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「青天を衝け」幕末多摩ひがしやまと流見方⑱ 蝦夷と幕臣開拓

品川沖に碇泊していた長鯨艦上で再結成した、新生・彰義隊。
その頭に再び就任した渋沢成一郎です。

その後、脱走幕臣軍を載せた榎本武揚艦隊は、徳川宗家を継いだ田安亀之助(徳川家達
が無事に駿府へ到着したことを見届けた慶応4年(1868)8月19日、品川沖を出て北
へ向います。
東北戦線での成一郎及び成一郎の行動について、書いてあるものはとても少ないんですね。
ハッキリ言いまして、松島湾に着いてから彰義隊は出動はするものの戦闘には及んで
いないからでしょう。
一応会津応援のために成一郎は彰義隊を率いて進軍しますが、途中の桑折(こおり)と
いう所で会津から撤退してきた大鳥圭介率いる伝習隊と顔を合わせます。会津が籠城戦
に入ったので城外で戦っていた大鳥らは城に入れず、援軍を求めに仙台へ向かって
いたんですね。
で、彰義隊も仙台に引き返し、佐幕軍で協議に入ります。

このときの仙台は壮観だったでしょうね。
榎本率いる幕府海軍、大鳥率いる伝習隊、成一郎の彰義隊のほか、土方歳三率いる
新選組、人見勝太郎率いる遊撃隊、春日左衛門の陸軍隊などなど。
旧幕軍オールスター集結ですからね。

ただ、頼みの仙台藩はすでに白旗を上げてしまい、奥羽越列藩同盟は崩壊。
榎本と大鳥の話し合いで、希望者は蝦夷に向かうことに決します。
このように書くと、「仙台にいてもアカン」「どうするよ」「蝦夷行く?行っちゃう?」
みたいな、その場で蝦夷行きアイデアが出たように感じるかもしれませんが、さに
あらず。,

榎本は江戸にいたときから最終的には幕臣を連れて蝦夷に行きたいという
希望を持っていたと、勝海舟の日記にはあります。
「榎本釜次郎来訪。軍艦、箱館行きの事、談これあり」
(「海舟日記・閏四月二十三日」)

榎本は到底、駿河・遠江の70万石の領地では全ての幕臣の生活を守ることはでき
ないと考え、早くから蝦夷地での幕臣による開墾事業を目論んでいたようです。
では、それまでに幕臣による蝦夷地の開墾事業の先例はあったのでしょうか?
18世紀後半からロシアが南下政策をしてきましたので、幕府もそれに応じて防衛
の観点から東蝦夷地や千島を松前藩から上地して直接支配としました。
それを背景に幕臣の中から開墾と警備を願い出る者が出てきたのです。

それは八王子千人同心の千人頭である、原半左衛門胤敦という人でした。
寛政11年(1799)に上申し、翌年に幕府から許可が出ています。
なぜ、彼は遠い蝦夷地の開墾を願い出るなんてことをしたのでしょうか?
八王子市郷土資料館では「千人同心の子弟・厄介といわれるものたちの就職問題に
対する解決策とするもの、また詰席を変えられたことに対して、本席復帰を目指した
とするものなどの説がある」(「千人のさむらいたち」)と考えています。
※明暦3年(1657)12月に千人頭の石坂勘兵衛が不注意から不入の間に入室
したことにより、与えられていた躑躅之間詰席を取り上げられ、御納戸前廊下席に
格下げの処分を受けている。

寛政12年3月、原半左衛門と弟の新介が100人の千人同心を連れて津軽の三厩
まで陸路を行き、そこから船で松前に渡り、さらに陸路で箱館に入りました。
一行はさらに陸路67里を歩いて勇払(苫小牧市)まで行き、さらに半数の50人は
海岸線を144里進んで白糠まで行ったそうです。
北海道の地図を見ていただければわかりますが、白糠といえばほぼ釧路です。よく
そんな所まで歩いて行きましたよ。
さらに同年の秋には30人の後発隊が出て、勇払と白糠に向かいました。
原たちは自給に向けた開墾を目指すのですが、厳しい寒さにより病死者や帰国希望
者が続出。病死の中では野菜不足による壊血病も多かったそうです。野菜って大事
ですね。
文化元年(1804)3月の段階で130人のうち、蝦夷に残留したのは箱館9人、白糠
26人、鵡川43人、山越内1人、帰国者19人、死者32人でした。

この130人とは別に、寛政12年(1800)に千人同心3名が家族を連れて蝦夷に
渡り、山越内、七重、勇払に移住しました。

幕末に近い頃になると安政5年(1858)3月に、千人同心組頭秋山喜左衛門の倅
幸太郎ら27人が志願して蝦夷に渡りました。このときは箱館近郊の地域に居住する
ことを選択。多くが七重に入植しました。
彼らは養蚕・織物の産業化を図り、いくつかの見込み違いはあったものの軌道に乗せ、
斜子織り(ななこおり:縦横2本以上の糸で織った平織り)まで生産できるようになった
といいます。
安政期の入植が成功したのは、寛政期と異なり比較的温暖な道南での開拓を選んだ
からでしょう。.

このようにいくつかの失敗や犠牲はありながらも、幕臣による蝦夷地の開拓は成功例
も出ていたことになります。
後の話になりますが、蝦夷地に渡った榎本は、オランダ留学仲間で片腕的な存在の
沢太郎左衛門を開拓奉行としてモロラン(室蘭)に駐在させます。
蝦夷地でも十分な開拓成功の目算があったのでしょう。

IMG_0794a.jpg
「八王子千人同心屋敷跡記念碑」(八王子市)

千人同心解説版
八王子千人同心解説版の蝦夷地開拓の部分


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[ 2022/01/11 ] 大河ドラマ | TB(0) | CM(2)

「青天を衝け」幕末多摩ひがしやまと流見方⑰ 新生・彰義隊

飯能戦争に敗れて故郷の血洗島に逃れていた成一郎ですが、慶応4年(1868)7月中
には江戸へ舞い戻ってきたようです。
彰義隊が上野に屯集していた頃から、陸軍奉行だった松平太郎を通して榎本武揚に
いざというときには艦隊に合流するという話がついていたようで、各地に四散していた
彰義隊の面々が品川に集まってきていたんですね。
成一郎も同志(おそらく振武軍隊士)35名を連れて、榎本の艦にやってきました。
その輸送艦「長鯨」上で、寛永寺で袂を分けた天野八郎派と顔を合わせます。
ちなみに天野は江戸潜伏中に捕まってしまい、榎本艦隊に合流はできませんでした。

このときの様子は彰義隊隊士で天野派だった寺沢儭太郎が「幕末秘録」の中で書い
ています。当初、寺沢たちは成一郎らと再び手を組むのは嫌だったらしいのですが、
榎本の説得で再び彰義隊として再結成しました。
そのとき成一郎は寺沢らにこれまでの経緯を謝罪し、天野の代りとなって誠意を
尽くすことを約束し甲板に頭を擦り付けた・・・というのです。

コレ、ホントでしょうか?
それで成一郎は再び新生彰義隊の「頭」に収まったというのですが・・・。

成一郎は上野を去ったとき、後から追いついてきた者を含めてその後300人の
隊士で構成される振武軍の隊長になったほどの人物です。
彰義隊の頭取として隊を分裂させてしまったことに責任はあったとしても、土下座
までして新生彰義隊の頭になったとは思えません。

寺沢は一方で「渋沢は身長高く、頭は丸坊主で、眼光炯々人を射て、一見上野山王台
にある、彼の西郷の銅像と云ったような立派な偉丈夫であるから、皆その威風の堂々
たるにおされて、我々の首領と仰がんには、かかる人をこそ」(「幕末秘録」)
と言ってます。
成一郎の見た目が立派で威圧感がスゴイので、リーダーになってもらわないワケには
いかないよ、って自分で言ってるんですよね。

おそらく、成一郎はその場にいた隊士たちの総意で頭に推されたのだと思うんです。
再び結成された彰義隊を率いていける人物として、成一郎以外いなかったのではない
でしょうか。
寺沢はあまりそれを認めたくなかったのかな?
ただし、頭の成一郎以外は、「頭並」(おそらく副長の地位か)に菅沼三五郎、「改
役」に小林清五郎、「頭取」に織田主膳、大塚霍之丞、新井鐐太郎、木下福次郎、
松平篤三郎と、幹部には振武軍関係者以外の彰義隊士が名を連ねています。
このことから、寺沢ら天野派は全面的に成一郎を信用したわけではなく、隊の全体
も天野派が握っていた印象を持ちます。

頭並に推された菅沼三五郎は7000石の交代寄合表御礼衆です。
交代寄合というのは石高は1万石未満で旗本の地位ではあるけれど、老中支配に
属し(通常旗本は若年寄支配)、参勤交代を義務付けられている家のことです。
つまり、準大名といってもいい旗本でしょうね。30家余りがありました。

交代寄合はさらに表御礼衆(20家)と四衆(12家)に分かれます。
四衆は参勤交代はするものの、当主が江戸に滞在するのは数日だけで家族を領地に
残すことが許されていました。その代わり幕府の役職に就くことはなく、知行地の関所
や河川の管理を幕府から委託されるのが仕事でした。
一方、表御礼衆は大名と同じく正室や嫡子を江戸屋敷に住まわせる義務があり、幕府
の役職にも就任しました。

菅沼家は交代寄合の中でも最も石高が高く、三五郎は慶応2年(1866)には静寛院
(和宮)と天璋院(篤姫)の用人を務めています。
上野戦争では自ら竜虎隊という別働隊を率いていたといいます。

家柄などでは明らかに勝る菅沼などがいても、成一郎が頭になったのですから、彼の
リーダーとしての資質は一目置かれていたといって良いと思います。

彰義隊旗a


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[ 2022/01/06 ] 大河ドラマ | TB(0) | CM(2)

「青天を衝け」幕末多摩ひがしやまと流見方⑯ 塚原渋柿園

さて、「新藍香翁」があるからには「藍香翁」という書物もあります。
藍香とは尾高惇忠のことです。
明治42年(1909)に惇忠の出身地である手計村の鹿島神社境内において、惇忠の
記念碑の除幕式が行われ、その参列者に渋沢栄一より「藍香翁」が配布されました。
つまり、「藍香翁」は惇忠の遺徳を顕した伝記であり、「新藍香翁」はその後に出され
た続編ということになります。

この2編を書いたのは塚原蓼洲という人です。別名は塚原渋柿園(じゅうしえん)。
ワタクシも最近まで知りませんでしたが、明治時代に活躍した新聞記者、小説家だそうです。
横浜毎日新聞や東京日日新聞の記者として活躍した後に、時代小説家としてデビュー。
文語文の文体だったらしいので、我々には読みづらいのでしょうが当時は一世を風靡
しました。岡本綺堂は記者時代の後輩にあたり、綺堂が小説を書くにあたっても多くの
アドバイスを与えたのだとか。
渋柿園とはけったいなペンネームをつけたものですが、自由思園という名前を使った
時期もあるようなので、そこからさらにもじったのかな?

この蓼洲こと渋柿園、本名は塚原靖(しずむ)といいまして、元幕臣です。
正確に言えば、父親が根来百人組与力で、明治維新当時靖はまだ部屋住みの身
でしたから、幕臣の身内といったところでしょうか。
ただ、このような生まれであったため、幕末期に農民でありながら佐幕に身を置いて
戦い、また維新以降は新時代に活躍した惇忠の伝記を書くことになったのでしょう。
「新藍香翁」が主観の入る小説体となったのも無理からぬ話かもしれません。

しかし、塚原自身は戊辰戦争には身を投じてはおりません。
それどころか、幕臣たちが新政府軍にあくまでも抵抗した戦いは、固より朝廷に逆らう
つもりなど毛頭もないし、主家からはあくまでも恭順せよと命じられている中での戦。
勝ってもその命に背いた咎で切腹といわれても仕方がない。
「何の趣意で、誰が何のために、この命がけの難渋な戦争をするのか、わからぬと
いえば実にこれほどわからぬことはない。」(「明治元年」)
と、戦うことに意味はあるのかといっています。

塚原は父親が無禄となっても徳川宗家について行きたいと願ったために、家族で静岡
に移住します。江戸城開城後の幕臣は、彰義隊とか遊撃隊、榎本武揚、大鳥圭介、
土方歳三ら徹底抗戦をした側が目立つのですが、大部分の幕臣は徳川家とともに恭順
し、静岡へ移住する者も多かったのです。
駿河・遠江2国70万石に減らされた領地では、せいぜい5000人の家臣を養うこと
が精一杯だとされました。しかし移住を希望した幕臣は14000人ほどもいたとされ
(明治4年時)、静岡での生活は食べることにも困難を極めたようです。

塚原は部屋住みでしたが、藩から仕事を命じられていたので月に1両2分1人半
扶持が与えられました。彼はあばら家の長屋に住み、1両を自分の生活費、あと
は家族に仕送りしました。食べるものにも困り、非番の日に海で青海苔、山で蕨
やゼンマイを取って飢えをしのいだといいます。別の場所にいた家族が暮らした
家は「六畳に二畳、三尺の台所に一つ竈」「天井もなくて、その板葺の屋根も半分
は腐っている。」これでも良い方だと塚原の母親は言っています。「或る人の如き
は真にその三食の資に尽きて、家内七人枕を並べて飢えて死に・・・或る人は五日
とか七日とか一粒の食をも得んで(中略)餓死にのぞんだ」・・・と。
無禄移住のキビシイ現実です。

藩でも家臣(旧幕臣)の救済策を進めていきますが、経済対策として活躍したのが
渋沢栄一ですね。ドラマでも取り上げられた商法会所の設立です。政府からの貸付金
と商人層からの合本(株式)を資本に、米を買い付けて値が上がった時に売却し、
わずか半年余りの期間に85000両もの利益を上げました。
そして、もう一つの政策が人材養成です。

西周など幕末期に海外へ留学生として派遣されていた幕臣らを教員として、沼津兵学校
を設立し、海外の先端学問(特に数学などの理系学問)を若い世代の幕臣子弟に教育
を施したのです。
その後の明治新政府のプロパガンダにより、徳川幕府は旧態依然とした古い頭しか
持っていなかったと思われがちですが、幕末当時に海外への一番太いパイプを持って
いたのは幕府であり、海外をリアルに知る人材も幕臣が一番多かったのです。
ですから沼津兵学校は表向き陸軍士官学校の趣でしたが、特に理系教育で日本の
最先端の教育が行われていたといいます。
前述の塚原靖も、貧しい中この兵学校で学んだ一人でした。

他藩もこの学校に目を付け学生を静岡に派遣、また沼津兵学校の教員や学生も他藩
へ教授にために派遣されました。このように他藩に貸し出された者を御貸人(おかしびと)
と呼びますが、明治4年時点で256人の旧幕臣が御貸人として他藩に派遣されていた
のです。
塚原も成績が優秀だったのでしょう。御貸人として他藩へ派遣されました。
どこへ派遣されたかといえば、薩摩鹿児島藩でした。
徳川幕府を終わらせ、多くの幕臣を江戸から追い出した最大の藩へ、指導者として
郁ことになった塚原の胸に去来するものは何だったのでしょうか。

そんな塚原が、自分の考えとは合致しないものの、戊辰戦争を戦った尾高惇忠の伝記を
書いたということにも、とても興味を掻き立てられます。

尾高惇忠b
尾高惇忠

⑱塚原渋柿園
塚原渋柿園(靖)


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[ 2021/12/29 ] 大河ドラマ | TB(0) | CM(2)

「青天を衝け」幕末多摩ひがしやまと流見方⑮ 飯能逃避行

秋くらいから各カルチャーセンターなどの講座が始まりまして、本業の仕事以外は
ずっとそちらに時間を取られておりました。
ブログもかなり書いていませんでした。

大河ドラマ「青天を衝け」もいよいよ最終回ですね。
当ブログでは多少東大和市に関係のあった渋沢成一郎にスポットを当てて、取り
上げてきました。

田無から箱根ヶ崎に移った成一郎率いる振武軍は、上野で彰義隊と新政府軍の
戦いが始まると聞くや彰義隊に応援するため青梅街道を東に駆け付けます。
しかし戦いはすでについており、敗走してきた彰義隊の一部と振武軍は田無で
合流。再び一つの軍隊となって飯能に向かい屯集しました。
そして飯能戦争となるのですが、圧倒的な兵力と武器に勝る新政府軍の前に
振武軍は上野戦争以上の一方的な敗戦に終わってしまいます。
「青天を衝け」をご覧になった方はすでにご存じの通りです。

飯能戦争に於菟之輔が参加していなかったり、平九郎の最期や後日談は以前の
記事でご紹介しました。
その後の成一郎についてですが、四散した振武軍の中で成一郎は惇忠や4人ほどの
隊士と共に、追っ手の目を逃れながら逃避行を続けたようです。

先ず一行は旧一橋領だった横手村(日高市)に落ち、組頭の大川戸延次郎に匿われ
ます。大川戸家では家内総出で成一郎たちの着替えを縫い上げました。成一郎は
その礼金として3円(3両か?)を払ったといいます。
新政府軍の監視網の中、横手村から案内人の先導で、一行は白子村、虎秀村、
井上村(飯能市東吾野)に至りました。見張り人足100名余りが進路を固めていまし
たが、井上村名主・井上範三が成一郎らを「定めし官軍で御座ろう」と言ったため、
そのまま官軍のふりをして通過できました。もちろん、井上範三は成一郎らを旧幕臣
と知ってて嘘をついたのです。
飯能周辺はよほど徳川恩顧の思いが強い土地柄だったことが窺えます。
吾野から峯伝いに秩父郡大野村(都幾川村)に出て、名主守田常右衛門に保護された
一行は、数家に分散して数日を過ごしました。
惇忠は柴崎利三郎方に宿泊し、お礼にと自ら揮毫した掛け軸を残していったそうですが、
「この書は十年間誰にも見せないでくれ」
と注意したといいます。おそらく自分を匿ったことが発覚して咎められることを心配した
のでしょうね。
その後、村人の案内で上州伊香保に逃れ、草津に潜んだ後、成一郎と惇忠は深谷に
帰りました。・・・というのが大まかな成一郎、惇忠の逃避行エピソードです。

しかし、今書いた内容は正式な記録があるワケではないのです。
成一郎は戊辰戦争中に日記、記録の類を残しておらず、またこの間の書簡なども
発見されていません。
ただ唯一「新藍香翁」という書物によって、以上の様子が書かれているのみなのです。
実はワタクシもこの本の現物は見ていないのですが、どうも小説仕立ての文体で
書かれているらしく、かなり主観性の強い内容のようなんですね。
なので、あくまでも参考という程度に考えた方がいいのかもしれません。

渋沢平九郎埋首之碑1a

写真は埼玉県越生町の法恩寺にある「渋沢平九郎埋首之碑」(石段右側)


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[ 2021/12/26 ] 大河ドラマ | TB(0) | CM(2)

「青天を衝け」幕末多摩ひがしやまと流見方⑭ 冷静な村民

先月26日に江戸楽アカデミーの講座「渋沢成一郎(喜作)と戊辰戦争」が3回全て終了
いたしました。ご参加された皆様ありがとうございました。最後は少し時間オーバー
してしまい、スミマセンでした(汗;)
なお、11月、12月には幕末とは関係ありませんが、江戸楽アカデミーさんでまた
また講座をさせていただきます。その時にはリモートでも見られるようにするらしい
ので、ご興味のある方はぜひともお越しくださいませませ。
当ブログやTwitterでも告知させていただきます。


さて、振武軍は田無村に駐屯して多摩・狭山丘陵地域の村々から軍資金を供出させ
ました。それには江戸時代後期に武州の村々に適応されていた「寄場組合村制度
(改革組合村制度)」という、連絡網が有効に利用されました。
この辺り、元々が豪農層の出身である成一郎や尾高惇忠のアイデアといったところ
でしょう。

ご存じの方も多いと思いますが、振武軍が軍資金を募った地域はほとんどが幕府領
(天領)でした。まぁ、一部には寺社領や旗本領もありましたが。
天領は他の大名領と比べても一般的に年貢率が低かったと云われます。全体で400
万石もありますからね。1ヶ村あたりの年貢負担は少なくて済むわけです。
加えて「オラが領主は将軍さま」という優越感もあったと思います。
基本的によほどの悪政にならなければ、領民は領主を慕うものでしょう。それが天下
のトップに立つ将軍様なら、なおの事。
成一郎や惇忠の期待もそこにあったと思います。「天領の人々なら徳川氏再興のため
に金銭は惜しむまい」それに、自分も農民層だった二人にすれば、この時代の豪農層
はかなりの蓄えがあると予測していたハズでしょう。
ところが・・・

振武軍金銭払い1

振武軍金銭払い2
「大和町史研究」 1962年4号より

上の表は各村の誰々に、振武軍が要求した金額と、要求された村人が実際に
支払った金額の一覧表です。(所沢組合の場合)
どの農民たちも申し付けられた金額の全額ではなく、その1/4程度しか出していない
ことがわかります。
これは所沢組合だけの結果ではなかったようで、他の田無組合、拝島組合、日野
組合などすべての村々で同じような結果となりました。

多摩・狭山丘陵地域は新宿から30~40kmの距離にあります。この距離は1日で
江戸市中の情報が入ってくる地域です。当時の感覚とすれば、リアルタイムで江戸の
様子がわかる距離といえるでしょう。
村々とすれば、天領として徳川恩顧の思いは強いがすでにその時代は終わり、新政府
の統治がもう揺るがないであろうことを、豪農層は冷静に判断していたというわけです。
ただ、振武軍もガキの使いじゃあるまいし、銃や刀で武装しているわけですから怒らせ
たら怖い。さすがにロハってわけにもいかないので「この程度でご勘弁を」という回答
だったのでしょう。

この回答を見て「バカにしておるのか、コラ――――ッ」と成一郎や惇忠が怒ったのかと
いえば、さにあらず。「ハイ、ありがとうございます」と、会計方の印を押したキチンとした
領収証を発行して要求額の1/4の金額を受け取っています。

DSCF0565a.jpg

  
一 金五両也

右は軍用助合として出精
被差出(さしだされ)忠誠之段奇特ニ候
依而(よって)受取証書如件(くだんのごとし)

慶応四年戊辰五月  振武軍
               会計方 印

                蔵敷村 重蔵


成一郎は元農民。だから彼らの心情が理解できるから、少ない金額でもよしと
したのでしょう・・・・ワタクシはそう思って、取材をさせていただいた飯能市立博物館の
館長様に聞いてみました。
(※飯能市立博物館は過去に振武軍と飯能戦争の特別展を開催)
すると館長の答えは「違うと思いますね」と意外なコメント。
「成一郎はすでに武士・・・幕臣として出世もしていますし、もう農民の気持ちよりも
いかに徳川家、幕府の回復を達成するかの方が重要だったでしょう」

なるほどねぇ・・・。
うん、研究者というのは冷静な目で判断しておりますね。
では、なぜ要求に達しない金額でも成一郎らは許したのでしょうか?
振武軍にとって大事だったものは、お金とともに「時間」だったからでしょう。


総持寺 大欅a
総持寺(幕末当時の西光寺)の境内にそびえる大欅。
文久2年(1862)の本殿再建の折に植えられたといいますので、振武軍と村民たち
の様子もきって見ていたハズ。


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[ 2021/10/04 ] 大河ドラマ | TB(0) | CM(0)