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「青天を衝け」幕末多摩ひがしやまと流見方㉒ 箱館戦争と渋沢成一郎

相当遅くなりましたが、箱館戦争終戦時の渋沢成一郎を見ていきます。
「青天を衝け」を見た方ならご承知の通り、成一郎は生き残って明治の世の中を
実業家として生きています。

明治2年(1869)の3月に、箱館旧幕軍は新政府軍の最新鋭艦「甲鉄」を奪う作戦
(アボルダージュ)に出ますが失敗します。「宮古湾海戦」
しかし、この作戦に成一郎は参加していませんのでここでは省略。
彰義隊は陸軍兵なので主力にならなかったのでしょう。それでも15人が作戦に参加
し蟠龍艦に乗り込んだようですが(「上野彰義隊と箱館戦争史」 菊地明)、判明して
いる者の氏名から推察して、大彰義隊から選抜された者でしょう。

4月9日、雪解けを待っていよいよ新政府軍が蝦夷に上陸してきます。
上陸地点は渡島半島の西岸乙部。そこから二股口、木古内口、松前口の3方向から
進軍します。当初は少しでも土地勘がある旧幕府軍が優勢でしたが、新政府軍は
兵力を青森に集中させ、そこからどんどん援兵を繰り出すので、次第に優勢になって
いきます。
ちなみに、このとき新政府軍の指揮を執ったのは長州の山田顕義。後の日本大学
創立者。日大OBの方々でも、山田さんが法律家ということは知っていても、それ以前は
とても有能な軍人だったことを知る人は少ないようです。あの、例の前理事長だった人
は・・・案外そういうコトは知ってるかもしれない。

箱館奉行所

兵力の多さに、制海権まで相手に奪われていては旧幕府軍に勝ち目はありません。
さて、そんな中我らが渋沢成一郎はどこで戦っていたのでしょう。
成一郎率いる小彰義隊は、最初は湯の川に布陣していたようです。湯の川は箱館の
東側ですから、亀田半島方面から来る敵を警戒していたのでしょう。しかし、実際には
新政府軍は松前半島を攻略して西側から五稜郭を目指してきたので、湯の川は戦場
にはならなかったようです。
5月に入り、ついに難攻不落と思われていた函館山を乗り越えて新政府軍が箱館市内
に突入。箱館湾に突き出た弁天台場で戦っていた新選組を救出に向かった土方歳三が、
一本木関門で敵弾に倒れ戦死してしまいます。5月11日でした。

一本木関門

旧幕府軍は一本木関門奪還のために出陣しますが、この戦闘に出たのが仙台藩出身
の額兵隊、見国隊、そして小彰義隊でした.。湯の川から箱館に戻っていたのですね。
しかし、一本木関門は奪還できず、小彰義隊は五稜郭との中間にある千代ヶ岡陣屋に
入ります。
しかし、13日の夜頃から五稜郭を抜け出して、新政府側に投降する兵士が相次いだと
いいます。まぁ、伝習隊などは幕臣ではなく、金で雇われた者が多かったのでもう先が
見えたとなると逃げる者も多かったのでしょう。
さて、成一郎らが立て籠もった千代ヶ岡陣屋も16日には陥落してしまうのですが、この
前後に成一郎はとある行動に出たようです。

「(成一郎らは)五稜郭裏門の番兵たりしが、隊長渋沢成一郎、兵隊ことごとく引き集めて
郭内を忍び出で、義に背いて官軍に降る。」
(「蝦夷錦」)

小彰義隊は千代ヶ岡から五稜郭に移っていたようですが、なんと成一郎は部下を引き連
れて投降してしまったというんですね。驚きです!
ところが一方でこのような証言も。

「その夜、渋沢成一郎、松平・中島の問答を聞き黙し居たりしが、如何思いけん、部下の
士林清五郎初め数十人を随え、湯の川に脱走す」
(「蝦夷の夢」)

これは衝鋒隊の今井信郎の記録です。千代ヶ岡陣屋で松平太郎と中島三郎助が撤退
するかどうかについて議論していたところ、その様子を聞いていた成一郎らがいつの間
にか脱走していた、という内容。
これと似た証言は、

「渋沢成一郎、津田主計等最初より衆に先達て激論せし者なるが、此隙に至り竟に臆い
念発り窃かに脱出す」
(「説夢録」)

こちらは上野戦争に参加したあと、一聯隊に所属していた石川忠恕の記録。
これらを総合的に見ていくと、小彰義隊は五稜郭か千代ヶ岡陣屋にいた(あるいは両方)
が、敗戦の決まる少し前に成一郎が部下を引き連れ脱走した、ということになります。
今井信郎は逃げた先は湯の川であると、具体的です。

箱館戦争は5月18日に榎本武揚らが降伏したことにより、終結しました。
しかし、同日に箱館政権幹部の全員が降伏、出頭したわけではありません。
開拓奉行の沢太郎左衛門らはモロラン(現室蘭)にいたために、彼等が五稜郭の降伏
を知ったのは5月22日。箱館に出頭したのは6月11日になってからでした。
そして、渋沢成一郎もまた、新政府軍に出頭したのがその頃だと思われます。
というのも、榎本や大鳥らに遅れて、沢と成一郎は7月5日に一緒に東京に送還され、
辰口の糺問所に入れられたからです。
成一郎らはやはり湯の川に潜んでいたようです。(「上野彰義隊と箱館戦争史」)

ということは今井信郎の証言がかなり的を得ているようです。
ただ、ここにもう一つ成一郎の行動についての記録があります。

「澁澤成一郎ハ湯ノ川ト申所江出張致シ居、六月十八日伏罪仕」(「陸軍裁判所記」)

これは明治4年12月の陸軍裁判所の記録です。
ここには成一郎が出頭したのは6月18日であるとし、また湯の川へは脱走ではなく
出張だったと記されています。これは裁判所の正式な記録であるため、成一郎だけ
ではなく榎本や大鳥など他の幹部らの証言を入れた上での記録でしょう。
これを信じれば、理由はわかりませんが総裁の榎本か、陸軍奉行の大鳥に命じられて
湯の川に配置されたことになります。

成一郎ら小彰義隊が最後にいたのは湯の川に間違いないようですが、はたしてそれが
脱走だったのか出張だったのか?
どちらなのでしょう。

遊撃隊にいた間宮魁という人が大正6年に「箱館脱走人名」という名簿を著しています。

⑫箱館脱走人名a
「函館市中央図書館デジタル資料館」より

これを見ると、榎本武揚、松平太郎、大鳥圭介に続いて渋沢成一郎の名前が出ています。
「監軍」とあることから目付をしていたということでしょう。
「脱」とあることから終戦前に脱走していたと間宮も思っていたようですが、No.4の位置に
成一郎を書いたということは、彼は旧幕府軍内部で高い地位にいて、周囲もそれを認めて
いた可能性があったのではないでしょうか。

繰り返しになりますが、渋沢成一郎は自ら戊辰戦争中の日記、自伝、記録の類を残して
いません。地元の深谷に書簡集のようなものもあるようですが、明治になって実業家に
なってからのものだそうです。
成一郎が彰義隊を組織し、振武軍、榎本艦隊に合流、箱館戦争に至るまでその行動の
記録は同じ旧幕府軍にいた人の記録によってのみです。
山崎有信は「彰義隊戦史」の中で本人に取材をしていますが、天野八郎や菅沼三五郎
らとの分離について詳細は語っていません。

今までご紹介してきたように、渋沢成一郎という人物は一橋家に仕官以降、将軍慶喜の
側近にまで出世。彰義隊結成時もリーダーに推されました。しかし、転戦の都度再結成、
分裂を繰り返します。
優秀な素質がありながら、組織のリーダーには向かなかったのかなぁと思うところも感じ
ます。
渋沢栄一が成一郎のことを一足飛びに結果を求める性格だったと評していますが、そう
いう所なんでしょうか。

大河ドラマのレギュラーキャラになったことで、今までほとんど研究されなかった成一郎に
初めてスポットが当たったようです。
今後、新史料が発見されるかもしれませんし、新たな研究を待つことに期待したいと
思います。


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[ 2022/02/27 ] 大河ドラマ | TB(0) | CM(0)

「青天を衝け」幕末多摩ひがしやまと流見方⑳ 陸軍奉行添役

前回の記事で渋沢成一郎が何らかの規律違反をしたために、彰義隊が二つに分裂。
成一郎はより小さな「小彰義隊」の頭となったことを書きました。
彰義隊隊士寺沢儭太郎によれば、それは松前城の金庫から運び出した金銭の横領
だといいます。

さて、慶応4年も終わろうとしている12月15日。士官以上の入札によって、この箱館
旧幕府軍の閣僚が決められました。「箱館政府」とか「蝦夷共和国」などと云われます
が、榎本たちに蝦夷を日本から独立させる気持ちは全く無く、あくまでも部隊ごとに
分かれていた旧幕府軍を統一し、治安維持を目的にしたものと考えるのが妥当だと
思います。
誰がどの役職に就いたのかは、いろんな本に出ていますのでココでは一々書きませ
んが、成一郎がどの役職を与えられたのかだけ触れたいと思います。コレ、案外と
どの本にも書かれていないのです。

前回ご紹介した荒井宣行(額兵隊)の「蝦夷錦」によれば、成一郎は「陸軍奉行添役」
に就任したとなっています。日本国語大辞典によれば「添役」とは「主務者に付いて
補助する役、補佐役。次官。」とあります。
陸軍大臣が大鳥圭介、奉行並が土方歳三ですから、その副官に任命されたという
ことになりますね。
「新選組隊士録」(相川司)では松平太郎を大将、大鳥を中将、土方を少将と表現して
いますが、となれば陸軍奉行添役は准将でしょうか。

蝦夷錦2a
「蝦夷錦」(函館中央図書館デジタル資料館)

ただ、上の史料を見ていただければお分かりのように、添役には13人が名を連ねて
いるので成一郎だけの役職ではありませんでした。なぜこんなに「副官」が必要だった
かというと、おそらく陸軍内のバランスを考えた結果なのでしょう。
彼等の経歴を見ると

新選組系・・・相馬、大島、大野、安富
遊撃隊系・・・澤、忠内、宮路
彰義隊系・・・渋沢、津田
幕臣・草風隊系・・・牧野、堀、佐久間
伊達家臣・・・金成

このように分けられます。新選組系の相馬らは土方歳三付きだったようですし、牧野は
伝習士官隊の軍監をしていたので大鳥に近かったようです。
また、堀、忠内は江差守備隊、佐久間は松前守備隊に所属していたようですので、箱館
周辺以外にも人員を配置する関係上、これだけの人数が必要だったのでしょう。

とにかく、成一郎はこれら箱館政権の陸軍幹部の中に名を連ねたわけです。
もしも、彼が寺沢儭太郎の言うように敵から奪った金銭を横領し、それを榎本や土方らから
咎められていたのならば、このような役職には就けなかったと思うのですが、いかがで
しょうか?
彰義隊内部で何らかのトラブルがあり、その責任を取らされたことは間違いないと思い
ますが、それほど不名誉なことではなかったと推察します。

さて、箱館政権陸軍はフランス式軍制に整備もされました。
それまで彰義隊や遊撃隊、額兵隊など独立性の高い部隊の集合体だったものを再編成
したわけです。全体を第1~第4列士満(レジマン)という聯隊に分けました。
列士満とはフランス語のregiment(聯隊)をそのまま漢字に当てはめたものです。
成一郎の小彰義隊は第1列士満の第1大隊3番小隊に。
菅沼三五郎、池田大隅率いる彰義隊は第1列士満の第2大隊第4~7小隊となりました。

しかし、その後に起こる箱館戦争の記録などを見てみると、実際の戦場ではやはり箱館
以前の旧部隊ごとにまとまって戦っていた場合が多いようですね。


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[ 2022/01/30 ] 大河ドラマ | TB(0) | CM(2)

「青天を衝け」幕末多摩ひがしやまと流見方⑲ 成一郎はやらかしたのか?

旧幕府軍、榎本武揚率いる艦隊が蝦夷内湾の鷲の木という浜辺に上陸したのは
慶応4年(1868)10月19日のことです。
今、新宿の京王デパートで恒例の駅弁まつりを行っておりますが、そこでもピカイチ
の人気商品「森のいか飯」。鷲の木はそれが売られている森駅の近くです。

陸軍部隊は鷲の木から内陸を通る本道軍と、その助力として海岸線を行く間道軍
の二手に分かれて箱館奉行所のある五稜郭へ向かいました。
本道軍は遊撃隊の隊長、人見勝太郎が新政府への嘆願書を持って進みます。
渋沢成一郎率いる彰義隊は、仙台脱走兵で構成される額兵隊らと共に、土方歳三
に率いられて間道軍に加わりました。
当時箱館府は新政府が抑えており、松前藩、津軽藩らがその守備隊にいましたが、
旧幕軍はこれを難なく破り、10月26日に五稜郭に入城します。
額兵隊にいた荒井宣行の書いた「蝦夷錦」にはこの時の彰義隊を
「二百余人ヲ四列ニ立テ、日ノ丸ノ大旗ヲ翻シ」と書いています。

翌27日から土方歳三を隊長として、彰義隊、陸軍隊、額兵隊の混成部隊で松前
攻略に向かいます。彰義隊はその先鋒を任されたと、彰義隊にいた丸毛靱負の
「函館戦史」にあります。
松前藩というのは全国でも特殊な藩で、当時は寒冷で米が収穫できないので石高
は0なんですね。で、漁業やアイヌとの交易で経営を成しており、藩士も通常は
農漁業に従事するという生活だったようです。そのため戦闘能力も低い。
11月5日には、土方軍は松前城を落とし、入城を果たします。

と、ここまでは良かったんですが、問題はこの後に起きます。
「彰義隊長渋沢成一郎、軍律ニ違反シ免官ス」
これは幕府歩兵11聯隊、12聯隊を中心に作られた衝鋒隊の副長を務めていた
今井信郎の「北国戦争概略衝鋒隊之記」に残された記述です。ちなみに今井は
かつて京都見廻り組に在籍し、坂本龍馬を斬ったことで知られる男。

これだけだと何があったのかわかりませんが、とにかく成一郎が何かをやらかして
彰義隊の隊長から降ろされたらしい。
以前ご紹介した寺沢儭太郎の「幕末秘録」には、この様子が詳しく書いてあるのですが
それによると・・・松前城を攻略した際、松前藩兵が城に火を放って逃げた。そのため
味方が消火に当たるところ、成一郎は配下に命じて金蔵から金銭を運び出し、これを
横領した・・・というんですね。
それで交代寄合の菅沼三五郎ら幹部たちは、もう成一郎にはついて行けぬと彼を
隊長にとどめることを拒否したようなんです。
なるほど、これがホントだとすると成一郎はとんでもないヤツですね。

結局、11月13日から江差方面に逃げた松前藩兵らを追討するため、土方軍は
出陣しますが、成一郎と彼に従う50数名だけは松前に残されました。
菅沼らから一緒に行動するのは嫌だと言われたのでしょう。

再び榎本が両派の間に入って仲裁しますが、ついに元には戻らず彰義隊は再び分裂。
隊長を菅沼三五郎、池田大隅とした200~230人を「彰義隊」。渋沢成一郎を隊長と
した30~80人を「小彰義隊」としたのです。小彰義隊の人数にだいぶ幅がありますが、
これは「彰義隊戦史」には「三十余人」、「蝦夷錦」には「八十人」とあるためです。振武
軍のときのように、後から移った隊士がいたのかもしれません。

さて。
本当に成一郎は松前城の金蔵から金銭を運び出し、それを横領などしたのでしょうか?
これを書いているのが、以前の記事で「成一郎が土下座をして隊長になった」と書いた
寺沢儭太郎ってのが、ワタクシ的には引っかかる所ではあります。
この人は成一郎を少し貶めて書こうとしている所があるんじゃないかなぁ・・・と思えなく
もないんですよね。天野派なのでね。
ただ、中立の今井あたりが「軍律ニ違反」したとも書いているので、何らかのシクジリ
はあったのでしょうね。

蝦夷錦a
額兵隊隊士、荒井宣行「蝦夷錦」より(函館中央図書館デジタル資料館)
2行目に「小彰義隊 八十人 頭並 澁澤成一郎」
4行目に「彰義隊 二百人 改役 池田大隅」
とあります。


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[ 2022/01/22 ] 大河ドラマ | TB(0) | CM(2)

「青天を衝け」幕末多摩ひがしやまと流見方⑱ 蝦夷と幕臣開拓

品川沖に碇泊していた長鯨艦上で再結成した、新生・彰義隊。
その頭に再び就任した渋沢成一郎です。

その後、脱走幕臣軍を載せた榎本武揚艦隊は、徳川宗家を継いだ田安亀之助(徳川家達
が無事に駿府へ到着したことを見届けた慶応4年(1868)8月19日、品川沖を出て北
へ向います。
東北戦線での成一郎及び成一郎の行動について、書いてあるものはとても少ないんですね。
ハッキリ言いまして、松島湾に着いてから彰義隊は出動はするものの戦闘には及んで
いないからでしょう。
一応会津応援のために成一郎は彰義隊を率いて進軍しますが、途中の桑折(こおり)と
いう所で会津から撤退してきた大鳥圭介率いる伝習隊と顔を合わせます。会津が籠城戦
に入ったので城外で戦っていた大鳥らは城に入れず、援軍を求めに仙台へ向かって
いたんですね。
で、彰義隊も仙台に引き返し、佐幕軍で協議に入ります。

このときの仙台は壮観だったでしょうね。
榎本率いる幕府海軍、大鳥率いる伝習隊、成一郎の彰義隊のほか、土方歳三率いる
新選組、人見勝太郎率いる遊撃隊、春日左衛門の陸軍隊などなど。
旧幕軍オールスター集結ですからね。

ただ、頼みの仙台藩はすでに白旗を上げてしまい、奥羽越列藩同盟は崩壊。
榎本と大鳥の話し合いで、希望者は蝦夷に向かうことに決します。
このように書くと、「仙台にいてもアカン」「どうするよ」「蝦夷行く?行っちゃう?」
みたいな、その場で蝦夷行きアイデアが出たように感じるかもしれませんが、さに
あらず。,

榎本は江戸にいたときから最終的には幕臣を連れて蝦夷に行きたいという
希望を持っていたと、勝海舟の日記にはあります。
「榎本釜次郎来訪。軍艦、箱館行きの事、談これあり」
(「海舟日記・閏四月二十三日」)

榎本は到底、駿河・遠江の70万石の領地では全ての幕臣の生活を守ることはでき
ないと考え、早くから蝦夷地での幕臣による開墾事業を目論んでいたようです。
では、それまでに幕臣による蝦夷地の開墾事業の先例はあったのでしょうか?
18世紀後半からロシアが南下政策をしてきましたので、幕府もそれに応じて防衛
の観点から東蝦夷地や千島を松前藩から上地して直接支配としました。
それを背景に幕臣の中から開墾と警備を願い出る者が出てきたのです。

それは八王子千人同心の千人頭である、原半左衛門胤敦という人でした。
寛政11年(1799)に上申し、翌年に幕府から許可が出ています。
なぜ、彼は遠い蝦夷地の開墾を願い出るなんてことをしたのでしょうか?
八王子市郷土資料館では「千人同心の子弟・厄介といわれるものたちの就職問題に
対する解決策とするもの、また詰席を変えられたことに対して、本席復帰を目指した
とするものなどの説がある」(「千人のさむらいたち」)と考えています。
※明暦3年(1657)12月に千人頭の石坂勘兵衛が不注意から不入の間に入室
したことにより、与えられていた躑躅之間詰席を取り上げられ、御納戸前廊下席に
格下げの処分を受けている。

寛政12年3月、原半左衛門と弟の新介が100人の千人同心を連れて津軽の三厩
まで陸路を行き、そこから船で松前に渡り、さらに陸路で箱館に入りました。
一行はさらに陸路67里を歩いて勇払(苫小牧市)まで行き、さらに半数の50人は
海岸線を144里進んで白糠まで行ったそうです。
北海道の地図を見ていただければわかりますが、白糠といえばほぼ釧路です。よく
そんな所まで歩いて行きましたよ。
さらに同年の秋には30人の後発隊が出て、勇払と白糠に向かいました。
原たちは自給に向けた開墾を目指すのですが、厳しい寒さにより病死者や帰国希望
者が続出。病死の中では野菜不足による壊血病も多かったそうです。野菜って大事
ですね。
文化元年(1804)3月の段階で130人のうち、蝦夷に残留したのは箱館9人、白糠
26人、鵡川43人、山越内1人、帰国者19人、死者32人でした。

この130人とは別に、寛政12年(1800)に千人同心3名が家族を連れて蝦夷に
渡り、山越内、七重、勇払に移住しました。

幕末に近い頃になると安政5年(1858)3月に、千人同心組頭秋山喜左衛門の倅
幸太郎ら27人が志願して蝦夷に渡りました。このときは箱館近郊の地域に居住する
ことを選択。多くが七重に入植しました。
彼らは養蚕・織物の産業化を図り、いくつかの見込み違いはあったものの軌道に乗せ、
斜子織り(ななこおり:縦横2本以上の糸で織った平織り)まで生産できるようになった
といいます。
安政期の入植が成功したのは、寛政期と異なり比較的温暖な道南での開拓を選んだ
からでしょう。.

このようにいくつかの失敗や犠牲はありながらも、幕臣による蝦夷地の開拓は成功例
も出ていたことになります。
後の話になりますが、蝦夷地に渡った榎本は、オランダ留学仲間で片腕的な存在の
沢太郎左衛門を開拓奉行としてモロラン(室蘭)に駐在させます。
蝦夷地でも十分な開拓成功の目算があったのでしょう。

IMG_0794a.jpg
「八王子千人同心屋敷跡記念碑」(八王子市)

千人同心解説版
八王子千人同心解説版の蝦夷地開拓の部分


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[ 2022/01/11 ] 大河ドラマ | TB(0) | CM(2)

「青天を衝け」幕末多摩ひがしやまと流見方⑰ 新生・彰義隊

飯能戦争に敗れて故郷の血洗島に逃れていた成一郎ですが、慶応4年(1868)7月中
には江戸へ舞い戻ってきたようです。
彰義隊が上野に屯集していた頃から、陸軍奉行だった松平太郎を通して榎本武揚に
いざというときには艦隊に合流するという話がついていたようで、各地に四散していた
彰義隊の面々が品川に集まってきていたんですね。
成一郎も同志(おそらく振武軍隊士)35名を連れて、榎本の艦にやってきました。
その輸送艦「長鯨」上で、寛永寺で袂を分けた天野八郎派と顔を合わせます。
ちなみに天野は江戸潜伏中に捕まってしまい、榎本艦隊に合流はできませんでした。

このときの様子は彰義隊隊士で天野派だった寺沢儭太郎が「幕末秘録」の中で書い
ています。当初、寺沢たちは成一郎らと再び手を組むのは嫌だったらしいのですが、
榎本の説得で再び彰義隊として再結成しました。
そのとき成一郎は寺沢らにこれまでの経緯を謝罪し、天野の代りとなって誠意を
尽くすことを約束し甲板に頭を擦り付けた・・・というのです。

コレ、ホントでしょうか?
それで成一郎は再び新生彰義隊の「頭」に収まったというのですが・・・。

成一郎は上野を去ったとき、後から追いついてきた者を含めてその後300人の
隊士で構成される振武軍の隊長になったほどの人物です。
彰義隊の頭取として隊を分裂させてしまったことに責任はあったとしても、土下座
までして新生彰義隊の頭になったとは思えません。

寺沢は一方で「渋沢は身長高く、頭は丸坊主で、眼光炯々人を射て、一見上野山王台
にある、彼の西郷の銅像と云ったような立派な偉丈夫であるから、皆その威風の堂々
たるにおされて、我々の首領と仰がんには、かかる人をこそ」(「幕末秘録」)
と言ってます。
成一郎の見た目が立派で威圧感がスゴイので、リーダーになってもらわないワケには
いかないよ、って自分で言ってるんですよね。

おそらく、成一郎はその場にいた隊士たちの総意で頭に推されたのだと思うんです。
再び結成された彰義隊を率いていける人物として、成一郎以外いなかったのではない
でしょうか。
寺沢はあまりそれを認めたくなかったのかな?
ただし、頭の成一郎以外は、「頭並」(おそらく副長の地位か)に菅沼三五郎、「改
役」に小林清五郎、「頭取」に織田主膳、大塚霍之丞、新井鐐太郎、木下福次郎、
松平篤三郎と、幹部には振武軍関係者以外の彰義隊士が名を連ねています。
このことから、寺沢ら天野派は全面的に成一郎を信用したわけではなく、隊の全体
も天野派が握っていた印象を持ちます。

頭並に推された菅沼三五郎は7000石の交代寄合表御礼衆です。
交代寄合というのは石高は1万石未満で旗本の地位ではあるけれど、老中支配に
属し(通常旗本は若年寄支配)、参勤交代を義務付けられている家のことです。
つまり、準大名といってもいい旗本でしょうね。30家余りがありました。

交代寄合はさらに表御礼衆(20家)と四衆(12家)に分かれます。
四衆は参勤交代はするものの、当主が江戸に滞在するのは数日だけで家族を領地に
残すことが許されていました。その代わり幕府の役職に就くことはなく、知行地の関所
や河川の管理を幕府から委託されるのが仕事でした。
一方、表御礼衆は大名と同じく正室や嫡子を江戸屋敷に住まわせる義務があり、幕府
の役職にも就任しました。

菅沼家は交代寄合の中でも最も石高が高く、三五郎は慶応2年(1866)には静寛院
(和宮)と天璋院(篤姫)の用人を務めています。
上野戦争では自ら竜虎隊という別働隊を率いていたといいます。

家柄などでは明らかに勝る菅沼などがいても、成一郎が頭になったのですから、彼の
リーダーとしての資質は一目置かれていたといって良いと思います。

彰義隊旗a


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