農兵訓練の栞⑥

なかなか更新ができずスミマセン。

今年は戊辰戦争から150年なんですよね。
で、こんなブログ書いていることと、江戸文化歴史検定の1級を持っていることから、今年は
いろんな所から講座のご依頼が多くありまして、ちょっとバタバタしておりました。

遅れておりました「農兵の栞」ですが、いよいよ今回が最後になります。
前回は銃剣・銃槍の扱い方が書いてありましたが、最後の項目となる今回ご紹介する部分
は、はたして何が書いてあるのでしょうか?

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「撒兵号令司」とあります。

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DSCF0555a.jpg

2ページ半とそれほど量は多くはないですが、撒兵への号令と、その動き方が書いてあり
ます。これには、銃剣よりさらに驚きました。

ペリーが来航して以来、幕府は外国の軍隊に対抗するべく軍組織の改編に当ります。
そうやって作った幕府陸軍は歩兵・騎兵・砲兵の三編成となりますが、ここで一番多くの
人員が必要となるのは歩兵です。

幕府は旗本など幕臣から、禄高によって領民を差し出させ、この人々に歩兵隊に入隊させ
西洋式訓練を受けさせました。これを「兵賦令」といいます。500石未満の旗本は金納、
500石以上で1人、1000石で3人、3000石で10人の人員を出さなければなりませんでした。

一方、撒兵隊は御目見え以下の御家人などから編成された部隊です。
つまり、この栞に書いてある指導法は、幕府の正規陸軍と同じ内容であるということが推測
できるわけです。

文久3年に幕府は「江川代官支配地に限って」農兵の設置を許可しました。
これは、幕府が清河八郎の建言を容れて浪士組を組織させたように、当時は不逞浪士などに
よる治安の悪化がひどかったので、天領の治安は領民が自衛を強化するべしという考えの
元で許可されたものでしょう。
当時の幕府の考えとしては、関東取締役や組合村の設置の延長線上と捉えていたのかも
しれません。

ところが、慶応2年(1866)の第二次長州征伐で幕府は多摩の農兵を兵力として遠征させ
ようと考えます。この計画は同時期に「武州世直し一揆」が発生したため取りやめとなります
が、慶応3年(1867)には兵賦とは別に、幕府は組合村の中から有能な者を武士として
取り上げようという計画も立てています。
「侍にはなりませんのだ」クリック!)
元治から慶応にかけて、幕府内で農兵の目的が大きく変わったことが推察できます。

当時、武士は刀鎗にまだこだわる人が多く、西洋銃の訓練を「武士がやることではない」と
拒絶する者も多かったといいます。
武術・武芸に執着のない庶民階層出身者の方が、西洋式軍隊訓練の順応性が高く、そう
いった人々から組織された奇兵隊や伝習隊が力を発揮するのは、この後の戊辰戦争を
見ても明らかです。

幕府もこのことに早くから気づき、各組合の農兵を幕府陸軍に取り込もうとしていたのかも
しれません。
また、この「農兵訓練の栞」のような指導法マニュアルが各村にあり、農兵の中からも指揮官
を育成するプログラムがあったのかもしれません。

メガ90

ところで、冒頭に書いた講座ですが、6月は文京学院大学生涯学習センターさまで土曜日
に「戊辰戦争を佐幕側から見る」というテーマでお話してきました。講座の中身は

●上野戦争 彰義隊と振武軍
●奥羽越列藩同盟の結成と崩壊
●新徴組と庄内戦争
●榎本武揚と旧幕府艦隊

こんな所を扱いました。
ちょっと時間が足りなくなって駆け足になってしまった所もありましたが、おおむね好評で
アンケートの結果もよろしかったようなのでホッとしています。
講座の後で、戊辰戦争時の欧米諸国の局外中立について熱心にご質問された女性がいらして、
こちらの方が感心させられました。ワタクシの解説でおわかりいただけましたでしょうか?

今後ですが、7月と10月に小学館集英社プロダクションさまの「江戸楽アカデミー」でも講座
をさせていただきます。

「江戸楽アカデミー 夏期・秋期講座」クリック!)

10月はまた戊辰戦争関連の講座なのですが、さっき見たら講座申し込みがすでにSOLD OUT
になっていたんだけど、ホントかなぁ?まだ発売前ってことかな?
気になった方は問い合わせてみてください。
7月は「江戸歌舞伎・初級入門」です。コレは昨年やって好評だったので、リバイバルですね。
基本的に「江戸文化歴史検定試験対策講座」なのですが、検定を受けても受けなくても、楽しく
受講できる内容になっております。
まだお席はあるようですので、ご興味のある方はぜひどうぞ!

11月にはまた文京学院大学生涯学習センターさまで講座をさせていただく予定ですが、次回
は座学ではなく都内の史跡街歩きになる予定です。どこに行くかはまだナイショですが、おそ
らく幕末は絡んでくるでしょうな。

「文京学院大学生涯学習センター」クリック!)
コチラ、まだ秋期以降の情報は上がっていませんので、ご参考までに。


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農兵訓練の栞⑤

「農兵訓練の栞」は第五部へと続いて行きますが、ここではそれまでの「第一教」など
のように小見出しのタイトルがつけられているわけではなく、およそ3ページに渡って
「半小隊ヲ造ル法」について書かれています。

半小隊から、さらに「四半小隊ヲ造ル」と記されていたりして、さらに複雑な動きを
していたのだなぁと思いますが、実際にその動きを目で見てみないとイメージしにくい
ところはありますね。

今回ご紹介したいのは、その次の項目です。

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「銃槍使用号令」です。
農兵たちの扱っていた小銃は、銃剣付きの銃であったことがわかります。

たしかに、以前「東大和郷土博物館」の「幕末展」に展示されていた、市内に現存する
ミニエー銃には先端に剣が付いてあるものがありました。

IMG_0253a.jpg
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展示案内にもあるように「銃剣」が一般的ですが、斬ることよりも突くことに特化した「銃槍」
が正しい名称のようです。栞にもそう書いてあります。
Wikipediaによれば、「銃剣・銃槍」は幕末期に西洋銃と共に輸入されたものの、当時の日本人
は白兵戦では日本刀を使った方が戦いやすかったようで、普及したのは明治維新後だと
あります。
「戊辰戦争絵巻」などを見ると、薩摩や長州の兵士たちが銃槍の付いた小銃を担いで行進
している絵が描いてありますので、そのくらいの時期からなのでしょう。

おそらく武士としては剣術の修行もしているだろうし、心情的にも刀で戦いたいというこだわり
があったのかもしれませんが、近代軍制の中心となる歩兵は農民・町民が含まれていますから
銃剣・銃槍を受け入れやすかったのかもしれません。

ということで、農兵もこの銃槍で戦う訓練を指導されていた、ということのようです。

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突くだけではなく、防御方法もしっかりと。

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ワタクシが以前、博物館でこのミニエー銃を見たときはそれほどの関心をもって
銃槍を見たわけではありませんでした。
「農兵は西洋銃を使って訓練をしていた」という部分の方ばかりが頭の中で、クローズ
アップされていたのですが、こうして追っていくと、ただ単に射撃訓練をしていたのでは
ないということが、ますますわかってきます。

メガ89


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農兵訓練の栞④

「農兵訓練の栞」、今回は第四部をご紹介します。
第四部は第四教に分かれて書かれていますが、第二教のあとが第四教になって
おり、第三教がありません。
二教と三教を続けて書いてしまったとか、三教が抜け落ちてしまった可能性もあり
ますが、前後の関連からして単に第三教を第四教と書き間違えてしまったものと
思います。

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第一教のタイトルが欠けていますが、「半小隊縦隊」の組み方が書かれています。

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第二教では行進をして、「戦隊を造ル」方法が書かれます。

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第四部の内容は、半小隊で行進をして敵に遭遇した場合の行動を教示しているようです。
そこで第四(ママ)教では「重複及防騎火」となります。

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どうやら騎兵と対峙した場合の戦闘方法が書かれているようです。
小隊を二つの分隊に分けて交互に射撃し、駆け足で前進するという教示のようです。
行動がかなり実戦向きになってきました。

幕府は開国以来の世情が不安定になり、不逞浪士たちが増えてきたため、農村の治安維持
のために農兵の許可を出しました。その狙いは実際に慶応2年(1866)の「秩父世直し一揆」
を、多摩の農兵隊が鎮圧したことで実証されました。
しかし、「騎兵ニ向ヒ」「放発セシメ」などの訓練は、食い詰め浪士や一揆ばかりを想定しての
ものばかりとは思えません。
江川代官所の農兵訓練が、どんな目的で行われたのか?
もう少し考えてみたくなりました。


話は全く変わりますが・・・
メガ88
まぁ、どちらも面白いからいいんですがね。
あと同局、同クールで「警視庁捜査一課長」と「警視庁捜査一課9係」ってタイトルは
まぎらわしくないですか?


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農兵訓練の栞③

今回は「農兵訓練の栞」の第二部・第三部をご紹介します。

第一部では小隊が整列してから射撃の態勢を取るまでが記されていました。
第二部では小隊の移動が書かれています。

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第二部には「戦隊正面行進」というサブタイトルがつけられています。
また、第一、二教がないのに、第三、四教が出てきます。
この辺りの統一性の無さが目立ちますが、たぶん第一教が「正面行進」で、第二教が「背面
行進」、第三教が「斜め行進」という分け方なのでしょう。
第四教は足踏みをしながら前進、後退、という手順が書かれています。さらに説明書きとして
「駆け足で行進するときは20歩ごとに銃を構える」「2、3発撃った後は直ぐに銃を構えて
駆け足前進する」など、かなり実戦を想定した訓練が行われていたことがわかります。

続いて、第三部。

DSCF0539a.jpg

第三部は2ページに渡って書かれていますが、第一教「側面行」のあとは、項目分けされて
いません。
「組々合セ」「組々分レ」「組々進メ」とあるのは、小隊を伍卒組に分けての行動を指している
のでしょう。より複雑な動きで、農民の方々も覚えることがいっぱいで大変です。

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ここで「嚮導」という言葉が出てきます。
嚮導は辞書によれば「軍隊で、横隊の隊列の両端にあって整列・行進などの基準となる者。」
とあります。この嚮導役は伍卒組に入らない懸かり役人が務めたのでしょう。
小隊全体で西洋戦術を学んでいたことがわかります。

メガ86


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農兵訓練の栞②

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「農兵訓練の栞」 が見つかった鈴木家は、旧幕時代に蔵敷村の組頭をしていた家です。
名主を勤めていた内野家とともに、村内では指導者的な立場にありました。
農兵政策に関していえば、農兵取立入用のための上納金として文久3年(1863)11月に
「金五両也」、元治2年(1865)正月にも「金五両也」を献金しています。

元治2年3月の「村高家数人別農兵人数取調帳」を見ると、

「一 高3石3斗4升5合  家内6人暮らし 組頭重蔵倅 啓蔵 丑22才」 

との表記があり、丑(元治2年)当時22歳だった組頭の息子が農兵に参加していたことが
わかります。 
さらに慶応元年(1865・4月に改元)6月23日、田無村で行われた「火入稽古」 参加者
9人の中に啓蔵さんは入っており、実弾射撃訓練を受けたものと思われます。
さらに7月には代官所の増山健次郎から、啓蔵さんは「農兵稽古人世話掛り」5人の中の
1人に任命され、一層勉強し熟練の域に達するように期待を寄せられています。

「農兵訓練の栞」は、世話掛りを命じられた啓蔵さんが、増山氏などの教官から教えられた
ことをメモし、組合の農兵を指揮するときに使用したものと考えられます。
ところで、この冊子には名称がついておりません。「農兵訓練の栞」とは郷土博物館が便宜
上つけた名前だと思ってください。

では、実物を見ていきましょう。
栞のサイズは横17cm、縦12,5cmの横型。
ページ数は表裏の白紙を入れないで、25ページです。

DSCF0556a.jpg
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巻末にはこのように目次らしき項目が書いてありますが、これが必ずしも本編の内容と
一致しておりません。
さらに本編では第四部と、それにプラスした内容の記載があります。
全体として五部、あるいは六部から構成されていると思われます。

第一部は「第一教 整頓」「第二教 隊列開閉」「第三教 技芸」の3項目に分かれます。

「第一教 整頓」では
「番唱へ
気ヲ=着ケ
右(左)三組三歩(二歩)前ヘ進メ
右(左)=凖ヘ  但シ左整頓ノ儀ハ司令官左ト告グ
直レ
司令士左(右)肩前
右(左)三伍司令士ニ凖ヘ
右(左)ヘ=凖ヘ
直レ
司令士左(右)肩故トヘ」


このようなことが書いてあります。全体の整列の仕方のようです。

農兵隊は「隊伍仕法」によって、25人で1小隊と決められました。
小隊の中に5人の懸り役人がいて、他の20人は5人1組の伍卒組に編成されます。
懸り役人は伍卒組の目附として差引役が1名。その上に組頭として2名。代官所との
連絡役として代表者の頭取が2名(1名は頭取並)でした。
但し、これはあくまでも基本パターンであり、各組合によって農兵の人数が前後する
ため、多少の変更はあったようです。
蔵敷村組合も11ヶ村で29名の農兵がいました。

上の史料を見ると「三組」「三伍」という記述が見えます。
おそらく蔵敷村組合は3組の伍卒組で小隊(あるいは分隊)が構成されていたのでは
ないでしょうか。司令官(士)は組頭と思われます。

「第二教 隊列開閉」は
「押伍左
後列後トヘ 進メ
直レ 押伍故トヘ入
隊列閉メ=進メ」


とだけ、記述があります。

「第三教 技芸」

DSCF0535a.jpg

こちらは銃の持ち方のようです。
さらにこの後に続けて
「小隊打方 小隊=准備
狙ヘ  打て
込め  打ち方止め タイコ
故トヘ         タイコ
各列打方 小隊=准備
二番(一番)狙ヘ  打て  込め
打方止メ故トヘ   タイコ
二列打方=  小隊=准備
打カカレ  打方止メ  故トヘ」


このように銃を撃つまでの手順が書かれています。

先ず隊列を組んで「気ヲ=着ケ」から始め、隊列を組み、銃を操作する。
江川英龍の目指した西洋式軍隊の形式で、農兵の訓練が行われたことがわかりますね。

メガ85


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