農兵訓練の栞③

今回は「農兵訓練の栞」の第二部・第三部をご紹介します。

第一部では小隊が整列してから射撃の態勢を取るまでが記されていました。
第二部では小隊の移動が書かれています。

DSCF0537a.jpg
DSCF0538a.jpg

第二部には「戦隊正面行進」というサブタイトルがつけられています。
また、第一、二教がないのに、第三、四教が出てきます。
この辺りの統一性の無さが目立ちますが、たぶん第一教が「正面行進」で、第二教が「背面
行進」、第三教が「斜め行進」という分け方なのでしょう。
第四教は足踏みをしながら前進、後退、という手順が書かれています。さらに説明書きとして
「駆け足で行進するときは20歩ごとに銃を構える」「2、3発撃った後は直ぐに銃を構えて
駆け足前進する」など、かなり実戦を想定した訓練が行われていたことがわかります。

続いて、第三部。

DSCF0539a.jpg

第三部は2ページに渡って書かれていますが、第一教「側面行」のあとは、項目分けされて
いません。
「組々合セ」「組々分レ」「組々進メ」とあるのは、小隊を伍卒組に分けての行動を指している
のでしょう。より複雑な動きで、農民の方々も覚えることがいっぱいで大変です。

DSCF0540a.jpg

ここで「嚮導」という言葉が出てきます。
嚮導は辞書によれば「軍隊で、横隊の隊列の両端にあって整列・行進などの基準となる者。」
とあります。この嚮導役は伍卒組に入らない懸かり役人が務めたのでしょう。
小隊全体で西洋戦術を学んでいたことがわかります。

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農兵訓練の栞②

DSCF0532a.jpg

「農兵訓練の栞」 が見つかった鈴木家は、旧幕時代に蔵敷村の組頭をしていた家です。
名主を勤めていた内野家とともに、村内では指導者的な立場にありました。
農兵政策に関していえば、農兵取立入用のための上納金として文久3年(1863)11月に
「金五両也」、元治2年(1865)正月にも「金五両也」を献金しています。

元治2年3月の「村高家数人別農兵人数取調帳」を見ると、

「一 高3石3斗4升5合  家内6人暮らし 組頭重蔵倅 啓蔵 丑22才」 

との表記があり、丑(元治2年)当時22歳だった組頭の息子が農兵に参加していたことが
わかります。 
さらに慶応元年(1865・4月に改元)6月23日、田無村で行われた「火入稽古」 参加者
9人の中に啓蔵さんは入っており、実弾射撃訓練を受けたものと思われます。
さらに7月には代官所の増山健次郎から、啓蔵さんは「農兵稽古人世話掛り」5人の中の
1人に任命され、一層勉強し熟練の域に達するように期待を寄せられています。

「農兵訓練の栞」は、世話掛りを命じられた啓蔵さんが、増山氏などの教官から教えられた
ことをメモし、組合の農兵を指揮するときに使用したものと考えられます。
ところで、この冊子には名称がついておりません。「農兵訓練の栞」とは郷土博物館が便宜
上つけた名前だと思ってください。

では、実物を見ていきましょう。
栞のサイズは横17cm、縦12,5cmの横型。
ページ数は表裏の白紙を入れないで、25ページです。

DSCF0556a.jpg
DSCF0557a.jpg


巻末にはこのように目次らしき項目が書いてありますが、これが必ずしも本編の内容と
一致しておりません。
さらに本編では第四部と、それにプラスした内容の記載があります。
全体として五部、あるいは六部から構成されていると思われます。

第一部は「第一教 整頓」「第二教 隊列開閉」「第三教 技芸」の3項目に分かれます。

「第一教 整頓」では
「番唱へ
気ヲ=着ケ
右(左)三組三歩(二歩)前ヘ進メ
右(左)=凖ヘ  但シ左整頓ノ儀ハ司令官左ト告グ
直レ
司令士左(右)肩前
右(左)三伍司令士ニ凖ヘ
右(左)ヘ=凖ヘ
直レ
司令士左(右)肩故トヘ」


このようなことが書いてあります。全体の整列の仕方のようです。

農兵隊は「隊伍仕法」によって、25人で1小隊と決められました。
小隊の中に5人の懸り役人がいて、他の20人は5人1組の伍卒組に編成されます。
懸り役人は伍卒組の目附として差引役が1名。その上に組頭として2名。代官所との
連絡役として代表者の頭取が2名(1名は頭取並)でした。
但し、これはあくまでも基本パターンであり、各組合によって農兵の人数が前後する
ため、多少の変更はあったようです。
蔵敷村組合も11ヶ村で29名の農兵がいました。

上の史料を見ると「三組」「三伍」という記述が見えます。
おそらく蔵敷村組合は3組の伍卒組で小隊(あるいは分隊)が構成されていたのでは
ないでしょうか。司令官(士)は組頭と思われます。

「第二教 隊列開閉」は
「押伍左
後列後トヘ 進メ
直レ 押伍故トヘ入
隊列閉メ=進メ」


とだけ、記述があります。

「第三教 技芸」

DSCF0535a.jpg

こちらは銃の持ち方のようです。
さらにこの後に続けて
「小隊打方 小隊=准備
狙ヘ  打て
込め  打ち方止め タイコ
故トヘ         タイコ
各列打方 小隊=准備
二番(一番)狙ヘ  打て  込め
打方止メ故トヘ   タイコ
二列打方=  小隊=准備
打カカレ  打方止メ  故トヘ」


このように銃を撃つまでの手順が書かれています。

先ず隊列を組んで「気ヲ=着ケ」から始め、隊列を組み、銃を操作する。
江川英龍の目指した西洋式軍隊の形式で、農兵の訓練が行われたことがわかりますね。

メガ85


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農兵訓練の栞

更新が遅くなってしまいました。

今から3年前の2013年7月~9月に、東大和市郷土博物館で「激動の幕末・明治期を
探る」という歴史展が行われました。
当ブログでもご紹介しましたので、ご覧いただけた方もいらっしゃるかと思います。

「郷土博物館へ行こう!」(クリック!)

このときの展示品は市内に残る農兵の資料が中心でした。
その中に農兵が使用した胴乱(弾丸・弾薬などを入れたポーチ)も展示されていたのですが、

DSCF0090a.jpg

この胴乱の中に、こんな小冊子が入っていました。

IMG_0257a.jpg

実はこの胴乱を保管されていた農兵のご子孫の方も、中にこの冊子が入っていることを
ご存知なかったようで、展示するにあたって初めて発見されました。
「農兵訓練の栞」とあるように、訓練の手順がいろいろと描き込まれているのですが、当時は
展示が終わったあとで、そのまま収蔵庫に仕舞われてしまいました。

ワタクシも当ブログで農兵のことを書いているうちに、この冊子が気になりまして、昨年博物館
に再度見せていただけるようお願いをいたしました。すると、快く拝見させていただき、また
ご厚意によって写真撮影もさせていただくことができました。

東大和市郷土博物館さま、ありがとうございます!

次回から数回に分けて、この「農兵訓練の栞」の内容ををご紹介していきたいと思います。
現在、仕事等立て込んでおりますので、少しづつの更新になります。
出し惜しみぢゃないのよ。

メガ84



告知

毎回お世話になっております、小学館集英社プロダクション主催の
「江戸楽(えどがく)アカデミー」

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今年の春期講座も講師として参加させていただきます。

今回のワタクシの担当講座は

「ざっくりわかる!戊辰戦争 覚えておきたい基礎知識」

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でございます。
明治維新150周年ということで、江戸文化歴史検定試験の「今年のお題」も幕末と戊辰戦争
ということだそうでございます。
この機会に「戊辰戦争をざっくりと知っておきたい」「江戸検の勉強を始める前にざっくりと
今年のお題を掴んでおきたい」という方々にピッタリの講座をご用意いたしました。
当ブログと同様に「ネコでもわかる幕末史」をお話いたします。

詳細は「小学館集英社プロダクション・江戸楽アカデミー」(03-3515-6794)までお問合せ
ください。


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農兵の銃の、その後

慶応元年(1865)あたりまでの、農兵について「里正日誌」の記事をご紹介してきました。
この後、多摩・狭山丘陵地域の農兵としての大きな出来事は、「長州遠征要請」、「武州
世直し一揆鎮圧」、「相模観音崎警備」などが上げられます。が、これらの記事について
はすでに触れておりますので、興味のある方・もう一度ご覧になりたい方は当ブログの
2013年8~12月あたりまでの記事をご参照ください。

さて、戊辰戦争が始まると薩長新政府軍は農兵をその指揮下に置いて、討幕のための
兵力にしようと目論み、江川代官を名古屋まで呼び寄せます。
江川代官は、新政府軍が江戸に入った後も支配地を安堵できることを条件に、いち早く
恭順しました。しかし、農兵は地域を自衛するための組織であり、積極的に誰かを攻撃
するものではないとして、新政府軍への編入は拒否します。

この江川代官が恭順しているとき、甲陽鎮撫隊と名前を変えた新選組が甲州勝沼で
新政府軍と一戦交えているのですが、日野宿の農兵隊は甲陽鎮撫隊に参加しています。
つまり、代官とはまったく逆の立場を取っているのです。
後に日野農兵隊のリーダーだった佐藤彦五郎は新政府軍からの追求を受け、小銃など
も没収されてしまいます。

しかし、東大和市域をはじめとする狭山丘陵の農兵は、この時期の旧幕軍vs新政府軍
の戦いには干渉しなかったようです。仁義隊や振武軍といった諸隊が付近にやって来て
献金や炊き出しの協力を求められていますが、積極的な関わりは持っていません。

消滅した幕府から小銃を拝借していた農兵ですが、彼らはその後、銃をどうしたのでしょう?
「里正日誌」には次のように書いてあります。

「右の鉄砲については、文久3亥年中に御支配所の江川太郎左衛門殿の役所から、農兵
をお取立になられるとの仰せがあり、その御用のために村々より献金をして、元治2丑年
中に鉄砲を拝借させていただきました。
御一新後、農兵は御廃止となり右の鉄砲も返納すべきであると、明治2丑年に旧韮山県
官よりお達しがありました。そこで、悪徒予防のために従前通り鉄砲を拝借したいと申し
上げていたところ、以前に拝借を仰せ付けられた西洋ケヘール銃は明治3年4月中に
御引上げになり、さらに書面の西洋ミニヘール37挺を拝借仰せ付けられ、決して取締り
を怠ることのないようにしていたところ、一昨年の4月中に当御県庁より銃砲の御取調べ
があったときは、元戸長たちより手続きを書上げ申し上げましたが、なお今年2月中に
右銃類の御調べがあったときには、当区内小川村他18ヶ村と同様に書上げ申し上げる
べきところでした。
しかし、区内の蔵敷村他11ヶ村はお達しが行き届かず手違いがあり、書上げ漏れが
あったことは幾重にも恐れ入り奉ります。
今般、御県印の済んだ分を渡すとのお達しにつき、よって献金人の名前と人数を書き
添え申し上げます。なにとぞ、他の19ヶ村と同様に御沙汰くだされますように願い上げ
奉ります。以上。

   明治7年7月6日             第11大区
                              7小区 戸長 大熊長太郎
                              10小区 同 内野杢左衛門 印
                                    区長 下田半兵衛

  神奈川県令中嶋信行殿                                   」


明治維新を迎えて農兵制度は廃止となったけれど、地域の防犯のために小銃はその
まま村に預けられたままになっていました。さらに、旧式のゲベール銃は一旦回収され、
ミニエー銃が新たに貸与されたという経緯が語られています。
ただし、毎年銃の登録確認が行われていたようで、この書状は蔵敷村などで書類上の
不備があったのでそれを詫び、継続して銃を村に置いてもらえるように県に頼んでいる
という内容です。
日付は明治7年になっていますが、「里正日誌」には翌8年の鉄砲請け印帳も残されて
あり、その頃もまだ村々には小銃が装備され続けていたことがわかります。

「献金人の名前と人数」とあるように、銃を拝借する代りに献金をしたのは、旧幕府も
新政府も一緒だったようです。なんか、政府がレンタル業で金稼いでいるみたいですね。
蔵敷村は6挺借りて20円を献金。奈良橋村は3挺で25円、高木村は3挺で20円、宅部
村は3挺で8円、後ヶ谷村は3挺で14円、芋久保村は2挺で20円を献金しています。
各村で金額のバラつきがあるのがなぜなのかは、わかりません。

維新から10年近くが経ったときでも、東京中心から50km圏の多摩地域では、まだ警察
組織が脆弱であり、防犯は各村々の自衛が頼りだったことがよくわかります。
作っといて良かったな、農兵!

ただ、新しく貸与されたというミニエー銃ですが、これは当ブログで以前ご紹介した和製
のミニエー銃のことです。

「幕末和製西洋式小銃を追う!」(クリック!)

アメリカ製のM1855スプリング・フィールド銃を、幕府が湯島の製作所でコピーして
製造した銃です。しかし、この銃は銃身にライフルマークを刻むことができなかったという
技術的な欠陥があり、おそらく戊辰戦争など実戦で配備されることはなかったろうと思われ
ます。
新政府はこの銃を「捨てるのはもったいない、防犯の役くらいにはたつだろう」くらいの考え
で村々に配備したのでしょうね。

メガ79


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銃は一人に1挺づつか?

慶応元年(1865)になり、各農兵組合ではそれぞれの地元で射撃用の訓練場を用意し、
実弾射撃をするようになりました。
銃は幕府からの支給(貸与)ですが、各村々へどれくらいの数が廻ってきたのでしょう。

その前に、農兵の人数がどれほどいたのかを調べてみることにします。
文久3年(1863)10月に、各農兵組合の人数見積もりが出されましたが、このとき
東大和市市域が入る上新井組合は21ヵ村で41人が割り当てられました。
しかし、上新井村などが支配替えとなったため、新たに蔵敷村組合が結成され、東大和
の村々もこちらに所属します。
この組合での農兵人数は「里正日誌」によれば

後ヶ谷村2人 奈良橋村2人 高木村1人 野塩村1人 粂川村6人 野口村5人
廻り田村2人 宅部村3人 日比田村1人 南秋津村2人 蔵敷村4人


11ヵ村で、合計29人となっています。(元治2年「慶応元年」3月)

さて、銃の貸し渡しの具体的な数については、その年の7月に記述が見えます。

「お預かり証文を差し上げ申します

一 高島流小筒 拾挺
一 御紋付御胴乱 拾
      但 附属の品々共
 〆       但 御箱入

右の通り御品々を当村へ御預けに仰せ付けられ、確かに預り奉りました。
しかる上は、管理不足のないように大切にして、いつでも御沙汰があれば返納いたす
べきことです。これにより預り証文を差し上げ申します。

  慶応元丑年7月4日        武州多摩郡蔵敷村 名主 杢左衛門
 
江川太郎左衛門様 御手代 増山健次郎様                      」 


7月の時点で、蔵敷村組合には10挺の銃が支給されました。
さらに翌5日、田無村の西光寺で増山健次郎より次のことが言い渡されました。

「後ヶ谷村 勘左衛門(名主 30歳)
廻り田村  九郎左衛門(組頭 33歳)
奈良橋村  長吉(名主見習い 34歳)
蔵敷村   啓蔵(組頭倅 22歳)
粂川村   太右衛門(年寄倅 21歳) ※( )内は管理人記す。

右の者どもは、高嶋流砲術を習練したことにより、農兵稽古人世話掛りを申し付ける。
なおこの上隔意無く申し合わせて、格別に奮発勉強して、みんなが熟達の域に達する
ように世話を致すようにすることである。」


このように、5名が射撃訓練の世話掛りをすることになり、さらに

「蔵敷村  泰蔵(百姓倅 22歳)
        佐吉郎(百姓孫 15歳)
野口村   和十郎(百姓代倅 20歳)
宅部村   初五郎(組頭倅 34歳)
       綱五郎(組頭倅 27歳)
粂川村   健蔵(組頭弟 17歳)
       杢左衛門(百姓倅 25歳)
後ヶ谷村  熊蔵(組頭倅 16歳)
廻り田村  作右衛門(組頭倅 26歳)
高木村   伝蔵(組頭倅 38歳)」


以上10名が田無村習練場で小隊入りに決まります。
世話掛りの5名を加えた15名が小隊入りをし、正式に農兵隊に編入されることとなり
ました。この人選は、6月に田無村で行われた射撃訓練に参加した者たちのようです。
29人中15人ですから、残りの14人は交代要員ということでしょう。

しかし、先に記したように支給された銃は10挺。
これでは足りませんね。
すると10月晦日に、新たに銃を貸与するので田無村に取りに来いという代官所からの
知らせが、杢左衛門さんの元に入ります。

「右の通り御書付けが到来したので、早急に組頭重蔵の倅啓蔵が、名主杢左衛門が病気
のため代理として、人足3人と連れ立って田無村に罷り出でました。
御鉄砲御掛りの増山健次郎様が御出役され、当組へ御筒7挺をお渡しになりましたので、
これを受け取り、請け書を差し上げ申しました。文言は左の通りです。

  差し上げ申しました御請け書のこと

一 舶来形ケウエール御筒   但 玉目8匁 鈕(つまみ)付    7挺
   附属
御紋付御胴乱 7ツ
御胴乱背負革 7ツ
雷管入 7ツ
御筒背負革 7ツ
な鈕袋 7ツ
三ツ俣 7ツ 内三俣 3ツ 大門抜 4ツ
玉取 7ツ
万力 7ツ
御長持 壱棹

右は農兵へ御貸し渡しになります御筒、その他附属品どもです。書面の通りお渡しに
なられましたので受け取り奉りました。御筒の手入れはもちろんのこと、附属品について
も管理不足のないようにいたします。これにより御請書を差し上げます。

 慶応元丑11月3日          当代官所 武州多摩郡蔵敷分
                              名主 杢左衛門
                              組頭 重蔵
                              百姓代 平五郎

 江川太郎左衛門様御手代 増山健次郎様                 」


新たに7挺の銃が蔵敷村組合に貸し出されました。
9日に杢左衛門さんは組合の農兵たちを自宅に呼び出します。
銃の分配を決めるための会合だったようです。

「後ヶ谷村名主勘左衛門、農兵熊蔵・宅部村名主半兵衛・初五郎・奈良橋村名主見習
長吉・高木村名主金左衛門・南秋津村組頭伊左衛門・農兵春吉・清三郎・粂川村名主
吉左衛門・農兵太右衛門・杢左衛門・四郎右衛門・勘左衛門・倉之助・野塩村名主
久右衛門孫仙次郎・廻り田村組頭六郎右衛門・日比田村名主彦右衛門・野口村は
不参、右出会人数18人。
右出会村々の役人はもちろん、農兵人への御貸し渡しの銃7挺の渡し方を相談に及んだ
ところ、技術のことにつき出精した者へ渡すことは火を使うことでもあり、万が一心得違い
の者たちがいれば御趣意に外れることは念のため、さらに御貸し渡しされない農兵人の
気持ちはどうしたらいいものかと尋ねたところ、来る25日より稽古の怠り無く、定日には
必ず出席いたすとのこと。
少しも隔意のないことなので小隊に入った者への銃不足につき、右へ貸し渡し方の良い
方法を一同話し合ったところ、銃不足の者が小隊入りの中に7人いるので、今般渡す
ことになった。
銃並びに附属の品々とも、別紙に請書を取り置いて渡しました。
                            蔵敷村  泰蔵
                            同村   力太郎
                            宅部村  綱五郎
                            後ヶ谷村 熊蔵
                            廻り田村 作右衛門
                            粂川村  徳蔵
                            同村    杢左衛門
                             〆て7人                  」


銃は交代要員の分は含まれず、小隊入りした村民に割り当てられたようです。
また、蔵敷村名主・杢左衛門さんの弟恒吉さんは、新銭座で行われた幹部候補生訓練の
メンバーでした。彼は小隊入りしていませんが、7月に支給された10挺のうちの1挺が
渡されています。おそらく御出役手代の助手として、常に銃を手許に置いておく必要が
あったのかもしれません。
他の組合でも同様に全農兵の半分(交代要員以外)に、銃が手渡されたのでしょうね。

メガ77

晴れるみたいですが、寒そうなのでちょっと心配です。


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