新選組漫画 165 仙台市幕末紀行③

まだまだ続くよ、仙台編。

やっぱりココは来なきゃ、でしょ。
ってことで仙台城址にやってきました。

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着いたのがもう夕方の時間で、政宗騎馬像を撮ろうとしたら逆光で
こんな真っ黒くろすけに。
まぁ、これはこれでカッコイイか?

この政宗像の背後に本丸がありましたが、仙台城ってのは山城なので本丸まで
来るのにはけっこうな坂道を登ってこなきゃなりません。
戦国時代ならともかく、江戸時代に入ると「こんな坂道に毎日登っていられるかよ!」
ってんで、坂下の二の丸が殿さまの住居や、通常業務に使われたそうです。
本丸は特別な儀式や、来賓のあったときなどに使用されたんだとか。
現在は、車で一気に本丸横の駐車場まで上がってこれますけどね。

で、話は幕末ですよ。
慶応4年(1868)9月3日、奥羽越列藩同盟の軍議が仙台城で行われます。
お城のどこで軍議が開かれたのか、正確な場所はわからないらしいんですが、たぶん
本丸で間違いないんじゃないでしょうか。

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本丸の跡にはこのように縄張りがしてあって、どこにどの部屋があったのかわかる
ようになっています。写真のちょうど正面が大広間ですね。
土方歳三や榎本武揚は、ここで列藩同盟諸藩の重臣たちと会談をしたのでしょうか?

席上、榎本は列藩同盟強化のために土方を総督に推薦します。
鳥羽・伏見から最前線で戦い続けている土方のキャリアにかなう者などいないので、一同
もこれに賛成。
ところが土方は総督を引き受けるにあたって、一つの条件を出します。
それは、各藩の重臣から一兵卒まで全ての戦闘員の命は自分の思いのままにさせて
欲しいという、生殺与奪の権を与えよというものでした。

おそらく土方は、そこまで覚悟を決めないと戦に勝ち目はないよ、と言いたかったんじゃ
ないかと思います。
ただこれを聞いた諸藩重臣一同は、みんなブルっちゃう。
「それじゃ、ナンですか?土方総督の命令にNOって言ったら、殺されてもいいってこと
なんですか?」
「そんな強行が許されるのは藩主さまだけっス。そんな怖い考えについていけないっス」
キャーキャー言い出す重臣らに、土方は怒りとあきらめのあまり席を蹴って退席して
しまうのでした。
奥羽越列藩同盟の崩壊です。
もっとも、土方や榎本らが仙台入りする前に、列藩同盟のリーダーであるはずの仙台藩
からしてすでに、藩論が恭順に傾きつつあった状況だったのですがね。

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本丸跡から城下を見下ろす。
たぶん、仙台駅の方向です。
歳さんやエノタケさんもこの景色を眺めながら「ダメだ、こりゃ!」ってつぶやいたのかな。

この日はこのあと、仙台市在住のchihiroイグレシアスくんのご案内で、やたら美味くて
量の多い焼き鳥屋で演劇研究会のプチ同窓会。
知り合ってからもう30年が経ち、それぞれ別の道を歩いているというのに、〇ン年ぶりで
会ってもすぐ当時のままに戻れるというのは、ありがたい仲間たちです。
「イッセーくんさぁ、1年生のとき、6号館のホールで巨大な立て看板を一人で描かされて
たよね~、はははは・・・」(by kitacoさん)
ははは、じゃねーよ。傍から聞いてたらイジメ受けてたみたいじゃないか。
ちがうよ。制作チーフのタカエ先輩の命令に逆らえなかっただけだよ。
生殺与奪の権を握られていたもので・・・。

さて。
翌日はひとりで、残りの史跡廻り。
前回ご紹介した榴ヶ岡天満宮もこの日に行ったのですが、その前に県庁のある方角に
散歩してみることに。

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仙台駅からやや北西に位置する勾当台公園です。
写真の左側奥にある建物が宮城県庁。
この勾当台公園に、仙台藩の藩校養賢堂がありました。

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藩校 養賢堂跡の碑だけが、ひっそりと建ってます。
県議会庁舎入り口の脇にありますが、本当に目立たないので、探して行かれる方は
ご注意ください。

奥羽越列藩同盟の結成に奔走した玉蟲左太夫は、養賢堂の指南頭取をしていました。
また、戊辰戦争時には仙台に集まってきた諸藩からの脱走兵の宿舎にも使われた
そうです。

現在の勾当台公園には古図広場というタイル敷のスペースがあり、
安政3年(1856)に作られた「仙台城下大絵図」がその路面タイルに描かれています。

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細かい文字とかは読み取れませんけどね。

勾当台公園を南に下って広瀬通りを西に歩きます。
歓楽街で有名な国分町通りを過ぎた辺りに、かつては外人屋という屋敷がありました。
「外人」というのは現在の「外国人」という意味ではなく、「藩外の人」という意味です。つまり、
外人屋とは藩外からの来客を迎えた宿泊所のこと。

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現在は何の痕跡もありません。
1階にTSUTAYAの入っているビルがその跡と推定されます。
もしも行ってみたい方は、「ホテルグランテラス仙台国分」を目印にしてください。
そのホテルの向かいが写真のビルです。
ここにも戊辰戦争当時は多くの人が集まったことでしょうね。


ところで前日、仙台城に行く前に瑞鳳殿にも行きました。
伊達家三代の霊廟があるところ。観光の名所ですから、まぁ行きますわな。

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霊廟はとても感心いたしましたが、それよりもっと気になったのが、いたる所に貼られて
いたこの張り紙です。

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この「お知らせ」が、20mくらいの間隔でベタベタ貼ってあるんですわ。
「こりゃ、よっぽどのコトだな・・・」と、そっちの方が気になって仕方ないス。
けど、瑞鳳殿ってすぐ裏は住宅地なんですよねぇ・・・。
全国でこの方たちの目撃や被害が相次いでおりますが、気を付けたいものです。
まぁ、山や森は本来彼らのモノなんだけどね。



この後、仙台を離れて向かった先は・・・

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白石でした。

白石城を見て、片倉小十郎参りをして、温麺を食べてきました。
・・・けど、幕末にはカンケーないので以下省略。

あ、でもひと言。
白石の史跡廻りをするのなら、駅前のレンタサイクルが便利でした。

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歳さんの仙台人に対する生殺与奪の権は、山南さん切腹のときに
すでに発動されていたのでしょうか・・・!?

ところで、今回の仙台市幕末史跡廻りでは歳月堂出版の「ふぃーるど・わーく」
というガイドブックを大いに参考にさせていただきました。
幕末の、特に新選組関連の史跡ガイドには、この「ふぃーるど・わーく」の
詳細さは他に例を見ないと思います。
嬉しいことに、公共交通機関の案内もついていますしね。
残念ながら「仙台編」はすでにSOLD OUTのようですが、「京都編」「山梨編」
あたりだと、まだ入手可能のようです。

歳月堂オンライン(こちら、クリック!)


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新選組漫画 164 仙台市幕末紀行②

清浄光院を出て、次に向かうのは同じ青葉区内のお寺。
しかし、仙台市はさすが城下町というか、お寺が集中しているエリアは一方通行
や細い路地が多く、ナビ通りに進んでも迷うことしばしばです。

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で、やっと着きました~。
龍雲院です。
コチラのお寺にも幕末仙台藩の偉人が眠っておられるのですが・・・その前に、ここには
江戸時代のかなり有名な方のお墓もありますので、最初にそちらをご紹介します。

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ひときわ立派なお堂の中に祀られている林子平のお墓です。
あ、それって笑点の新しいレギュラーになった人?
・・・って違います。そりゃ三平。
この人、林家一門じゃありませんから。

林子平は江戸時代後期の学者・・・ていうか国防評論家ってカンジですかね、
今風に言うと。
お姉ちゃんが仙台藩主の側室になった縁で、仙台藩の禄をもらう身となったの
ですが、よせばいいのに藩の経済改革とか藩士教育とかやたらに首を突っ込む
もんだから「お前、新参の分際でいいかげんにせーよ!」と上級藩士から怒られて
しまいます。
すると子平、「じゃ、いーよ。自由にさせてもらいます!」と禄を離れ、身分を兄の
厄介に落として、自分さがしの旅に出ちゃいます。
全国を歩き廻り、様々な人に会い見聞を広めた子平ですが、松前まで行くと、すぐ
そこまでロシア船が来ていることに驚愕し警戒感を強めることに。

江戸に帰った子平は早速「海国兵談」を執筆
「およそ日本橋から欧羅巴まで、その間ただ一つの水路あるのみ」

と書いて、日本は周りが全て海で囲まれているんだから、海防にしっかり取り組まなきゃ
ダメだお!と警告するんですね。

ところが、当時は国の軍事に関わることを発言できるのは幕府内の者だけ。
本は発禁となり、子平は仙台藩に強制連行となってしまいます。
しかし、「海国兵談」」はその後も写本などが読まれて、後の幕末の海防政策へと発展
していくのですから、幕末に縁のある人・・・とも言えるでしょう。

林子平は高山彦九郎、蒲生君平と共に寛政の三奇人と云われています。
奇人とは、現代でいうところの天才というニュアンスです。

では、ワタクシのメイン目的の方のお墓参りといきましょう。

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細谷十太夫のお墓です。

彼は仙台藩では軽い身分の藩士でしたが、行商人などに変装して各地を廻り情報を
集める仕事に才能を発揮します。そして、その過程において、地回りの親分衆や博徒
といった無頼の徒とも知り合いになり、彼らを味方につけるのです。こういった人をつかう
才能に秀でていたのでしょうね。

さて、戊辰戦争が始まりますが、仙台藩は白河の戦いで敗走し、新政府軍から「大砲
1発ドーンと撃つと、5里逃げる。ドンゴリ、ドンゴリ~!」と馬鹿にされる始末。

これに怒った十太夫は、仲間となった博徒やら農民やらと共に衝撃隊という
戦闘部隊を組織し、新政府軍に戦いを挑むのです。
衝撃隊は全員黒装束を身にまとい、カラスを描いた旗を振りかざして夜襲を敢行。
武器は刀や鎗だけながら、勇猛果敢に戦い、連戦連勝。
その神出鬼没ぶりから「鴉組」と呼ばれ、新政府軍を恐怖のズンドコに落とし入れた
のです。
隊長の細谷に至っては、実際に生きた1羽のカラスを従えて指揮を執っていたといいます。
まるで、男塾の三号生、男爵ディーノそのものではないですか。

しかし、仙台藩が恭順すると、十太夫もこれに従い衝撃隊も解散。
この辺りが額兵隊と違うんですが、十太夫は裏から手を回し、星恂太郎ら額兵隊の隊士
らを榎本艦隊に乗船させる手引きをしたと云われています。

さて、上の写真からもわかる通り、十太夫のお墓は無縫塔です。
彼は晩年出家して、ここ龍雲院の住職になっていたのです。
カラス隊長男爵ディーノ(まぁ、違うんですが)が、なぜ僧侶に?と不思議に思うのですが、
彼はとても林子平を尊敬していたようで、当時荒れ果てていた龍雲院を再興したいと
いう思いが強かったからだと云われています。

星恂太郎や細谷十太夫に関係する史跡がもう1ヶ所あります。

そこへは翌日、鉄道で向かいました。
といっても、仙台駅から仙石線で一つ目の駅、榴ヶ岡駅で下車。
徒歩で3~4分ほどにある榴ヶ岡天満宮です。

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この場所は額兵隊が訓練を行ったとの伝承もあるようです。
そのためでしょうか、ここには額兵隊や星恂太郎の顕彰碑が建っているのです。

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星恂太郎碑です。
ちょっと木陰になって見えづらくなり、申し訳ありません。
この顕彰碑は明治30年に、額兵隊の幹部だった人たちや、カラス隊長細谷十太夫
らによって建てられました。

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その星恂太郎碑と向かい合わせで建っているのがコチラ。
額兵隊・見国隊碑です。
この碑は明治31年に、両隊の幹部だった元隊士が建てたとのこと。

見国隊も、戊辰戦争で活躍した戦闘部隊の一つです。

で、この額兵隊・見国隊碑のとなりにあるのが、見国隊の隊長を務めて五稜郭の戦いで
戦死した二関源治を顕彰する石碑です。

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二関源治顕彰碑

二関は額兵隊の隊士でしたが、新政府は仙台藩が恭順しても領地を半減するなど
の処分を下したため不満を持ちました。
同じような怒りを持つ藩士の二、三男らを取りまとめ、石巻で結成されたのが
見国隊です。蝦夷に渡って、箱館戦争を戦いました。
この二関の碑は、星恂太郎碑と同じときに建てられたようです。

幕末には〇〇隊、〇〇組といった、いわゆる「幕末諸隊」というものが各地でたくさん
発生しています。
一般によく知られるのが新選組や白虎隊、奇兵隊、海援隊といった部隊ですが、
それ以外にも各地の諸部隊を一つ一つ見ていくのも、なかなか興味深いものです。


20160623.jpg


・・・ちなみに。
ご紹介した榴ヶ岡天満宮の最寄り駅、仙石線の榴ヶ岡駅ですが、プロ野球楽天
ゴールデンイーグルスの本拠地・koboスタ宮城の最寄り駅でもあります。
ゲームのある日はけっこう混雑するようですので、行かれる方はお気を付けください!

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新選組漫画 163 仙台市幕末紀行①

先週末に宮城県仙台市に行ってまいりました。

学生時代に共に演劇に明け暮れた友人が、今仙台と秋田に住んでいまして、
ちょっとプチ同窓会でもやりましょうか、ということで集まることに。

東北新幹線にはかなり久しぶりに乗りましたが、大宮駅から「はやぶさ」に乗って
1時間ちょいで仙台駅に到着。
昼前には仙台駅で迎えに来ていた友人らと合流です。

昼食後にワタクシのリクエストとして「仙台市幕末紀行」に出かけます。
日本史に、幕末に特に興味があるというワケでもない友人たちも付き合って
くれました。Cくん、車を出してくれてありがとう!

先ず向かったのは、若林区にある保春院です。

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ハイ、こちらが保春院の山門でございます。
・・・ウソです。
駐車場がお寺の裏側にありまして、そこからの入り口がココなんです。
ちなみに保春院の本堂は、ただ今改装真っ最中。工事のため覆いがかかっていま
したので写真には撮れませんでした。

「保春院」は伊達政宗の母親、義姫のことですね。
ここは政宗が母親が亡くなった後に、その供養のために建てたお寺です。といっても、
義姫の墓があるわけではありません。
こちらに来たのは、この方のお墓参りをするためです。

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仙台藩士玉蟲左太夫です。
名前だけ見ると、丸尾末広の漫画の登場人物みたいな名前ですね。「お前の目玉を
舐めさせておくれ・・・!」とか言いそうですが、全く違います。

彼は江戸の湯島聖堂の塾頭になるほどの秀才で、万延元年(1860)の日米修好通商
条約の批准書交換使節の一員として、アメリカに渡っています。
聞くところによると、なんでもかんでもメモしまくり、正確に記録に取る特技があったそうで、
そんな真面目な性格が外交随員として重宝されたんでしょうね。
戊辰戦争がはじまると、軍務局副頭取となって奥羽越列藩同盟成立のため
に会津に走るなど活躍します。
ところが、肝心の仙台藩が新政府軍に恭順してしまったために捕まり、最後は獄中で
切腹を申し付けられるという非業の最期を遂げます。

写真の左側にあるちょっと黒っぽい墓石が左太夫本人のお墓です。
左太夫の友人が建てたようですが「玉虫拙斎之墓」と刻んであります。

続いて向かったのは青葉区の清浄光院

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こちらのお寺に眠るのは、仙台藩が誇る最強洋式銃隊額兵隊の隊長だった
星恂太郎です。

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山門を潜ってすぐ左に顕彰碑があります。

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お墓は本堂の脇にあります。
「星家之墓」とあって、側面に代々祀られた人の法名・没年・俗名が刻まれています。
恂太郎の名もあるのですが、薄くなっていてやっと判読できるかんじです。

恂太郎は仙台東照宮の神官の家に生まれます。そのせいかゴリゴリの攘夷で、仙台藩の
開国派を斬ろうとまでしますが、逆に説得され、その後は積極的に海外の知識を取り入れ
ます。そんなところは坂本龍馬に似てますね。
横浜で西洋戦術を学び、戊辰戦争がはじまると仙台に呼び戻され、洋式銃隊部隊額兵隊
の隊長に就任しました。
しかし、仙台藩が恭順に傾くと「そんなんやってられっかーッ」と、隊を率いて脱走。
旧幕府軍に合流し、蝦夷に上陸。土方歳三の指揮下に入って活躍します。

額兵隊はその実力もさることながら、別の部分で佐幕ファンから人気です。
その理由は西洋式の隊服。
通常は真っ赤な表側、戦闘時には裏返して黒色という、イギリス式リバーシブル制服を
採用していたからです。
この額兵隊のコスプレは、今でもイベント等で大人気。
まさしく、幕末のオシャレ番長です。by ドーーーーーン小西!

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いつも史跡レポは長くなるので、今回は小分けにしてアップします。

仙台のマイナー史跡廻りに付き合ってくれたワタクシの友人たちのブログを
紹介します。
人生の役にはまったく立ちませんが、面白いので、ぜひどうぞ!

chihiroイグレシアスのぼんくら日記

世界映画博


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川越散策

先日、市内の歴史サークルの方々と埼玉県川越市の史跡散策をしてまいりました。
今回のブログはそのときの写真を中心にお届けいたします。

東大和市と川越市は何の関連もないようで、実は歴史的にはけっこう関係が深い
間柄です。
その一つが野火止用水
承応3年(1654)に玉川上水が完成すると、その総責任者だった松平信綱はご褒美
として、自分の領内(川越)まで分水を引く許可を得ます。分水口は現在の西武線
玉川上水駅の東側に設けられ、東大和市の南を通って北上するルートで作られました。
これが野火止用水です。
ただし、東大和市域には一滴も分水が許されなかった悲しい歴史があります。

もう一つは新河岸川舟運です。
新河岸川は川越から江戸に物資を運ぶために、信綱が整備しました。
東大和市内を清戸街道が通っていますが、この道は清瀬を経由して志木の引又で
新河岸川に至ります。狭山丘陵一帯から江戸へ運ばれる物資も、このルートで輸送
されたことでしょう。

てなワケで川越へ。
現在は西武線沿線という鉄道ルートでつながりのある東大和と川越です。
しかし、路線の事情で東大和から川越へは、遠回りとなる小平駅に出て乗り換えな
ければならないため、それほど利便性がいいわけではありません。

IMG_1437a.jpg 本川越駅


先ずは東方面に歩き、仙波東照宮に向かいます。

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日光、久能山と並んで「三大東照宮」の一つに数えられるそうですが、その佇まいは至って
地味です。
徳川家康は元和2年(1616)に75歳で亡くなり、一旦は久能山に葬られますが、その遺言
により翌年日光に移葬されます。その道中、この場所で4日間遺体が留め置かれるのです。
というのも、ここに家康の側近だった天海僧正が住持を務めていた喜多院があったから。
4日間に及ぶ大法要を終えて家康の遺骸は日光に向かうのですが、天海僧正は家康への
感謝の気持ちを表わすために家康像を作り祀ります。これが東照宮の初めです。

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本殿のある唐門の前です。
手前にある灯籠は明暦2年(1656)に川越藩主松平伊豆守信綱が寄進したもの。

唐門の中へは入れませんが・・・

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柵の中にカメラを入れて、本殿を一枚。
中には岩佐又兵衛の描いた三十六歌仙の絵もあるんだそうな・・・。
見たーい。

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灯籠は歴代の藩主が(全員ではありませんが)寄進しています。
これはその中の一つ。
柳沢美濃守吉保が寄進した灯籠です。
本殿の外側の地域にある拝殿の前にあります。

ところで、拝殿の前で写真を撮ったらこんな感じで・・・

DSCF7395a.jpg

めっちゃ、オーブが飛びまくってるんですが、コレ何なん?
東照大権現さまですか?
お話したいということであれば、当方はいつでもウェルカムです。
江戸話しましょう!

仙波東照宮を出て北側へ歩くと、喜多院です。

IMG_1444a.jpg

拝観料を払うと客殿や書院に入れます。
江戸城の紅葉山にあった御殿(家光誕生の間、春日局の間)を移築した、というのがソレ
です。少々薄暗い感じではありますが、重厚な趣のある部屋ですね。
江戸城の御殿建築物は、火災などもあって一切現存していません。
この二間だけが移築されていたので、かろうじて残っているだけです。
しかし、重機のない時代によくこれだけのものを移築できたものです。当時の喜多院が
持っていた力が想像できます。
残念ながら、写真撮影はNG。
けど、庭は撮影できましたので、一枚。

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小堀遠州の庭だそうです。

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喜多院の建造物では、この宝塔が一番カッコイイ形をしていると思います。

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五百羅漢像・・・あなたの隣りの家のおっさんに似た顔もきっとある!

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こちらが南光坊天海大僧正
金地院崇伝と共に家康の側近を務め、「黒衣の宰相」と呼ばれた僧侶。
108歳まで生きていたといいます。
笑い方は絶対に「ぐふふふ・・・」だったでしょうね。

喜多院の東側、天海僧正像と道路をはさんで建っているのが日枝神社

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山王祭が行われることで有名な赤坂の日枝神社は、元々は江戸城の中にありましたが、
その日枝神社はこの川越の日枝神社を太田道灌が勧進したものと云われています。
少し離れた所から見ると、この神社が少し小高い場所にあるのがわかりますが、この
場所には元々古墳があったとのこと。

さて、喜多院や日枝神社からずーっと北へ向かいます。
すると、川越市役所前に出ますが、市役所の前に立っているのがコチラ。

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太田道灌像であります。
川越城を築いたのがこの人(と、父親の道真)。
市役所がある場所は、かつての川越城の大手門の位置になります。
道灌といえば川越ばかりでなく東京都内、多摩一帯を含めた地域のスーパースター。
大手門跡にその像を作るのは当然です。
なんなら、お台場にあったガンダムくらいデカくたって文句はありません。

平安末期から南北朝時代にかけて、川越を支配していたのは「河越氏」であり、その
本拠地は現在の川越の西方、上戸にありました。
鎌倉時代に執権北条氏が傀儡として京都から親王将軍を迎えますが、その護衛と
して下ってきたのが上杉氏。その上杉氏が室町時代に入ると関東の覇権を古河公方
の足利氏と争うようになります。
この頃、上杉氏は一族がいくつかの家に分かれますが、その一つ扇谷上杉氏の家裁
を務めていたのが太田道灌です。
河越(上戸)は山内上杉氏が陣を置いていましたが、道灌は新たに川越城を築きます。
川越城と江戸城を対立する古河公方からの防衛ラインとしていたわけですね。
これ以降、川越の中心は上戸の河越から現在の川越に移っていきました。

戦国時代に入ると関東は後北条氏が支配するところとなり、川越城は小田原城の支城と
なります。そして江戸時代には、藩主が老中を務めるような、幕府にとって重要な譜代が
治める藩となってゆくわけです。

大手門のあった市役所前の道を東に、つまり本丸の方角へと進んでいきます。
途中でこんな堀跡を見かけました。

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これは中ノ門堀です。
この場所には、大手門を突破して本丸方面に進んできた敵を防ぐ中ノ門がありました。
写真の右(大手門側)と左(本丸側)の堀の斜面角度を変えることによって、敵の侵入を
防ぐ工夫がしてあります。

DSCF7422a.jpg

川越城は明治維新以降、城内のほとんどの施設・建物が取り壊されたため、当時の
面影を残すものが少ないのですが、この中ノ門堀は数少ない遺構の一つだそうです。

d471dc90-s.jpg

川越城本丸御殿
江戸時代初期は、将軍が鷹狩の途中など川越に来ることがあり、本丸御殿はそのために
作られた施設だったようです。藩主たちは二の丸に居住していたんですね。
ところが家光が亡くなった後は、将軍が川越に来ることもなくなり、本丸御殿も用済みと
なって解体されてしまったようです。江戸時代後期に成立した「新編武蔵風土記稿」には
「今は家作なし」と空き地であったことが書かれています。

ところが江戸末期の弘化3年(1846)、二の丸が火事で焼失してしまいます。
当時の藩主・松平斉典(なりつね)は新築の御殿をこの本丸に築くことと決め、嘉永元年
(1848)に再建されたのが、この本丸御殿です。

先ほども書いたように、明治以降に川越城の建物は解体されていきましたが、本丸の
玄関と大広間だけは残されました。
写真だとピンと来ないかもですが、実際に見ると唐破風が巨大に見えて威圧感がとても
あります。建築当時の川越藩は17万石を領していたと云いますから、その威風を押し出し
たかったのでしょうね。
日本国内でも本丸御殿が現存している例は極めて稀なことだそうです。

川越城の敷地内にあるのが三芳野天神社です。

DSCF7419a.jpg

現在工事中で、こんな残念な写真しか撮れませなんだ・・・。

この神社は童謡「とおりゃんせ」発祥の地と云われております。

城内にある神社は、ふだんは庶民がお参りできません。
庶民が城内に入りお参りできるのは、年に一度の大祭か七五三のお祝いの時だけ。

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この参道を歩いてくるのですが、城内ですから警備は厳しく、早く帰らないと怒鳴りつけら
れたとか。

「とおりゃんせ とおりゃんせ ここはどこの 細道じゃ 天神さまの 細道じゃ
ちっと通して 下しゃんせ 御用のないもの 通しゃせぬ この子の七つの お祝いに
お札を納めに 参ります 行きはよいよい 帰りはこわい こわいながらも
とおりゃんせ とおりゃんせ・・・」


なるほど、そういう意味の歌詞だったのですね。

大手門まで戻り、そのまま西へ進むと「札の辻」。
飲食店やお土産もの屋が並ぶ、観光のメインストリートです。
そこからちょっと脇道に入ったお寺。

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養寿院です。

先ほど平安末期から川越を支配していたのは「河越氏」と書きましたが、鎌倉時代にその
当主だった河越太郎重頼の墓がここにあります。

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河越氏は秩父平氏の出でしたが、重頼は源頼朝の乳母の娘と結婚していたので源平の戦
では源氏方に付き、頼朝に優遇されました。頼朝の仲介で重頼の娘が義経の妻となった
ほどです。
しかし、程なく頼朝・義経の兄弟間が不和となり、重頼も所領を没収されてしまうのでした。

養寿院を開基したのは、重頼のひ孫である経重でした。
経重が重頼親子を弔うために建てた供養塔、それがこのお墓です。
他の墓域から離れた本堂の脇にひっそりと、供養塔は佇んでおります。
おそらく当時は、将軍から処分を受けた者の墓として人目を憚ったのでしょう。

その後、河越氏は南北朝時代に「平一揆」という在郷武士団のリーダーとなり、平一揆は
将軍足利尊氏の要請で鎌倉公方足利基氏(尊氏四男)を支える軍団になります。
ところが基氏と関東管領(鎌倉府のNo.2)畠山国清の間が悪くなり、ついに国清が滅ぼされ
上杉氏が関東管領の座に座ります。
鎌倉公方と関東管領は、父親(尊氏)が付けた平一揆勢が邪魔になってきたのか次第に
彼らを冷遇するようになり、ついに両者間の争いへと発展してしまいます。
そして平一揆勢は鎌倉軍によって滅ぼされてしまいました。

養寿院の河越重頼の供養塔を見ると、その表面に刻まれた文字がわざと削られている
ようにも見られます。
河越氏の子孫、縁者は、河越一族の墓だとわかれば破壊されかねないと思い、密かに
わからないように供養を続けてきたのかもしれません。
小さな供養塔ですが、その背後に中世から続く大きな歴史を背負っているのですね。

メガ66
源頼朝って、あんまり上司にしたくないタイプですね。


「なんだー。このボタンちょっと押してみるんだな。うーん、なんだー。」



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沖田総司忌 2014年

先日の6月22日、新選組の副長助勤・一番隊組長だった沖田総司さんの
墓前供養「沖田総司忌」がありました。
「新選組友の会」が主催されるこの供養祭は、今年で40回になるのだそうですけど、
ワタクシまだ一度も行ったことがなくて。
で、今年初めて参加、お参りをしてきました。
今回はその様子を書かせていただきます。

実は今年も予定が入ってて、当初は「今年も見送りだな・・・」なんて思ってたんです。
ところが朝から雨だったでしょ。で、予定がキャンセルになりまして。
まぁ、何の予定だったかはご想像にお任せしますが。
急遽、「そうだ、お墓参りに行こう」と思い立ったワケです。

沖田さんのお墓は港区の専称寺さんという浄土宗のお寺にあります。
ワタクシ、このお寺に来るのも初めてでして。
というのも、ふだんは墓域の一般公開をしていないんです。年に一度、この総司忌の
ときだけ墓参が許可されることになっているので、この日を逃しちゃうとまた一年
待たなきゃならない。そんなことで、今まで都合がつかなかったのです。

墓参は午前10時から始まっているようでしたが、ワタクシが最寄り駅のギロッポン、
もとい六本木駅に到着したのはすでに11時近くでした。
天気予報では、雨は9時頃までなんて出ていたのに、絶好調で本降りです。

DSCF6853a.jpg

こちらが専称寺。六本木駅から歩いて6~7分。鼠先輩ならもうちょっと早いかも。

DSCF6844a.jpg

境内はそれほど広くはありません。
先ずは本堂でご焼香。
そばにいたご婦人にお墓はどちらかを尋ねると、一度道路へ出て裏に回るように
教えていただきました。

IMG_0434a.jpg

本堂の裏が墓域です。
入口からずーっと傘をさした人の列。50人くらい道路に並んでいるでしょうか。
一番後ろについて、約15分ほど・・・

DSCF6847a.jpg

墓域の入口まで来ました。
お墓までの通路が狭いので、友の会のスタッフの方でしょうか、入口で人数調整を
されています。
さぁ、いよいよ沖田さん(のお墓)とのご対面です。
なぜか雨脚が強くなってきました。

DSCF6851a.jpg

こちらが沖田総司の墓 です。
高さは台座を入れても1mほど。その大きさもそうですが、あまりにもひっそりと
佇むその姿に、正直一瞬「え、これが・・・」と思いました。
ワタクシもそうですが、みなさん膝をつくようにしゃがんで手を合わせます。

同じ天然理心流の幹部隊士でも、近藤さん、土方さん、井上源さんのお墓は
一族の墓域があり、説明板もあり、墓石も大きいものが作られています。
それは、見方によってはファンも意識したお墓と言っていいかもしれません。
しかし、沖田さんのお墓はお寺や遺族の方の方針でしょうか、何の飾りもなく
ただ劣化を防ぐための屋根がつけられたのみの、そのままの姿です。
しかし、ワタクシはこれはこれで、とても沖田さんらしい墓石だと思いました。

我々が思い浮かべる沖田像って、小説とか漫画とかドラマとかから来ている
イメージでしょ。顔だって現在のところ、写真一枚残ってない。
もしも、沖田さんのお墓がもっと大きくて、御影石かなにかで新しく作られて、
そばに説明板でもあって池田屋事件のエピソードでも書かれていたら、ワタクシ
は頭の中で草刈正雄の沖田さんを登場させ、その草刈総司に手を合わせて
いたかもしれません。
でも、それってホントの沖田さんじゃないですよね。

小さな古い墓石は、志半ばで病に倒れ、仲間からも分かれてひっそりと旅立って
いったリアルな沖田さんそのもののような気がします。
そんな沖田さんに手を合わせ、語りかけた一言は、
「こんな漫画描いて、スミマセン・・・」
再び雨が強くなったような気がします。

何はともあれ、念願だった墓参を済ませました。
この後場所を変えて、新選組友の会主催による講演会があるというので、そちらに
行くことにします。
場所は広尾の國學院大學院友会館。六本木駅に戻り、日比谷線で恵比寿駅に
出て、そこからバスで向かいます。

講演会の講師の方は、品川区にある本立寺というお寺のご住職、中島大成さん。
こちら、ある新選組隊士のご子孫なのです。

IMG_0443a.jpg

その隊士とはこちら、中島登(のぼり)でございます!
「今日は沖田さんの法要ですが、中島の話でいいんでしょうか?」と大成さんは仰って
おられましたが、川平慈英が言うまでもなく「イイーんですッ!」
ワタクシたちにしてみれば、隊士のご子孫の話が聞けるなんて、滅多にないコトだもの。

ここで、中島登を知らない方にちょっとご説明。
登は八王子の人で、試衛館とは別流派の天然理心流剣術を使い、千人同心を勤めて
いました。しかし、とある諍いから人を斬ってしまい千人同心を離脱。親戚伝手から
近藤勇を紹介され新選組に入隊。
しかし、彼はすぐに京都には行かず、専ら武蔵、甲斐、相模の情報収集を担当し、
新選組の名簿に正式に顔を出すのは鳥羽・伏見の戦いの直前でした。
以降、箱館戦争終結まで新選組隊士として戦い続けます。

登には千人同心時代に結婚した先妻と、戊申戦争後浜松に移住してから結婚した
後妻の二つの系統があるそうで、大成さんは後妻さん系の4代目ご子孫だとか。
登は「戦友姿絵」「中島登の覚え書き」という史料を
残していることで知られます。今回の講演もそのあたりの話が中心になりました。

IMG_0444a.jpg

中島家では、登の遺品を全て北海道の函館博物館に寄贈されているそうです。
うう~、見てぇ。・・・行こう、函館。
「父さんは、すっかり新選組に魅せられていると思われ・・・」by純。

戦後浜松で暮らした登は、質屋を始めますが士族の商法で失敗。
ところが、当時流行していた葉蘭の栽培をしてみると新種の開発に成功!

DSCF6856a.jpg

「金玉簾(きんぎょくれん)」の名前で、明治14年(1881)当時壱萬円の値が
付いたというのだから、驚きです。
この絵は当時、有名な画家の方(名前、聞きそびれました)が描いたもの。
そのお金を元手に銃砲店を開業。しかし、明治20年(1887)50歳で亡くなり
ます。

登は新選組や幕軍戦士を描いた「戦友姿絵」を残していますが、軍服や銃器など
細かいところも良く描写されていて、絵が得意だったことがわかります。
他にもこんな絵が・・・。

DSCF6857a.jpg

こちらは登が描いた箱館湾海戦の図。
左下にあるのが五稜郭。円い湾の中央右寄りで黒煙を上げているのは新政府軍の
戦艦「朝暘」。左に書かれた榎本軍の「蟠竜」の一撃で火薬庫が爆発、沈没する
シーンです。
この攻撃をチャンスと見た土方歳三は、伝習隊や額兵隊に箱館方面に攻撃をかける
ように命令しますが、その約1~2時間後に一本木関門で戦死してしまいます。
ちなみに「蟠竜」の艦長は松岡磐吉。江川太郎左衛門の手代だった男です。

中島家には登の定めた家訓があるそうです。それは、
「一、食べ物の好き嫌いを云うな 一、碁・将棋などの勝負事はやるな、一、質屋・金貸し
は孫子の代までやるな」
の三つだそうです。二つ目と三つ目は登自身の失敗から来ているようですが(彼が千人
同心時代に人を斬ったのは、どうも勝負事が原因かと思われる)、中島家では4代経った
現在でもこの家訓が生きているそうです。
さすが新選組隊士の末裔。法度は永遠です!

あとね、1996年に一度、中島登を主人公にしたテレビドラマが作られたらしいんです。
フジテレビの時代劇スペシャルで、タイトルは「陽はまた昇る」。
主演は村上スカイライダー弘明!
もう大成さんたちご子孫は大喜びで、放送を待っていたそうです。
ところがオンエアー当日、思わぬニュースが・・・!
「俳優の渡辺謙さんが白血病を再発し、今日入院しました。番組では予定を変更し、
渡辺さんを応援するため、渡辺さんの主演作品を放送します」
結局、放送は1年半待たされた挙句、午前2時からの放送だったとか・・・。
あぁ・・・ご子孫の方々もガッカリしたそうです。
CSでもBSでもいいですから、再放送していただけませんかねぇ?

というワケで、午前中は沖田総司さんのお墓参り。午後は中島登さんのお話と、とても
有意義な一日でございました。
最後に本日の戦利品。

DSCF6859a.jpg

講演会終了後に行われたくじ引きで当たりました!
土方歳三の涙サイダー!!
歳さん、いつ泣いたんだ?お姉ちゃんに殴られたときかナ?

20140624.jpg

誤解なきようにお願いしたいのですが・・・。
ワタクシは土方歳三さんや近藤勇さん方の立派なお墓を否定しているワケではござい
ません。
むしろ、いつ行ってもお参りができるし、ワタクシのようなファンにとってはとても
有難いと思っております。源さんのお墓なんて「誠」の旗が立ってるものね。
ご子孫の方々のご配慮に、いつも感謝しております。
ただ、沖田さんは作られたイメージがとても大きいので、あのお墓を見たときに、そう
いう創作で飾られる以前の沖田さんに出会えた気がした、ということが言いたかったの
です。
御不快に思われた方がいらっしゃいましたら、お許しください。


「これは人間の脳ミソをトコロテンにする機械だよ、和登サン」


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