチの身の周りの世話をしていた日本人、長介・はる夫婦と思われて
います。夫婦は元々潜伏キリシタンだったらしく、シドッチに頼んで密かに洗礼を受けたの
ですが、それがバレて処罰されてしまいました。シドッチは、外出できない外は比較的自由な
待遇だったらしいのですが、洗礼を与えたことから地下牢に押し込められ、そこで獄死したのだ
そうです。

ところで。上の写真の左側に小さな自然石が置かれていますが、これは八兵衛の夜泣き石
云われているもの。
切支丹屋敷の番卒に八兵衛という19歳の若者がいたそうですが、伴天連の世話をしている
うちに感化されてしまい、そのために逆さ埋め(!)にされてしまったのだそうです。その場所
には大きな伊豆石が置かれたのだそうですが、これが夜になるとすすり泣く声が聞こえたんだ
そうで、その八兵衛を供養するものだそうです。

そんな切支丹屋敷跡が近いせいでしょうか。
茗荷谷駅のちかくにある深光寺(じんこうじ)。浄土宗のお寺。
⑭深光寺
ここは「南総里見八犬伝」の作者・滝沢馬琴のお墓があることで知られていますが、境内には
切支丹灯籠もあります。
⑮切支丹灯籠
この灯籠についてはどうしてこの場所にあるのかなど、謂われは全くわからないのですが、
かなり完全な形で残されています。
それと、よーーーく見ると灯籠の、横に膨らんだ部分に何か四角く文字のようなものが
彫ってあるのがお分かりでしょうか。(大聖院の灯籠にも有り)
これはアルファベットのP、T、Iの3文字を図案化したものなのだそうです。
P、T、Iとはギリシャ語の「PATRI]の略で、「父」という意味。
切支丹灯籠にこのP、T、I図案が刻んであるのは慶長年間から江戸時代初期のものだけ
だそうで、そうするとこの深光寺の灯籠はかなり古いものだと言えそうです。
(松田重雄氏の考察による)

さて、最後は茗荷谷駅前の春日通りをまっすぐ東京ドーム方面へ。
すると見えてくるのが伝通院です。
⑩伝通院
家康の生母・於大の方の墓があることで有名なほか、幕末期には浪士組がここの塔頭だった
処静院から京都に旅立って行ったことでも有名なお寺です。清河八郎のお墓もありますね。
伝通院は歴史ファンにはとても親切なお寺で、墓域の入口に「著名人のお墓早見表」の説明板
が設置されています。これで、広い墓地の中を迷わず掃苔ができるというありがたいシステム。

この墓域にあるのがジョセフ岡本三右衛門神父供養碑です。
⑪ジョセフ岡本三右衛門碑
彼は本名をジュゼッペ・キアラというイエズス会の宣教師で、鎖国下の日本に密入国しましたが、
寛永20年(1643)に筑前で捕えられ、江戸に送られます。そして厳しい詮議と拷問を受け、
ついに棄教してしまうのです。その後は切支丹屋敷に移され、妻と岡本三右衛門という日本名
を与えられました。
実はこの岡本三右衛門は殉教したキリシタンの名前で、ジュゼッペが娶らされた妻は三右衛門
の妻だったのです。残酷な話や・・・。
しかし彼はその後、キリスト教や宣教師についての情報を幕府に提出するなど協力。83歳の
長寿を保ちました。
死後は荼毘され、当時伝通院の隣りにあった無量院に葬られました。そのときの墓石は一時
行方不明などにもなりましたが、現在は調布市のサレジオ神学院に置かれているそうです。

ということで、潜伏キリシタン史跡はやはり悲しいストーリーを背負ったものが多いですね。
ご紹介した史跡の中で、切支丹灯籠は、目黒の大聖寺以外は説明板もなく探すのに手間取る
ことがあるかもしれませんが、お近くに行かれたときにはご覧になってみてください。
まだまだ都内には、他の場所にもあるようです。

それと、ここが大事だと思うのですが、キリスト教禁令は江戸時代のものとついつい思いがち
ですが、明治に入ってからもしばらくの間はその政策が取られ続けたのです。
明治6年に解禁されるまでは、徳川時代よりも厳しいくらい明治政府は日本人がキリスト教に
触れることを禁じました。廃仏毀釈を見てもわかるように、初期の明治政府の宗教統制は非常
に極端だったんですね。
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慶応4年3月に出された、切支丹宗門禁止を通達する太政官令の高札。
太政官とは、現在の内閣に相当するもの。
(「里正日誌の世界」より)

メガ104
ウチの母は、「ワタシは子供の頃、教会の日曜学校に通ってて、洗礼こそ受けてないけど
心はクリスチャンに近いのよ!」と言いながら、年が明けると「あらあら一月のうちに成田山
へ行って早くお札をもらってこなきゃ!」と毎年言っては出かけていきます。
正しい日本人の姿だなぁ、と思ってます。

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羽生家と近藤勇書簡

今回もイベント参加のお話。

日野市に「佐藤彦五郎新選組資料館」がありますが、先日、そこの副館長さんから
日の出町の羽生(はぶ)家を見学するのだけど、ご一緒にいかがですかとのお誘い
をいただきました。
これは資料館のファンクラブの会員向けの企画だったのですが、欠員が出たため、
たまたま資料館に顔を出したワタクシにお声がかかったようでした。

彦五郎資料館さんは、ワタクシが日野の新選組関係ガイドをするときに、団体貸し切り
など便宜を計っていただいたり、また農兵や天然理心流など幕末多摩に関係する
資料なども見せていただいたり、日ごろから懇意にさせていただいております。

せっかくのお誘いいただいたので参加させていただくことにしましたが、
羽生家とはなんぞ?」
とお思いの方もいらっしゃることと思いますので、その辺りをざっとお話いたしますと・・・

日野宿の名主で土方歳三の義兄である佐藤彦五郎は、近藤勇ら新選組が甲陽鎮撫隊
と名前を変えて甲府城を接収に向かうとき、日野宿の農兵隊をまとめて「春日隊」を
組織し行動を共にします。
ところが、乾退助(後の板垣退助)率いる土佐の迅衝隊を中心とする新政府軍に、甲府
はすでに押さえられてしまい、甲陽鎮撫隊は柏尾で戦いますが、装備やモチベーション
で劣っていた鎮撫隊は敗れ、敗走しました。
彦五郎ら春日隊も総崩れとなり多摩に逃げ帰りましたが、その後すぐに新政府軍が
鎮撫隊に協力した者は捕縛して徹底的に取り調べる!という情報が入ります。
首謀者だった彦五郎は日野にいられなくなり、一家は離散しながら伝手を頼って
各地に逃げることとなりました。
彦五郎の子供たちはそれぞれバラバラに親戚などを頼って、粟の須村(八王子市)
や上溝村(相模原市)などへ行き、彦五郎(42)は妻のぶ(38・土方歳三実姉)、母親
まさ(62)、次女とも(5)、下女あさ(18)を連れて西多摩方面へ逃げたのです。
彦五郎が逃亡の末に匿われたのが大久野村(現・日の出町)の羽生家でした。、

彦五郎一行は、先ず二宮村(あきる野市)の「茂平」という人物の元にたどり着き、さらに
茂平氏の案内で大久野村の羽生家に着いたといいます。すでに夜中だったにもかかわら
ず、羽生家の皆が起きてきて彦五郎らに同情し、奥座敷に招き入れ食事などを与えて
くれ、一行はこの場所にしばらく落ち着くことができました。
佐藤家と羽生家がどのような関係にあったのかはわかっていないそうですが、お互い
江川代官領の名主ですからその辺りの連絡はよく取っていたのかもしれませんし、また、
慶応2年(1866)の武州世直し一揆が発生したときには、日野でも大久野でも一揆勢と
農兵隊の大きな戦いが起きていますから、その辺りの関係もあったかもしれません。

さて、見学日当日は小雨はパラつく生憎の空模様。
JR青梅線武蔵五日市駅から路線バスに乗り、大久野中学校前で降りると、そこから歩いて
3分ほど。

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突然、目の前に巨大な三階建ての蔵が出現!
これぞ大久野のランドマーク!
羽生家に到着です。

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この門構えにはビックリですね!
大久野には羽生家が多く、子字も「羽生」といい、西、上、中、下羽生といった屋号でそれ
ぞれ呼び合っていたようですが、名主だったコチラのお宅は上羽生という屋号だそうです。
家は酒造業や山林業を営んでいたといいますが、この門の立派さはどうでしょう!
かつての五日市周辺の隆盛を物語ります。

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普段開けることがないという門扉も、特別に開けていただけました。
実際に開けるのを手伝った方の言葉によると「思ったより軽い」そうです。
ちなみに柱は屋根の中心よりも前方に付けられていて、横から見ると後ろ(敷地内)に重心が
かかっているように見えます。この形式の門を薬医門といいます。
羽生家のご当主の案内で、敷地内を廻らせていただきます。

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米蔵(左)と味噌蔵(右)。何せ、土蔵だけで6棟あります!
とにかく敷地が広い、広い。
この2棟を入れた3棟の蔵は江戸時代後期に作られたとのこと。
先ほどのランドマークの三階蔵は明治中期に建築されたものだそうです。

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主屋。式台付きの玄関です。
明治24年に建てられ、その後幾度か増改築が行われているそうです。

これらの建造物も歴史的な価値がありとても素晴らしいのですが、さらなるお宝が
我々の目の前に登場します。
ということで、主屋の中に上がらせていただきました。

30年ほど前、羽生家の土蔵から1通の書簡が発見されました。
それが近藤勇の書簡だったのです。
その実物を、羽生家ご当主のご厚意により見せていただくことに!

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コチラがその書状です(右)。
左側の紙片は、ここに近藤勇の手紙が入っているよという書付けで、誰が書いたものかは
わからないそうですが、羽生家のご先祖の誰かでしょうね。

手紙の宛書は
「三浦休太郎様 近藤勇 机下」
となっています。
三浦休太郎・・・と聞いてピーンときた方は幕末ファン。

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こちらが手紙を広げたもの。
ほとんど虫食いがないことに驚き、桃の木、桃井かおりです。
よほど保存状態が良かったのでしょう。

さて、宛名の三浦休太郎ですが、その人物とこの手紙は、あの坂本龍馬と非常に深い関係
を持ったものなのです。

慶応3年(1867)4月23日、瀬戸内海を航行中の海援隊がチャーターしていた「いろは丸」
が、紀州藩の「明光丸」と衝突し沈没するという事件がありました(いろは丸事件)。
明光丸はいろは丸の6倍も大きい船だったことなどから、龍馬は紀州藩に責任を迫り、結果
として紀州藩は土佐藩に多額の賠償金を支払うことになりました。
しかし、龍馬はいろは丸に積んでいた物資・金銀を水増しして紀州藩に請求したのではないか
と云われております。そして、相手紀州藩の交渉役が、この手紙の宛先三浦休太郎なのです。

慶応3年11月15日に、坂本龍馬と中岡慎太郎は暗殺されます。
当時、海援隊と陸援隊の隊士らは、紀州が多額の賠償金を払わされたことを恨んで龍馬らを
殺したのではないかと考えました。そして、交渉役を勤めた三浦が怪しいとマークしたのです。
京都に滞在していた三浦は命の危険を感じ、会津藩を通じて新選組に身辺警護を依頼しました。

この手紙は、仕事を受けた近藤が、クライアントの三浦に宛てた手紙ということになります。
何が書いてあるのでしょうか?

季節は寒さに向かいますが、益々お健やかに奉ります。
我が配下の二郎をそちらに潜伏させておりましたこと、ご配慮していただき感謝いたします。
ついては、二郎を少々必要とする事件ができましたため、お断りなく引き取りましたこと、
急なことだったのでご説明もなく誠に申し訳ありませんでした。
近々にお会いした上で御礼を申し上げます。また、その時に関東の旗下奮発等々の一策を
行う件、いずれ来月上旬までには確執があるだろうと思われます。
この節、何か変わった意見などあればお知らせ下されたく、先ずは多忙のため乱筆にて
失礼いたします。  不具
  霜月十八日   
           近藤勇
三浦休太郎様


この二郎というのは斎藤一と思われます。
伊東甲子太郎が新選組と分かれたときに、斎藤は近藤側の間者として伊東派(御陵衛士)
に潜りこみます。そして、伊東が近藤、土方の暗殺を計画していると知るや、11月10日に
御陵衛士の屯所を脱走して新選組に帰ってくるのです。
報告を終えた斎藤は新選組屯所にいることがバレたら大変ですから、名前を「山口二郎」
と変えて三浦の元に潜伏していたのでしょう。

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さて、ではなぜ近藤は二郎(斎藤一)を急に呼び戻したのでしょう。
手紙の日付は「霜月(11月)18日」とあります。
この当日、近藤、土方は伊東を酒宴に誘い出し、しこたま酔わせた上でその帰り道を配下
の大石鍬二郎らに襲わせ、逆に暗殺してしまいます。さらに、その遺体を油小路に放置して
御陵衛士一党を誘い出し、これらを待ち伏せの上急襲し3名を斬殺しました(油小路の決闘)
この待ち伏せした新選組隊士の中に斎藤がいたと思われています。
御陵衛士の中にも服部武雄のような猛者もいましたから、近藤や土方としては実力のある
斎藤に出動してもらいたかったのでしょう。
ということで、この書簡は当時の緊迫した様子を証言するとても貴重な資料なのです。

そしてこの後、二郎こと斎藤一は海援隊・陸援隊に狙われた三浦休太郎の護衛として、他の
隊士らとその任務に就き、再び三浦の元に行くのです。
12月7日、ついにその時がやってきます。
三浦や斎藤らが宿泊していた天満屋に海援隊士らが斬り込んできたのです(天満屋事件)
しかし、斎藤らの活躍で三浦は軽傷で逃げ遂せました。
三浦は維新後、元老院議官、貴族院議員、第13代東京府知事などを務めています。

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近藤勇の書簡を手にする、佐藤彦五郎ご子孫の佐藤福子氏(右)と
羽生家19代目羽生謙五氏。
※ご本人の許可を得て撮影しております。転載はご遠慮ください。


ところで、三浦氏に宛てた手紙がなぜココにあるのか・・・てことですが、どうも渡す時間が
なかったのか三浦氏の元には行かなかったようなんですよね。
で、どのような理由かはわかりませんが、近藤勇が日野に帰ってきたときに、この手紙を
佐藤彦五郎に預けたようです。そして彦五郎が新政府の追手から避難するときに持ち出し
て羽生家に置いていったというようなことらしいです。
明治初期の頃までは新選組に関係するものを持っているだけでも、キツく尋問を受けたこと
でしょうが、やはり近藤の生きていた証として、処分することを彦五郎にも羽生家にもできな
かったのでしょうね。

ところで、明治15年(1882)に、大久野焼けとよばれる大火災があったそうです。
民家の7割、寺社の多くが焼失、被災したほどだったそうですが、その中でもこの書簡は
無事に守られてきたんですね。虫食いもほとんどありませんし、大切に今まで保管されて
きたことがわかります。

ただ、やはりこれだけの一級資料。
本来であれば、どこかの資料館か博物館に預けられ、ガラスケースの中に入れられ、外
から見させていただくようなモノですよね。
羽生さんも「近いうちにそうなるでしょう」と仰っておりました。
こんなにも至近距離で拝見できたのは幸運でもありますし、ラストチャンスだったでしょう。
佐藤彦五郎資料館館長様、副館長様、羽生様、ありがとうございました。

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羽生家の近く、清源寺にある羽生家墓所。
写真中央が彦五郎一行を匿ったときの当主・14代傳蔵さんのお墓。
傳蔵さんは当時47歳。安政元年に家督を継ぎ、年番名主を務め、明治5年から10年に
かけては戸長を務めたとのことです。


保管されていた手紙が近藤さんのモノで良かったですね。
もし、これが歳さんの手紙だったら・・・
メガ103


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新選組漫画 165 仙台市幕末紀行③

まだまだ続くよ、仙台編。

やっぱりココは来なきゃ、でしょ。
ってことで仙台城址にやってきました。

IMG_0058b.jpg

着いたのがもう夕方の時間で、政宗騎馬像を撮ろうとしたら逆光で
こんな真っ黒くろすけに。
まぁ、これはこれでカッコイイか?

この政宗像の背後に本丸がありましたが、仙台城ってのは山城なので本丸まで
来るのにはけっこうな坂道を登ってこなきゃなりません。
戦国時代ならともかく、江戸時代に入ると「こんな坂道に毎日登っていられるかよ!」
ってんで、坂下の二の丸が殿さまの住居や、通常業務に使われたそうです。
本丸は特別な儀式や、来賓のあったときなどに使用されたんだとか。
現在は、車で一気に本丸横の駐車場まで上がってこれますけどね。

で、話は幕末ですよ。
慶応4年(1868)9月3日、奥羽越列藩同盟の軍議が仙台城で行われます。
お城のどこで軍議が開かれたのか、正確な場所はわからないらしいんですが、たぶん
本丸で間違いないんじゃないでしょうか。

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本丸の跡にはこのように縄張りがしてあって、どこにどの部屋があったのかわかる
ようになっています。写真のちょうど正面が大広間ですね。
土方歳三や榎本武揚は、ここで列藩同盟諸藩の重臣たちと会談をしたのでしょうか?

席上、榎本は列藩同盟強化のために土方を総督に推薦します。
鳥羽・伏見から最前線で戦い続けている土方のキャリアにかなう者などいないので、一同
もこれに賛成。
ところが土方は総督を引き受けるにあたって、一つの条件を出します。
それは、各藩の重臣から一兵卒まで全ての戦闘員の命は自分の思いのままにさせて
欲しいという、生殺与奪の権を与えよというものでした。

おそらく土方は、そこまで覚悟を決めないと戦に勝ち目はないよ、と言いたかったんじゃ
ないかと思います。
ただこれを聞いた諸藩重臣一同は、みんなブルっちゃう。
「それじゃ、ナンですか?土方総督の命令にNOって言ったら、殺されてもいいってこと
なんですか?」
「そんな強行が許されるのは藩主さまだけっス。そんな怖い考えについていけないっス」
キャーキャー言い出す重臣らに、土方は怒りとあきらめのあまり席を蹴って退席して
しまうのでした。
奥羽越列藩同盟の崩壊です。
もっとも、土方や榎本らが仙台入りする前に、列藩同盟のリーダーであるはずの仙台藩
からしてすでに、藩論が恭順に傾きつつあった状況だったのですがね。

IMG_0063b.jpg

本丸跡から城下を見下ろす。
たぶん、仙台駅の方向です。
歳さんやエノタケさんもこの景色を眺めながら「ダメだ、こりゃ!」ってつぶやいたのかな。

この日はこのあと、仙台市在住のchihiroイグレシアスくんのご案内で、やたら美味くて
量の多い焼き鳥屋で演劇研究会のプチ同窓会。
知り合ってからもう30年が経ち、それぞれ別の道を歩いているというのに、〇ン年ぶりで
会ってもすぐ当時のままに戻れるというのは、ありがたい仲間たちです。
「イッセーくんさぁ、1年生のとき、6号館のホールで巨大な立て看板を一人で描かされて
たよね~、はははは・・・」(by kitacoさん)
ははは、じゃねーよ。傍から聞いてたらイジメ受けてたみたいじゃないか。
ちがうよ。制作チーフのタカエ先輩の命令に逆らえなかっただけだよ。
生殺与奪の権を握られていたもので・・・。

さて。
翌日はひとりで、残りの史跡廻り。
前回ご紹介した榴ヶ岡天満宮もこの日に行ったのですが、その前に県庁のある方角に
散歩してみることに。

IMG_0080b.jpg

仙台駅からやや北西に位置する勾当台公園です。
写真の左側奥にある建物が宮城県庁。
この勾当台公園に、仙台藩の藩校養賢堂がありました。

IMG_0076a.jpg

藩校 養賢堂跡の碑だけが、ひっそりと建ってます。
県議会庁舎入り口の脇にありますが、本当に目立たないので、探して行かれる方は
ご注意ください。

奥羽越列藩同盟の結成に奔走した玉蟲左太夫は、養賢堂の指南頭取をしていました。
また、戊辰戦争時には仙台に集まってきた諸藩からの脱走兵の宿舎にも使われた
そうです。

現在の勾当台公園には古図広場というタイル敷のスペースがあり、
安政3年(1856)に作られた「仙台城下大絵図」がその路面タイルに描かれています。

IMG_0077a.jpg
IMG_0078a.jpg

細かい文字とかは読み取れませんけどね。

勾当台公園を南に下って広瀬通りを西に歩きます。
歓楽街で有名な国分町通りを過ぎた辺りに、かつては外人屋という屋敷がありました。
「外人」というのは現在の「外国人」という意味ではなく、「藩外の人」という意味です。つまり、
外人屋とは藩外からの来客を迎えた宿泊所のこと。

IMG_0082a.jpg

現在は何の痕跡もありません。
1階にTSUTAYAの入っているビルがその跡と推定されます。
もしも行ってみたい方は、「ホテルグランテラス仙台国分」を目印にしてください。
そのホテルの向かいが写真のビルです。
ここにも戊辰戦争当時は多くの人が集まったことでしょうね。


ところで前日、仙台城に行く前に瑞鳳殿にも行きました。
伊達家三代の霊廟があるところ。観光の名所ですから、まぁ行きますわな。

IMG_0045b.jpg

霊廟はとても感心いたしましたが、それよりもっと気になったのが、いたる所に貼られて
いたこの張り紙です。

IMG_0037b.jpg

この「お知らせ」が、20mくらいの間隔でベタベタ貼ってあるんですわ。
「こりゃ、よっぽどのコトだな・・・」と、そっちの方が気になって仕方ないス。
けど、瑞鳳殿ってすぐ裏は住宅地なんですよねぇ・・・。
全国でこの方たちの目撃や被害が相次いでおりますが、気を付けたいものです。
まぁ、山や森は本来彼らのモノなんだけどね。



この後、仙台を離れて向かった先は・・・

IMG_0117b.jpg
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白石でした。

白石城を見て、片倉小十郎参りをして、温麺を食べてきました。
・・・けど、幕末にはカンケーないので以下省略。

あ、でもひと言。
白石の史跡廻りをするのなら、駅前のレンタサイクルが便利でした。

20160628.jpg

歳さんの仙台人に対する生殺与奪の権は、山南さん切腹のときに
すでに発動されていたのでしょうか・・・!?

ところで、今回の仙台市幕末史跡廻りでは歳月堂出版の「ふぃーるど・わーく」
というガイドブックを大いに参考にさせていただきました。
幕末の、特に新選組関連の史跡ガイドには、この「ふぃーるど・わーく」の
詳細さは他に例を見ないと思います。
嬉しいことに、公共交通機関の案内もついていますしね。
残念ながら「仙台編」はすでにSOLD OUTのようですが、「京都編」「山梨編」
あたりだと、まだ入手可能のようです。

歳月堂オンライン(こちら、クリック!)


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