御林の丸太でお台場作り①

今回「里正日誌」からご紹介する記事の内容は、このブログを開設したばかりの頃にも一度
触れたネタですが、幕末多摩史においては重要な出来事ですので、「安政編」でも書いて
おこうと思います。

    「中藤村御林山再び伐り出しの件」

内海の御台場御普請用の丸太を、中藤村の御林よりなおまた伐り出すことになった。特に
お急ぎのことにつき、人足等を雇うことも必要なので、右の節は同村役人より通達が有り
次第すぐに助勢し、御差支えが起きないように取り計らうべきこと。この書付けを早々に
順番に村に送り、請け印を押して、留まりの村から中藤村役人へ返すべきこと。以上。

   寅(嘉永7年)6月 
                              御普請役代 岩上粂右衛門
                              同       塚田金蔵
                              同       島崎勇三郎
                              御普請役  杉浦茂三郎

                              横田村
                              三ツ木村
                              砂川村
                              芋窪村
                              蔵敷村
                              奈良橋村
                              勝楽寺村
                            右村々 役人中


江戸湾に対外国船用の砲台が作られることになり、その材料として中藤村の幕府御用林の
木が使われることになりました。
その作業員として中藤村だけでなく、近隣の村人も伐採などに従事させられます。東大和
地域では芋窪、蔵敷、奈良橋の村がそれにあたったようですね。ちなみに文中の勝楽寺村
は現在の所沢市に入りますが、全域が山口貯水池(狭山湖)に沈んでしまっています。

文中注目したいのは「なおまた」(原文では、尚又)と書かれていることで、この伐採が2度め
であったことを指しています。実は前年の嘉永6年9月にも御林の伐採命令が出ていました。
「里正日誌」の嘉永年間版がまだ出版されていないので、ワタクシのようなシロートには詳細
はわかりませんが、当の中藤村の「指田日記」では次のような記述があります。

嘉永6年9月
12日 御林にて2000本切り抜き、福生村まで出すようにと仰せ渡されたので村から車引き
人足を出した。御林奉行より10日以内に運びきるよう命令があったので、隣村の三つ木、
芋久保、石川、勝楽寺、蔵敷、奈良橋、砂川、右の村々に助っ人人足を出してくれるように
当たる。

19日 今日まで、御林人足を6人勤めさせた。

20日 雨。御林山用木車引き。


これを見ると、やはり近くの村々からも人足が作業に出されていたことがわかります。

さて、江戸湾に台場をつくり、砲台を築くという作戦を立案したのは、多摩地域の代官である
江川太郎左衛門英龍です。
嘉永6年(1853)6月にペリーが来航し、砲艦外交をもって日本との交渉を迫ります。翌年に
再来日することを約束してペリーは去っていきますが、7月に早速、江川さんは幕府に「海岸
御見分ニ付見込之趣申上候書付」
という意見書を提出しています。
メチャ早い対応です。
そこに「御台場構想」が書かれていたワケなんですが、実はこの構想は江川さんの当初の
目標ではなかったようなんですね。

その意見書で真っ先に述べられているのは、軍艦の購入や製造、地球を1周できるくらいの
航海術の習得の必要性でした。江戸湾の防衛についても、三浦、鎌倉から安房、上総を結ぶ
ように砦を築くという構想をブチ上げています。つまり、東京湾そのものに敵艦を入れさせない
という考えです。
東京湾の入口浦賀水道に、三浦半島の旗山崎から千葉の富津まで10町(1800m)間隔で
砲台を作ることが基本構想でした。10町というのは、当時の大砲の射程距離に基づくものだ
そうですが、かなり短い間隔になりますね。
ただ、当時の技術力ではこの海域に台場を建造することは不可能であることが江川さんにも
わかっていたようで、現実的目標として旗山崎・富津間よりも下がった三枚洲の岩礁がその
設置に当てられたようです。

ところが、この計画では短期間で建設が終わらないことを理由に、幕府から断られます。
結果として「江戸城と江戸の市街地を守ることが最重要」という幕閣の方針によって、海岸
ギリギリの品川・深川間に台場を作ることになりました。
これは、先験的な海軍・海防構想を持っていた江川さんにとって、もっとも拙策だったこと
でしょう。無念極まれり・・・!
ということで、品川お台場は江川英龍発案ということで有名ですが、実際は妥協に妥協を
重ねた結果だったということです。

7月23日には勘定奉行松平近直、川路聖謨、勘定吟味役竹内保徳、江川英龍の4人に
台場普請取り調方が命じられ、8月3日には用材・石材、普請方棟梁・人足の準備に入る
ように上申書が出されます。そして、9月にはもう中藤村で木材が切り出されているという
具合。
幕府から許可が出るや、このスピード。

実は「指田日記」の嘉永6年7月9日に、こんな気になる記述があります。

9日 大筒台の御用木、青梅入りより出るにより、新江戸街道の普請人足村々に当たる

新江戸街道とは、現在の東大和市駅前から西に向かう道で、桜街道と呼ばれている道です。
台場建設が公に決定する前に、砲台に関する木材を青梅から江戸に運ぶ必要があり、街道
の整備に人足が出されていたようです。
台場の建設計画は、実際には(建設場所がどこになるかは別として)かなり以前から江川
支配地では練られていたのかもしれません。

メガ97


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異国船渡来と治安の悪化③ 盗品売買を防げ!

黒船来航以来の治安悪化で、江戸近郊の村々でも盗難・強盗の犯罪が増えてきた
ことを、書き出してみました。
これらの盗品は質屋や古物商などに売られる傾向があったようです。
現代でも万引きされたコミック本が、古本屋に買い取られるという問題が一時あり
ましたが、それと同じようなものですね。
幕末の農村には、そういった質屋や古物商があって、十分に人々の生活の一部と
して機能していたことになります。

そこで幕府は、盗品が売りさばかれる裏ルートを作らせないために、三渡世(質屋・
古鉄商・古着屋)の管理、つまり営業許可を徹底させることにします。

その村々組合の石高、地頭の姓名などが入り乱れてきているので、この度別紙の
案内文を差し遣わす。しっかりとそれを見て一つ一つ洩らさぬように細かく入念に
取り調べ、書上げて申すべきこと。

一、ご改革組合の傍示杭の文字が消えているようなので、見直して建替えること。
寄場役人・大小惣代・質屋ならびに道案内人の名前を書き出し、別紙案内文の通り
に別冊に書いて提出すべきこと。右の通り早々に取り調べ、出来次第3月晦日までに
間違いなく日光道中の千住宿へ向かい、御用と案内文のように書いてその上に朱丸
を付けて差し出すこと。封書の中には他の御用向きは入れぬように申し達す。
廻状は請け印を押して、早々に順達し、最後の村から返すようにせよ。以上。
   卯2月                        関東御取締出役
              寄場役人
              大小惣代 中


傍示杭というのは、村などの境界線に建てられている杭です。「これより〇〇村」みたい
なことが書いてあったようですが、現在では残っているものはないようです。ただ、浮世絵
などに描かれているのを見ることはできて、それを見ると人の背丈以上の長さがあって、
なかなか大きいものだったようです。
その杭に書かれている文字が消えているので、新しい杭に変えろということですね。
改革組合は防犯・自衛のために作られたまとまりですから、管轄をハッキリさせるため
にも傍示杭の必要性があったのでしょう。

さて、そんな中。
後ヶ谷村(現・東大和市狭山)の百姓・熊右衛門という人が、新規に古鉄買取の商売を
しようと思い立ったようです。

「古鉄買渡世願書 所澤村組合 後ヶ谷村」

  恐れながら書付けをもって願い上げ奉ります

江川太郎左衛門御代官所武州多摩郡後ヶ谷村の百姓、熊右衛門が申し上げ奉ります。
私は石高4石2斗の作地を持ち、家族5人で暮らす農業渡世をしておりますが、このほど
新規に古鉄買いの渡世を始めたく、そのことを村方一同に相談しましたところ、いささかも
障りのあることはなく、かえって便利なことになろうと一同聞き入れました。農業の間に
新規に古鉄買いの渡世のお許しを仰せ付け下さい。しかる上は以前から仰せ渡されて
いる趣旨のことをきっと守り、正しい渡世をしていきますので、なにとぞ御慈悲をもって
右の願いの通りお聞きなされていただきますよう、願い上げ奉ります。以上。
   安政2卯年              後ヶ谷村 願人 百姓 熊右衛門 印
                               組合 次兵衛 印
                               組頭 金左衛門 印
                               名主 彦四郎 印

前書の通り願い上げ奉りましたところ、右の者は常日ごろから実直であり、特に組合
村々においても少しも差障りのことはございません。願いの通りお聞き済まし下され
たく、私たちより奥書きをもって願い上げ奉ります。以上。
                        江川太郎左衛門御代官所
                          武州多摩郡蔵敷村
                             小惣代 名主 杢左衛門 印
                        同 御代官所
                          同州同郡野口村
                             同 名主 勘左衛門
                        同御預り所
                          同州入間郡上新井村
                             同 組頭 清左衛門
                        武蔵庫次郎知行所
                          同州同郡町谷村
                             大惣代 名主 民右衛門
                        江川太郎左衛門御代官所
                          同州同郡三ヶ嶋村
                             同 名主 次郎左衛門
                        同御預り所
                          同州同郡北永井村
                             同 名主 重左衛門
                        同御預り所
                          同州同郡所沢村
                             同 名主 助右衛門
 関東御取締御出役 


この書付けで分かるのは、古鉄買いの商売をしようと思ったら先ず①村役人の許可を得る
こと。②組合村々の大小惣代の承認が必要であること。その上で③関東取締出役に許認可
の権限があった、ということです。
同様の書付けは質屋の場合でも「里正日誌」に残されています。
盗品が流れる可能性の高い三渡世は、広域警察署である関東取締出役が営業許可を出し
ていたというのは、当時の世相として興味深い話です。

メガ94

先日BS放送で「壬生義士伝」(中井貴一主演の映画版)が放送されていたので、またまた
見てしまいました。
「壬生義士伝」は原作も、ドラマも(テレ東系・渡辺謙主演)、そしてこの映画も、とてもよく
できていて大好きなのですが、映画版を見ててどうしても気になってしまうのが上のイラ
ストです。
鳥羽・伏見の戦いで、新政府軍の隊長たちが歌舞伎の鏡獅子のようなヅラを被っている
シーンです。アレは黒・白・赤と3種あって、それぞれ黒熊(こぐま)、白熊(はぐま)、赤熊
(しゃぐま)といいますね。

あの毛はヤクの毛だそうです。で、とても高価な舶来品であり、徳川家のお宝として江戸城
の蔵の中にしまってあったんですね。これを、慶応4年4月の江戸城明け渡しのときに新
政府軍が戦利品としてブン取って、「オシャレじゃん」ってことで被ったという次第。
つまり・・・映画「壬生義士伝」で薩長軍の隊長がアレを被ってるのは、おかしいのです。
時間的にまだ早すぎる。「どっから持ってきたんだい?」てことになってしまうワケです。
滝田洋二郎監督のことですから、そんなコトは知ってて当然だとは思うのですが・・・。

まあ、あのヅラを被っていたのはほんの一時、戊辰戦争のときだけですから、「戊辰戦争
の新政府軍だぜ!」っていうアイキャッチになって、都合がいいのかもしれませんが。
史実はともかくとして「映画のエンターテイメント」として登場させた、ということなのかも
しれません。

ちなみに黒熊は薩摩、白熊は長州、赤熊は土佐と決められていて、他の藩の将兵が被る
ことは赦されなかったそうです。
「薩長土め、ケチなヤツらよのぅ~」


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異国船渡来と治安の悪化② 

前回は黒船来航以来、治安が悪化してきた一つの事件例を「里正日誌」の中から上げて
みましたが、今回はもう1例をご紹介します。

「拝借鉄炮紛失に付き御奉行所より御触書」

一 鉄炮1挺  玉目3匁2分
右は江川太郎左衛門御代官所配下の武州多摩郡百草村に住む百姓、源次郎が拝借
している四季打鉄炮を当月9日夜に紛失してしまった。右の鉄炮を所持している者を
見聞きしたならば、鉄炮はもちろんのこと、その者とも取り逃がさないようその場所に
預け置き、太郎左衛門役所へ早々に申し出るべきこと。もし、隠しおいて他から明らか
になるようなことになれば、当人はもとより村役人も必ず申し付けるべきものである。

 寅3月15日  田村伊予守顕彰 印
           川路左衛門尉聖謨 印
           本多加賀守安英 印
           松平河内守近直 印
           石河土佐守政平 印

              武州多摩郡
                 御料
                 私領
                 寺社領
                   村々
                      名主
                      組頭


先ず、ちょっと解説を。
「四季打鉄炮」という聞きなれない武器の名前が出てきます。おそらく銃砲に詳しそうな
IS戦士の方々もご存知ないのではないでしょうか。
享保14年(1729)に幕府は、百姓が所持できる鉄砲について規定を設けました。
「四季打鉄砲」はその中の一つで、「害獣対策のために2月~11月まで使用許可が
降りた銃」
のことです。
もう少し期間が短い4月~7月まで使用できる「二季打鉄砲」というのもあったようです。
つまり、農作物を荒らす動物を撃つための銃であり、銃の種類ではないということですね。
性能は他の火縄銃と同等でしょう。
江戸時代は猟師の他にも、百姓がこういった理由で銃を持っていたんですね。
ちなみに、使用できる期間外には、封をして名主に預けることになっていたようです。

百草村の源次郎さんが拝借していた鉄砲を紛失してしまったとのことですが、夜になくなって
いたということは、つまり何者かに盗まれてしまったということのようです。
鉄砲が盗まれたということですから、このご時世のことでもあり、大事になってきますよね。
廻状を出した5人の方々は、いずれもその時の勘定奉行です。つまり、幕領支配地の長官。
事の大きさがわかります。

さらに約一月後、「里正日誌」にはこのような記事が書かれています。

武州百草村百姓の源二郎が、拝借していた四季打鉄炮を当月9日夜に紛失したことで、右の
鉄炮を所持している者を見聞きしたならば、取り逃さぬようその場所に預け置いて早々に御
注進申し上げるべきことと、御触書にありますので拝見し、承知いたしました。これによって
御受印を差し上げ申します。以上
 
                        江川太郎御代官所
                        武州多摩郡蔵敷村  名主 杢左衛門
 寅4月8日
    辰中刻

辰中刻に中藤村より受け取り、即刻奈良橋村へ継立申し、下げ札を付けて送った。


この頃になっても盗まれた鉄砲の行方はわからなかったようです。
百草村は多摩丘陵の村ですが、鉄砲の詮索は狭山丘陵の村々にまで及んできました。
銃が1挺盗まれるということは、今も昔も大事であります。

メガ93


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異国船渡来と治安の悪化① と「江戸散歩」

「里正日誌」安政編、ようやく始まったと思ったら前回からすでに1ヶ月以上経ってしまい
ました。スマンこってすタイ。

黒船がやってきてこの方、悪党や無宿人たちが村々を襲ってくるかもしれないので、各
街道の宿場や脇往還の入口の村々では十分な警戒をするように、とのお上からの
お達しがありました。
すると、実際に、悪党が押し入って被害を受けた村があったようで、「里正日誌」にはその
事件について関東取締出役から出された廻状の写しがありました。

「凶徒召捕え方関東取締出役より廻し達す」

当月四日暮れ六ツ時(午後6時頃)、浪人体の男が一人、入間郡藤間村(川越市)の
金蔵の母親の首を切り取り、これを持って同郡福岡村(上福岡市)の助七のところへ
押し込んで、次の通り奪い取ったとのことである。

一、 二朱金で三十両
一、 一分銀で三十両
   但し書きとして、太織(絹織物)の鞄の中にウコン色の裏地のついた財布に入れ
   たまま
一、 その他 金十両と記憶している。ただし、二朱金、一分銀が取り交ぜである。
    盗賊の人相は、年齢三十歳前後。 その他略する。

右の通りにつき、それぞれの宿に立ち廻るかもしれないので、そのときは差し押さえ
ること云々。

  関東取締出役
寅二月五日 山口顕之進


恐ろしく物騒な事件です。
最初に押し込んだ家には金目のモノが無かったのでしょうか。一人を斬り殺した挙句、
その首を持って他の村へ行き、さらに強盗を働いたっていうんですね。
「テメーら、こうなりたくなかったら、金を出しやがれッ!」
とでも言ったのでしょうか。
こんな脅迫されたら、金を出す以前に失神の上失禁してしまいますよ・・・。
こんなコトをする犯人ですから、金蔵も殺されていたかもしれませんね。
オソロシイ・・・オソロシイ・・・。

ところで、浪人体の男が次に押し込んだ福岡村の助七ですが、彼はかなり裕福だった
ようです。合計で70両もの現金を持っていました。さらに、その現金を入れていた鞄も
なかなかセレブな一品ではないですか。
「オッ」と思うのは、助七の持っていた現金がどれも一両小判ではなく二朱金や一分銀
で持っていたということ。ここがリアリティありますね。
幕末のこの時期でも1両は5~6万円の価値はあったでしょう。
実際に日々の商売や生活で使うなら、そんな高額貨幣を使うより二朱(12500円)や
一分(25000円)の貨幣で持っていた方が使いやすいですからね。

完全に金品目的の事件のようなので、この浪人体の男も食うに困っての犯行だったかも
しれません。もちろん、だからと言って人の首を斬っていいワケじゃありませんが。
この頃の世の中が、かなり物騒になってきたことを思わせる一件であります。


で、ココからは別のお話。

先日の土曜日、文京学院大学生涯学習センターの「江戸散歩」第2回目がありました。
この日は中山道(旧道)板橋宿を廻りました。
JR板橋駅~近藤勇墓所~平尾宿~仲宿~加賀西公園~本陣跡~板橋~縁切榎~
地下鉄板橋本町駅まで、およそ4kmの行程です。

ちなみにこのコースは、2013年11月に「永倉新八百回忌」の記事として当ブログに
書かせていただいております。
そちらもぜひご参照ください。

「永倉新八百回忌」クリック!)
「近藤勇終焉の地・ブラリ幕末板橋宿」クリック!)

IMG_0658a.jpg
コチラ、板橋下宿(平尾宿)にあった一里塚跡
明治10年頃に一里塚が撤去されて、今は何も残ってないのですが、赤い矢印のところに
不自然にアスファルトに埋まってる石があるんです。
もしかしたら、コレが何かの痕跡なのかな・・・なんて思ってるにですが、違いますかね?

01809f54250b8e6fa7455992356850f7364199d65ca.jpg
中山道と川越街道の追分近くにある東光寺
ここには、豊臣秀吉政権で五大老の一人となり、後に関ヶ原の戦いで敗れ、八丈島に
流罪となった宇喜多秀家の墓があります。
明治になって本土へ帰ることが許された秀家の子孫が建てた供養塔です。

0135b76801b42a21d4be0acec0c0e4d26f59857a70a.jpg
これも東光寺の目玉ですね。
寛文2年(1662)の庚申供養塔
彫刻もハッキリ残っていて、何よりも大きい。立派な庚申塔。

017923d8b4cd84a84626d13ccb492dd6b977c970cfa.jpg
観明寺境内にある、豊川出世稲荷
元々は板橋宿の北にあった加賀前田家の広大な下屋敷の中にあったそうですが、
明治になって軍の施設が建てられることになったため、コチラにお引越ししてきたもの。

01900c5e1ffaf08d0f1aa9ec9ca3b1510ebd262285a.jpg
欄間に彫られた龍の彫刻は、左甚五郎の作であるとか。

IMG_0676a.jpg
加賀西公園。
この辺り一帯は、江戸時代は加賀前田家下屋敷があった場所。
およそ21万8000坪もあったというんですが、あまりの広さにイメージが追い付かない。
明治になって、その下屋敷跡がいろいろな施設になるのですが、軍の火薬工場も造られ
ました。このオブジェはその記念碑、圧磨機圧輪記念碑
圧磨機圧輪は黒色火薬を作る機械で、幕末にヨーロッパへ留学に行った澤太郎左衛門が
ベルギーから購入してきたもの。澤は幕臣で、戊辰戦争のときには開陽の艦長として榎本
武揚らと共に戦った人物です(蝦夷共和国では開拓奉行も務める)。

IMG_0683a.jpg
仲宿に戻りまして・・・コチラは江戸時代に伊勢孫という旅籠があった路地。
当然、その時の建物などなくなり、当時の面影はまったく無いのですが、壁に沿うように
三角の石がアスファルトに埋まっています。唯一残った痕跡らしいもの。
これは大八車など接触して、壁が壊れるのを防ぐためのものなのだそうです。
まぁ、今風にいうと、工事現場で見かけるパイロンですね。

IMG_0688aa.jpg
将軍が鹿狩りを行ったという御成道を少し過ぎた路地を入った奥、現在マンションが建つ
ところにあったのが仲宿の脇本陣。
板橋宿の名主を務めた飯田家の本家が、脇本陣を経営していました。
で、ちょうど前の土地が更地になっていまして、これを見ると江戸時代の町屋の構造がよく
わかります。間口に税がかかるので入口は狭く、そして奥行きは長くとるという作りです。

IMG_0686aa.jpg
で、こちらがその脇本陣跡。
本陣は飯田家の分家が経営していましたが、幕末の和宮一行が板橋に泊まったときは、
コチラの脇本陣が一時的に本陣となって、和宮の宿泊所となりました。
また、新政府軍東山道総督府が板橋に来たときも、この脇本陣が本陣扱いとなって本営
が置かれました。
これがよく間違われるようで、実はワタクシも以前書いた記事で、元の本陣に総督府本営
が置かれたと書いてしまっています。スミマセン・・・。勉強不足でした。自戒の意味をこめて
当時の記事は敢えて訂正しないでそのままにしておきます。

つまり、近藤勇が尋問を受けた場所もコチラということになりますね。

さてさて。
次週はまたまた別の主催者さまからのご依頼で、神田明神から湯島のあたりをガイドいた
します。


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「里正日誌」安政編 

市内に流れる夕方のチャイムが、17:30から16:30に変わっていました。
もう、10月になってしまいました。
忙しさもあって、すっかりグログの更新もおろそかになってしまいましたが、リスタート
してまいります。

「里正日誌」は文久年間から少し遡りまして、安政年間の記述を読んでいきたいと
思います。
安政元年は西暦1854年。ペリーが浦賀に来航した翌年になりますね。
つまり、このあたりの年から幕末という時代がスタートしたと言えます。

主人公がほぼ想像上の人物だった「おんな城主直虎」の放送も、残すところ2ヶ月と
なり、来年の大河ドラマはまたまた幕末・明治維新モノの「西郷どん」になりますので、
幕末のスタート地点あたりを追っていくのも、またよろしいのではないかと思って
おりますです。

安政元年、「里正日誌」の最初の記述は正月16日に江川代官所から出された書状
です。
「異国船渡来に付き取締り方の義御廻状」
ということで、前年の嘉永6年(1853)に続き、この年の正月に開国を迫るペリーの
来航に関する廻状です。
なお、この書状については過去にも当ブログで取り上げましたので、重複することを
お許しください。

近頃、異国船が度々渡来することについて、兼てより大名領や代官支配地に対し人馬
の用意を申し付けておいた者もあるようだが、この度の異国船渡来の様子をみると、
壮健の者たちは近々江戸表に呼び出されるかもしれない。無宿人や悪党が立ち回り
乱暴に及んで御府内へも立ち入るかもしれないからである。
阿部伊勢守殿のご沙汰の次第もあり、関東取締出役にも仰せ付けられたことだが、
関東は大変広いので、悪党が入り込めないように江戸の出口4ヶ宿はもちろんのこと、
代官支配所内の脇往還入口の村々の取締りを厳重に申し付ける旨を、本多加賀守殿
より御代官方へお達しがあった。その考えをよく理解して支配所内の脇往還入口の
村々はもちろんのこと、その他の村々においても右の趣意をよく心得て、取締りを厳重
に取り計らうこと。
もっとも、取締出役が派遣されることもあるが、村役人はしっかりと取締りをいたすべし。
この廻状の村名の下に名主は請印をして、時刻を明記して順に送り、最後の村より返す
こと。以上。

      江川太郎左衛門

  寅正月16日  役所


安政元年といいますが、嘉永7年が改元されて安政となったのは11月ですから、この
廻状が出されたのは正確には嘉永7年の正月ということになります。
安政元年って、2ヶ月もなかったんですね。

文中の人物ですが、「阿部伊勢守」は老中の阿部正弘。ちなみに原文では「阿 伊勢守」
となっています。
「本多加賀守」は本多安英。当時の勘定奉行です。
「江戸の出口4ヶ宿」とは品川・板橋・新宿・千住を指します。それぞれ東海道・中山道・
甲州道中・日光道中・奥州道中の最初の宿場町ですね。

外国人が日本にやってきたので警戒せよ!っていうのかと思いきや、外国人が来た
ことにより、無宿人や悪党が地域を荒らしまわるかもしれないので、村々では十分に
警戒せよ、とのことのようです。
江戸市中はともかくとして、江川代官が支配する多摩・狭山丘陵一帯の農村では、
江戸時代後半から悪化していた治安をどう維持していくかが、重要だったようです。
黒船来航が、治安悪化をさらに進める原因になることを幕府も警戒していたのでしょう。

ちなみに東大和市域に最も近い五街道は甲州道中で、助郷などを出していました。
近くとは言っても、市域からはかなり南を通る街道です。
しかし、甲州道中の裏街道にあたる成木道(青梅街道)は東大和市域のド真ん中を
横断しています。
さらに、市内には狭山丘陵南麓沿いの広域道路だった村山道、清瀬を経由して埼玉の
引又へ至る清戸街道、南北に走る八王子道などの主要道路がありました。村々では
こういった脇往還の警戒を厳しく取り締まるよう命令を受けたのでしょう。


久しぶりですので、我が家の大幹部たちの近況報告。

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10月から始まったNHK朝ドラ「わろてんか」。
主人公の名前が「てん」ということで、我が家の「テン」ちゃんも上機嫌。



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先日、5歳の定期健診とワクチン予防接種をした「ポン」ちゃん。
注射の後でかなり不機嫌な様子。
でも、この1年で350gのダイエットに成功。獣医さんに褒められました。



「なんだー。このボタンちょっと押してみるんだな。うーん、なんだー。」



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