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地域発見講座より 東大和市と戊辰戦争②

3 振武軍、東大和に来る

1 振武軍の金策
振武軍は5月1日、田無村の西光寺に陣を構えました。そして、各組合村へ
廻状を回し、村の代表者を集めます。
蔵敷村の名主・内野杢左衛門も田無村へ呼び出されました。振武軍には、
遅れて上野の山から駆けつけて合流した者が次々と加わり300人ほどになり、
西光寺の他、光蔵寺、太子堂、観音寺に分宿していました。
渋沢が村々を呼びつけた理由は、金策でした。

右本陣西光寺着届致し候ところ、列席にて惣隊長申し聞くには、この度徳川氏
再興のため、金高を短冊にて申し達し候通り助力いたし候よう、頼み入り候旨
申し聞かされ、金20両重蔵と申す短冊下げ渡し相成り候間、品々歎願申し
あつめ候処、強勢に申し威し種々強談及ばされ候えども、お申し付けの金高は
とても自力難く及ぶ旨再び応じ歎願いたし、詰り金5両差し出しようやく勘弁いた
し貰い落手相成り・・・・(里正日誌)


重蔵とは蔵敷村で組頭をしている家ですが、当時組頭は商いをしている家が多く、
振武軍はそのような家に軍資金を要求してきたのです。
振武軍の要求は20両でしたが、重蔵は「とても応じられず歎願して」5両だけを
差し出します。これに振武軍が怒ったかというと、そうではなくおとなしくその金額を
受け取っています。

DSCF0564a.jpg

2 村々の対応
振武軍の金策は重蔵だけではなく、他の村人へも向けられます。東大和市域が含まれた
所沢組合村では、どのくらいの金額が要求されたのでしょう。一例を上げておきます。


下安松村(所沢市) 名主 新助 150両→50両 
所沢村 百姓 伝右衛門 150両→50両      
所沢村 百姓 弁蔵 100両→30両         
所沢村 百姓 孫七 100両→30両
所沢村 百姓 源兵衛 100両→25両       
粂川村 年寄 太座衛門 100両→20両     
高木村 名主 庄兵衛 50両→10両
高木村 百姓代 清五郎 20両→7両
高木村 百姓代 宇兵衛 20両→5両
蔵敷村 組頭 重蔵 20両→5両

計22ヶ村 46人 2280両→726両

(左の金額は要求額。右は実際に支払った額)

振武軍は所沢組合の他からも、田無組合村々から730両、拝島組合村々から500両、
扇町谷組合村々から720両、日野組合村々から500両、府中組合村々から500両の
献金を受け取りました。どの組合も要求額よりは少なく納めたのでしょうが、それでも
3500両近くの金が集まったことになります。
杢左衛門の記述にあるように、村民にとって献金は強引に奪われたという印象があった
ようです。つまり、3500両という金額は大金ですが、それは決して村々が振武軍を支持
していたわけではなかったのです。

3 その後の振武軍
5月12日に田無村を立った振武軍は、小川村(小平市)を通過して箱根ヶ崎村(瑞穂町)
に布陣しました。ところが、15日に上野で戦争が起ったとの情報が入ります。振武軍は
急いで彰義隊の元へ駆けつけようとしますが、高円寺村(杉並区)で彰義隊の敗戦を聞き、
田無村へ引き返します。すると、彰義隊の敗走兵が次々とやってきて、彼らは振武軍と合流。
1200人程の集団になりました。(※天野八郎は逃亡先で捕縛され、後に獄中死しています。)
その後、振武軍は二隊に分かれて一隊は小川を通って箱根ヶ崎から扇町屋(入間市)へ。
もう一隊は所沢から扇町屋に入り、合流して飯能の能仁寺に立て籠もりました。
これに対し新政府軍は大村、筑前、備前、佐土原、久留米の各藩兵2000人余りを出陣させ
ます。彼らは田無村に泊まったので、賄い方として蔵敷組合も呼び出され働かされました。
そして23日、新政府軍と振武軍は戦闘に突入。激戦の結果、能仁寺をはじめとして飯能の
町は焼かれ振武軍は敗走しました。これを飯能戦争といいます。

渋沢成一郎や散り散りとなった振武軍、彰義隊士は、後に榎本武揚の海軍に合流。箱館で
再度彰義隊を結成し、渋沢が隊長に就任します。松前城攻略などで戦果を上げた彰義隊です
が、またしても内部分裂を起こし二隊に分裂。そのまま箱館戦争終戦を迎えます。


4 東大和の戊辰戦争

1 中山道蕨宿への当分助郷
振武軍が田無村へやって来て金策をしていた同じ頃、狭山丘陵の村々では別の問題に直面
していました。新政府軍が大挙して江戸へ下ってきたため、宿場での大量の継立が必要と
なったのです。
東大和周辺では後ヶ谷、奈良橋、蔵敷、清水、高木、芋窪、中藤、横田、砂川、廻田、久米川の
村々が、当分助郷として中山道蕨宿まで勤めるよう命令がありました。。
さらに、大宮、川崎、日野、府中の各宿場へも人馬負担が掛けられ、村々では大きな負担となり
ました。

2 他にも来た、諸隊
東大和周辺には振武軍の他にも、正体不明の怪しげな諸隊がやって来ています。
慶応4年閏4月11日、八王子に仁義隊という、300人ほどの佐幕方の一隊がやってきて
八王子宿や周辺の村々から金を、農兵隊からは銃、刀、鎗などを要求しました。さらに
仁義隊の中から30人程が分かれ撒兵隊と名乗って農兵から武器を調達しています。
仁義隊も振武軍と同じく多額の金銭を要求しましたが、村が少額の金額を提示すると
おとなしくその金額を受け取っています。

同じ頃、所沢に精勇隊と名乗る50人程の一隊もやってきます。彼らは新政府方阿波稲田
藩の附属とのことでした。ところが、彼らは所沢村の名主・助右衛門を拘束し、武器や金を
要求したのです。精勇隊は最初500両という高額を要求しましたが、結局白米50俵、金
30両で合意。蔵敷村名主・杢左衛門も願い出て助右衛門は解放されました。
ところがその直後、八王子に宿陣していた新政府軍の掛川藩から目付が100人程の兵を
率いてやってくると、あっさり降伏してしまいます。精勇隊は「官軍」を詐称する「ニセ官軍」
だったようです。

3 新政府の密偵
慶応4年9月6日(この2日後明治に改元)、蔵敷村の名主・内野杢左衛門の所へ新政府志筑
藩の兵藤雷太郎という男が訪ねてきました。彼は旧幕府領地域の人々がどのように新政府の
東征を考えているのかを探る密偵でした。

「・・・・さて上段に右雷太郎殿ならびに御同役壱人弐人都合四人列座、次の間に家来弐人
相見ひ、右問われ候は、第一精勇隊の情実、第二遠近重立ち候村役人の平常の取り扱い振り、
第三人気の動静、第四脱走人の金穀掠奪、第五最寄り村の重立ち役人の正不正、用不用、
気質の善悪(よしあし)など密密お尋ねにつき、事実有体に申し述べ候処、御同役逸逸書き取り
成られ、聞人弐人より外に何々廉(かど)承り候えども、これは実か虚かと尋ねられ候につき、実は
実虚は虚と相答え、・・・」(里正日誌 第10巻)


ここに至るまで、なぜ幕府領や旗本領の多い武蔵国で新政府への根強い抵抗があるのか、
新政府はその原因がよくつかめなかったようです。そこで、兵藤のような密偵を仕立てて、各地
への聞き込みを開始していました。杢左衛門は質問に毅然と答え、兵藤は「これまで雲霧相晴
れず、更に事情相分からず候処、貴殿の答弁にて誠に明白に相分かり」
と答えて去っていき
ました。
また、こうした情報収集の他に、慶応4年の8月には日本橋に目安幕が設置され、新政府は
広く一般庶民の考えや意見を聞こうともしています。

4 変わりゆく村
慶応4年1月の鳥羽・伏見の戦いから、5月の上野戦争の頃まで、多摩・狭山丘陵一帯は
無政府状態だったといえます。徳川時代の直接支配者だった代官は京都に行き、すでに
新政府に恭順。しかし、その新政府が旧天領を支配できていたかといえばそうではなく、
振武軍のような佐幕派が献金を求めてやってくる状況があったのです。
閏4月16日、芋久保村の住民2人が田無村へ向かう途中、小川村で2人組の強盗(1人は
侍)に襲われ10両の大金を奪われるという事件が起こります。強盗は青梅方面に逃げて行き、
芋久保の2人は大急ぎで村に帰りこのことを告げました。村では近隣の村々にも声を掛け、
武器を持って強盗を追いかけ、ついに三ツ木村で発見。周りを大勢に囲まれた強盗はすぐに
観念して捕まりました。住民らは強盗を芋久保と蔵敷の間にある狐塚に連れていくと、その場で
相談の上、斬首してしまいました。(「指田日記」「里正日誌」)

戊辰戦争により一時的にでも空洞化した狭山丘陵の村々では、お上の採決を待たずに自ら行動
を起こす空気が出来上がっていたのです。


ということで、9~10月にかけて市内で行った公民館講座の内容を記事にアップしてみました。
当ブログで過去に書いたことがほとんどですが、ざっくりとまとめて読むにはちょうどいい
機会だったかなと思います。
農兵隊などについては、これからも分かったことがあったら、その都度アップしていきたいと
思います。


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地域発見講座より 東大和市と戊辰戦争① 

東大和市地域発見講座の3回目は、東大和市と戊辰戦争の関わりです。
以前にもお話しましたが、戊辰戦争における実際の戦闘は、東京では上野で彰義隊の
戦いがあっただけですが、やはりその影響はその他の地域にもあるワケで。
そのひとつの例として、東大和市域のケースを上げたいと思います。


1 東征軍と江戸城開城

1 江川代官の恭順
慶応4年2月15日、東征大総督の有栖川宮熾仁親王は京都を出発し、慶喜追討のため
江戸に進軍します。
その少し前、東征軍の先触れが韮山の江川代官屋敷にやってきて、朝敵(慶喜)を討つ
ために今まで江川家が支配してきた支配地の絵図面や石高帳・人別帳を持って総督府
まで出頭せよと江川は命令を受けます。
江川英武は手附の柏木総蔵と共に名古屋へ行き、木戸準一郎(木戸孝允)と面談。
そこで兵力の供出を命じられます。しかし、代官所には兵隊はなく、農兵も他を攻撃する
ためのものではないことを江川は訴えました。
木戸は江川らに京都まで行き、事情を説明するよう言います。江川らはそのまま上京し、
10月まで滞在。3~4月頃、韮山の領地安堵を言い渡され新政府に恭順しました。

2 江戸開城と旧幕臣
3月12日から14日にかけて、新政府軍の西郷隆盛と旧幕府を代表して勝海舟が話し
合い、慶喜を水戸へ預けることと江戸城の明け渡しが決まりました。4月11日に江戸城は
無血開城しますが、海軍を率いる榎本武揚は軍艦の引き渡しを拒否して江戸湾を脱走。
また、陸軍の大鳥圭介も伝習隊の一部を率いて脱走し、これに土方歳三らも合流。北関東、
東北へと転戦していくことになります。
一方、江戸周辺に残りながら、新政府に抵抗を試みる幕臣を中心とする勢力もありました。
その代表とも言えるのが彰義隊です。

2 彰義隊と振武軍
                     
1 彰義隊の結成
慶喜が上野の寛永寺に謹慎をした時に、一橋家の家臣の中から慶喜の護衛をしたいと
いう有志が集まりました。彼らは会合を重ねるうちに人数を増やして行き67名が集まり
ます。彼らは「尊王恭順有志会」と名乗りその後「彰義隊」と改名、頭取に渋沢成一郎、
副頭取に天野八郎が就任しました。

②渋沢成一郎a➀天野八郎a
渋沢成一郎                   天野八郎


渋沢成一郎は武州榛沢郡血洗島(埼玉県深谷市)の豪農の出身。天保9年(1838)
生まれで、2歳下の従兄弟に明治の大実業家・渋沢栄一がいます。成一郎と栄一の
二人は江戸に出たところ、一橋家用人の平岡円四郎に誘われ、一橋家の家臣となり
ました。御三卿は大名家ではないので家臣が少なく、当主の慶喜が注目されてくるよう
になるに連れて有能な家臣が必要となっていたのです。慶応2年(1866)に慶喜が
徳川宗家を相続したことにより、2人も共に幕臣となりました。
栄一はフランスで行われた万国博に参加した慶喜の弟・徳川昭武の随行員として欧州に
派遣され、成一郎は陸軍奉行支配調役から奥右筆格に抜擢されるなど、活躍。鳥羽・
伏見の戦いでは、大坂に取り残された幕臣らを江戸まで帰還させる責任者を任されました。

天野八郎は上州甘楽(かんらく)郡磐戸村の庄屋の次男として、天保2年(1831)に生まれ
ます。本名は大井田林太郎。
父親が江戸神田で公宿を営んでいたことから江戸に出て、男谷精一郎門下生となり直心影流
の剣術を学んだといいます。その後、火消役与力・広瀬家の養子となりますが、すぐに離縁。
その頃から天野八郎と名乗り始めますが、その理由は不明です。
天野は幕臣でも一橋家の家臣でもないのですが、No.2の座に推されたのは人望があり、リー
ダーシップもあったからだと思われます。

彰義隊は慶喜の身辺警護を目的とした部隊であり、薩長と一戦交えてやろうという目的で
作られたものではありませんでした。特に頭取の渋沢は一橋家家臣でしたから、当主慶喜の
命だけは何としても守らなければならぬ、という気持ちが大きかったのです。
ところが次第に彰義隊の評判が広がり、入隊希望者が次々と集まってくるようになりました。
幕府がなくなり明日の希望が見えない状況に身を置いた幕臣らの受け皿と、彰義隊が見られ
てきたようです。こうして上野の山には300人以上が屯集するようになってきたのです。
しかし、ひたすら恭順し助命を嘆願する慶喜にとって、彰義隊は厄介な存在だと思ったのが
勝海舟です。そこで勝は彰義隊に江戸市中の取締りを命じ、その行動に責任を持つように
仕向けました。当時の江戸は治安が相当に悪化していたので、彰義隊は江戸っ子の評判を
呼びました。

ところがこの頃になると、彰義隊の中で意見の対立が起こり、渋沢派と天野派という二つの
派閥ができてしまいます。渋沢は先にも話したように、彰義隊の目的は慶喜の護衛であると
いうスタンスです。新入隊士も幕臣に限る、としていました。
しかし、集まってくる者の中には幕府の再興を考える者が多く、その意を汲み取っていたのが
天野でした。天野は隊士募集も「身分・前歴問わず」、薩長への反抗心があり戦う気持ちがあ
れば誰でも引き受けました。簡単に言ってしまうと、慶喜大事・慎重論の渋沢派と幕臣生活
大事・主戦論の天野派です。

3 彰義隊の分裂
次第に二派の衝突は表面化することになり、ついに「新政府に寝返らないこと」「降伏はしない
こと」を約束して天野派と渋沢派は分裂してしまいました。
この頃、4月11日、慶喜は水戸で謹慎するために江戸を出ます。彰義隊の大多数を率いること
になった天野は、1000人余りに増えた隊士とともに寛永寺座主・輪王寺宮公現法親王を守護
するため上野の山に入りました。新政府を撃退し、幕府を再興する。それが天野率いる彰義隊
の目的となったのです。

一方の渋沢は100人の隊士を連れて江戸を出ました。慶喜のいない江戸にいても仕方が
ないし、水戸は他藩ですから入れません。彼らは青梅街道を西に進み、田無村(西東京市)に
駐屯しました。
渋沢は彰義隊から分かれたこの隊に振武軍と命名します。

ここまでは、東大和市域はカンケイのない話ですが、これを話しておかないと振武軍が何者
なのかわかりません。それで、講座でもこのように彰義隊について触れさせていただきました。
さて、この振武軍が東大和市域にやってくるのですが、それはまた次回。


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地域発見講座より 東大和の農兵②

3 農兵の出動

1 第二次長州征伐
慶応2年(1866)2月、高杉晋作らにより藩論を討幕に定めた長州藩
に対して、幕府は2度目の長州征伐を行います。しかし、長州と薩摩の
密約(薩長同盟)や奇兵隊の活躍などがあり幕府は劣勢を強いられます。
幕府はこの状況を変えるべく、江川代官支配地の農兵を戦地に送る計画
を立てました。
6月14日、蔵敷村名主の杢左衛門は日野宿に逗留していた代官所役人に
呼び出され、幕府の要請を受け入れるように迫られました。
しかし、杢左衛門は「最初、農兵お取り立ての御趣意とは、相振れ候間、
村々へ談じ候ならでは、お請け仕りかね候旨申し上げ・・・」
(「里正日誌」)と、
その場では決められないと意見しました。

2 武州世直し一揆
幕府が江川農兵に長州出兵を要請していたまさにその時、上野国・武蔵国の
貧農層から一揆が起こりました。一揆は瞬く間に関東一円に広がり大きな騒乱
に発展します。
「武州世直し一揆」と呼ばれたこの騒動は、米価高騰などにより困窮した貧農層
が米穀商人、質屋、大地主などの豪農層に対して、米価の引き下げ、質地・質物
の返還、施米・施金の実施を要求し、叶わなければ打ちこわしを働き、これが同時
多発的に蜂起されたものでした。
6月13日に武蔵国秩父郡上名栗村から発生した一揆は、わずか7日間で東は
中山道筋、南は多摩川流域、北は上野・武蔵国境まで一気に拡大し、参加した民衆は
十数万人と云われています。
農兵を長州に派遣する話は、一揆勃発で完全に立ち消えました。

3 江川農兵の出動
江川代官所の農兵隊は正式に一揆鎮圧の出動命令が下されました。抵抗する者は
「打殺」してもよいとの許可も降ります。
6月16日早朝、粂川村から「粂川より大岱(おんた)・柳久保打ちこわしこれ有り」との
一報が入り、蔵敷村組合9ヶ村の農兵、人足合わせて300人が粂川に出動し警備に
付きました。粂川に一揆は来ませんでしたが、柳久保の打ちこわし現場では田無村
組合農兵が一揆勢と交戦し、即死8人、13人召し取りの活躍を見せます。
さらに同日、日比田村(所沢市)から打ちこわしの脅迫がきているとの救助嘆願があり、
蔵敷村・田無村両組合が日比田村に出動しますが、一揆勢は来ませんでした。

一方、多摩川流域の築地(ついじ)河原では、一揆勢を日野宿・八王子宿・駒木野村
組合農兵が迎え打ち、激しい戦闘となりました。日野宿では名主の佐藤彦五郎が
農兵隊の他、撃剣組を率いて出動。一揆勢が川を渡る前に狙撃、あるいは斬り倒し、
2000人いた暴徒は即死18人、召し取り41人を出して退散しました。その他、大久野
村でも五日市組合農兵が即死10人、召し取り26人の活躍を見せています。

※(補足)日野宿農兵隊のこの時の行動については、佐藤彦五郎の孫・仁氏の「籬蔭
史話」(その中編をまとめた「聞きがき新選組」)に詳しく記載されています。
また、五日市でも大きな戦いがあったことに注目です。
当ブログでも取り上げましたが、大久野の羽生家に近藤勇の手紙が残されている
一件(「羽生家と近藤勇書簡」)で、新政府の追手を逃れるために彦五郎が頼ったのが
羽生家だったことも、農兵隊の連携から考えれば理解ができます。

一揆勢は6月19日には壊滅し、警備や各地の見舞いに行った蔵敷村組合農兵や
杢左衛門も月末までには帰村しました。暴徒は各藩の藩兵や幕府軍によって鎮圧され
ましたが、特に江川農兵の攻撃が一揆勢の壊滅に効果的であったとされます。
この影響は各地でも広まります。
横浜では代官の今川要作が村々に農兵取立ての意向を示すと、寄場組合村でもこれ
を受け入れ、「綱島農兵隊」「川崎農兵隊」が誕生しています。

※(補足)今夏、横浜歴史博物館の企画展「戊辰の横浜」(「横浜歴史博物館『戊辰の
横浜』展」
)で横浜の農兵隊について見学してきました。「里正日誌」には、一揆
騒動の後日、今川要作が江川農兵隊を視察に訪れたことが書かれています。
「廿三日、御代官今川要作様八王子出立、砂川中飯、奈良橋継立、所沢泊まりにて
御通りにつき、警固として農兵差し出し候方然るべき旨砂川村名主源五右衛門申し
越し候間、大急ぎにて組合村農兵呼び立て奈良橋へ罷り出で候ところ、御手代衆
達しご遠慮なされ候につき、すぐさま引き取り銘々帰宅、然るところ粂川村内もつれ
の儀について、兼て頼み請け候儀これ有る間、昼九ツ半時頃罷り出で同村泊まり」


4 農兵はどう期待されていたのか
東大和市内に保存されている、当時の農兵が使った「農兵訓練の栞」には、農兵が
どのように隊列を組み、行進し、いざ戦闘の際には小隊をどう展開させるかが書かれ
ています。これはおそらく、芝新銭座で教育を受けた幹部候補生が地元での農兵訓練
のテキストとして書き留めたものだと推察できます。

DSCF0545a.jpg

上のページには「騎兵ニ向ヒ」と書かれ、農兵の対戦相手として、騎兵も想定されている
ことがわかります。

DSCF0553a.jpg

このページには「撒兵(さっぺい)」の文字が見えます。撒兵とは歩兵のこと。文久2年
(1862)の文久の改革で、幕府に設置された「陸軍」において、小普請組の御家人を
集めて作られた歩兵隊を撒兵隊といいました。農兵隊の号令は撒兵隊と同じだった
ようです。なお、「気を着け」「右向け右」などの号令は江川英龍が考案したものです。

この栞の内容は「歩兵練法」「歩兵心得」といった幕府陸軍所発行の書籍から引用した
ものである可能性が高いと思われます。
農兵の訓練にはこれらの本に書かれた訓練法を、便宜上使用しただけなのかもしれま
せんが、農兵設置の元々の目的「地域の治安維持」だけではなく、幕府は騎兵との戦いや、
幕府正規軍との合同行動が可能なように農兵を考えていた可能性も考えられます。

慶応3年(1867)3月に、蔵敷村農兵隊は観音崎警固の命令が出たので出張しましたが、
3回目の命令には断りを入れています。また、12月には芝新銭座の江川調練場の警備も
命じられますが、村ではこれも断りました。
村側は、あくまでも農兵は地域防衛のためであることに拘ったのです。

4 維新後の農兵

慶応3年(1867)12月の王政復古の大号令により、幕府は消滅します。しかし、京都の
新政府がすぐに全国を統治できるわけもなく、江戸周辺では旧幕府の支配体制はそのまま
存続しました。当然、天領の支配も代官所が継続して行っていました。
ところが戊辰戦争が始まり、東征軍が東海道を進んでくると、代官の江川英武(英敏の弟)は
いち早く新政府に恭順してしまいます。旧幕府と支配地域との繋がりは絶たれ、江川支配地
の農兵は消滅することになったのです。旧天領の村々はほとんどが新政府に恭順の姿勢を
取りましたが、中には日野宿農兵隊のように、新選組(甲陽鎮撫隊)と共に新政府に抵抗した
所もありました。
戊辰戦争が終わり明治の世の中となると、農兵制度は完全に廃止となります。しかし、政府
には予算もなく、警察組織は江戸時代と同様脆弱なままでした。そこで政府は旧幕府と同様に、
各地域では自ら治安維持を行うよう村々に委託せざるをえなかったのです。
明治3年(1870)4月に農兵が使ったゲベール銃は政府に引き取られましたが、ミニエー銃
(国産スプリングフィールド銃)はそのまま貸与されました。蔵敷村で6挺、奈良橋村、高木村、
後ヶ谷村でそれぞれ3挺ずつが明治8年(1875)まで貸し出されていたことがわかっています。

幕末の多摩・狭山丘陵一帯は治安が悪化し、民衆は命と財産を自ら武装して守るよりほか
ありませんでした。多摩一帯に天然理心流などの剣術が流行したのも、そのためです。農兵
政策はその自衛手段と意識をさらに一歩進めたことになりました。開国派の江川英龍が代官
として村々を指導したことも、多摩の農兵が西洋式の訓練に順応できた大きな要因となった
でしょう。
しかし、彼らの武力行使は、あくまでも自らの命や財産を守る自衛に限ったものでした。

西南戦争が終わると、多摩でも自由民権運動が活発化します。庶民が自らの権利を主張し
始めたとき、その中心にかつての農兵組合が置かれていた場所が多いのは、無関係では
ないでしょう。


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地域発見講座より 東大和の農兵①

講座の2回目は、農兵についてです。

農兵とは何か?

農兵とは武士の代りに、あるいは武士の補助として農民に武器を持たせて、
兵力とするものです。江戸時代は兵農分離が原則とされていましたが、時代
が下がってくると日本近海に外国船が現れるようになりました。日本は島国で
あり、海岸線を全て武士が守ることは困難です。海に面した各藩では農民、
漁民に武器を持たせて警備をさせるなど対策を立てるところが出てきました。
早いところでは盛岡藩が文化5年(1808)に、海岸線へ猟夫の配備を制度化
したり、水戸藩でも文政8年(1825)に郷足軽という海防要員を農民から取り
立てた例があります。
農兵には、農村に住む郷士、農民が在地のまま軍事訓練を受け正規軍の補助
をしたもの、農民が土地を離れ兵営に入って常備軍となったものなど、農兵を
採用した領主によっていくつかのパターンに分かれます。

1 江川太郎左衛門と天領

1 江川の海防と農兵政策
幕末当時、江戸近郊の海岸線はそれぞれの大名家に防衛守備が任されていま
した。しかし、どの藩も予算や人員が不足していたため消極的でした。江川代官所
の本拠地韮山に近い下田警備も小田原藩、沼津藩の担当でしたが、出動が遅く
当てになりません。
江川は幡崎鼎(シーボルトの弟子)や渡辺崋山との交流があり、蘭学への理解が
ありました。蘭学は医学として日本に入ってきましたが、やがて軍事学とセットに
なって国内の先進的な知識人の間に広まります。彼は高島秋帆から西洋式銃の
指導を受け、自ら銃の製作を試みるなど軍隊の近代化の必要性も感じていました。
江川は頼りにならぬ藩兵よりも地域住民に海岸線の防御を任せるのが有効と考え、
「農民に近代西洋戦術を学ばせ戦力とする」農兵の設立を幕府に献策します。しかし、
「農民が武器を持てば一揆に繋がる」と考える幕府からは許可が出ませんでした。
そこで江川は、実験的に自分の領地内の金谷で農兵の訓練を行います。嘉永2年
(1849)にマリナー号事件が起こると、自ら金谷農兵を引き連れ艦長と交渉し、マリ
ナー号を退去させることに成功します。江川は農兵の有効性に自信を深めました。

2 天領の治安悪化
江戸時代後半は社会の経済活動が活発になる反面、天明の大飢饉(1783~88)
などの影響により土地を手放し無宿人となる者が多く出て、関東周辺の治安は悪化
して行きました。多摩地域を含む江戸周辺は天領、私領、寺社領が複雑に入り組んで
いたため、犯罪者が逃げ込みやすい環境にあったのです。
幕府は対抗策として、文化2年(1805)関東一円区別なく捜査ができる関東取締出役
(八州廻り)を設置し、さらに文政10年(1827)に、近隣の30~50ヶ村による寄場組合
村(改革組合村)を設置させ、治安・警察機能を村々の自衛に委ねました。東大和市域の
村々は所沢組合村に組み込まれ、後ヶ谷村名主の杉本平重郎や蔵敷村名主の内野
杢左衛門が小惣代に選ばれています。
img014a.jpg

安政5年(1858)に日米修好通商条約が結ばれると、「アメリカ人の自由行動は横浜から
10里以内、ただし六郷川(多摩川)を越えない」というルールができます。これにより、多摩
川筋にあたる武州の村々が江戸防衛の最前線に置かれることになってしまいました。
さらに安政7年(1860)桜田門外の変が起きると、幕府は多摩地域などに、水戸浪士が
村に入れば捕縛するように命令を下します。これは事実上の村への武力増強要請でした。

3 農兵政策の採用
このような状況の中、ついに幕府は江川代官の意見を聞き入れます。英龍は安政2年
(1855)に54歳で亡くなっていましたが、息子・英(ひで)武(たけ)が代官となっていた文久
3年(1863)ついに江川代官支配地域の天領内に限って農兵の採用が、幕府によって
認められました。その地域は多摩川を越えた狭山丘陵一帯にも広がったので、英龍が当初
想定した対外国人という目的からははずれています。しかし、治安維持として農兵が組織さ
れることは、多摩の村々にとって大きな関心事となりました。
江川代官所の支配地域では、寄場組合とは別に新たに農兵組合を設立させ、組合ごとで訓練
や行動をすることになりました。東大和の村々は上新井村組合に入り、農兵の御用筋について
は田無村の下田半兵衛から受けるようにと指示がありました。しかし、元治元年(1864)に、
上新井村ほか入間郡の10ヶ村が江川代官所の支配から離れたため、東大和、東村山地域の
村々は新たに蔵敷村組合を結成することになったのです。
蔵敷村は正徳年間に奈良橋村から分かれてできた村で、幕末期に至っても幕府の正式な
書類には「蔵敷分」と書かれているなど、正式に独立した村とは見られていなかった様子も
見られます。
しかし、組合のように東大和市域周辺がまとまる時にはリーダー的な役割を担っています。
また、現東大和市の中で芋窪だけが、蔵敷村組合に入らず西方の拝島村組合に組み込ま
れています。

2 農兵の実体

1 農兵の費用
農兵の設置が決まった文久3年の11月、上新井村名主・市右衛門と蔵敷村名主・杢左衛門
の両名は代官所からの呼び出しを受け、田無村へ出頭しました。そこで

「方今御用途多きの折から、御救い筋とは申しながら御貸し渡しあいなるべき小筒、附属の
品々代金その外容易にこれなし。恐れ入り奉り候義にて右は御国恩の冥加あいわきまえ、
身元のもの共より献金あい願い候者もこれ有るべきか・・・・」
(「里正日誌」)

と告げられます。幕府に予算がないので、各村々の有力者からの献金によって、農兵にかかる
経費を賄いたいと幕府が申し出てきたのでした。市右衛門・杢左衛門の両人は奔走し、組合の
22ヶ村133人から520両の献金が集まりました(表A)。武蔵・相模2国の支配地14組合では、
献金総額が7847両になっています。(表B)

農兵上納金農兵上納金2
※表Bは上新井村他10ヶ村が抜けたあとなので、蔵敷村組合の金額は表Aよりも
少なくなっている。

2 農兵の身分
農兵に取り立てられた農民の身分について、当初江川は「平常は農民であっても調練時
には苗字帯刀を認める」と考えていましたが、実際には幕府はこれを認めませんでした。
つまり、身分は農民のままでした。
代官所は農繁期の訓練は避けるなどの便宜を計らい、決して高圧的な態度をとらず、
農民からの自主的な農兵への参加を促しました。
農兵には小銃による西洋式の訓練が行われましたが、その小銃について、当初幕府は
各組合が負担するように考えていました。しかし代官所は、それでは幕府の御威光が
下がるとして勘定所に意見書を提出し、幕府からの貸与として農兵に渡されました。
ここでも村々の負担をできるだけ軽くしようとした代官所の意向があったのです。

3 農兵の実施と訓練
農兵の訓練が実際に行われたのは元治元年(1864)9月からでした。組合全体での
訓練に先駆けて、田無、拝島、青梅、檜原、蔵敷、氷川の6組合10ヶ村から11人の
代表者が選ばれ、芝新銭座にある江川代官の調練所で西洋式軍隊の調練が48日間
にわたって施されました。指導には鉄砲方附教授があたりましたが、この訓練は農兵の
幹部候補生教育であったと考えられます。訓練後には代官所から褒美として菓子が訓練
生に振る舞われ、代官所が村々への気遣いをしていることが窺われます。
翌元治2年(1865)3月には、蔵敷組合11ヶ村で29人の農兵人が決まりました。(下図)
名主の家から6人、組頭から9人、百姓代から1人と、半数以上を村役人層が占めています。
また、村役人本人よりもその子弟が多いため平均年齢は26.9歳と比較的若くなっています。
持高の平均が13.0石ですが、畑作中心の東大和・東村山地域では富農層といえるでしょう。
以上のことから村の指導者層が積極的に農兵政策に関わっていったことがわかります。

農兵幹部a農兵幹部2a

3月11日からは下稽古が、蔵敷村名主・杢左衛門宅の庭で行われました。この下稽古は
幹部候補生たちの指導の元に行われ、杢左衛門宅のほか、高木村庄兵衛宅の庭、野口村
正福寺境内で15日間に渡って実施されました。
6月からは、実弾射撃訓練も行われましたが、このときには代官所から教授方の手代がやっ
てきて逗留し、その指導の元に行われました。元治元年(1864)には横浜駐屯イギリス軍が
幕府陸軍への伝習も始まっていましたが、農兵への訓練はオランダ式でした。これは、江川家
の西洋流砲術が高島秋帆流だったからです。
蔵敷組合では百姓銀右衛門の持畑のうち、三反歩の土地を訓練用地として使うことになりま
した。現在の市立第九小学校の南側辺りがその場所です。銀右衛門には土地使用料として
作徳1ヶ年分として金2両が支払われ、その代金は村々が負担しました。

調練場
⑭山王社a

代官所から教授方がやってこない時には実弾射撃などの特別訓練はせず、名主や組頭
から選出された農兵世話人の元で日常訓練が行われていました。
また、訓練場には厳しい規則が定められます。

●火器取り扱いは慎重に行い、銃や付属品は大切に扱うこと●修行中は浮ついた心では
ならず、雑談は禁止。訓練場に通う往復もがさつな振る舞いをしない●礼節を重んじ、人の
善悪、上達度、他組合の悪口を言ってはならない●弁当は握り飯としおかずは味噌、梅干し
とすること●稽古着は質素にすること 等

4 農兵の武器 装備

⑮銃・隊服a小銃と隊服
⑯韮山笠a韮山笠
⑰弾丸a弾丸
⑱胴乱a胴乱
⑲万力・三つ又a万力、三ツ又等
⑳組合旗a組合旗

貸渡筒と附属品

表Cにある「ケヘル」とはゲベール銃という「前装式滑腔銃」のことです。蔵敷村組合では
元治2年(1865)3月1日に10挺、慶応元年(1865)11月3日に7挺、同2年(1866)
1月14日に3挺、16日に5挺の計25挺の「舶来形ケウエール御筒」が貸し与えられて
います。
幕府は安政2年(1855)から江川英敏(英龍の子)に命じて国産のゲベール銃の生産に
乗り出していました、しかし、オランダから輸入した銃の方が優秀だったので、幕府は1万
6000挺のゲベール銃を発注しています。

一方、銃身に螺旋を刻み射程距離と命中精度を上げた小銃がミニエー銃です。この銃は
1840年代にフランス人のミニエが発明したものですが、これを改良したエンフィールド銃(英)
やスプリングフィールド銃(米)が幕末期に大量に日本に輸入されました。
幕府はこのミニエー式銃の国産化にも乗り出します。慶応2年(1866)7月に代官所は
外国産のミニエー銃を農兵用に貸し渡して欲しいと幕府に願いますが、これは却下され、代り
に国産のミニエー銃が15挺配備されたとの記録があります。これは米国産のスプリング
フィールド銃をコピーしたもので、上の写真の銃がそのときの銃であると思われます。

次回は「農兵の出動」です。


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地域発見講座より 東大和市の幕末③ &新選組漫画 196

講座では番外編として、コチラの2件の出来事も取り上げました。
ひとつは、いかにも江戸時代らしい話。
ちょい、ホラーなお話で、ハロウィンの今どきにはちょうどいいんじゃない
でしょうか?
もうひとつは、安政大地震に関する記録。
これまた、再び同じような災害が起きたときの、何かの参考になるのでは
ないでしょうか。
いずれも、以前ブログでご紹介した出来事ですが再度ご紹介いたします。


番外編 大船の建造と神明社大木の呪い

幕府は外国船に負けない大船を作る計画を立て、そのための木材を調達しました。
後ヶ谷村の神明社(現在の東大和消防団第二分団前)にケヤキの大木があり、幹周り
1丈4尺の神木と呼ばれていましたが、安政2年(1855)3月4日この大船建造のために
伐り出し、深川の御用商人原屋角兵衛に売ってしまいました。角兵衛の手代・粂川村
升五郎から代金25両を受け取ったところ・・・

村内関田忠右衛門は根の切屑を貰い焚物に用いし処隠宅焼失す。其の後盗賊質蔵を
切り破り財物を奪い且つ火を掛けたり。久米川村升五郎は大熱病を煩いしが神罰なるを
悟り日参して神慮を慰(なぐさ)めると云え共は終に妻を失うに至る。当時の村用掛眞野
彦四郎ほか役人一同はじめ氏子一同も大いに驚き右売却金25両をもって25座の神楽を
奏して神に詫びしがかなわず、疫病流行し村内交々と煩い5ヶ年目に漸く退散す。あまりの
不思議の恐ろしさに境内の落葉下草枯枝など堆(うずた)かくなるも更にとる人なし。

(杉本村用日誌)

もう少し詳しく事情を説明しましょう。
この神明社の神木と云われたケヤキの木。実は、文化年間(1804~1817)にも一度伐られ
そうになったことがありました。
神明社の別当寺である円乗院の本堂を建替えるというので、このケヤキの木なら五寸角の
柱が36本も取れるね、となり、檀家一同が協議をして建材にすることにしたんだそうです。
住職の宥詳法印さんが一心に読経をして、神木の霊を慰めます。
それでも村人は心配だったのでしょう。吉と凶を書いた2本のおみくじを神前に供えて、無心
無垢の子供にそのおみくじを引かせました。
ところがドーーーン
引いたおみくじは見事に凶。
この結果に祟りを恐れた村人は、このときは伐採を中止にしていたのです。

ところが、今回は幕府が造る大船のため。村人は文化年間のときの御神託が気になって、
伐採に反対したのですが、建材を手に入れたい御用商人が江川代官所に手を回して、伐採
するように仕向けてしまったということなのです。

木材売買に関わった人が火付盗賊にあったり、大病を患ったり、村内に疫病が5年も続い
たりと、これが本当にケヤキの神木の祟りだとしたら恐ろしいですねぇ。
冒頭にも書いたように、神明社はもうなくなっていて、石碑が残るだけとなっています。
100mほど離れた場所にある狭山神社に合祀されているのですが、境内にある灯籠は
神明社にあったものを移してきたものです。
機会がある方は、ぜひ見に行ってみてください。

番外編 安政大地震

安政2年10月2日、江戸直下大地震が起きました。倒壊14000戸、7000人以上の
死者を出した安政の大地震です。このとき、蔵敷村の名主・内野杢左衛門は浅草に
出掛けていた最中で、貴重な体験記を残しています。

「何度となくゆり返し振動ミリミリ、建家の潰れる音、からから瓦の落ちる音あたかも
大山崩れるかとあやしまれ・・・・・浅草通り外神田あたり、小川町丸の内下谷あたり、
本所深川そのほか所々に火事始まり火の手焔々と燃え上りさながら昼夜の如く・・・」

※火事は四つ時(22時)におきた
「最寄り廻り見候所無事の建物これ無く、いずれも大小破損潰れもこれ有り・・・」
「鎌倉河岸へ差掛り・・・青砂泥は喰出し、横嶋に見え油断いたし候わば足を踏込の
気遣い実に驚愕の思いをなし、飯田町、九段坂も同様地裂け番町通りは潰家少し」

「四ツ谷通りは下町の割りより潰れ家少なし」
※食べ物を求めたがどこにもなく、中野村で前夜の残り飯を無心してようやく3日の
朝食にありつく
「3日夕刻帰宅、家内のものあるいは村内より来り候ところ、江戸近辺より何分か
軽き方のよし」


下町など江戸東部は壊滅的な被害が出た一方、新宿より西部では比較的被害は軽かった様子
がわかります。「青砂泥は喰出し」など液状化を指しているのでしょう。
それにしても、火災や建物の倒壊に巻き込まれず、よく1日で帰ってこられたものです。

20181023.jpg


再録ばかりだと、手を抜いていると思われるので、今回の漫画は
描き下ろしです。
壬生の屯所をお寺さん(西本願寺)に移したのって、案外こんな
理由だったりして。


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