お久しぶりです。 前回の記事に書きました講座が終わりまして、ちょっと一息ついた所です。 このあと、5月からは中央区日本橋や文京学院大学生涯学習センター等で やはり「松平家と徳川家康」関連の講座を予定。 その合間には神奈川県大和市で幕末・明治維新の講座も行っていきますので、 お近くの方はぜひともお寄りくださいませ。 というワケで「どうする家康」ですよ。 19日放送の冒頭で、ついに松平から徳川へ改姓していましたね。 なんとな~く、シレッと流してしまったようで、松平が源氏の末流であるという根拠 の「世良田」とか「得川」とか、よくわからないうちに里見浩太朗に言いくるめられ てしまったぞ、という方も多いと思います。 その辺り、ちょうど先日の講座で話しましたので、ちょいと今回はそのお話をしたい と思います。 三河の一向一揆を鎮圧して、ついに三河一国を平定した家康です。三河の頂点に 立ったよということを朝廷に認めてもらいたい、つまり叙任していただきたいのです が、時の正親町天皇は首を縦にふりません。 「あかんわ、そんなん。松平なんて、そんな氏素性も知れん男に叙任なんかでき まっかいな。先例があらしまへんわ。」とまぁ、こんな感じ。 先例・・・これが今も昔もこの国では大事なんですね。 そこで家康は、祖父の松平清康に注目します。 清康は一時三河を平定しかけながら、24歳で急死してしまったのですが、武勇や 知恵に優れ、情にも厚い人物だったと伝わります。 この清康が、松平家の菩提寺である大樹寺に多宝塔を建てているのですが、その 柱の銘文に自ら「世良田次郎三郎安城四代岡崎殿」と書いているのです。次郎三郎 とは清康のこと。当時の居城は安祥城でした。 さて、祖父が名乗った「世良田」とは、どんな一族なのでしょう?  上の図は清和天皇から始まる清和源氏の大まかな系図です。 源義家の嫡子・義親が源氏の宗家であり、頼朝に続いてゆきます。 義親の弟・義国の嫡流が新田氏になります。この新田氏の分家が得川氏であり、 さらに得川から分かれた分家が世良田氏になるわけです。 新田氏は建長4年(1254)に当主の政義が何らかの理由で鎌倉幕府の御家人を 失職してしまいます。すると、分家の世良田氏が新田一族を代表するということ もあり、後に義貞が新田氏を代表すると世良田氏も義貞に協力しています。 家康が世良田に注目するのもわかります。世良田氏は確かに源氏の傍流です。 源氏であれば名族中の名族。先例もバッチリ。 では、松平氏は本当に世良田氏の末裔なのか、と言われれば・・・それはNOです。 清康は松平家初代親氏から数えて7代目当主ですが、清康以前に松平家で世良田 を名乗った人は一人もいません。 それどころか、3代目当主だった松平信光は「加茂朝臣信光」と自ら記しており、 賀茂氏の流れだと言っています。まぁ、これもあくまで自称なんですが・・・。 ではなぜ、清康は自ら世良田などと名乗ったのでしょうか? それは上の系図にヒントがあります。 新田氏の始祖・義重の弟から分かれた一族が足利氏ですが、その足利氏からさらに 分家したのが今川氏なのです。 鎌倉幕府執権北条氏を滅ぼしたあと、源氏の内部で足利と新田の激しい争いがあり、 勝ったのは足利氏です。駿河・遠江の守護となった今川氏は足利系。さらに松平氏の 住む三河の守護・斯波氏も足利系です。 清康はこれら足利系の名族に対抗して、あえて新田系の世良田を名乗ったのでは ないかと云われています。ハッタリをかましたワケですね。 そんな勝手に世良田を名乗って、本当の世良田が文句を言ってきたらどうするの かって?それは大丈夫。 世良田氏は新田義貞に加勢するも、ことごとく戦場で足利軍に敗れ、所領地(群馬県 太田市世良田町)を離れざるを得なくなります。その後、室町時代になると関東地方は 関東公方足利氏と関東管領上杉氏の争いとなりますが、世良田一族もその戦いの中 に身を投じてゆきます。しかし、一族は多くの死傷者を出し、ついに史料上から世良田氏 は姿を消してしまうのです。 つまり、今更ながら世良田を勝手に名乗ったところで訴えられることはない。 家康は松平から(得を徳になおし)世良田の本筋である徳川へ復姓したと申請しました。 改姓ではなく、復姓・・・つまり本来の姓に戻したと訴えたわけですね。 巧妙に世良田の系図に自分の先祖をくっつけたんです。 これにより、家康は源氏の末裔となれたのでした。 系図上はね。  松平清康の墓(大林寺)
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大河ドラマ「どうする家康」が始まりました。 ワタクシも先月から家康関連の講座などが入っているもので(ていうか大河ドラマが 家康なので)、第1話を楽しみにしておりました。 1話目を見終えた感想としましては、桶狭間の戦いからスタートするのが意外と いうか、もう少し今川家の人質時代を扱うのかなと思っていました。そうすると、大坂 の陣まで入らないという逆算なんでしょうかね。 ストーリーとしては仕方ないのでしょうけど、野村萬斎さんの今川義元がまさに太守 という貫禄があったので、1話で退場はもったいないと思いました。 ワタクシは大河ドラマで戦国大名を扱う場合、主人公の大名もさることながら、その 家臣団が魅力あるキャラクターに描かれるかどうかが作品を左右すると考えていま す。今回もそこを注目しておりましたが、1話目を見る限り適材適所で期待できそう な雰囲気です。 さて、そんな中で「あ、やっぱりココは触れなかったな」と思った箇所がありました。 まぁ、尺の関係でしょうがない。 でも家康を理解するにはけっこう大きいポイントだと思うので、ドラマには登場しな かった家康エピソードをご紹介します。 今川家の人質時代。家康と一緒に食事をしていたのが平岩親吉(岡部大)、鳥居 元忠(音尾琢真)、そして伴虚無蔵・・・もとい石川数正(松重豊)の3人だけだった ので、当時の家康の周りに家臣は少なかったんだな、人質だからな・・・と思えちゃい ますが、実際にはもっといて、「徳川実記」によれば家臣28人、雑兵50余人が付い ていたとあります。中には人質となった当時7歳の家康の遊び相手として、6歳の 阿部徳千代もいました。徳千代は後に阿部正勝と名乗り家康を支えます。幕末に 老中として活躍した阿部正弘のご先祖です。 遊び相手といえば、もう1人。 当時、今川家では家康の他に相模の北条家からも人質を取っていました。これは 今川・北条・武田と3国で軍事同盟が結ばれていたからです。 人質になっていたのは北条家3代当主・北条氏康の四男氏規です。 氏規は血統的には今川義元の甥にあたり、義元の母の寿桂尼が養育に当たって いました。 義元の子氏真には兄弟がいなかったので、家康、氏規ともに人質というよりは今川 一門衆として養育されたと考えられています。年齢は家康の3歳下ですが、当然 一緒に遊んで過ごしていたことと思います。 後に秀吉の小田原攻めの時、氏規は北条方として韮山城で奮戦しますが、家康の 説得により開城します。幼少期に共に過ごした間柄で、なにか去来するものがあった のかもしれません。 学校の日本史では小田原北条家は滅亡したことになっていますが、実際にはこの 氏規の子氏盛が江戸時代に1万石を賜って河内国に狭山藩を立藩。明治維新 まで存続しています。 義元の命令により大高城へ兵糧を運んだ、家康率いる松平軍ですが、大高城を目 指す前に寄ったところがありました。それは家康の実母・於大の方がいる阿久比城 でした。家康は3歳のときに分かれた母親と16年振りに再会できたのです。 於大の方は家康の父・広忠と離婚したのちに阿久比城主の久松俊勝と再婚しま した。しかし、そのあとでも家康のことを案じ、手紙や衣服など送ることを欠かさな かったといいます。 於大の方は俊勝との間に3男2女を生んでいました。家康にとっては異父弟妹になり ます。家康は3人の弟(康元、康俊、定勝)とも対面し、今後は兄弟として手を取り合 っていこうと松平の姓を与えました。 これが久松松平家であり、多古藩、松山藩、桑名藩、今治藩などに分かれて江戸 時代を通じて幕府を支えてゆきました。 50代以上の方だと覚えていらっしゃるでしょうが、以前NHKに松平定知というアナウ ンサーがいました。「歴史への招待」の進行などをされていましたが、松平という苗字 から「お殿様アナ」なんて言われてましたね。 この松平アナの出身が久松松平家でした。もう少し詳しく言うと、久松松平家の分家 の旗本のご出身とか。 久松松平家は明治維新以降、苗字を松平から久松に戻しました。しかし、松平アナの ご先祖はそのまま松平を名乗ることを選んだのだそうです。 ということで、第1話では触れられていなかった家康エピソードを書いてみました。 話の展開だと家康の父広忠はこのまま未登場でしょうが、母親の於大の方はいずれ 出てくるような気がします。  「なんだー。このボタンちょっと押してみるんだな。うーん、なんだー。」   にほんブログ村 にほんブログ村 人気ブログランキングへ
相当遅くなりましたが、箱館戦争終戦時の渋沢成一郎を見ていきます。 「青天を衝け」を見た方ならご承知の通り、成一郎は生き残って明治の世の中を 実業家として生きています。 明治2年(1869)の3月に、箱館旧幕軍は新政府軍の最新鋭艦「甲鉄」を奪う作戦 (アボルダージュ)に出ますが失敗します。「宮古湾海戦」 しかし、この作戦に成一郎は参加していませんのでここでは省略。 彰義隊は陸軍兵なので主力にならなかったのでしょう。それでも15人が作戦に参加 し蟠龍艦に乗り込んだようですが(「上野彰義隊と箱館戦争史」 菊地明)、判明して いる者の氏名から推察して、大彰義隊から選抜された者でしょう。 4月9日、雪解けを待っていよいよ新政府軍が蝦夷に上陸してきます。 上陸地点は渡島半島の西岸乙部。そこから二股口、木古内口、松前口の3方向から 進軍します。当初は少しでも土地勘がある旧幕府軍が優勢でしたが、新政府軍は 兵力を青森に集中させ、そこからどんどん援兵を繰り出すので、次第に優勢になって いきます。 ちなみに、このとき新政府軍の指揮を執ったのは長州の山田顕義。後の日本大学 創立者。日大OBの方々でも、山田さんが法律家ということは知っていても、それ以前は とても有能な軍人だったことを知る人は少ないようです。あの、例の前理事長だった人 は・・・案外そういうコトは知ってるかもしれない。  兵力の多さに、制海権まで相手に奪われていては旧幕府軍に勝ち目はありません。 さて、そんな中我らが渋沢成一郎はどこで戦っていたのでしょう。 成一郎率いる小彰義隊は、最初は湯の川に布陣していたようです。湯の川は箱館の 東側ですから、亀田半島方面から来る敵を警戒していたのでしょう。しかし、実際には 新政府軍は松前半島を攻略して西側から五稜郭を目指してきたので、湯の川は戦場 にはならなかったようです。 5月に入り、ついに難攻不落と思われていた函館山を乗り越えて新政府軍が箱館市内 に突入。箱館湾に突き出た弁天台場で戦っていた新選組を救出に向かった土方歳三が、 一本木関門で敵弾に倒れ戦死してしまいます。5月11日でした。  旧幕府軍は一本木関門奪還のために出陣しますが、この戦闘に出たのが仙台藩出身 の額兵隊、見国隊、そして小彰義隊でした.。湯の川から箱館に戻っていたのですね。 しかし、一本木関門は奪還できず、小彰義隊は五稜郭との中間にある千代ヶ岡陣屋に 入ります。 しかし、13日の夜頃から五稜郭を抜け出して、新政府側に投降する兵士が相次いだと いいます。まぁ、伝習隊などは幕臣ではなく、金で雇われた者が多かったのでもう先が 見えたとなると逃げる者も多かったのでしょう。 さて、成一郎らが立て籠もった千代ヶ岡陣屋も16日には陥落してしまうのですが、この 前後に成一郎はとある行動に出たようです。 「(成一郎らは)五稜郭裏門の番兵たりしが、隊長渋沢成一郎、兵隊ことごとく引き集めて 郭内を忍び出で、義に背いて官軍に降る。」(「蝦夷錦」) 小彰義隊は千代ヶ岡から五稜郭に移っていたようですが、なんと成一郎は部下を引き連 れて投降してしまったというんですね。驚きです! ところが一方でこのような証言も。 「その夜、渋沢成一郎、松平・中島の問答を聞き黙し居たりしが、如何思いけん、部下の 士林清五郎初め数十人を随え、湯の川に脱走す」(「蝦夷の夢」) これは衝鋒隊の今井信郎の記録です。千代ヶ岡陣屋で松平太郎と中島三郎助が撤退 するかどうかについて議論していたところ、その様子を聞いていた成一郎らがいつの間 にか脱走していた、という内容。 これと似た証言は、 「渋沢成一郎、津田主計等最初より衆に先達て激論せし者なるが、此隙に至り竟に臆い 念発り窃かに脱出す」(「説夢録」) こちらは上野戦争に参加したあと、一聯隊に所属していた石川忠恕の記録。 これらを総合的に見ていくと、小彰義隊は五稜郭か千代ヶ岡陣屋にいた(あるいは両方) が、敗戦の決まる少し前に成一郎が部下を引き連れ脱走した、ということになります。 今井信郎は逃げた先は湯の川であると、具体的です。 箱館戦争は5月18日に榎本武揚らが降伏したことにより、終結しました。 しかし、同日に箱館政権幹部の全員が降伏、出頭したわけではありません。 開拓奉行の沢太郎左衛門らはモロラン(現室蘭)にいたために、彼等が五稜郭の降伏 を知ったのは5月22日。箱館に出頭したのは6月11日になってからでした。 そして、渋沢成一郎もまた、新政府軍に出頭したのがその頃だと思われます。 というのも、榎本や大鳥らに遅れて、沢と成一郎は7月5日に一緒に東京に送還され、 辰口の糺問所に入れられたからです。 成一郎らはやはり湯の川に潜んでいたようです。(「上野彰義隊と箱館戦争史」) ということは今井信郎の証言がかなり的を得ているようです。 ただ、ここにもう一つ成一郎の行動についての記録があります。 「澁澤成一郎ハ湯ノ川ト申所江出張致シ居、六月十八日伏罪仕」(「陸軍裁判所記」) これは明治4年12月の陸軍裁判所の記録です。 ここには成一郎が出頭したのは6月18日であるとし、また湯の川へは脱走ではなく 出張だったと記されています。これは裁判所の正式な記録であるため、成一郎だけ ではなく榎本や大鳥など他の幹部らの証言を入れた上での記録でしょう。 これを信じれば、理由はわかりませんが総裁の榎本か、陸軍奉行の大鳥に命じられて 湯の川に配置されたことになります。 成一郎ら小彰義隊が最後にいたのは湯の川に間違いないようですが、はたしてそれが 脱走だったのか出張だったのか? どちらなのでしょう。 遊撃隊にいた間宮魁という人が大正6年に「箱館脱走人名」という名簿を著しています。  「函館市中央図書館デジタル資料館」より これを見ると、榎本武揚、松平太郎、大鳥圭介に続いて渋沢成一郎の名前が出ています。 「監軍」とあることから目付をしていたということでしょう。 「脱」とあることから終戦前に脱走していたと間宮も思っていたようですが、No.4の位置に 成一郎を書いたということは、彼は旧幕府軍内部で高い地位にいて、周囲もそれを認めて いた可能性があったのではないでしょうか。 繰り返しになりますが、渋沢成一郎は自ら戊辰戦争中の日記、自伝、記録の類を残して いません。地元の深谷に書簡集のようなものもあるようですが、明治になって実業家に なってからのものだそうです。 成一郎が彰義隊を組織し、振武軍、榎本艦隊に合流、箱館戦争に至るまでその行動の 記録は同じ旧幕府軍にいた人の記録によってのみです。 山崎有信は「彰義隊戦史」の中で本人に取材をしていますが、天野八郎や菅沼三五郎 らとの分離について詳細は語っていません。 今までご紹介してきたように、渋沢成一郎という人物は一橋家に仕官以降、将軍慶喜の 側近にまで出世。彰義隊結成時もリーダーに推されました。しかし、転戦の都度再結成、 分裂を繰り返します。 優秀な素質がありながら、組織のリーダーには向かなかったのかなぁと思うところも感じ ます。 渋沢栄一が成一郎のことを一足飛びに結果を求める性格だったと評していますが、そう いう所なんでしょうか。 大河ドラマのレギュラーキャラになったことで、今までほとんど研究されなかった成一郎に 初めてスポットが当たったようです。 今後、新史料が発見されるかもしれませんし、新たな研究を待つことに期待したいと 思います。 「なんだー。このボタンちょっと押してみるんだな。うーん、なんだー。」   にほんブログ村 にほんブログ村 人気ブログランキングへ
前回の記事で渋沢成一郎が何らかの規律違反をしたために、彰義隊が二つに分裂。 成一郎はより小さな「小彰義隊」の頭となったことを書きました。 彰義隊隊士寺沢儭太郎によれば、それは松前城の金庫から運び出した金銭の横領 だといいます。 さて、慶応4年も終わろうとしている12月15日。士官以上の入札によって、この箱館 旧幕府軍の閣僚が決められました。「箱館政府」とか「蝦夷共和国」などと云われます が、榎本たちに蝦夷を日本から独立させる気持ちは全く無く、あくまでも部隊ごとに 分かれていた旧幕府軍を統一し、治安維持を目的にしたものと考えるのが妥当だと 思います。 誰がどの役職に就いたのかは、いろんな本に出ていますのでココでは一々書きませ んが、成一郎がどの役職を与えられたのかだけ触れたいと思います。コレ、案外と どの本にも書かれていないのです。 前回ご紹介した荒井宣行(額兵隊)の「蝦夷錦」によれば、成一郎は「陸軍奉行添役」 に就任したとなっています。日本国語大辞典によれば「添役」とは「主務者に付いて 補助する役、補佐役。次官。」とあります。 陸軍大臣が大鳥圭介、奉行並が土方歳三ですから、その副官に任命されたという ことになりますね。 「新選組隊士録」(相川司)では松平太郎を大将、大鳥を中将、土方を少将と表現して いますが、となれば陸軍奉行添役は准将でしょうか。  「蝦夷錦」(函館中央図書館デジタル資料館) ただ、上の史料を見ていただければお分かりのように、添役には13人が名を連ねて いるので成一郎だけの役職ではありませんでした。なぜこんなに「副官」が必要だった かというと、おそらく陸軍内のバランスを考えた結果なのでしょう。 彼等の経歴を見ると 新選組系・・・相馬、大島、大野、安富 遊撃隊系・・・澤、忠内、宮路 彰義隊系・・・渋沢、津田 幕臣・草風隊系・・・牧野、堀、佐久間 伊達家臣・・・金成 このように分けられます。新選組系の相馬らは土方歳三付きだったようですし、牧野は 伝習士官隊の軍監をしていたので大鳥に近かったようです。 また、堀、忠内は江差守備隊、佐久間は松前守備隊に所属していたようですので、箱館 周辺以外にも人員を配置する関係上、これだけの人数が必要だったのでしょう。 とにかく、成一郎はこれら箱館政権の陸軍幹部の中に名を連ねたわけです。 もしも、彼が寺沢儭太郎の言うように敵から奪った金銭を横領し、それを榎本や土方らから 咎められていたのならば、このような役職には就けなかったと思うのですが、いかがで しょうか? 彰義隊内部で何らかのトラブルがあり、その責任を取らされたことは間違いないと思い ますが、それほど不名誉なことではなかったと推察します。 さて、箱館政権陸軍はフランス式軍制に整備もされました。 それまで彰義隊や遊撃隊、額兵隊など独立性の高い部隊の集合体だったものを再編成 したわけです。全体を第1~第4列士満(レジマン)という聯隊に分けました。 列士満とはフランス語のregiment(聯隊)をそのまま漢字に当てはめたものです。 成一郎の小彰義隊は第1列士満の第1大隊3番小隊に。 菅沼三五郎、池田大隅率いる彰義隊は第1列士満の第2大隊第4~7小隊となりました。 しかし、その後に起こる箱館戦争の記録などを見てみると、実際の戦場ではやはり箱館 以前の旧部隊ごとにまとまって戦っていた場合が多いようですね。 「なんだー。このボタンちょっと押してみるんだな。うーん、なんだー。」   にほんブログ村 にほんブログ村 人気ブログランキングへ
旧幕府軍、榎本武揚率いる艦隊が蝦夷内湾の鷲の木という浜辺に上陸したのは 慶応4年(1868)10月19日のことです。 今、新宿の京王デパートで恒例の駅弁まつりを行っておりますが、そこでもピカイチ の人気商品「森のいか飯」。鷲の木はそれが売られている森駅の近くです。 陸軍部隊は鷲の木から内陸を通る本道軍と、その助力として海岸線を行く間道軍 の二手に分かれて箱館奉行所のある五稜郭へ向かいました。 本道軍は遊撃隊の隊長、人見勝太郎が新政府への嘆願書を持って進みます。 渋沢成一郎率いる彰義隊は、仙台脱走兵で構成される額兵隊らと共に、土方歳三 に率いられて間道軍に加わりました。 当時箱館府は新政府が抑えており、松前藩、津軽藩らがその守備隊にいましたが、 旧幕軍はこれを難なく破り、10月26日に五稜郭に入城します。 額兵隊にいた荒井宣行の書いた「蝦夷錦」にはこの時の彰義隊を 「二百余人ヲ四列ニ立テ、日ノ丸ノ大旗ヲ翻シ」と書いています。 翌27日から土方歳三を隊長として、彰義隊、陸軍隊、額兵隊の混成部隊で松前 攻略に向かいます。彰義隊はその先鋒を任されたと、彰義隊にいた丸毛靱負の 「函館戦史」にあります。 松前藩というのは全国でも特殊な藩で、当時は寒冷で米が収穫できないので石高 は0なんですね。で、漁業やアイヌとの交易で経営を成しており、藩士も通常は 農漁業に従事するという生活だったようです。そのため戦闘能力も低い。 11月5日には、土方軍は松前城を落とし、入城を果たします。 と、ここまでは良かったんですが、問題はこの後に起きます。 「彰義隊長渋沢成一郎、軍律ニ違反シ免官ス」 これは幕府歩兵11聯隊、12聯隊を中心に作られた衝鋒隊の副長を務めていた 今井信郎の「北国戦争概略衝鋒隊之記」に残された記述です。ちなみに今井は かつて京都見廻り組に在籍し、坂本龍馬を斬ったことで知られる男。 これだけだと何があったのかわかりませんが、とにかく成一郎が何かをやらかして 彰義隊の隊長から降ろされたらしい。 以前ご紹介した寺沢儭太郎の「幕末秘録」には、この様子が詳しく書いてあるのですが それによると・・・松前城を攻略した際、松前藩兵が城に火を放って逃げた。そのため 味方が消火に当たるところ、成一郎は配下に命じて金蔵から金銭を運び出し、これを 横領した・・・というんですね。 それで交代寄合の菅沼三五郎ら幹部たちは、もう成一郎にはついて行けぬと彼を 隊長にとどめることを拒否したようなんです。 なるほど、これがホントだとすると成一郎はとんでもないヤツですね。 結局、11月13日から江差方面に逃げた松前藩兵らを追討するため、土方軍は 出陣しますが、成一郎と彼に従う50数名だけは松前に残されました。 菅沼らから一緒に行動するのは嫌だと言われたのでしょう。 再び榎本が両派の間に入って仲裁しますが、ついに元には戻らず彰義隊は再び分裂。 隊長を菅沼三五郎、池田大隅とした200~230人を「彰義隊」。渋沢成一郎を隊長と した30~80人を「小彰義隊」としたのです。小彰義隊の人数にだいぶ幅がありますが、 これは「彰義隊戦史」には「三十余人」、「蝦夷錦」には「八十人」とあるためです。振武 軍のときのように、後から移った隊士がいたのかもしれません。 さて。 本当に成一郎は松前城の金蔵から金銭を運び出し、それを横領などしたのでしょうか? これを書いているのが、以前の記事で「成一郎が土下座をして隊長になった」と書いた 寺沢儭太郎ってのが、ワタクシ的には引っかかる所ではあります。 この人は成一郎を少し貶めて書こうとしている所があるんじゃないかなぁ・・・と思えなく もないんですよね。天野派なのでね。 ただ、中立の今井あたりが「軍律ニ違反」したとも書いているので、何らかのシクジリ はあったのでしょうね。  額兵隊隊士、荒井宣行「蝦夷錦」より(函館中央図書館デジタル資料館) 2行目に「小彰義隊 八十人 頭並 澁澤成一郎」 4行目に「彰義隊 二百人 改役 池田大隅」 とあります。 「なんだー。このボタンちょっと押してみるんだな。うーん、なんだー。」   にほんブログ村 にほんブログ村 人気ブログランキングへ
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