異国船渡来と治安の悪化① と「江戸散歩」

「里正日誌」安政編、ようやく始まったと思ったら前回からすでに1ヶ月以上経ってしまい
ました。スマンこってすタイ。

黒船がやってきてこの方、悪党や無宿人たちが村々を襲ってくるかもしれないので、各
街道の宿場や脇往還の入口の村々では十分な警戒をするように、とのお上からの
お達しがありました。
すると、実際に、悪党が押し入って被害を受けた村があったようで、「里正日誌」にはその
事件について関東取締出役から出された廻状の写しがありました。

「凶徒召捕え方関東取締出役より廻し達す」

当月四日暮れ六ツ時(午後6時頃)、浪人体の男が一人、入間郡藤間村(川越市)の
金蔵の母親の首を切り取り、これを持って同郡福岡村(上福岡市)の助七のところへ
押し込んで、次の通り奪い取ったとのことである。

一、 二朱金で三十両
一、 一分銀で三十両
   但し書きとして、太織(絹織物)の鞄の中にウコン色の裏地のついた財布に入れ
   たまま
一、 その他 金十両と記憶している。ただし、二朱金、一分銀が取り交ぜである。
    盗賊の人相は、年齢三十歳前後。 その他略する。

右の通りにつき、それぞれの宿に立ち廻るかもしれないので、そのときは差し押さえ
ること云々。

  関東取締出役
寅二月五日 山口顕之進


恐ろしく物騒な事件です。
最初に押し込んだ家には金目のモノが無かったのでしょうか。一人を斬り殺した挙句、
その首を持って他の村へ行き、さらに強盗を働いたっていうんですね。
「テメーら、こうなりたくなかったら、金を出しやがれッ!」
とでも言ったのでしょうか。
こんな脅迫されたら、金を出す以前に失神の上失禁してしまいますよ・・・。
こんなコトをする犯人ですから、金蔵も殺されていたかもしれませんね。
オソロシイ・・・オソロシイ・・・。

ところで、浪人体の男が次に押し込んだ福岡村の助七ですが、彼はかなり裕福だった
ようです。合計で70両もの現金を持っていました。さらに、その現金を入れていた鞄も
なかなかセレブな一品ではないですか。
「オッ」と思うのは、助七の持っていた現金がどれも一両小判ではなく二朱金や一分銀
で持っていたということ。ここがリアリティありますね。
幕末のこの時期でも1両は5~6万円の価値はあったでしょう。
実際に日々の商売や生活で使うなら、そんな高額貨幣を使うより二朱(12500円)や
一分(25000円)の貨幣で持っていた方が使いやすいですからね。

完全に金品目的の事件のようなので、この浪人体の男も食うに困っての犯行だったかも
しれません。もちろん、だからと言って人の首を斬っていいワケじゃありませんが。
この頃の世の中が、かなり物騒になってきたことを思わせる一件であります。


で、ココからは別のお話。

先日の土曜日、文京学院大学生涯学習センターの「江戸散歩」第2回目がありました。
この日は中山道(旧道)板橋宿を廻りました。
JR板橋駅~近藤勇墓所~平尾宿~仲宿~加賀西公園~本陣跡~板橋~縁切榎~
地下鉄板橋本町駅まで、およそ4kmの行程です。

ちなみにこのコースは、2013年11月に「永倉新八百回忌」の記事として当ブログに
書かせていただいております。
そちらもぜひご参照ください。

「永倉新八百回忌」クリック!)
「近藤勇終焉の地・ブラリ幕末板橋宿」クリック!)

IMG_0658a.jpg
コチラ、板橋下宿(平尾宿)にあった一里塚跡
明治10年頃に一里塚が撤去されて、今は何も残ってないのですが、赤い矢印のところに
不自然にアスファルトに埋まってる石があるんです。
もしかしたら、コレが何かの痕跡なのかな・・・なんて思ってるにですが、違いますかね?

01809f54250b8e6fa7455992356850f7364199d65ca.jpg
中山道と川越街道の追分近くにある東光寺
ここには、豊臣秀吉政権で五大老の一人となり、後に関ヶ原の戦いで敗れ、八丈島に
流罪となった宇喜多秀家の墓があります。
明治になって本土へ帰ることが許された秀家の子孫が建てた供養塔です。

0135b76801b42a21d4be0acec0c0e4d26f59857a70a.jpg
これも東光寺の目玉ですね。
寛文2年(1662)の庚申供養塔
彫刻もハッキリ残っていて、何よりも大きい。立派な庚申塔。

017923d8b4cd84a84626d13ccb492dd6b977c970cfa.jpg
観明寺境内にある、豊川出世稲荷
元々は板橋宿の北にあった加賀前田家の広大な下屋敷の中にあったそうですが、
明治になって軍の施設が建てられることになったため、コチラにお引越ししてきたもの。

01900c5e1ffaf08d0f1aa9ec9ca3b1510ebd262285a.jpg
欄間に彫られた龍の彫刻は、左甚五郎の作であるとか。

IMG_0676a.jpg
加賀西公園。
この辺り一帯は、江戸時代は加賀前田家下屋敷があった場所。
およそ21万8000坪もあったというんですが、あまりの広さにイメージが追い付かない。
明治になって、その下屋敷跡がいろいろな施設になるのですが、軍の火薬工場も造られ
ました。このオブジェはその記念碑、圧磨機圧輪記念碑
圧磨機圧輪は黒色火薬を作る機械で、幕末にヨーロッパへ留学に行った澤太郎左衛門が
ベルギーから購入してきたもの。澤は幕臣で、戊辰戦争のときには開陽の艦長として榎本
武揚らと共に戦った人物です(蝦夷共和国では開拓奉行も務める)。

IMG_0683a.jpg
仲宿に戻りまして・・・コチラは江戸時代に伊勢孫という旅籠があった路地。
当然、その時の建物などなくなり、当時の面影はまったく無いのですが、壁に沿うように
三角の石がアスファルトに埋まっています。唯一残った痕跡らしいもの。
これは大八車など接触して、壁が壊れるのを防ぐためのものなのだそうです。
まぁ、今風にいうと、工事現場で見かけるパイロンですね。

IMG_0688aa.jpg
将軍が鹿狩りを行ったという御成道を少し過ぎた路地を入った奥、現在マンションが建つ
ところにあったのが仲宿の脇本陣。
板橋宿の名主を務めた飯田家の本家が、脇本陣を経営していました。
で、ちょうど前の土地が更地になっていまして、これを見ると江戸時代の町屋の構造がよく
わかります。間口に税がかかるので入口は狭く、そして奥行きは長くとるという作りです。

IMG_0686aa.jpg
で、こちらがその脇本陣跡。
本陣は飯田家の分家が経営していましたが、幕末の和宮一行が板橋に泊まったときは、
コチラの脇本陣が一時的に本陣となって、和宮の宿泊所となりました。
また、新政府軍東山道総督府が板橋に来たときも、この脇本陣が本陣扱いとなって本営
が置かれました。
これがよく間違われるようで、実はワタクシも以前書いた記事で、元の本陣に総督府本営
が置かれたと書いてしまっています。スミマセン・・・。勉強不足でした。自戒の意味をこめて
当時の記事は敢えて訂正しないでそのままにしておきます。

つまり、近藤勇が尋問を受けた場所もコチラということになりますね。

さてさて。
次週はまたまた別の主催者さまからのご依頼で、神田明神から湯島のあたりをガイドいた
します。


「なんだー。このボタンちょっと押してみるんだな。うーん、なんだー。」



にほんブログ村 歴史ブログ 幕末・明治維新へ
にほんブログ村


にほんブログ村 漫画ブログへ
にほんブログ村


人気ブログランキングへ
スポンサーサイト

「里正日誌」安政編 

市内に流れる夕方のチャイムが、17:30から16:30に変わっていました。
もう、10月になってしまいました。
忙しさもあって、すっかりグログの更新もおろそかになってしまいましたが、リスタート
してまいります。

「里正日誌」は文久年間から少し遡りまして、安政年間の記述を読んでいきたいと
思います。
安政元年は西暦1854年。ペリーが浦賀に来航した翌年になりますね。
つまり、このあたりの年から幕末という時代がスタートしたと言えます。

主人公がほぼ想像上の人物だった「おんな城主直虎」の放送も、残すところ2ヶ月と
なり、来年の大河ドラマはまたまた幕末・明治維新モノの「西郷どん」になりますので、
幕末のスタート地点あたりを追っていくのも、またよろしいのではないかと思って
おりますです。

安政元年、「里正日誌」の最初の記述は正月16日に江川代官所から出された書状
です。
「異国船渡来に付き取締り方の義御廻状」
ということで、前年の嘉永6年(1853)に続き、この年の正月に開国を迫るペリーの
来航に関する廻状です。
なお、この書状については過去にも当ブログで取り上げましたので、重複することを
お許しください。

近頃、異国船が度々渡来することについて、兼てより大名領や代官支配地に対し人馬
の用意を申し付けておいた者もあるようだが、この度の異国船渡来の様子をみると、
壮健の者たちは近々江戸表に呼び出されるかもしれない。無宿人や悪党が立ち回り
乱暴に及んで御府内へも立ち入るかもしれないからである。
阿部伊勢守殿のご沙汰の次第もあり、関東取締出役にも仰せ付けられたことだが、
関東は大変広いので、悪党が入り込めないように江戸の出口4ヶ宿はもちろんのこと、
代官支配所内の脇往還入口の村々の取締りを厳重に申し付ける旨を、本多加賀守殿
より御代官方へお達しがあった。その考えをよく理解して支配所内の脇往還入口の
村々はもちろんのこと、その他の村々においても右の趣意をよく心得て、取締りを厳重
に取り計らうこと。
もっとも、取締出役が派遣されることもあるが、村役人はしっかりと取締りをいたすべし。
この廻状の村名の下に名主は請印をして、時刻を明記して順に送り、最後の村より返す
こと。以上。

      江川太郎左衛門

  寅正月16日  役所


安政元年といいますが、嘉永7年が改元されて安政となったのは11月ですから、この
廻状が出されたのは正確には嘉永7年の正月ということになります。
安政元年って、2ヶ月もなかったんですね。

文中の人物ですが、「阿部伊勢守」は老中の阿部正弘。ちなみに原文では「阿 伊勢守」
となっています。
「本多加賀守」は本多安英。当時の勘定奉行です。
「江戸の出口4ヶ宿」とは品川・板橋・新宿・千住を指します。それぞれ東海道・中山道・
甲州道中・日光道中・奥州道中の最初の宿場町ですね。

外国人が日本にやってきたので警戒せよ!っていうのかと思いきや、外国人が来た
ことにより、無宿人や悪党が地域を荒らしまわるかもしれないので、村々では十分に
警戒せよ、とのことのようです。
江戸市中はともかくとして、江川代官が支配する多摩・狭山丘陵一帯の農村では、
江戸時代後半から悪化していた治安をどう維持していくかが、重要だったようです。
黒船来航が、治安悪化をさらに進める原因になることを幕府も警戒していたのでしょう。

ちなみに東大和市域に最も近い五街道は甲州道中で、助郷などを出していました。
近くとは言っても、市域からはかなり南を通る街道です。
しかし、甲州道中の裏街道にあたる成木道(青梅街道)は東大和市域のド真ん中を
横断しています。
さらに、市内には狭山丘陵南麓沿いの広域道路だった村山道、清瀬を経由して埼玉の
引又へ至る清戸街道、南北に走る八王子道などの主要道路がありました。村々では
こういった脇往還の警戒を厳しく取り締まるよう命令を受けたのでしょう。


久しぶりですので、我が家の大幹部たちの近況報告。

01d07faed4995c68656884477124418bad613b26a0a.jpg
10月から始まったNHK朝ドラ「わろてんか」。
主人公の名前が「てん」ということで、我が家の「テン」ちゃんも上機嫌。



017b395227f30e519896cbcee247ab59ecffe067aba.jpg
先日、5歳の定期健診とワクチン予防接種をした「ポン」ちゃん。
注射の後でかなり不機嫌な様子。
でも、この1年で350gのダイエットに成功。獣医さんに褒められました。



「なんだー。このボタンちょっと押してみるんだな。うーん、なんだー。」



にほんブログ村 歴史ブログ 幕末・明治維新へ
にほんブログ村


にほんブログ村 漫画ブログへ
にほんブログ村


人気ブログランキングへ

農兵訓練の栞⑥

なかなか更新ができずスミマセン。

今年は戊辰戦争から150年なんですよね。
で、こんなブログ書いていることと、江戸文化歴史検定の1級を持っていることから、今年は
いろんな所から講座のご依頼が多くありまして、ちょっとバタバタしておりました。

遅れておりました「農兵の栞」ですが、いよいよ今回が最後になります。
前回は銃剣・銃槍の扱い方が書いてありましたが、最後の項目となる今回ご紹介する部分
は、はたして何が書いてあるのでしょうか?

DSCF0553a.jpg

「撒兵号令司」とあります。

DSCF0554a.jpg
DSCF0555a.jpg

2ページ半とそれほど量は多くはないですが、撒兵への号令と、その動き方が書いてあり
ます。これには、銃剣よりさらに驚きました。

ペリーが来航して以来、幕府は外国の軍隊に対抗するべく軍組織の改編に当ります。
そうやって作った幕府陸軍は歩兵・騎兵・砲兵の三編成となりますが、ここで一番多くの
人員が必要となるのは歩兵です。

幕府は旗本など幕臣から、禄高によって領民を差し出させ、この人々に歩兵隊に入隊させ
西洋式訓練を受けさせました。これを「兵賦令」といいます。500石未満の旗本は金納、
500石以上で1人、1000石で3人、3000石で10人の人員を出さなければなりませんでした。

一方、撒兵隊は御目見え以下の御家人などから編成された部隊です。
つまり、この栞に書いてある指導法は、幕府の正規陸軍と同じ内容であるということが推測
できるわけです。

文久3年に幕府は「江川代官支配地に限って」農兵の設置を許可しました。
これは、幕府が清河八郎の建言を容れて浪士組を組織させたように、当時は不逞浪士などに
よる治安の悪化がひどかったので、天領の治安は領民が自衛を強化するべしという考えの
元で許可されたものでしょう。
当時の幕府の考えとしては、関東取締役や組合村の設置の延長線上と捉えていたのかも
しれません。

ところが、慶応2年(1866)の第二次長州征伐で幕府は多摩の農兵を兵力として遠征させ
ようと考えます。この計画は同時期に「武州世直し一揆」が発生したため取りやめとなります
が、慶応3年(1867)には兵賦とは別に、幕府は組合村の中から有能な者を武士として
取り上げようという計画も立てています。
「侍にはなりませんのだ」クリック!)
元治から慶応にかけて、幕府内で農兵の目的が大きく変わったことが推察できます。

当時、武士は刀鎗にまだこだわる人が多く、西洋銃の訓練を「武士がやることではない」と
拒絶する者も多かったといいます。
武術・武芸に執着のない庶民階層出身者の方が、西洋式軍隊訓練の順応性が高く、そう
いった人々から組織された奇兵隊や伝習隊が力を発揮するのは、この後の戊辰戦争を
見ても明らかです。

幕府もこのことに早くから気づき、各組合の農兵を幕府陸軍に取り込もうとしていたのかも
しれません。
また、この「農兵訓練の栞」のような指導法マニュアルが各村にあり、農兵の中からも指揮官
を育成するプログラムがあったのかもしれません。

メガ90

ところで、冒頭に書いた講座ですが、6月は文京学院大学生涯学習センターさまで土曜日
に「戊辰戦争を佐幕側から見る」というテーマでお話してきました。講座の中身は

●上野戦争 彰義隊と振武軍
●奥羽越列藩同盟の結成と崩壊
●新徴組と庄内戦争
●榎本武揚と旧幕府艦隊

こんな所を扱いました。
ちょっと時間が足りなくなって駆け足になってしまった所もありましたが、おおむね好評で
アンケートの結果もよろしかったようなのでホッとしています。
講座の後で、戊辰戦争時の欧米諸国の局外中立について熱心にご質問された女性がいらして、
こちらの方が感心させられました。ワタクシの解説でおわかりいただけましたでしょうか?

今後ですが、7月と10月に小学館集英社プロダクションさまの「江戸楽アカデミー」でも講座
をさせていただきます。

「江戸楽アカデミー 夏期・秋期講座」クリック!)

10月はまた戊辰戦争関連の講座なのですが、さっき見たら講座申し込みがすでにSOLD OUT
になっていたんだけど、ホントかなぁ?まだ発売前ってことかな?
気になった方は問い合わせてみてください。
7月は「江戸歌舞伎・初級入門」です。コレは昨年やって好評だったので、リバイバルですね。
基本的に「江戸文化歴史検定試験対策講座」なのですが、検定を受けても受けなくても、楽しく
受講できる内容になっております。
まだお席はあるようですので、ご興味のある方はぜひどうぞ!

11月にはまた文京学院大学生涯学習センターさまで講座をさせていただく予定ですが、次回
は座学ではなく都内の史跡街歩きになる予定です。どこに行くかはまだナイショですが、おそ
らく幕末は絡んでくるでしょうな。

「文京学院大学生涯学習センター」クリック!)
コチラ、まだ秋期以降の情報は上がっていませんので、ご参考までに。


「なんだー。このボタンちょっと押してみるんだな。うーん、なんだー。」



にほんブログ村 歴史ブログ 幕末・明治維新へ
にほんブログ村


にほんブログ村 漫画ブログへ
にほんブログ村


人気ブログランキングへ

農兵訓練の栞⑤

「農兵訓練の栞」は第五部へと続いて行きますが、ここではそれまでの「第一教」など
のように小見出しのタイトルがつけられているわけではなく、およそ3ページに渡って
「半小隊ヲ造ル法」について書かれています。

半小隊から、さらに「四半小隊ヲ造ル」と記されていたりして、さらに複雑な動きを
していたのだなぁと思いますが、実際にその動きを目で見てみないとイメージしにくい
ところはありますね。

今回ご紹介したいのは、その次の項目です。

DSCF0549a.jpg

「銃槍使用号令」です。
農兵たちの扱っていた小銃は、銃剣付きの銃であったことがわかります。

たしかに、以前「東大和郷土博物館」の「幕末展」に展示されていた、市内に現存する
ミニエー銃には先端に剣が付いてあるものがありました。

IMG_0253a.jpg
IMG_0254a.jpg

展示案内にもあるように「銃剣」が一般的ですが、斬ることよりも突くことに特化した「銃槍」
が正しい名称のようです。栞にもそう書いてあります。
Wikipediaによれば、「銃剣・銃槍」は幕末期に西洋銃と共に輸入されたものの、当時の日本人
は白兵戦では日本刀を使った方が戦いやすかったようで、普及したのは明治維新後だと
あります。
「戊辰戦争絵巻」などを見ると、薩摩や長州の兵士たちが銃槍の付いた小銃を担いで行進
している絵が描いてありますので、そのくらいの時期からなのでしょう。

おそらく武士としては剣術の修行もしているだろうし、心情的にも刀で戦いたいというこだわり
があったのかもしれませんが、近代軍制の中心となる歩兵は農民・町民が含まれていますから
銃剣・銃槍を受け入れやすかったのかもしれません。

ということで、農兵もこの銃槍で戦う訓練を指導されていた、ということのようです。

DSCF0550a.jpg
DSCF0551a.jpg

突くだけではなく、防御方法もしっかりと。

DSCF0552a.jpg

ワタクシが以前、博物館でこのミニエー銃を見たときはそれほどの関心をもって
銃槍を見たわけではありませんでした。
「農兵は西洋銃を使って訓練をしていた」という部分の方ばかりが頭の中で、クローズ
アップされていたのですが、こうして追っていくと、ただ単に射撃訓練をしていたのでは
ないということが、ますますわかってきます。

メガ89


「なんだー。このボタンちょっと押してみるんだな。うーん、なんだー。」



にほんブログ村 歴史ブログ 幕末・明治維新へ
にほんブログ村


にほんブログ村 漫画ブログへ
にほんブログ村


人気ブログランキングへ

農兵訓練の栞④

「農兵訓練の栞」、今回は第四部をご紹介します。
第四部は第四教に分かれて書かれていますが、第二教のあとが第四教になって
おり、第三教がありません。
二教と三教を続けて書いてしまったとか、三教が抜け落ちてしまった可能性もあり
ますが、前後の関連からして単に第三教を第四教と書き間違えてしまったものと
思います。

DSCF0541a.jpg

第一教のタイトルが欠けていますが、「半小隊縦隊」の組み方が書かれています。

DSCF0542a.jpg

第二教では行進をして、「戦隊を造ル」方法が書かれます。

DSCF0543a.jpg

第四部の内容は、半小隊で行進をして敵に遭遇した場合の行動を教示しているようです。
そこで第四(ママ)教では「重複及防騎火」となります。

DSCF0544a.jpg
DSCF0545a.jpg

どうやら騎兵と対峙した場合の戦闘方法が書かれているようです。
小隊を二つの分隊に分けて交互に射撃し、駆け足で前進するという教示のようです。
行動がかなり実戦向きになってきました。

幕府は開国以来の世情が不安定になり、不逞浪士たちが増えてきたため、農村の治安維持
のために農兵の許可を出しました。その狙いは実際に慶応2年(1866)の「秩父世直し一揆」
を、多摩の農兵隊が鎮圧したことで実証されました。
しかし、「騎兵ニ向ヒ」「放発セシメ」などの訓練は、食い詰め浪士や一揆ばかりを想定しての
ものばかりとは思えません。
江川代官所の農兵訓練が、どんな目的で行われたのか?
もう少し考えてみたくなりました。


話は全く変わりますが・・・
メガ88
まぁ、どちらも面白いからいいんですがね。
あと同局、同クールで「警視庁捜査一課長」と「警視庁捜査一課9係」ってタイトルは
まぎらわしくないですか?


「なんだー。このボタンちょっと押してみるんだな。うーん、なんだー。」



にほんブログ村 歴史ブログ 幕末・明治維新へ
にほんブログ村


にほんブログ村 漫画ブログへ
にほんブログ村


人気ブログランキングへ