8月の後半、千葉県は富津に出かけまして、ついでなのでいくつか史跡に寄って まいりました。 東京から車で東京湾アクアラインを通り木更津へ。 昨年、大河ドラマ「青天を衝け」に関連付けて、渋沢成一郎を中心とした幕末、戊辰 戦争の話を講座等で取り上げることが多かったのですが、その中で旧幕府側の 軍隊として遊撃隊も取り上げました。 遊撃隊は幕臣の人見勝太郎と伊庭八郎が中心となって、講武所出身の隊士らに よって組織された部隊ですが、木更津にも所縁の史跡があるため、一度訪れてみた かったのです。 遊撃隊についてざっとお話しますと、幕府の武術学校である講武所の中から特に 優秀な者が「奥詰」として抜擢され、将軍の身辺警護に当たりました。この中に 心形刀流宗家の伊庭八郎も含まれていました。 遊撃隊は京都に派遣され(人見勝太郎は京都で合流)、慶応4年正月の鳥羽・伏見 の戦いにも参戦しますが敗れて江戸に帰還します。 将軍慶喜は勝海舟や大久保一翁らの建議を容れ、恭順の上謹慎に入りますが、 人見や伊庭らは恭順に納得せず、遊撃隊の中から賛同者を連れて脱走します。 脱走した人見ら遊撃隊が向かったのが房総でした。千葉県は譜代大名や旗本の 領地が多く佐幕の土地柄だったからです。この地で先ず協力者を求めたかったの です。 彼らが向かった先が請西藩真武根陣屋でした。 請西藩は木更津のやや内陸にあった石高1万石の小さな藩です。しかし、歴代藩主 は若年寄や伏見奉行を務めるなど幕閣に重用された譜代大名です。 慶応4年当時、藩主の林忠崇は若干20歳の若者でした。 新政府はすでに全国の大名に対し、新政府に恭順するよう命令を発しており、房総 の諸藩もそれに従っていたのですが、請西藩だけは違っていました。 忠崇は新政府への恭順を良しとはせず、態度を保留していたのです。 そこに遊撃隊がやって来ました。忠崇と人見、伊庭らは共鳴し合い、ともに戦うことを 誓い合います。 しかし、藩として新政府軍に抵抗すれば、多くの藩士やその家族、領民に多大な苦難 を強いることにもなる。そこで忠崇は自ら脱藩することで、あくまでも個人の戦いで あることを強調。遊撃隊に加わったのです。 ここに全国でも珍しい脱藩大名が誕生しました。 実際には忠崇に賛同する藩士も多く、59人の家臣たちを連れた林忠崇が慶応4年 閏4月3日、真武根陣屋を遊撃隊と共に出発してゆきました。 その請西藩真武根陣屋の跡がコチラです。  住宅地から外れた空き地の中にポツンと、石碑と説明版だけが残されています。 元々間舟台という地名に武家好みの文字を当て「真武根陣屋」と称したようです。 総面積24000坪以上あった(「脱藩大名・林忠崇の戊辰戦争」中村彰彦)といいます から、小藩としてはかなり立派な陣屋だったと推測します。 この場所から脱藩大名・林忠崇は出陣していったのですね。 当時、多くの藩士、領民が涙を流しながら見送ったといいます。  石碑の背後。もう、まったく何もない。 東京ドーム何個ぶんだろう?広大な草原が広がっています。 何かの建設予定地なのかなぁ・・・何もそれらしき案内板もありませんでしたけど。 ちなみに向かいには霊園がありました。  忠崇がこんなにも佐幕を貫こうとしたことの一つには、こんな理由もあります。 林家と徳川家の繋がりは古く、家康からさかのぼること8代、松平家の初代親氏の頃。 親氏が放浪の途中、林家の先祖林光政の家に立ち寄ります。光政も貧しい中、なんとか 旅人をもてなそうと自ら弓矢でウサギを仕留め、吸い物にして饗応しました。 やがて親氏が三河で頭角をあらわすようになると、あのウサギの吸い物が吉兆で あったと光政を侍大将に迎え入れます。 松平が徳川となり幕府を開いた後も、将軍家では正月は林家から献上されたウサギで 吸い物を作り、祝いの席に出すことが年中行事となりました。 室町時代から続く徳川家と林家の、特別な縁が忠崇の心を動かしたのかとも思えます。 「なんだー。このボタンちょっと押してみるんだな。うーん、なんだー。」   にほんブログ村 にほんブログ村 人気ブログランキングへ
長くなりましたが、会津旅行編の最終回です。 最後に訪れたのは母成峠。車で来た最大の理由がこの場所を見てみたかった からに外なりません。 猪苗代は城跡や土津神社ももうちょっと見たかったし、土津神社の近くにある 西円寺というお寺にも戊辰戦争戦死者のお墓があるというのでお参りしたかった のですが、午後3時までには母成峠に着きたかったので後ろ髪引かれる思いで 猪苗代を後にします。ここだけ見に今度来よう。 国道115号線を福島方面に向けて走り、沼尻(でいいのかな?)から母成グリーン ラインに入ります。 しばらくすると左側にわりと広い駐車スペースが見えてきますが、その手前に山中 へ入ってゆく小道があるので、まずそこへ進入していきます。 「ふぃーるどわーく」によれば、この小道の先に「東軍戦死者埋葬地」があるとの ことなので、先にそちらにお参りに。対向車が来たら絶対に避けられないような 細道を100mほど進むと少し広い駐車スペース。 そこで車を降り、山中を20mほど進むと、土饅頭と石碑が建つ場所に出ました。  左手に見える土饅頭が、戦死者を埋葬した墓らしいのですが、その後草に覆われ 長く所在不明となっていました。昭和53年(1978)に発見され、同57年(19 82)に周辺を整備して、新たに慰霊碑が建立されました。写真の右側にある のが、その慰霊碑です。裏側には会津藩士38名、二本松藩士8名、唐津藩士 6名、新選組6名の名前が刻まれています。 その他、同じ敷地内に西郷頼母の歌碑も建てられています。 周辺を整備して・・・と書きましたが、真夏のせいもあるんでしょうが、かなり山の 中という感じで、あまり長居はしたくはない感じです。 再びグリーンラインに出て、すぐ駐車場に車を止めれば、そこに「戊辰戦役古戦場 の碑」が建てられています。  あぁ、やっと来られた・・・という感慨で、しばしその場に佇みました。 で、暑さで正気に戻る。 以前は売店やトイレなども建てられていたらしいのですが、現在は撤去されていま す。(土台跡のみ残る)ワタクシの他、誰もいない。 母成峠は猪苗代と郡山の境界にあたり、峠を通る道は二本松領から会津領に入る 街道だったようです。「ふぃーるどわーく」によれば大正の頃まで茶店があったとか で、ところどころアカマツの灌木が生えた草原だったとのこと。 ところが今は、立派な森林となっています。 コレ、明治以降の植林の結果なんだそうです。  本来の峠道はグリーンラインが開通して、所々分断されているのですが、駐車場の 奥から山の中に遊歩道が伸びており、その先に戊辰戦争当時の塹壕跡が見られ るらしいんです。 これはぜひ見なくては!と、遊歩道を入っていきます。  いや、あのね。 遊歩道なんてもんじゃないの。もう、けもの道。 いや、道なんて無いな。 先ほども書いたように、真夏ってのもあって草も伸び放題。 全然周囲がわからない。 で、気になるのがクマですよ。 どこかから見てるんじゃないかと、そればかり気になっちゃう。 クマの「オレ、見てるよ」オーラをビンビン感じるんですよ。 で、遊歩道の入口から20mくらい入った所で挫折。引き返してきました。 ワタクシ、東京でも多摩育ちですから、子供の頃から狭山丘陵の山の中が 遊び場で、森林の中を怖いと思ったことは一度も無かったんですけど、まぁ 狭山丘陵なら出てもタヌキくらいなモンですが、クマはねぇ・・・初めて森の中 が怖いと思いました。 実はワタクシが東京に戻った2日くらいあとかな、仙台に住む友人からLINE がはいりまして、「近藤勇の墓のすぐ側にクマが出て、散歩中の人が襲われた」 とニュースが報じられたらしいんです。 もう、冷や汗ですよ。 ほぼ同じ場所にワタクシもいたわけで・・・局長や萱野さんの墓参のとき、きっと クマに見られてたに違いない!ましてや、母成峠ではロックオンされてたかも しれん・・・! 塹壕跡見られないのは残念だったけど、引き返して正解だったかも。 まぁ、当時はこのような風景ではなかったにせよ、この場所でかつて戦闘があり、 多くの人が戦死したという事実は、胸に重く感じます。 この場所から山中を会津若松まで戦いながら撤退した東軍を思うと、ワタクシ なんぞにはほぼ絶望感しかありません。この場所から猪苗代までだって、かなり の距離がありますもんねぇ・・・。 しかし、国道115号から母成グリーンラインを通り、郡山まで出る道はとても いい道で、ドライブを楽しむには最適なルートです。 ワタクシは磐梯熱海ICから高速に乗って、そのまま東京まで帰りましたが、また 猪苗代まで車で来るときはこのルートを通ってみたいと思います。  母成グリーンラインを郡山方面から見る。郡山市熱海町石筵付近。 後方の山が母成峠。 クマが出ない時期ってやっぱり冬かなぁ。 「なんだー。このボタンちょっと押してみるんだな。うーん、なんだー。」   にほんブログ村 にほんブログ村 人気ブログランキングへ
猪苗代湖まで来て、ちょっと休憩。 道の駅などもあるので、お土産など買い物。 少し戻るような形で、猪苗代城址に向かいました。 戦国時代は芦名氏系である猪苗代氏の居城。近くには伊達軍と芦名軍が戦った 摺上原の戦いの古戦場跡もあるようで、そちらも行ってみたかったのですが、 時間がないので断念しました。 江戸時代には猪苗代城は若松鶴ヶ城の支城として存在し、鶴に対しての亀ヶ城 とも呼ばれました。 慶応4年(1868)8月21日に、猪苗代と郡山の間にある母成峠が突破されると、 そこを守備していた山口次郎(斎藤一)ら新選組や、伝習隊、会津藩兵らは猪苗代 に退却してきました。猪苗代は平地ですし抗戦するには兵数も足らず、勝負になら ないと判断したのでしょうか。東軍同盟軍は会津若松方面に撤退。猪苗代城は 火を掛けられ焼失しました。 母成峠を破ってからの新政府軍の進撃スピードは、エラく早かったそうですからね。 現在の猪苗代城は公園になっており、桜の名所でもあるそうです。 城址の西側は石垣なども残っており、往時を偲ばせます。  城跡の雰囲気を感じたいなら、この西側から城内に入るのがいいのですが、けっこう 足元は悪いので注意が必要です。 城の北に土津(はにつ)神社があります。  会津守護神で、会津藩初代藩主・保科正之公をお祀りしています。 拝殿の奥をずっと上ったところに正之公のお墓があるのですが、そこまで歩いて いくと時間がかかると思い、断念しました。しかし、後で車で近くまで行くことが 出来ることを知りましてメチャ後悔・・・う~~、またいずれ行く! ちなみに、なぜ初代藩主だけ松平ではなく保科かというと、正之は2代将軍秀忠の 子として生まれたのですが、正妻のお江ではなく他の女性に産ませた子でした。 これが嫉妬深いお江に知られたら殺されかねないと恐れた秀忠は、正之を家臣の 保科正光に預けました。正光は正之を養子として迎え、それまで弟の正貞を嫡子と していたのを廃嫡して、正之を嫡子としたのです。 後に正之は3代将軍家光から、松平を名乗ることを許されるのですが、正之は恩の ある養父を思い自らは生涯保科で通し、3代藩主から松平を名乗ることになります。 家光は同母弟の忠長は大ッ嫌いで、メチャいじめて、最後は殺しちゃうような形に なったワケですけど、異母弟の正之のことはとても可愛がり、また頼りにしました。 決して出しゃばらず、生涯将軍の弟ではなく家臣として仕えた正之の姿勢が、家光の ハートをガッチリ掴んだのでしょうね。 家光は4代将軍家綱の後見を正之に頼み、他界します。 明暦3年(1657)あの有名な明暦の大火が起こり、江戸城の天守も焼失してしまい ました。幕府は新しい天守を建てるために天守台を作りましたが、ココで正之が 「戦時ならともかく、今の城に天守など不要。そんな金があるなら江戸復興のために 使いなさい」と一蹴。江戸は見事復興を遂げたのです。 もう10年くらい前ですかね。 保科正之を大河ドラマの主人公に、という活動が会津とか高遠などで起こっている という話を聞いたのですが、アレってどうなったんでしょう。ワタクシは賛成ですよ。 「なんだー。このボタンちょっと押してみるんだな。うーん、なんだー。」   にほんブログ村 にほんブログ村 人気ブログランキングへ
今回の会津旅行は「新選組展2022」がメインの目的だったワケですが、 自家用車で行った最大の理由は「ついでだから母成峠も見ておきたい」と いう願望があったからです。 行きは高速道で会津若松まで来ちゃいましたが、帰路は東軍が母成峠から 滝沢本陣まで撤退してきたルートを逆に辿っていこうと、思ったのであります。 ところで、ココから先の行程は歳月堂さん発行の「ふぃーるどわーく 会津 東編」を大いに参考にさせていただきました。 この場を借りて御礼を申し上げます。 滝沢本陣は前回の記事で触れました。その前の道をそのまま東に進めば すぐ上り坂になり、峠道へと入っていきます。滝沢峠から戸ノ口原、猪苗代 へ続く道は二本松から会津若松へ至る裏街道だったようです。 旧道はそのまま西に延びて滝沢峠を越えて金堀へ伸びていくようですが、 車ではいけないので北東方面に延びる車道の峠道を上り下りしながら、金堀 へ到達。そこから強清水へ向かいます。 「ふぃーるどわーく」によれば、このルート沿いにいくつかの戊辰戦争戦死者の 墓が点在するとあります。ただ、車が入っていけそうもなく、近くに止めてちょっと 歩いて探してみたりしたのですが、夏で草も伸び放題になってるので断念して 先に進みました。 強清水から滝沢バイパスに合流して西に進めば、戸ノ口原古戦場跡です。  古戦場跡の戦死者墓群。 戸ノ口原で新政府軍と戦い、戦死した会津藩戦死者たちの墓。 この辺り一帯は開けた草原で、現在でも民家などがあまり無いので、もしかする と戊辰戦争の頃も同じような景色だったかもしれません。 戸ノ口原は会津勢が400名ほどで布陣し、十六橋を渡って進んでくる新政府軍を 待ち構えていました。この中には白虎隊二番士中隊37名も含まれています。 新選組や大鳥圭介の伝習隊はこれより先の母成峠で新政府軍と戦ったものの、 突破され多くの兵を失い、猪苗代に撤退。さらに会津藩が猪苗代城を放棄した ため、鶴ヶ城城下へ退いていました。 さて、戸ノ口原の守備隊ですが400名いた兵も、その中身は農民や神職・僧侶 などで構成された隊もあり、武器も火縄銃や刀槍が中心だったといいます。 慶応4年(1868)8月23日、夜明けとともに戦闘開始。 会津側は兵力・火力ともに勝る新政府軍に太刀打ちできず、沓掛峠、滝沢峠へと 戦いながら後退していったのです。 戸ノ口原古戦場跡を出て東に進めば、見えてくるのが猪苗代湖です。 猪苗代湖に注ぎ込む日橋川下流部に掛かる橋が十六橋です。 滝沢バイパスから北に入る細道を入ると、橋の手前まで車で行けますが、かなり 道が細いので注意です。  十六橋。向かって左側が日橋川。右側が猪苗代湖。 写真の向こう側から新政府軍が橋を渡ってきました。 母成峠を突破した新政府軍は猪苗代に進撃。会津が城を放棄したため、難なく 8月22日の昼には猪苗代城下を制圧してしまいます。 鶴ヶ城では猪苗代から若松へ敵を入れさせないため、最短ルートである十六橋を 落とすことに決めます。十六橋が渡れなくなれば、日橋川を上流まで上るか、湖を 大きく迂回するか、船で渡るか、いずれにしても時間稼ぎができます。 会津藩は佐川官兵衛らが兵を集めて戸ノ口原へ出陣。十六橋を破壊しようとしますが、 すでに新政府軍は橋の対岸まで来ており銃撃を開始。会津藩兵らは橋を落とすこと ができず、戸ノ口原へ撤退したのです。 十六橋は幕末ファンにとっては以上のようなエピソードが先立ちますが、別の見方を すると猪苗代湖の水位を調整するための水門橋でもあり、こちらの見方の方が主流 のようです。水利が悪く不毛の地だった郡山の安積地域に猪苗代湖の水を引く事業 が安積疎水で、十六橋もその一環として明治以降作り変えられたからです。 現在の十六橋前には、当時工事の指揮を執ったオランダ人技師ファン・ドールンと いう人の銅像が置かれていたりして、会津戦争に関する説明版の類はありません。 さて、このまま橋を渡って猪苗代方面に行きたかったのですが、車止めがありバイク や自転車でないと渡れそうにありません。車ならスーパーセブンあたりじゃないと 無理だと思う・・・。 滝沢バイパスに戻って猪苗代を目指します。 「なんだー。このボタンちょっと押してみるんだな。うーん、なんだー。」   にほんブログ村 にほんブログ村 人気ブログランキングへ
新選組展2022や飯盛山の余韻に浸りながら、宿は東山温泉にとりました。 あ、ところで昨日あたりTwitterで回ってきたのですが、飯盛山で夜中に地元の 中高生と思しき男性らが3~4人で花火を打ち上げて遊んでいるらしい。 監視カメラの映像は山下の茶店の前でしたが、投稿では上に登って打ち上げ てもいるらしい。もし、さざえ堂にでも燃え移ったら大変なことになるので、ぜひ 止めていただきたい。いや、もちろん茶店やお土産屋にも引火したら、キミらじゃ 責任取れないでしょ。アホなことはやめなさい。こんなブログ読んでないだろうけど。 話を戻して。 会津はソースカツ丼が有名だと聞いたんですよ。 アレって山梨が元祖かと思ったんですが、違うのかな? 宿は素泊まりで取ったので、夕食は東山温泉内の食堂で、そのソースカツ丼を 食べてみました。  半ラーメンとのセット。カツはそんなに厚いわけじゃないが、衣にソースがよく 馴染んでいて美味かったです。 このお店は「卯の家」。東山温泉の中ほどにありますが、店の前まで車で行くと ドツボにハマるので、1本下の道の足湯前の駐車場に停めましょう。向かいに巨大な 土方歳三の壁画が見えるのが目印です。なんのこっちゃわからん人は、現地に行けば わかる。 翌日。今回の旅の2番目の目的地である天寧寺へ。近藤勇局長のお墓参りです。 天寧寺は東山温泉のすぐそば。武家屋敷の北側の小道を入っていきますが、温泉側 から車で走っていくと見逃がしやすいので注意です。  萬松山天寧寺。駐車場は10台くらい置けそうです。  駐車場前で案内板を確認。 以前、江戸検一級の仲間から「けっこう山道歩くよ」と言われていました。それに昨日雨だった ので真夏ではありますが、L.L.ビーンのハンティングシューズを履いてきました。  靴ヒモの結びが左右違うね。まぁ、いいや。オシャレってことで。 朝から快晴ではありましたが、昨夜も雨がまた降ったようで墓域までの道は舗装も されておらず、所々ぬかるんでいる場所もあったので、この装備は正解でした。 雨の影響がなければスニーカーで十分です。  上り坂が続きますが、ほぼ一本道ですし案内板が所々にあるので迷うことは無い でしょう。ただ、先客の方とすれ違ったとき、その人がクマよけの鈴を鳴らしながら 下りてきたので、ちょっと「マジかよ?」と思いました。出るんかい? 辺りを気にしながら5~6分ほどで到着です。  右が近藤勇墓。左が最近になって新しく建てられた土方歳三墓です。 「貫天院殿純忠誠義大居士」(近藤) 「歳進院殿誠山義豊大居士」(土方) と墓石に刻まれます。 お二人の戒名は日野の高幡不動尊でも位牌として並んで見ることができますが、 墓石として見られるのはココだけでしょう。 近藤さんのお墓の下には何も無い、とか遺髪が納められているとか様々な説が あります。一番スゴイのが京都で晒されていた首を奪い取ってきて納めたという ものですが、ワタクシはけっこう可能性が高いと思ってます。 ご存じの方も多いと思いますが、若松市長だった松江豊寿所持の日本刀「阿洲 吉川六郎源祐芳」の覚え書き「下僕首を盗み生前の愛刀になりし此の刀を持ちて 会津に走り密かに葬る」。霊山資料館がこの刀を近藤勇が所持していたと認めて いますし、下僕も会津小鉄こと上坂仙吉とわかっていますので、まんざら嘘でも ないだろう、と。 墓が作られた当時、身分の高そうな侍がここで指示を出していた、それrが土方 さんだったといいますね。どの辺りで指示を出していたんだろうと周りを歩きました。  最近、多摩から運ばれて植樹された「血梅」。 少し大きくなった頃に、また来ます。 天寧寺には会津藩家老だった萱野権兵衛のお墓もあるので、そちらにも行って みます。駐車場近くまで下りてきて別の小径を上って行くのですが、これが近藤さん のお墓より距離は近いのですが足場は悪い。樹々の根っこがあちこちに張り出して いるし、枝も張り出ているので歩きづらいです。 ここまでお参りする人も少ないのか鬱蒼としていて、さっきのクマよけ鈴を持っていた 人を思い出し、ビビリながら到着。  萱野権兵衛長修墓(正面)と次男長正墓(左)。 萱野権兵衛は会津戦争の責任を一人で負って、江戸で切腹しました。墓石らしいものが 見当たらなかったのですが、この菩薩像がその代わりなのでしょうか。 長正は会津復興のための留学生に選ばれ、福岡の小笠原藩に派遣されました。少年 ながら文武に秀でた秀才でしたが、ある日突然自刃。原因は不明だそうです。 長修が切腹したため、長男以外は茅野ではなく郡の姓を名乗ったそうで、郡は茅野家 の初代長則の母親の姓だそうです。正面の石碑に茅野家のことが書かれていますが、 茅野家は元々、加藤嘉明の家臣として会津に移り住み、加藤家が転封となった後も そのまま保科正之に召し抱えられて会津に住んだとのことです。 「八重の桜」で萱野権兵衛は柳沢慎吾さんが演じてましたね。切腹シーンは辛かった なぁ。 さて、会津若松市内では他にこんな所を散策。  吉田松陰や土方歳三も泊まった旅館「清水屋」跡。現・大東銀行会津若松支店。 建物前に案内板があります。 道路の向いには会津塗のお店「白木屋」。店の奥が会津塗の資料館になって いて見学もOKです。「八重の桜」で綾瀬はるかさんが身に着けた帯留めなども 展示されていました。  中野竹子殉節の地、中野竹子像。 七日町駅前の通りをまっすぐ北上した、周りが工場か何かの建物で囲まれた 公園らしき広場の一角にあります。 車1~2台くらいなら駐車可。 地図で見ると、位置的には斎藤一が戦った如来堂の東ですね。 そんな感じで会津を後に、帰路猪苗代方面に向かいます。 「なんだー。このボタンちょっと押してみるんだな。うーん、なんだー。」   にほんブログ村 にほんブログ村 人気ブログランキングへ
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