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「青天を衝け」幕末多摩ひがしやまと流見方⑫ 冷静な村民

先月26日に江戸楽アカデミーの講座「渋沢成一郎(喜作)と戊辰戦争」が3回全て終了
いたしました。ご参加された皆様ありがとうございました。最後は少し時間オーバー
してしまい、スミマセンでした(汗;)
なお、11月、12月には幕末とは関係ありませんが、江戸楽アカデミーさんでまた
また講座をさせていただきます。その時にはリモートでも見られるようにするらしい
ので、ご興味のある方はぜひともお越しくださいませませ。
当ブログやTwitterでも告知させていただきます。


さて、振武軍は田無村に駐屯して多摩・狭山丘陵地域の村々から軍資金を供出させ
ました。それには江戸時代後期に武州の村々に適応されていた「寄場組合村制度
(改革組合村制度)」という、連絡網が有効に利用されました。
この辺り、元々が豪農層の出身である成一郎や尾高惇忠のアイデアといったところ
でしょう。

ご存じの方も多いと思いますが、振武軍が軍資金を募った地域はほとんどが幕府領
(天領)でした。まぁ、一部には寺社領や旗本領もありましたが。
天領は他の大名領と比べても一般的に年貢率が低かったと云われます。全体で400
万石もありますからね。1ヶ村あたりの年貢負担は少なくて済むわけです。
加えて「オラが領主は将軍さま」という優越感もあったと思います。
基本的によほどの悪政にならなければ、領民は領主を慕うものでしょう。それが天下
のトップに立つ将軍様なら、なおの事。
成一郎や惇忠の期待もそこにあったと思います。「天領の人々なら徳川氏再興のため
に金銭は惜しむまい」それに、自分も農民層だった二人にすれば、この時代の豪農層
はかなりの蓄えがあると予測していたハズでしょう。
ところが・・・

振武軍金銭払い1

振武軍金銭払い2
「大和町史研究」 1962年4号より

上の表は各村の誰々に、振武軍が要求した金額と、要求された村人が実際に
支払った金額の一覧表です。(所沢組合の場合)
どの農民たちも申し付けられた金額の全額ではなく、その1/4程度しか出していない
ことがわかります。
これは所沢組合だけの結果ではなかったようで、他の田無組合、拝島組合、日野
組合などすべての村々で同じような結果となりました。

多摩・狭山丘陵地域は新宿から30~40kmの距離にあります。この距離は1日で
江戸市中の情報が入ってくる地域です。当時の感覚とすれば、リアルタイムで江戸の
様子がわかる距離といえるでしょう。
村々とすれば、天領として徳川恩顧の思いは強いがすでにその時代は終わり、新政府
の統治がもう揺るがないであろうことを、豪農層は冷静に判断していたというわけです。
ただ、振武軍もガキの使いじゃあるまいし、銃や刀で武装しているわけですから怒らせ
たら怖い。さすがにロハってわけにもいかないので「この程度でご勘弁を」という回答
だったのでしょう。

この回答を見て「バカにしておるのか、コラ――――ッ」と成一郎や惇忠が怒ったのかと
いえば、さにあらず。「ハイ、ありがとうございます」と、会計方の印を押したキチンとした
領収証を発行して要求額の1/4の金額を受け取っています。

DSCF0565a.jpg

  
一 金五両也

右は軍用助合として出精
被差出(さしだされ)忠誠之段奇特ニ候
依而(よって)受取証書如件(くだんのごとし)

慶応四年戊辰五月  振武軍
               会計方 印

                蔵敷村 重蔵


成一郎は元農民。だから彼らの心情が理解できるから、少ない金額でもよしと
したのでしょう・・・・ワタクシはそう思って、取材をさせていただいた飯能市立博物館の
館長様に聞いてみました。
(※飯能市立博物館は過去に振武軍と飯能戦争の特別展を開催)
すると館長の答えは「違うと思いますね」と意外なコメント。
「成一郎はすでに武士・・・幕臣として出世もしていますし、もう農民の気持ちよりも
いかに徳川家、幕府の回復を達成するかの方が重要だったでしょう」

なるほどねぇ・・・。
うん、研究者というのは冷静な目で判断しておりますね。
では、なぜ要求に達しない金額でも成一郎らは許したのでしょうか?
振武軍にとって大事だったものは、お金とともに「時間」だったからでしょう。


総持寺 大欅a
総持寺(幕末当時の西光寺)の境内にそびえる大欅。
文久2年(1862)の本殿再建の折に植えられたといいますので、振武軍と村民たち
の様子もきって見ていたハズ。


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[ 2021/10/04 ] 大河ドラマ | TB(0) | CM(0)

「青天を衝け」幕末多摩ひがしやまと流見方⑬ 振武軍の軍資金

オリンピックに続き、パラリンピックでも放送が中断された「青天を衝け」。
仕方がないとはいえ、出来が良いドラマだけに内容が薄くなってしまうのは残念な
気がします。

さて、ブログ記事を本筋に戻しますと、振武軍が田無村に入ってきた時点に戻り
ます。「青天を衝け」では丸々省略された部分です。
振武軍が田無に入って早速行ったことが、寄場組合村(改革組合村)制度を使って
の軍資金集めでした。

振武軍金策一件aaa


「里正日誌」には、振武軍と、呼び出された各村々名主のやり取りの様子が記されて
います。(◎以下の部分)

「右本陣西光寺着届け致し候処、列席にて惣隊長申し聞くには、
此度徳川氏再興の為金高短冊にて申し達し候通り助力
致し候様頼み入り候旨申し聞かされ、金弐拾両重蔵と申す短冊下げ渡し相成り
候間品々歎願申し述べ候処、強勢に申し威し種々強談に及ばされ候えども、
御申し付けの金高はとても自力に及び難き旨再応歎願致し、詰り
金五両差出し漸く勘弁致し貰い落手相成り、・・・・・」


これは蔵敷村の組頭・重蔵さんの一例ですが、総隊長から「今回徳川氏再興のため
ざひとも協力を願う!」と言われ、自分の名前の書いてある短冊を見せられた。そこ
には20両と書いてあったので、とんでもない、そんなには払えませんよと交渉した
けれども、相手は軍隊。さんざん脅かされたけれども、なんとか5両で勘弁して貰った、
という顛末です。

ちなみに成一郎は振武軍では大寄隼人という変名を名乗っていますが、里正日誌の
内野杢左衛門さんはその正体を知っていて、隣に「渋沢成一郎事 変名 大寄隼人」
と書いています。また、「中軍隊長 目付役兼 榛澤新六郎」と書かれているのは
尾高惇忠のことです。

成一郎という人はとてもリアリストな部分があって、戦争するには「先ずは金だ」と、
軍資金がなければ何も始まらないという考えの人だったようですね。
渋沢栄一にしてもそうですが、農民とはいっても商売をしていた人なので、その辺り
の合理的な考え方が先に立つタイプだったのでしょう。
彰義隊に多く集まった隊士たちは、言い方は悪いですが死に場所を求めるというか、
見事武士らしく散りたいと考えて上野に集まった人も多かったと思うんです。武器が
刀槍中心だったというのも、武士の美学、ある種のロマンティシズムを求めていた
ように思えるんですね。
ところが成一郎にとって戦争とは、どんな手を使ってでも勝たねば意味のないもので
あり、そのためには軍資金が絶対に必要だったのでしょう。
将棋の駒では一直線の香車が好きだったという、正義感の強い気持ちで戦うタイプの
天野八郎とは相容れないワケです。

振武軍が田無に至るまで全く金がなかったのかというと、サスガにそうでもなくて。
成一郎が上野から脱走するときに、中野清三郎という人物が「200金」を成一郎に与えた
ということが「彰義隊戦史」に書かれています。
200金とは200両のことでしょうか。
この中野清三郎とはいかなる人物かというと、貨幣改役頭取をしていた人のようで、当時
輪王寺宮の下で納戸役をしていた奥野左京という人と昵懇の間柄だったとのこと。
おそらく奥野から成一郎らのことを聞き、同情してくれたのかも知れません。
まぁしかし、振武軍300人もいれば200両なんてアッという間になくなりますわな。


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[ 2021/09/08 ] 大河ドラマ | TB(0) | CM(3)

「青天を衝け」幕末多摩ひがしやまと流見方⑫ 須永於菟之輔

8月22日から江戸楽アカデミーの講座が始まりまして、そちらのレジュメ作りなどで
ブログも滞りがちです。
講座は9月まで計3回ありまして、過去記事にもありますように「渋沢成一郎から見た
戊辰戦争」をテーマにお話しています。
第1回は、渋沢栄一と喜作が一橋家に仕えるところから鳥羽・伏見の戦いを経て、
須永於菟之輔らが幕府撒兵隊に檄文を廻すところまでをお話しました。
2回目は彰義隊と上野戦争についてお話します。

さて、そんなワケで今回の記事は、前回久しぶりの放送となった「青天を衝け」に
ちょっと触れる感じでお送りします。
コロナやオリンピックの関係で、全体の話数がかなり少なくなりましたから、予想通り
彰義隊の辺りは激しくカットされちゃいましたねぇ・・・^^;
一応、彰義隊を結成する場面は描かれてましたけど。
浅草本願寺ってテロップが入ってましたが、なんか場末の荒れ寺感が否めないw
当時、本願寺には200名が収容できる大広間がありましたからね、もうちょっと
ゴージャスだったと思います。

浅草本願寺2a
ホラ、今だってこんなに立派な浅草本願寺(東本願寺)

於菟之輔の他に、成一郎に我々の頭になってくれと頼む侍が2人いました。文字
放送にしているとこの2人が天野八郎と伴門五郎だと分かるのですが、アレだけ
では役名があってもなくても一緒ですね。
まぁ、そんなことはドラマの都合上どうでもいいことですけど、かなり大きなフィクション
がありましたので、今日はそこを書き出しておきましょう。

帰国した栄一に川村恵十郎と於菟之輔が面会に行きますね。
成一郎や平九郎のこと、戦ってきた戦争について話しますが、あそこは創作です。
彼は上野戦争にも飯能戦争にも参加していないのです。

これはどういうことかと言いますと・・・。

慶応4年(1868)4月11日に慶喜は寛永寺を出て水戸に向かいます。
江戸の庶民はみな涙を流して前将軍を見送ったと云いますな。
このとき慶喜の護衛を務めたいと彰義隊は願ったのですが、これは聞き入れてもら
えませんでした。
この頃、彰義隊の内部は渋沢成一郎派と天野八郎派に分かれ、主流は薩長への主戦
論を唱える天野派となっていました。成一郎は於菟之輔に命じて(従弟だから頼みやす
かったのでしょう)、慶喜護衛の責任者である山岡鉄舟や高橋泥舟に会って、我々渋沢
派も慶喜警護をさせてくださいと頼むように言ったのです。そして於菟之輔は単身
水戸に向かいました。
水戸に着いた於菟之輔は泥舟から
「警衛を願うなら取り次いでやろう」との言葉をもらいます。
「ありがとうございます。では、頭の渋沢が参りましたらそのようにお取りj計らいを」
「いや、待て須永・・・実はその前にな、聞いてもらいたいことがあるのだ」
「何でござりましょう」
「実はな、幕府脱走兵が鹿島神宮に武装して集まっておるのだ。これは君公恭順の妨げ
となってよろしくない。解散するよう説得してはくれまいか?」
「は、わかりました」

於菟之輔は鹿島神宮に行き、脱走兵らを説得。解散させるのに成功します。
そして水戸に帰り、報告をすると、また泥舟が
「実はな、白河城で官軍と会津が戦っておる。敗走兵がこの水戸を襲ってくるかも
しれん。視察に行ってはくれまいか?」
「は、わかりました」

行ってみると、しかし白河口はすでに新政府軍の手に落ちています。水戸に引き返そう
とするも棚倉も落ちてしまい、仕方なく於菟之輔は須賀川に戻り、そこでの逗留を余儀
なくされてしまいます。この間に上野戦争も飯能戦争も終わってしまいました。
その後白石に出た於菟之輔は、水戸から同道していた加藤木賞三から「フランスにいる
お前の従兄の篤太夫に頼み、フランスに幕府と新政府の仲介をしてもらってはどうだ
ろう?」との意見を聞きます。なるほど、その手があったかと於菟之輔。
ちょうど佐幕派外国商人のスネルの船が来るというので塩釜まで行ってみると、すでに
二本松も落ち、米沢も恭順したとのこと。さらに仙台にスパイが入ってるとの話も聞き
うかつに動けません。
ところが江戸を脱出した榎本艦隊も松島湾に入ってきたため、於菟之輔はようやく成一郎
と会えることになりました。
「もう・・・泥舟さんのおかげで、エライ遠回り・・・(汗)」by於菟之輔

ドラマ伝蔵

ということで、この飯能山中の於菟之輔はフィクションです。

さて、もう一つ。
ドラマをご覧になった方、みなさん言葉を飲み込んだ平九郎の戦死シーン。
もちろんドラマなのでちょっとは盛ってるだろう・・・とは思いますが、わりと史実に近い
かんじだったのではとも思っています。

平九郎の最期の様子については「渋沢平九郎昌忠伝」に詳しく書かれています。
この伝記は藍香選とあるので、実兄の尾高惇忠が正式に認めたものでしょう。
それによると平九郎は成一郎や惇忠とはぐれたあと、ドラマでもあったように農家に
匿われます。そのとき持っていた銃と太刀を置いてゆき、月代を剃って町人風の変装と
なっています。農家を出た平九郎は峠の茶屋に寄りますが、平九郎が江戸の脱走兵
と察した店の主人から官軍の通行しない間道を進むことを勧められます。しかし、平九郎
はこれを聞かず北に向かって進み、敵に遭遇してしまいます。

平九郎が会ったのは芸州広島藩の神機隊です。彼らは飯能戦争には参加しておらず、
残党狩りに出されていました。彼らは薩摩や長州と違って、戊辰戦争の早期解決を目的
とした部隊だったので、ドラマのような平九郎をなぶり殺しにするようなことはしなかった
はず。悪く盛り過ぎ、との意見をTwitterでも見かけました。

ドラマ平九郎


ただ、「渋沢平九郎昌忠伝」には、「盤石ニ踞シ前ニ臥シタル昌忠ノ屍ニ銃丸ヲ乱発シ」
とあるので、演出もまぁ、わりと合っているのかなと思っています。
平九郎は変装を見破られて、すぐに敵兵の腕を斬り落としているので、仲間をやられた
方とすれば頭に血も上るでしょう。神機隊の組織がどうであったとしても、個々の戦場に
おいてはそれぞれだと思います。

だけど、惇忠はその場にいなかったのだから想像で書いたのではないか、と思われる
方もいるかもしれません。
ですが、このときの平九郎の強さに感服した神機隊の河合鱗三という隊士が平九郎の
遺品を保管しており、明治26年(1893)になって渋沢家に返却されているのです。
兜町にあった栄一の屋敷で栄一や惇忠らと、その河合氏らが歓談したとのことです
から、平九郎最期の様子はおおむね正しく伝わっていると思います。

さて、松島で成一郎と再会した於菟之輔ですが、やはりそのまま箱館に渡ったので
しょうか?
答えはNO。
彼はフランスに渡って仲介を頼む目的を捨ててなかったのですね。
スネルの船で横浜に着いた於菟之輔は、しばらく隠れたあと、小石川の高橋泥舟
の屋敷に向かいました。え?やめときゃいいのにって?
泥舟は諭すように言いました。
「君公は今、駿府に謹慎しておられる。幕臣だった者は無禄でもいいからと駿府に
移住を願っている者が多い、なぁ、須永よ、お前は彰義隊に関係あるによって、
この江戸におっては捕縛されてしまう。すぐに拙者と駿府へ参ろう」
この言葉が効いたのか、於菟之輔は駿府へ移住。以降名前を以前の伝蔵に戻し、
明治13年からは箱根仙石原での牧場経営などに従事しました。


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[ 2021/08/28 ] 大河ドラマ | TB(0) | CM(0)

「青天を衝け」幕末多摩ひがしやまと流見方⑪ 軍用金調達

当ブログでは「青天を衝け」をきっかけに、より東大和市域に関係の深い渋沢成一郎
を追って記事を書いているワケですが、栄一は自分と成一郎との違いについて、
自分は一つ一つ目の前の課題を片付けながら進むタイプだが、成一郎は一足飛び
に先に進もうとすると語っています。
なるほど、彰義隊離脱後の成一郎を見ていると、そのような性格が彼を動かしていく
ような感じにも見えてきます。

田無村に入った振武軍ですが、ここは彼らの最終的な駐屯地ではありませんでした。
軍資金を調達するための中継地だったのです。
田無は金策をするにはもってこいの場所だったからです。
それはどういうことでしょう?

1800年代中頃から幕府は関東農村の支配強化と防犯を目的に、改革組合村と
いう制度を作っていました。これは、幕領・私領・寺社領の区別なく近隣の5、6ヶ村
をまとめて小組合とし、さらに小組合を10ほどにまとめた大組合を構成させるもの
でした。小組合の代表者は小惣代、大組合の代表者は大惣代と呼ばれます。
大惣代の村は石高も多く、交通の要所となる村が選ばれました。この村を寄場と
いい、寄場村の名主は寄場名主といいました。
幕府は何か村々に命令を出す場合、寄場村に通達すれば大組合から小組合、
小組合から各村々へと迅速に廻状が届くシステムを作ったワケです。

振武軍は軍資金調達にこのシステムを使いました。

田無村に入った翌日と思われる慶応4年(1868)5月2日、成一郎は周辺の大惣代
の村々に田無村に代表者をよこすように通達を出しました。それは扇町屋、日野、
拝島、所沢、府中、田無と、主だった多摩・狭山丘陵の寄場村でした。
命令を受けた寄場村では名主らが田無に向かいます。そこで振武軍から、自分たち
の組合に入っている村の名主をリストアップするように言われました。
一旦返された寄場名主らは、自分の村に小惣代を呼び寄せ各村々の名主の名前を
書き出させたリストを作り、それを振武軍に提出します。

振武軍・・・おそらく成一郎と尾高惇忠でしょう・・・は、このリストを基に各村の
名主、組頭などに軍資金の金額を割り当て、供出するように要求したのです。,

江戸では彰義隊と新政府軍がいつ戦争をするか時間の問題という切羽詰まった中で、
如何に効率よく資金を集めるか。
武州の改革組合村システムを知り尽くした成一郎や惇忠ならではの考えでした。

そして、この成一郎や惇忠の策を後押ししたのが、外ならぬ田無村名主で、田無
組合の大惣代だった下田半兵衛だったと思われます。
飯能市立博物館の企画展図録「飯能炎上」はこのように書きます。

「高岡槍太郎(振武軍隊士)は、半兵衛という名主が旧幕府方に尽力したことを記
しているし、下田自身も振武軍賄料を田無組合の村に割り付ける際、当村は大
混雑して一統が難渋している上に出金もあって迷惑と思うが、今度のことは『別格
之次第』なので、日限を守って出金してほしい、と述べている。」

田無村は「江戸からほどよい距離」「交通の要所」「寄場村であり改革組合村の
伝達システムを使える」「名主の協力が期待できる」、このような理由で振武軍が
駐屯地に選んだものと思われます。


さて、今週の「青天を衝け」。
渋沢篤太夫が新選組の土方歳三と、大沢源次(治)郎の捕縛に向かいました。
わりと地味な篤太夫の幕臣時代で、派手な見せ場のシーンです。
そのためでしょうか、不逞浪士らと刃を交える殺陣のシーンがありました。
しかし新選組と協力しての捕縛は事実なのですが、実際には大沢は無抵抗で
縛についたため、あのようなアクションシーンはなかったようです。

このエピソードは渋沢栄一の孫、市河晴子の「市河晴子筆記」に書かれていて、
これが出典かと思われますが、筆記には「この話も有名なので、よく書いてある
から」とあります。すでによく知られた話だったようです。
ただ、この筆記、全体に小説仕立てになっているため史料とするにはどうなんだ
ろう?ってちょっと思ってしまうんですよね。まぁ、晴子は祖父様(栄一)にちゃんと
添削してもらっているようなので、ウソは書いてないと思いますが。

ところがです。
栄一の自伝「雨夜譚」には、「新選組の隊長近藤勇に引合へ」大沢をどちらが
捕縛するのかを近藤と話し合い、実際に捕縛も「自分は近藤勇と共に寺院の
中に進み入って」と、一緒に行ったのは近藤勇だと言っているんですよね。
これ、どちらが正しいのでしょうか?

篤太夫が大沢捕縛について話し合ったのが近藤で、実際に捕縛に行ったのは土方
だったとすればいいのでしょうか?

町田啓太 吉沢亮a

捕縛した大沢を江戸に護送する役目を成一郎が命じられ、ここで成一郎は土方と
初対面。「そなたも渋沢か?」と土方は笑い、成一郎は不思議そうな顔をします。
これは創作かと思います。
後の土方と成一郎の未来につながる伏線としたようですね。


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[ 2021/06/28 ] 大河ドラマ | TB(0) | CM(4)

「青天を衝け」幕末多摩ひがしやまと流見方⑩ 田無駐屯

「青天を衝け」も平岡円四郎が亡くなってしまいました。篤太夫も成一郎もショック
だったことでしょうし、また武家の世界のことは平岡が頼りだっただけに不安にも駆ら
れたハズ。
ただ、この後平岡の後任を務めた黒川嘉兵衛が親切に対応してくれたので、大いに
助かったと「雨夜譚」に書かれています。

ここまでのドラマのちょっとこぼれ話。
篤太夫が薩摩藩士・折田要蔵の元にスパイとして潜り込む話がありました。
篤太夫がどのようにして折田の信用を得て、その屋敷に入れたのかはドラマでは
何となく簿化されておりました。
実は川村恵十郎の知り合いに小田井蔵太という者幕臣がいて、この小田井が折田と
親しく、篤太夫のことを紹介してくれたのだとか。
で。この小田井蔵太。後に成一郎が去った後の彰義隊の頭に就任しております。
渋沢家一族とは縁のある人ですね。

もう一つ。
篤太夫、成一郎を「兄イ~」と慕う伝蔵という若者が出てきました。
作男のような形をしていますが、彼もまた篤太夫、成一郎の従兄弟であります。
上州新田郡の農家須永家に生まれましたが、父親が早くに亡くなったので、母親の実家
である渋沢中の家で育てられたというワケなのです。
篤太夫らの推挙で一橋家臣、後に幕臣。名前を於菟之輔に改めます。伴門五郎、本多
敏三郎と共に彰義隊の発起人となったのは、この人。注目していてください。

さて本題。
上野を離れた渋沢成一郎らの一派は成木道(青梅街道)を西に進み、田無村(西東京市)
に現れます。高岡槍太郎の日誌には一行が田無に入ったのは、慶応4年(1868)閏
4月19日としていますが、田無村を支配している江川太郎左衛門代官所が総督府に届け
出たところでは、それは同年5月1日としています。

ここに一つの謎があるのですが、上野から田無まではそれほど長い距離ではなく、当時の
人なら1~2日あれば来れる距離です。その間、成一郎らは何をしていたのでしょうか?
コレといった記録もなく判然としません。
実は以前、当ブログでも取り上げましたが、この当時多摩・狭山丘陵各地で旧幕府方、
新政府方、そのほかよく分からない多くの部隊が出現していました。中には仁義隊と
名乗る間宮金八郎率いる一隊が八王子や所沢に現れ、地域の村々に金穀を要求して
います。仁義隊はのちに名前を臥龍隊と改め、上野の彰義隊に合流しています。
そんな状況の中ですから、成一郎たちも何かしら他の部隊と連絡を取り合っていたのかも
しれません。

田無で成一郎らは隊号を「振武軍」と改めました。
振武軍は田無村の西光寺、密蔵院、観音寺に屯集。前出の江川代官所から総督府への
届け出には、人数はだんだんと増えて5月8日頃までには250人になっていたとか。

総持寺 本堂

西光寺、密蔵院、観音寺は、明治8年(1875)に3寺合併して田無山総持寺となり
ました。現在、総持寺のある場所は西光寺のあった場所です。

総持寺 大欅a

境内にある大ケヤキは、嘉永3年(1850)に西光寺本堂を再建した際に記念として
植えられたもの。
渋沢成一郎も見ていたはずです。

振武軍はなぜ田無に屯集したのか?
彼らの最終的な目的地は他にあったと思われますが、「江戸より余り遠く隔離れぬ形勢
の地を占得て物の成行を窺う」との理由があったと、成一郎は後年語っています。
西光寺の正面には田無村名主の下田半兵衛の屋敷がありました。半兵衛が単なる豪農
というだけでなく、周辺の村々を統括する田無組合の惣代であったことも理由の一つ
だったかもしれません。

振武軍はこのまま田無村に5月12日まで滞在します。

彰義隊は旧幕府から市中警備の任務を与えられてからは、旧幕府からの賄料や経費が
出ていたはずで、慶喜が水戸へ去って勝海舟らが解散を促した後でも、寛永寺から
十分な資金が出ていました。
ところが、成一郎らはそこから(言い方は悪いですが)脱走してきたワケで、軍資金が十分
ではありませんでした。
田無村滞在中に振武軍が行ったこと。
それは、周辺の村々からの軍資金集めでした。


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[ 2021/06/13 ] 大河ドラマ | TB(0) | CM(3)