FC2ブログ

門番の退職金を農兵隊が負担?

久しぶりに「里正日誌」を読んでみます。
前々回の記事で、横浜の農兵について勉強しましたので、再び多摩の農兵について
「里正日誌」の農兵に関する記述の部分を拾い読みしてみました。
すると、慶応元年(1865)11月にこんな一文がありました。

 丑11月14日 御支配御代官江川太郎左衛門様御屋敷御門番勧化

   御太刀御連名帳
一 年来私は御門番を勤め、御腰掛において各々様方より格別のご贔屓にあずかり、
 おかげをもちまして無難に御奉公を勤め、ありがたきしあわせと存じております。
 つきましては、私は追々年をとりましてご奉公を勤められなくなりましたので、お暇を
 願い、国元へ引きこもろうと考えております。しかしながら国元は遠く、諸雑用の手当
 はありません。当惑のあまり、今までのご厚情も顧みずご一統様方へ御無心を願い
 ますので、多少に限らずご助力のほど偏に願い上げ奉ります。以上。

   慶応元丑年9月                      御門番 房吉

一金 300疋                       和泉屋健蔵
一金 300疋                       植木屋藤兵衛
一金 5両                         八王子組合
一金 5両                         藤澤宿組合
一金 5両                         日野宿組合
一金 3両                         駒木野 小佛組合
一金 1両2分                      日蓮村組合
一金 1両                         中野村組合
一金                            五ヶ市村組2合
一金 300疋                       檜原村
一金 1両                         樋川村組合
一金 2両                         青梅村組合
一金                            拝嶋村組合
一金 1両2分                      蔵敷村組合
一金                            田無村組合
一金                            木曾村組合



房吉という人が、長い間江川代官屋敷の門番を勤めていたんですね。この屋敷とは
芝新銭座だと思います。場合によっては、本所南割下に屋敷があった頃から門番を
勤めていたのかもしれません。
その房吉さんが老齢を理由に門番を引退したいそうです。ところが、引退をしても
故郷に帰る金がない。故郷は遠いし、どうしよう・・・。そうだ、支配地の村々のみなさん
にお願いして退職金を捻出してもらおう!
というのが、書状の趣旨です。
房吉さんは江川家の家臣とか代々奉公しているというような身分ではなく、どこか支配地
の村から勤めにやってきていたのでしょうね。
引退する時点でも蓄えがないとは、江川家の給金はそんなに低かったのでしょうか?

さてさて。そこで、支配地の村々では房吉さんへの退職金を用意することにしました。
記事のタイトルにある「勧化」とは、勧進と同じ意味。現代風にいえば寄付です。
9月に房吉さんが寄付を訴え、11月にそのお金が集まったようです。
私が注目するのは、その寄付をした村々の単位が農兵組合であるということです。
一部金額が記載されていない組合もありますが、すべて江川支配地の農兵組合で
負担しているところが面白いですね。
檜原村は組合となっていませんが、ここは1ヶ村で農兵隊を組織していました。

私は最初、房吉さんがどこかの組合に所属する農兵で、村から派遣されてきていたの
かと思ったのですが、たぶんそうではないでしょう。
房吉さんは老齢のため引退したいと言ってますが、農兵は村役人の兄弟や次三男で
年齢は20代から30代前半が主流です。ちょっと合わない。
それと、以前ブログにも取り上げたと思うのですが、慶応3年の暮れ、代官所が代官
屋敷に農兵を常駐させようとしたところ、村では「それは地域自衛の農兵の主旨に反
する」と反対意見が起こり、怒った代官所が野口村と後ヶ谷村の名主を宿預けにする
という事件が起こります。
房吉さんの引退はその2年前ですが、この事例から見ても農兵に門番をさせていたとは
思えません。

村々を束ねていた組合としては他に改革組合村(寄場組合)がありますが、これは天領、
私領に関わらず防犯上の理由で近隣の村々を取りまとめたもの。房吉さんの引退は
江川代官所のことなので、支配地域だけをまとめた農兵組合が前面に出てきたものと
思われます。
しかし、なぜ出身の村々だけでなく、農兵組合全体で寄付となったのでしょう。
また、寄付(勧化)の筆頭に和泉屋と植木屋という2人が出ていることにも注目したい
ですね。この2つの店は村々が加助郷や支配替えなど難しい問題に直面した際に、村々
と代官所の間に入って交渉役を買っていた所です。
おそらく、房吉さんが代官所の門番を勤めるときも、この両名が間に入っていたのでしょう。
そのあたりの事情がわかると、もっと面白いかもしれません。

房吉さんに集められた退職金は、おそらく30両ほどかそれ以上かもしれません。
それを出身の村々(組合)だけではなく、代官領全体の農兵組合が負担しています。
やはり、門番勤めに農兵が絡んでいたのかな?
他にこのような事例があれば、見てみたいものです。

メガ107

「なんだー。このボタンちょっと押してみるんだな。うーん、なんだー。」



にほんブログ村 歴史ブログ 幕末・明治維新へ
にほんブログ村


にほんブログ村 漫画ブログへ
にほんブログ村


人気ブログランキングへ
スポンサーサイト

御林の丸太でお台場作り!②

丸々1ヶ月以上もブッ飛んでしまいましたが、お台場建設のために中藤村御林の松材が
使われたという話です。
ちなみにお台場といってもフジテレビの社屋を建設したときの話ではなくて、幕末の砲台
の話ですので。念のため。

前回、嘉永6年(1853)と同7年(安政元年 1854)の2回、伐り出しが行われたことを
書きましたが、実際にどれくらいの木材が伐りだされたのでしょうか。

「嘉永6丑年9月12日より中藤村御林山伐り出し
一 惣丸太2247本

同7寅年6月中同所より伐り出し
一 惣丸太1420本」


と、「里正日誌」には記録されています。
この伐り出しにかかった費用は、嘉永6年のときで金12両1分と218文。
同7年で26両2分と1貫362文、となっています。
伐り出した本数の少ない嘉永7年のほうが経費がかかっていますが、これは人足が
より多く出されたからではないでしょうか。
「里正日誌」に書かれた各村の人足数をまとめると・・・

               嘉永6年       嘉永7年
三ツ木村          344         282
横田村           60           61
中藤村           1067        2155
砂川村           315         442
芋窪村           206         216
蔵敷村           72          80
奈良橋村          89          101
高木村           96          82
勝楽寺村          146         150  (単位 人)

となります。
やはり、地元の中藤村の人数が突出していますね。次いで現在同じ武蔵村山市内
の三ツ木村です。
東大和市内では芋窪村が蔵敷、奈良橋、高木の倍以上の人足を出しています。中藤村
の隣り村という立地だからでしょうか。

「・・・嘉永7寅年6月12日、蔵敷村へ各村が集まった上で、出した人足に応じて割合を
付けようと評決して、同7月21日中藤村役人へ掛け合って清算した。同閏7月2日に
各村から協力金として10両を中藤村へ差し出し、その割合は丑年(嘉永6年)9月の
人足2653人(総人足4983人のうち中藤村分2330人を引く)、寅年(嘉永7年)6月
の人足1424(惣人足3569人のうち中藤村分2155人を引く)。都合人数4067に
割り当て、すなわち人足1人あたり永2文4分5厘づつ・・・」


上の表の人数と合わない箇所もありますが、働いてくれた人足には各村がお金を出し
あって労賃を支払ったことが書かれています。
この金額が当時どれくらいの価値があったのかわかりませんが、かなり安そうな気配
がムンムンとします・・・。たぶん、小遣い程度だったのでしょうねぇ。

さて、伐り出された松の丸太は、どのように運ばれたのか?
武蔵村山市史によれば、福生河岸まで陸上輸送をして、そこから多摩川を利用して
筏に組んで江戸へ運んだようです。
村々では台場建設が非常に重要なことであるという認識はしていたのですが、なにせ
急な命令だったものだから、御用財の中に曲木や小枝なども交じっていて
「こんなん、使えんわ!ボケッ!!」
と幕府のお役人から叱責されたそうです。

つらいわぁ。


近々、コチラの講座を行いますので、現在絶賛準備中であります。

01c89dc3553ee2e71c28b7d563e8d9dcd1281f0d18.jpg

01309d429d0aa37899e17ed5f1cfa86a7bef39e10e.jpg

「江戸文化歴史検定試験」の今年の「お題」は「江戸のヒロイン」だそうで、講座の内容も
お題に沿ったモノになります。
まぁ、試験でどんな問題が出題されるのかはワタクシも知らないので、講座内容も手探り
なんですがね。大奥のヒロイン、お芝居のヒロイン、三大美人、などなどお話する予定です。


「なんだー。このボタンちょっと押してみるんだな。うーん、なんだー。」



にほんブログ村 歴史ブログ 幕末・明治維新へ
にほんブログ村


にほんブログ村 漫画ブログへ
にほんブログ村


人気ブログランキングへ

御林の丸太でお台場作り①

今回「里正日誌」からご紹介する記事の内容は、このブログを開設したばかりの頃にも一度
触れたネタですが、幕末多摩史においては重要な出来事ですので、「安政編」でも書いて
おこうと思います。

    「中藤村御林山再び伐り出しの件」

内海の御台場御普請用の丸太を、中藤村の御林よりなおまた伐り出すことになった。特に
お急ぎのことにつき、人足等を雇うことも必要なので、右の節は同村役人より通達が有り
次第すぐに助勢し、御差支えが起きないように取り計らうべきこと。この書付けを早々に
順番に村に送り、請け印を押して、留まりの村から中藤村役人へ返すべきこと。以上。

   寅(嘉永7年)6月 
                              御普請役代 岩上粂右衛門
                              同       塚田金蔵
                              同       島崎勇三郎
                              御普請役  杉浦茂三郎

                              横田村
                              三ツ木村
                              砂川村
                              芋窪村
                              蔵敷村
                              奈良橋村
                              勝楽寺村
                            右村々 役人中


江戸湾に対外国船用の砲台が作られることになり、その材料として中藤村の幕府御用林の
木が使われることになりました。
その作業員として中藤村だけでなく、近隣の村人も伐採などに従事させられます。東大和
地域では芋窪、蔵敷、奈良橋の村がそれにあたったようですね。ちなみに文中の勝楽寺村
は現在の所沢市に入りますが、全域が山口貯水池(狭山湖)に沈んでしまっています。

文中注目したいのは「なおまた」(原文では、尚又)と書かれていることで、この伐採が2度め
であったことを指しています。実は前年の嘉永6年9月にも御林の伐採命令が出ていました。
「里正日誌」の嘉永年間版がまだ出版されていないので、ワタクシのようなシロートには詳細
はわかりませんが、当の中藤村の「指田日記」では次のような記述があります。

嘉永6年9月
12日 御林にて2000本切り抜き、福生村まで出すようにと仰せ渡されたので村から車引き
人足を出した。御林奉行より10日以内に運びきるよう命令があったので、隣村の三つ木、
芋久保、石川、勝楽寺、蔵敷、奈良橋、砂川、右の村々に助っ人人足を出してくれるように
当たる。

19日 今日まで、御林人足を6人勤めさせた。

20日 雨。御林山用木車引き。


これを見ると、やはり近くの村々からも人足が作業に出されていたことがわかります。

さて、江戸湾に台場をつくり、砲台を築くという作戦を立案したのは、多摩地域の代官である
江川太郎左衛門英龍です。
嘉永6年(1853)6月にペリーが来航し、砲艦外交をもって日本との交渉を迫ります。翌年に
再来日することを約束してペリーは去っていきますが、7月に早速、江川さんは幕府に「海岸
御見分ニ付見込之趣申上候書付」
という意見書を提出しています。
メチャ早い対応です。
そこに「御台場構想」が書かれていたワケなんですが、実はこの構想は江川さんの当初の
目標ではなかったようなんですね。

その意見書で真っ先に述べられているのは、軍艦の購入や製造、地球を1周できるくらいの
航海術の習得の必要性でした。江戸湾の防衛についても、三浦、鎌倉から安房、上総を結ぶ
ように砦を築くという構想をブチ上げています。つまり、東京湾そのものに敵艦を入れさせない
という考えです。
東京湾の入口浦賀水道に、三浦半島の旗山崎から千葉の富津まで10町(1800m)間隔で
砲台を作ることが基本構想でした。10町というのは、当時の大砲の射程距離に基づくものだ
そうですが、かなり短い間隔になりますね。
ただ、当時の技術力ではこの海域に台場を建造することは不可能であることが江川さんにも
わかっていたようで、現実的目標として旗山崎・富津間よりも下がった三枚洲の岩礁がその
設置に当てられたようです。

ところが、この計画では短期間で建設が終わらないことを理由に、幕府から断られます。
結果として「江戸城と江戸の市街地を守ることが最重要」という幕閣の方針によって、海岸
ギリギリの品川・深川間に台場を作ることになりました。
これは、先験的な海軍・海防構想を持っていた江川さんにとって、もっとも拙策だったこと
でしょう。無念極まれり・・・!
ということで、品川お台場は江川英龍発案ということで有名ですが、実際は妥協に妥協を
重ねた結果だったということです。

7月23日には勘定奉行松平近直、川路聖謨、勘定吟味役竹内保徳、江川英龍の4人に
台場普請取り調方が命じられ、8月3日には用材・石材、普請方棟梁・人足の準備に入る
ように上申書が出されます。そして、9月にはもう中藤村で木材が切り出されているという
具合。
幕府から許可が出るや、このスピード。

実は「指田日記」の嘉永6年7月9日に、こんな気になる記述があります。

9日 大筒台の御用木、青梅入りより出るにより、新江戸街道の普請人足村々に当たる

新江戸街道とは、現在の東大和市駅前から西に向かう道で、桜街道と呼ばれている道です。
台場建設が公に決定する前に、砲台に関する木材を青梅から江戸に運ぶ必要があり、街道
の整備に人足が出されていたようです。
台場の建設計画は、実際には(建設場所がどこになるかは別として)かなり以前から江川
支配地では練られていたのかもしれません。

メガ97


「なんだー。このボタンちょっと押してみるんだな。うーん、なんだー。」



にほんブログ村 歴史ブログ 幕末・明治維新へ
にほんブログ村


にほんブログ村 漫画ブログへ
にほんブログ村


人気ブログランキングへ

異国船渡来と治安の悪化③ 盗品売買を防げ!

黒船来航以来の治安悪化で、江戸近郊の村々でも盗難・強盗の犯罪が増えてきた
ことを、書き出してみました。
これらの盗品は質屋や古物商などに売られる傾向があったようです。
現代でも万引きされたコミック本が、古本屋に買い取られるという問題が一時あり
ましたが、それと同じようなものですね。
幕末の農村には、そういった質屋や古物商があって、十分に人々の生活の一部と
して機能していたことになります。

そこで幕府は、盗品が売りさばかれる裏ルートを作らせないために、三渡世(質屋・
古鉄商・古着屋)の管理、つまり営業許可を徹底させることにします。

その村々組合の石高、地頭の姓名などが入り乱れてきているので、この度別紙の
案内文を差し遣わす。しっかりとそれを見て一つ一つ洩らさぬように細かく入念に
取り調べ、書上げて申すべきこと。

一、ご改革組合の傍示杭の文字が消えているようなので、見直して建替えること。
寄場役人・大小惣代・質屋ならびに道案内人の名前を書き出し、別紙案内文の通り
に別冊に書いて提出すべきこと。右の通り早々に取り調べ、出来次第3月晦日までに
間違いなく日光道中の千住宿へ向かい、御用と案内文のように書いてその上に朱丸
を付けて差し出すこと。封書の中には他の御用向きは入れぬように申し達す。
廻状は請け印を押して、早々に順達し、最後の村から返すようにせよ。以上。
   卯2月                        関東御取締出役
              寄場役人
              大小惣代 中


傍示杭というのは、村などの境界線に建てられている杭です。「これより〇〇村」みたい
なことが書いてあったようですが、現在では残っているものはないようです。ただ、浮世絵
などに描かれているのを見ることはできて、それを見ると人の背丈以上の長さがあって、
なかなか大きいものだったようです。
その杭に書かれている文字が消えているので、新しい杭に変えろということですね。
改革組合は防犯・自衛のために作られたまとまりですから、管轄をハッキリさせるため
にも傍示杭の必要性があったのでしょう。

さて、そんな中。
後ヶ谷村(現・東大和市狭山)の百姓・熊右衛門という人が、新規に古鉄買取の商売を
しようと思い立ったようです。

「古鉄買渡世願書 所澤村組合 後ヶ谷村」

  恐れながら書付けをもって願い上げ奉ります

江川太郎左衛門御代官所武州多摩郡後ヶ谷村の百姓、熊右衛門が申し上げ奉ります。
私は石高4石2斗の作地を持ち、家族5人で暮らす農業渡世をしておりますが、このほど
新規に古鉄買いの渡世を始めたく、そのことを村方一同に相談しましたところ、いささかも
障りのあることはなく、かえって便利なことになろうと一同聞き入れました。農業の間に
新規に古鉄買いの渡世のお許しを仰せ付け下さい。しかる上は以前から仰せ渡されて
いる趣旨のことをきっと守り、正しい渡世をしていきますので、なにとぞ御慈悲をもって
右の願いの通りお聞きなされていただきますよう、願い上げ奉ります。以上。
   安政2卯年              後ヶ谷村 願人 百姓 熊右衛門 印
                               組合 次兵衛 印
                               組頭 金左衛門 印
                               名主 彦四郎 印

前書の通り願い上げ奉りましたところ、右の者は常日ごろから実直であり、特に組合
村々においても少しも差障りのことはございません。願いの通りお聞き済まし下され
たく、私たちより奥書きをもって願い上げ奉ります。以上。
                        江川太郎左衛門御代官所
                          武州多摩郡蔵敷村
                             小惣代 名主 杢左衛門 印
                        同 御代官所
                          同州同郡野口村
                             同 名主 勘左衛門
                        同御預り所
                          同州入間郡上新井村
                             同 組頭 清左衛門
                        武蔵庫次郎知行所
                          同州同郡町谷村
                             大惣代 名主 民右衛門
                        江川太郎左衛門御代官所
                          同州同郡三ヶ嶋村
                             同 名主 次郎左衛門
                        同御預り所
                          同州同郡北永井村
                             同 名主 重左衛門
                        同御預り所
                          同州同郡所沢村
                             同 名主 助右衛門
 関東御取締御出役 


この書付けで分かるのは、古鉄買いの商売をしようと思ったら先ず①村役人の許可を得る
こと。②組合村々の大小惣代の承認が必要であること。その上で③関東取締出役に許認可
の権限があった、ということです。
同様の書付けは質屋の場合でも「里正日誌」に残されています。
盗品が流れる可能性の高い三渡世は、広域警察署である関東取締出役が営業許可を出し
ていたというのは、当時の世相として興味深い話です。

メガ94

先日BS放送で「壬生義士伝」(中井貴一主演の映画版)が放送されていたので、またまた
見てしまいました。
「壬生義士伝」は原作も、ドラマも(テレ東系・渡辺謙主演)、そしてこの映画も、とてもよく
できていて大好きなのですが、映画版を見ててどうしても気になってしまうのが上のイラ
ストです。
鳥羽・伏見の戦いで、新政府軍の隊長たちが歌舞伎の鏡獅子のようなヅラを被っている
シーンです。アレは黒・白・赤と3種あって、それぞれ黒熊(こぐま)、白熊(はぐま)、赤熊
(しゃぐま)といいますね。

あの毛はヤクの毛だそうです。で、とても高価な舶来品であり、徳川家のお宝として江戸城
の蔵の中にしまってあったんですね。これを、慶応4年4月の江戸城明け渡しのときに新
政府軍が戦利品としてブン取って、「オシャレじゃん」ってことで被ったという次第。
つまり・・・映画「壬生義士伝」で薩長軍の隊長がアレを被ってるのは、おかしいのです。
時間的にまだ早すぎる。「どっから持ってきたんだい?」てことになってしまうワケです。
滝田洋二郎監督のことですから、そんなコトは知ってて当然だとは思うのですが・・・。

まあ、あのヅラを被っていたのはほんの一時、戊辰戦争のときだけですから、「戊辰戦争
の新政府軍だぜ!」っていうアイキャッチになって、都合がいいのかもしれませんが。
史実はともかくとして「映画のエンターテイメント」として登場させた、ということなのかも
しれません。

ちなみに黒熊は薩摩、白熊は長州、赤熊は土佐と決められていて、他の藩の将兵が被る
ことは赦されなかったそうです。
「薩長土め、ケチなヤツらよのぅ~」


「なんだー。このボタンちょっと押してみるんだな。うーん、なんだー。」



にほんブログ村 歴史ブログ 幕末・明治維新へ
にほんブログ村


にほんブログ村 漫画ブログへ
にほんブログ村


人気ブログランキングへ

異国船渡来と治安の悪化② 

前回は黒船来航以来、治安が悪化してきた一つの事件例を「里正日誌」の中から上げて
みましたが、今回はもう1例をご紹介します。

「拝借鉄炮紛失に付き御奉行所より御触書」

一 鉄炮1挺  玉目3匁2分
右は江川太郎左衛門御代官所配下の武州多摩郡百草村に住む百姓、源次郎が拝借
している四季打鉄炮を当月9日夜に紛失してしまった。右の鉄炮を所持している者を
見聞きしたならば、鉄炮はもちろんのこと、その者とも取り逃がさないようその場所に
預け置き、太郎左衛門役所へ早々に申し出るべきこと。もし、隠しおいて他から明らか
になるようなことになれば、当人はもとより村役人も必ず申し付けるべきものである。

 寅3月15日  田村伊予守顕彰 印
           川路左衛門尉聖謨 印
           本多加賀守安英 印
           松平河内守近直 印
           石河土佐守政平 印

              武州多摩郡
                 御料
                 私領
                 寺社領
                   村々
                      名主
                      組頭


先ず、ちょっと解説を。
「四季打鉄炮」という聞きなれない武器の名前が出てきます。おそらく銃砲に詳しそうな
IS戦士の方々もご存知ないのではないでしょうか。
享保14年(1729)に幕府は、百姓が所持できる鉄砲について規定を設けました。
「四季打鉄砲」はその中の一つで、「害獣対策のために2月~11月まで使用許可が
降りた銃」
のことです。
もう少し期間が短い4月~7月まで使用できる「二季打鉄砲」というのもあったようです。
つまり、農作物を荒らす動物を撃つための銃であり、銃の種類ではないということですね。
性能は他の火縄銃と同等でしょう。
江戸時代は猟師の他にも、百姓がこういった理由で銃を持っていたんですね。
ちなみに、使用できる期間外には、封をして名主に預けることになっていたようです。

百草村の源次郎さんが拝借していた鉄砲を紛失してしまったとのことですが、夜になくなって
いたということは、つまり何者かに盗まれてしまったということのようです。
鉄砲が盗まれたということですから、このご時世のことでもあり、大事になってきますよね。
廻状を出した5人の方々は、いずれもその時の勘定奉行です。つまり、幕領支配地の長官。
事の大きさがわかります。

さらに約一月後、「里正日誌」にはこのような記事が書かれています。

武州百草村百姓の源二郎が、拝借していた四季打鉄炮を当月9日夜に紛失したことで、右の
鉄炮を所持している者を見聞きしたならば、取り逃さぬようその場所に預け置いて早々に御
注進申し上げるべきことと、御触書にありますので拝見し、承知いたしました。これによって
御受印を差し上げ申します。以上
 
                        江川太郎御代官所
                        武州多摩郡蔵敷村  名主 杢左衛門
 寅4月8日
    辰中刻

辰中刻に中藤村より受け取り、即刻奈良橋村へ継立申し、下げ札を付けて送った。


この頃になっても盗まれた鉄砲の行方はわからなかったようです。
百草村は多摩丘陵の村ですが、鉄砲の詮索は狭山丘陵の村々にまで及んできました。
銃が1挺盗まれるということは、今も昔も大事であります。

メガ93


「なんだー。このボタンちょっと押してみるんだな。うーん、なんだー。」



にほんブログ村 歴史ブログ 幕末・明治維新へ
にほんブログ村


にほんブログ村 漫画ブログへ
にほんブログ村


人気ブログランキングへ