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一式双発高等練習機 一般公開

東京都立川市にある立飛リアルエステートにて、第二次世界大戦中に製作
された旧日本陸軍機の一式双発高等練習機の一般公開が、10月27日から
30日までありました。
ワタクシも近所であったため、見学にいってきました。

立飛14

先ず、この一式双発高等練習機(キ54)とはどんな航空機なのか、ですが。
昭和14(1939)年3月に陸軍から多目的双発高等練習機の試作指示が立川
飛行機株式会社にあり、同社として初めての双発、全金属製、引込脚の機体を
製作することになります。
この練習機は操縦訓練だけではなく、航法、通信、射撃、写真撮影など多目的
作業訓練が可能なものが求められ、結果としてエンジンの信頼性が高く、視界
も良く、機内も広いスペースが確保できるという傑作機が作られました。それが
一式双発高等練習機です。

同機は練習機としてだけではなく、輸送機、哨戒機、連絡機としても転用され、
昭和20年(1945)6月まで1342機が生産されました。一部は民間機(Y39
型輸送機)としても使用されています。

戦後はほぼ全ての機体が解体され、現存機は中国の北京航空天大学北京
航空館に機体胴体部分のみが保存されているだけとなっていました。
(Wikipediaによる)

ところが、昭和18年(1943)に訓練途中に青森県十和田湖に墜落した機体
があり、それが平成24年(2012)9月に引き上げらけていたのです。
たぶん、テレビニュースなどで報じられたのでしょうけど、ワタクシも全く知りま
せんでした。

立飛1
引き上げ時の映像。

引き上げられた機体は青森県三沢航空科学館に展示されていましたが、令和
2年(2020)11月に生産された立川に帰ってきたのだそうです。
昨年も一般公開したらしいのですが、これまたワタクシ全く知らず、今年の公開
についてはネットで知り、しかも今回が最後の一般公開になると聞いて、最終日
の30日に行ってきた次第です。

立飛2

立飛5

会場は立飛リアルエステートの倉庫のような所。
最終日の日曜日ということもあって多くの人が来ていましたが、並ばなきゃ見え
ないというほどのこともなく。十分にいろいろな角度から見物できました。
想像以上に大きいというのが第一印象。
約70年間水没していたということで、腐食が進み、あちこと穴だらけになっては
いますが、日の丸は真っ赤に鮮やかに残っていて、ちょっと感動を覚えます。

立飛6

立飛7

見学者がよく見えるようにとの配慮でしょうか、水平尾翼と垂直尾翼はそれ
ぞれ機体から外された状態で展示されています。
垂直尾翼の三角に見えるマークはこの機体の所属、飛行第三八戦隊の
部隊標識。三と八をうまくデザインしています。

立飛9

立飛10

広いスペースを確保した機内、とはいうものの、これで9人も乗ったら、結構
キツキツかなぁ。現状は塞がれていますが、窓が多いので機内は明るかった
と思います。

立飛8
操縦席も取り外してあって、よう観察できます。

さて、実はワタクシがこの機体を見たいと思った1番の理由はエンジンに
あります。
一式双発高等練習機のエンジンは、当時、日立航空機株式会社が作っていた
「日立ハ13甲」という空冷9気筒エンジンでした。
日立航空機は大森や羽田などにも工場がありましたが、このハ13というエンジン
は立川工場で生産されていました。その立川工場のあった場所が、現在の東大和
市都立東大和南公園なのです。
つまりは、ワタクシの地元。
地元で作られたエンジンをぜひ見て、写真にでも残しておきたいと思ったワケ
なのです。

立飛4
右翼エンジン。

立飛11
左翼エンジン。
立飛13
後ろからの図。
左翼エンジンは引き上げ後に手が加えられ、若干きれいに補修されています。

東大和の工場で作られたエンジンなどもう見ることはできない、というか残って
いることすら想像していなかっただけに、こうして目の前に見ることができて
感動もひとしおでした。

立飛3
ちゃんと説明板でも解説してくれています。

日立航空機立川工場は昭和13年(1938)開設。
この工場とともに東大和市(当時は大和村)は発展していきます。
しかし軍需工場ということで米軍の攻撃目標となり、昭和20年(1945)2月17日、
4月19日、24日の3回に渡り空襲を受けました。

2月17日(土)午前 房総沖232Kmの航空母艦から発進した艦載機グラマンF6F
編隊30機による爆撃と機銃掃射により犠牲者78人。
4月19日(木)午前 B29 3機と戦闘機マスタングP51の編隊50機による機銃掃射
により犠牲者6人。
4月24日(火)午前 B29の大編隊101機による爆撃で、80%が破壊され、犠牲者
28人。 (「日立航空機株式会社立川工場」東大和観光ガイドの会編 より)

立飛15

ワタクシは単純に飛行機はカッコイイと思います。
それは民間機も軍用機もかわりません。
要は、それを人間がどう利用するか、です。

変電所跡

東大和南公園に唯一残る、旧日立航空機立川工場時代の建造物。
変電所跡。
建物の南側には多数の機銃掃射の跡が残ります。
現在は市の平和の象徴として保存されています。

いつの日か、この変電所内に一式双発高等練習機のエンジンが展示される
ことがあればいいなと、思います。


「なんだー。このボタンちょっと押してみるんだな。うーん、なんだー。」



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[ 2022/10/31 ] 多摩近隣史 | TB(0) | CM(2)

「なへし」とは?

ひと月以上更新していなくて、スポンサー広告が出てしまいました。
講座やらまち歩きガイドやら、とりあえずひと段落つきましたので、久々に記事を
書く所存であります!

ワタクシ、毎月1回ですが市内の歴史サークルに参加しておりまして、郷土史の
先生から地域の近世史を勉強しております。
先日、東大和市のお隣、武蔵村山市にかつてあった横田村の史料を読む機会が
ありました。正徳元年(1711)に書かれた横田村の明細帳、つまり代官所へ提出
する村の説明書きのようなものです。

武蔵国多摩郡山口領横田村反別指出シ帳
卯ノ七月

四拾六年以前戌年 中川八郎左衛門様御検地
 一 高百四石六斗八升弐合   御縄辻
    此反別拾町三反七畝拾壱歩
 内
   三町五反弐拾三歩  田方
   六町八反六畝拾八歩  畑方

一 御林の内 愛宕神社 御座候事
一 御林の内 壱反歩 大六天神社 御座候事
一  弐反五畝歩 七所御社 芝地共に
一  松山五反歩、下々畑九畝歩 吉祥院寺分
     右は中藤村長円寺末地に御座候


と書きはじめられており、以下、村に何があって何が無いのかが書き出されていきます。

一 道心 壱人  納円
一 水呑百姓 壱人  勘十郎
一 橋 拾壱ケ所 御座候
   此内 四ケ所板橋、残 水引土橋
一 馬 弐拾疋 男馬 御座候
一 桶屋 壱人 御座候


長いので途中省略しますが、途中から村内にある(ない)職業について書かれます。

一 大工 壱人
一 馬喰 壱人
一 紺屋 無御座候
一 木引 無御座候
一 鍛冶屋 無御座候
一 さとう 無御座候
一 こせ 無御座候 
一 作酒屋 無御座候事
一 かみすき 無御座候事
一 圦樋 沼 無御座候事
一 神主 無御座事
一 ねき 無御座事
一 山伏 無御座事
一 なへし 無御座事
一 名主給分 壱分壱俵に相定申候事


この後は村に陣屋があるかとか(ない!)、朱印地があるかとか(ない!)、他の
村へはどのくらいで行けるのか、などが書き出されております。
さて、上に書き出された項目は職業に関するものが多いのですが、現在では
使われてない、あるいはその仕事そのものがなかったりで、意味のわからない
単語もあると思います。それらは何なのか、我が家の物知りテンちゃんに聞いて
みることにします。

IMG_0382a.jpg
テンちゃんに叱られる!!

「道心ってのは、宗教者とか出家した人のことね。その人の名前が納円さんなのね。」
「馬喰はばくろう。馬を主食にしてる人じゃないわよ!そんな人いたら、ちょっと怖いわよ。
馬を売買してる人、あるいは獣医さんだったりもするわね。」
「さとう、こせ、は座頭と瞽女。瞽女ってのは目の見えない女性が、家の軒さきに立って
三味線を弾きながら唄をうたう芸人ね。実際には目の不自由な人は少なく、目の見える
女性がほとんどだったともいうわね。」
「ねき、は禰宜。神主や宮司さん。」
「圦樋はいりひ。これは職業じゃないわね。水の逆流を止める水門のことね。」

と、ここまでは知っていたテンちゃんでしたが・・・

「なへし?・・・そんなの知らないわ。」

と、ここでギブアップ。
仕方ないので自分で調べてみることにします。
ジャパンナレッジ等で検索をかけても、「なへし」では引っ掛かりませんでした。
そこで、江戸検1級仲間の方々などにも聞きながら、次のように考察しました。

●「なへし」を「NAESI」と読んだ場合。
「なえし」というモノが存在することに行きあたりました。それは懐中に忍ばせた
護身用の武器だそうです。広くいえば十手の一種らしいのですが、十手に特徴的
な鉤が無くシンプルな鉄の棒といった形状です。
なぜ「なえし」かというと、コレで相手をボコると「萎えて」戦意を喪失させるからでは
ないか、とのこと。
武士は持たず、町人が護身用に持ったようです。

●「なへし」を「NABESI」と読んだ場合。
「鍋師」ではないか。いわゆる「鋳掛屋」のことですね。江戸時代は鍋釜の修理に
鋳掛屋が村々を巡回したりしたそうですが、この鋳掛屋を京都などでは鍋師と呼んで
いたのだそうです。江戸検仲間の方によると、京都では職人集団のリーダーが鍋師
という苗字を名乗っていた地域があり、現在もその苗字があるとのこと。
ただし、江戸や多摩で鋳掛屋のことを鍋師というケースがあったのかは、わからない
とのことでした。

明細帳の前後の記述からすると、職業であることに間違いはないように思います。
「なえし」と取ると、なえしを使う人という解釈になるでしょうか。十手の一種だとすると
例えば「道案内」のような人を指すとか?
「鍋師」であればそのまま職種を表しますね。ただ、「守貞漫稿」にも鋳掛屋はあっても
鍋師はありません。「日本方言大事典」では鋳掛屋の方言として「なべや」というのが
出ていますが、庄内地方の言葉だそうです。

さて、このうちのどちらか?
あるいは、まったく違うモノなのか?
まぁ、いずれにしても横田村には無御座事なんですけどね。


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[ 2019/03/17 ] 多摩近隣史 | TB(0) | CM(2)