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二俣城

今週の「どうする家康」は三方ヶ原でしたね。
中盤のクライマックスですが、ラストシーンの阿部ちゃんの信玄はラスボス感
いっぱい。ありゃ、家康負けるわ。

さて、番組終わりの「紀行潤礼」ですが、今週は浜松市の二俣城跡が選ばれて
いました。
先日、ワタクシも二俣城跡に行ってきたばかりですので、今回はそのお話を。

二俣城1

二俣城は天竜川に面した山城で、本丸や天守台、堀切などがよく保存されて
いて美しい城跡です。

二俣城4

いわゆる「バエる」景観なので、雑誌やテレビ撮影でもよく目にしますよね。
三方ヶ原の戦いで武田方に落とされますが、後の天正時代には徳川方の大久保忠世
(小手伸也)が城主となります。
武田勝頼との内通を疑われた家康の長男信康が切腹させられたのが、このお城。
そういうことからも重要な史跡です。

二俣城5

本丸以外にも、上の写真のように門跡の桝形の石垣も残ってたりして、お城ファンには
じっくり観察したい所です。

ワタクシが訪れたのは午後4時になろうかという頃で、近くの駐車場のはワタクシの他
1台の車も止まってなく、現在は公園となっている城跡には誰もいませんでした。
時々本丸跡でゲートボールを楽しむご老人がいる、なんていう情報も得ていたのですが
誰もいないことを幸いに、城内をあちこと歩き回って写真を撮っておりました。

すると、突然「駐車場の車はあなたのですか?」と声をかけられまして。
振り返ると70代くらいの男性が天守台の側にいて、こちらに歩いてきます。
「私も一人で来て、記念写真を撮りたかったんでどうしようかと思ったんですが、駐車場で
多摩ナンバーの車を見たもので。すぐ来ればまだいらっしゃるかと思って」
なるほどと思い、「それならシャッターを押しましょう」と天守台を背景に2~3枚撮って
さしあげました。
そのあと、二人で堀切など見ながら駐車場までお城の話などしました。

男性は仙台から来ているらしく、3週間ほどかけて車で岐阜、愛知、静岡と廻って、この
あとは北陸へ行くのだといいます。
定年後の自由気ままな一人旅か・・・いいですね、と言うと、
「いやぁ、10年以上妻の介護をしてましてね。それが終わったもんですから」

「あ・・・」とその後、言葉が出ませんでした。
そのまま駐車場まで歴史の話を、男性は努めて明るく話しているように感じました。
駐車場に着くと、私の車の横に仙台ナンバーの小型ワゴン車。
「ナンバー見てください。10ー83、伊達政宗の誕生日、ね。はははは・・・」
政宗の誕生日は永禄10年8月3日。けっこうなファンですね。

男性とはそこで別れました。
1人で史跡歩きをしていて、こうして声を掛けられることはあまり無いのですが、こういう
旅をされている方との一期一会もあるんだなぁと思いました。
男性も今頃はもう仙台に帰っていると思います。

二俣城で撮ってさしあげた写真が、旅の良き思い出になってくれれば。

二俣城3


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[ 2023/05/07 ] 史跡へゴー | TB(0) | CM(2)

江戸城のまじない

ひと月以上記事の更新が出来なかったのには理由があって、11月になってすぐに
群発頭痛の頭痛期に入ってしまったからです(涙)。
今回は頭痛が起きるのがたいてい夜なので、昼間の仕事には支障がないのですが、
夕食後から発作が起きるので夜には何にもできないんですよね。唯一効果のある
頭痛薬レザトリプタン様のお世話になっていますが、コレも一回9錠しか処方してもらえ
ない。病院へ行く時間も限られるし、早く群発期が過ぎ去ってくれるのを待つ日々です。

そうした中でも、ボチボチとまち歩きガイドなども復活してきております。
11月中頃には日大商学部校友会様からのご依頼で、江戸城をご案内してきました。

江戸城0
江戸城大手門前

江戸城に行かれた方は多いと思いますので、特に書くこともないのですが、今日は
ツアーのお客様にわりと好評だった「江戸城のおまじない箇所」をご紹介します。
昔の人はよく縁起を担いだり、厄災除けの呪(まじな)いをしたものですが、天下に
威風を示す江戸城でもそれは変わらなかったということです。

江戸城7

こちらは皆さんよくご存じの鯱(シャチ)です。大手門の櫓門は戦災で焼失してしまった
のですが、コチラの鯱は焼け残って門内(桝形)に置かれています。
鯱は虎の頭に魚の胴体をもつ空想上の生き物ですが、火災の際には口から水を吐く
といわれています。なので、火災除けとしてお城などの屋根に乗っかっているんですね。
(まぁ、結果的にB29の焼夷弾には勝てなかったワケですが・・・)

江戸城8

同じくこちらは門内の壁ですけど、屋根瓦の下にウネウネとした波型の飾りがある
のが見えますね。
これを湾(のたれ)といいます。日本刀の刃紋にも「湾れ刃」というのがありますが、
やはりこのような波型です。
これも水に関係するデザインを用いて、火災除けの縁起担ぎとしています。

江戸城9

これは江戸城内にある数少ない当時の建築物の一つ、同心番所の屋根瓦。
巴紋が描かれています。オタマジャクシが3匹いるようなデザインの紋ね。
巴は水流を表しているともいわれています。これも火災除けの意味があります。
まぁ、当時の建造物にとって火災は一番の大敵ですから。

では、火災以外のおまじない。

江戸城10

みなさん、よくご存じの天守台。
江戸城は家康、秀忠、家光と3代に渡ってそれぞれ先代の天守を破却し、違った
天守閣を作りました。
家光の天守閣は明暦の大火で焼失してしまったので、4代将軍家綱は新しい天守を
建てようと先ず天守台を作らせました。それがコチラ。
ところが家綱の叔父にあたる会津藩主保科正之が「泰平の世の中に天守閣など無用。
そのお金を江戸復興にお使いなさい」と申し上げて、家綱もその意見をくみ取り、天守
閣は建てられませんでした。なので、当時から現在まで天守台のみが残っています。

で、その天守台に登ってみると、石垣の一つにこんなモノが。

江戸城2

五芒星(☆)が刻まれている石があります。
何の意味があるのかは不明ですが、まじないの一種と云われています。
これはいつでも見られますが、案内板なども無いので知っている人と一緒じゃないと
探すのは難しいかな?

もう一つはお堀端。
大手門から平川門にかけて、お堀が角切りになっている場所です。

江戸城4

歩道に近い石垣石の一つに・・・

江戸城5

「南無阿弥陀仏」と刻んであります。
ちょうど鬼門に当る場所だからでしょうか。
ここは歩道からもよく見える場所なので、ご存じの方も多いかもしれません。

ワタクシが知っている江戸城のおまじない箇所は以上です。
他にもご存じの場所があったら、教えてください。

ところで、石垣に刻んだマークとしては、各大名の刻印が有名ですが、それとは別に
またおまじないでもない刻印があるのをご存じでしょうか。
それは「几号水準点」というマークで、明治初期に高低測量を行うために設けた基準
となる測量点のこと。大きな石造物などほぼ恒久的にその場所に在り続けるであろう
というようなモノに刻んであります。
漢字の「不」に似たマークを刻むのですが、これを見つけるのを楽しんでいる方も
いらっしゃるので、江戸城にもある几号水準点を最後に載せておきましょう。

1つ目は大手門の高麗門の下。

江戸城1

ココは比較的目立つのでよく知られてますが、もう1つは見逃しがち。

江戸城3

ちょっとわかりづらいので、赤丸で囲ってあります。
これは天守台の角にあります。
江戸城に行ったら、見つけてみてください。

では、頭痛が治まった頃に、また。


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[ 2022/12/14 ] 史跡へゴー | TB(0) | CM(0)

佐貫城跡

木更津史跡巡りの最終回。
最後は佐貫城跡です。

富津の海岸線、今の海水浴場のある辺りから内陸に入った所に佐貫城がありました。
佐貫は戦国時代は里見氏が領国とし、江戸時代に入ると内藤氏に領地が与えられ
ましたが、その後何家かの譜代大名や幕領となる時代を経て、宝永7年(1710)から
阿部氏が1万6000石で領主となって幕末まで続いています。
幕末で阿部氏といえば、老中の阿部正弘が有名ですが、正弘は備後福山藩11万石
の藩主で、コチラが阿部家の宗家。
上総佐貫藩はその分家ということになります。

ちなみに阿部正弘は、老中時代の安政4年(1857)4月、玉川上水の羽村堰の視察
ということで多くの幕閣役人連中を連れて多摩を訪れています。
過去に当ブログでも書いたことがありましたが、内野杢左衛門も「里正日誌」の中で
接待に当ったことに触れております。
そんなことを考えると、分家とはいえ佐貫にもちょっと親近感を覚えます。

さて、戊辰戦争当時の佐貫藩ですが、藩主・阿部正恒は佐幕側に就いておりました。
遊撃隊が請西藩真武根陣屋を出発し、富津陣屋に向かう途中で、佐貫藩からの
援軍1小隊が加わります。旧幕府が手本としていたフランス式軍制では、1小隊の
人数は28名ないし40名なのだそうです。
え、援軍てそれだけ?と思われるかも知れませんが、Wikipediaを見ますと天保14年
(1843)の時点で佐貫藩の藩士総数は家老以下213名とあります。慶応4年の
時点でもそう変わりはないでしょうから、その中から戦力になりそうな者28~40名
を援兵に出すのは、むしろかなりの出血ではなかったでしょうか。

ということで、コチラがその佐貫城跡です。

佐貫城1a

わりと広い駐車場があり、建造物は残っていない(明治4年破却)ものの公園のような
形で残されているイメージです。
訪れたとき小雨がパラついておりましたが、ここが「佐貫城址入口」とあります。
かつての大手門になるのでしょうか。

佐貫城4a

夏草に覆われていますが、石垣はなかなか立派です。

佐貫城6a

大手門の石垣を通り。坂道を上っていくと目の前が開けます。
ここが三の丸です。
写真には写っていませんが表示板があるので、分かりやすいです。

ここからさらに奥へ入ってゆくと、二の丸、本丸へと続くようです。
事前にちょっと調べていたのですが、歩きやすいように整備されているとのこと。
しかし、やはり夏真っ盛りの時期だからでしょうか。草は伸び放題でした。

佐貫城8a

この先に二の丸があるのですが、この頃から雨が強くなってきまして。
本丸まで往復すると30分はかかるとのことで、断念して引き返すことにします。
まぁ、それとね。
事前に行った会津での熊への恐怖心がまだ残ってて、山の中を歩くのに少し
ビビってるワタクシがおりました。
千葉には熊はいないとは思うんですけど・・・後で聞いたら、この近くには猿は
出没するらしいです。1対1になったら、猿でも怖いですけどね。

佐貫城9a

ということで、佐貫城跡巡りは途中で断念。
まぁ、東京から近いこともありますし、草が枯れる冬にでも富津陣屋とともにまた
訪れてみることにします。

最後に。
木更津東ICの近くで見つけたラーメン屋さん。

木更津ラーメン1

この店構え、けっこう入るのに勇気がいりましたが・・・

木更津ラーメン2

ラーメンは美味しかったです。
刻みタマネギが効いています。
竹岡式ラーメンというんだそうですね。そういうのに疎いので、初めて知りました。


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[ 2022/09/29 ] 史跡へゴー | TB(0) | CM(0)

飯野陣屋跡

真武根陣屋を出発した遊撃隊が富津陣屋を目指したとき、近くを通ったものの
そのまま通過した陣屋があります。
それが飯野藩2万石保科家の飯野陣屋です。

飯野陣屋は「日本三大陣屋」の一つと云われており、その面積は城に匹敵すると
のこと。ちなみに他の2つの陣屋は越前の敦賀陣屋と長州の徳山陣屋ですが、
どちらも現在はほとんど遺構すら残ってないそうです。
ところが、飯野陣屋は濠もほぼ当時のまま残り、全体像がはっきりと掴めるとの
ことなので、前々から行ってみたいと思っていた陣屋です。

現在の住所は富津市下富津になるのですが、行ってみて思うのは富津って古墳が
やたら多いってことでした。この辺りのマップを見ると、たくさんの古墳が目につき
ます。実は飯野陣屋もその敷地の中に古墳があります。

飯野陣屋A

現地で配布されている飯野陣屋見取り図です。
本丸、二の丸、三の丸が濠で囲まれたままの姿で残っています。
南北280m、東西350mという大きさで、江戸時代にはこの中に藩邸や氏族邸
があったと書いてありますね。
陣屋内に三条塚古墳、稲荷塚古墳の2つの古墳があり、その周溝を再利用して
構築されているのが、飯野陣屋の特徴だそうです。

飯野陣屋跡3 二の丸a

陣屋跡ですが、現在は飯野神社という神社になっています。
見取り図の「現在地」から撮った写真が、コチラです。
鳥居の手前までが本丸、その先の拝殿は二の丸ということになります。

飯野陣屋跡8 大手門a

参道の入口ですが、当時はここが陣屋の大手門でした。
見取り図を見ると桝形になっていたようですね。
ここから鳥居まで続く道は、当時の本丸。現在はその両側に民家が立ち並んで
います。本丸跡に住んでいるなんて、気分いいでしょうね~。
当時の桝形の辺りには土塁が残っているらしいのですが、夏草に覆われて確認
できませんでした。人さまの敷地でもありますし、あまり立ち入るのもね・・・。

飯野陣屋跡10a

大手門前の濠はそのまま残っています。これがスバラシイ!
昭和42年(1967)に千葉県指定史跡になっています。
住んでいらっしゃる方もご苦労でしょうが、このまま残して後世に伝えてください。

ここに藩庁を構えていた飯野藩ですが、8月に訪れた会津とは深い縁があります。
会津藩の藩祖は保科正之ですが、彼は2代将軍徳川秀忠の子供でした。
それが当時信州高遠藩の藩主だった保科正光の養子に迎えられます。
正光には男子がなく、腹違いの弟正貞を養子とし嫡子としていたのですが、これを
廃嫡し、正之を本家の嫡子とします。まぁ、将軍の子、次期将軍の弟ですからねぇ。
その後、保科家は高遠から会津へと領地替えとなり、会津松平家が成立しました。
一方、本家の跡取りを降ろされた格好の正貞が、分家として独立、上総に領地を得て
立藩したのが、飯野藩保科家なのです。
まぁ、会津の方は姓を保科から松平に変えてしまいましたから、こうなるとどっちが
保科の本家かわからなくなりますが、そういうことです。
しかし、正貞の母親というのがこれまたスゴくて、徳川家康の妹なんですね。
正貞と正之は徳川家の家系の上からは血縁にあったということです。

さて、時代は流れて幕末期。
飯野藩9代藩主保科正丕(まさもと)の娘照姫が、会津藩8代藩主松平容敬(かたたか)
の養女になります。容敬の養子(甥)として9代藩主となったのが松平容保です。
ここで会津松平家と保科家は再び縁戚関係を結ぶワケですね。
大河ドラマ「八重の桜」では照姫(稲森いずみ)が義弟の容保(綾野剛)にほのかな
恋心を抱きますが、ホントにそんなことがあったのかは不明w

今回訪れてみて思いましたが、当時の陣屋の大きさも分かるし、堀も現存しているし、
会津藩ファンなら飯野陣屋も一度訪れてみていいのではないでしょうか。

飯野陣屋跡13 西側濠a
陣屋の西側濠。

飯野陣屋跡12 三の丸 三条塚古墳a
二の丸跡。
広大な空き地になっているのは、以前ここに村立中学校が建てられていたから
だそうです。


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[ 2022/09/21 ] 史跡へゴー | TB(0) | CM(0)

富津陣屋跡

木更津史跡行脚に戻ります。

請西藩真武根陣屋を見たあと、向かったのは富津です。

慶応4年(1868)閏4月3日、真武根陣屋を出発した遊撃隊は房総往還を
富津に向けて進軍してゆきました。
このとき、陣屋の表門が開き、大砲1門が曳き出され富津の方角に向けて
轟音が鳴り響きました。藩内に残る家臣らから脱藩藩主・林忠崇への門出の
祝砲だったのでしょう。また、付近の村民はみな道端に土下座をして見送った
とも云われているようです。

遊撃隊が富津へ向かう途中で、旧幕府陸軍の撒兵隊の一部と上総佐貫藩の
兵の1小隊が加わってきたといいます。(「脱藩大名・林忠崇の戊辰戦争」)
やはり、房総半島には表向き新政府に恭順していても、それに不満をもつ
者たちが多かったと見えます。
即日、遊撃隊は富津に到着。富津陣屋に協力を求めます。

富津陣屋は、江戸湾防衛のために設けられた、いわば防衛基地のような
存在です。在所の富津村ごと武州忍藩、奥州会津藩などが領主となって
陣屋と江戸湾防衛を担当していましたが、慶応4年のときには上州前橋藩
松平大和守家に預けられていました。

時の藩主・松平直克は、文久3年(1863)に松平春嶽の後を承けて政事
総裁職を任命。また、先々代から品川台場の警備を幕府から命じられる
など、海防に従事した大名でした。
前橋松平家は、家祖が家康の次男・結城秀康ということもあってか、直克も
譜代の意識が強く、大政奉還後も徳川宗家に対する寛大な処置を朝廷へ
願い出ています。ついでに言うと、この歎願には本多敏三郎や伴門五郎など
後に彰義隊を結成する幕臣たちが動いたと「彰義隊戦史」には書かれてい
ます。
ただし、慶応4年3月には直克は新政府へ恭順しており、閏4月には東山道
鎮撫軍に従って上野へ出兵していました。
そんなときに富津陣屋に遊撃隊がやってきても、協力できるような状況では
なかったワケです。

ということで、そんな富津陣屋の現在の姿がコチラ。

富津陣屋跡4a

もうほとんど、宅地化されていて、このわずかな部分に石碑や説明版が
残されている状態です。
写真の背後が海(東京湾)側という立地になります。
この場所から海岸まで直進距離で700~800mくらいでしょうか。

富津陣屋跡1a

当時、富津陣屋には藩兵が500人ほど配備されていたようです。
遊撃隊は陣屋をぐるりと囲んで、人見勝太郎と伊庭八郎が中に入り、前橋藩家老
小河原左宮と交渉します。人見らの要求は兵と武器、食料の提供です。
小河原は藩主の命令が無ければ応じられない、と断ります。まぁ、当然といえば当然。
それに、藩はすでに新政府側についているワケですから。
しかし、人見や伊庭は要求が通らなければ戦闘に及ぶまで、と小川原を恫喝。
勝手に戦に応じるわけにもいかない小河原は退席すると、進退きわまったのか隣の
部屋で切腹してしまいました。

結局、富津陣屋は戦わずして遊撃隊に降り、大砲6門、小銃10挺、金500両と糧米
若干、さらに脱走という形で歩卒20名を遊撃隊に差し出しました。
このことにより、富津陣屋の統括官だった白井宣左衛門も自刃しています。

この「富津陣屋跡地」には、自ら責任をとって命を絶った小河原左宮と白井宣左衛門
の墓標が建てられています。

富津陣屋跡2a

ところが、管理している人がいないのか、現場はこんな感じです。
季節的に夏草が覆い茂っているということもあるのでしょうが。
一応、右から「富津陣屋跡の碑」「白井宣左衛門墓碑」「小河原左宮墓碑」なの
ですが、小河原のものは草で見えません。
こんなことなら植木ばさみでも、持ってくれば良かった。・・・いや、勝手に切ったら
怒られるか。・・・う~~ん、来た時期も悪かったですかねぇ。

富津市教育委員会のみなさま。
時代の激流の中で非業の死を遂げられた方々の墓標です。何とか周りをきれい
にして、遺跡を後世に残していただけませんでしょうか。
とりあえずワタクシもまた、夏草の枯れた冬にでも再度訪ねてみることにいたしま
しょう。


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