ここでもあそこでも・・・人馬負担(汗;)

中山道蕨宿への当分助郷を命じられた東大和市域の村々ですが、「え~、
またっスか・・・?新政府、めっちゃウゼえんスけど」という思いでいっぱい
だったハズです。
蕨宿への助郷を伝えられたのは慶応4年(1868)5月のことですが、実は
それ以前に東大和の村人たちは他の地域に人馬を供出するように、すでに
命じられていたからなんです。

先ずは慶応4年1月に府中宿への加助郷です。
「最近、新政府軍御用のご通行が多いので宿場は疲弊している。そこで
あなた方の村々で人馬の負担をご相談申します。ご承知していただくのは、
人足3人、馬1疋を間違いのないようお勤めしていただきたい。
もっとも、大人数が通行するときは、みな高く見積もって人馬を負担して
いただくよう取り決めました。後日のため、文書を取り替えて定めます。
  慶応辰4年正月 甲州道中府中宿 問屋斎兵衛 午之助 長左衛門

   多摩郡 後ヶ谷村 高木村 清水村 奈良橋村 蔵敷村 宅部村
   右村々お役人中   」


続いて3月、川崎宿からの廻状。
「このほど、勅使の御下向につき、警護のための官軍諸家が大人数通行
する。そのため、川崎宿の継ぎ立て人馬その他の割振りを、当お代官へ
御用掛りとして仰せつけられた。
そこで、我々が出役いたしそれらの村々に申し渡すことがある。名主ごとに
自分の印鑑を持参してこの書状を読み次第、同宿の我ら御用先へ罷り出て
届け出るべし。もしも、いいかげんにする村があったならば、厳重に問い質す
のでそのつもりでいるように。
この書状は時刻をつけて順次送り、最後の村より返すこと。以上。
   官軍人馬御賄い御用掛り
 辰3月19日 江川太郎左衛門手代 駒崎清五郎

 多摩入間両郡入会
  所沢村 高木村 清水村 廻り田村 後ヶ谷村 宅部村 奈良橋村 蔵敷村
  三ケ嶋村 菩提木村 打越村 氷川村 山口堀之内村 岩崎村 大鐘村
  勝楽寺村 川部村 岩岡新田 新堀村 荒幡村 堀口村 町谷村 
  右村々それぞれの役人中   」


そして4月には日野宿から。
「廻状をもってお達し申します。当然のことながら官軍方の御用で各村々が増
助郷として人馬や代りの代金を、これまでの五分高とする。
およそ積高100石につき金5両の割り当てとして、内金を取り立てる。
来る18日、間違いのないように日野宿問屋役所へ支払われるようにすること。
もっともその時、人馬供出についてご相談したいことがあるので、名主の方々は
不参加のないように出張してください。
この廻状に承知の印を押して早々に順送りして、最後の村よりご返却してくだ
さい。以上。
  辰4月15日   日野宿  問屋 佐藤芳三郎
           助郷惣代 柴崎村名主 中嶋次郎兵衛
           同      粟須村同  井上忠左衛門
           同      蓮光寺村同  富沢忠右衛門

 大神村 田中村 上河原村 作目村 宮澤新田 殿ヶ谷新田 中里新田
 蔵敷村  」 


と、どうでしょう。すでに各方面からの助っ人要請が、頻繁に来ていたことがわか
ります。
日野宿ではその一月前に、佐藤芳三郎と交代で問屋を務める佐藤彦五郎が
「春日隊」を組織して近藤勇の「甲陽鎮撫隊」の応援に行っているのですから、時代
の変化の速さに驚きます。

しかし、「里正日誌」を読むとなかなか面白い事実も発見できます。
人馬の経費として蔵敷村は5両1分2朱と永18文6分5厘を負担することになった
ようです。
ところが、4月18日に杢左衛門さんが日野宿の定助郷の惣代たちから受け取った
受取書には、4両と永111文5分と別の金額が書かれています。
これについて杢左衛門さんは、

「右(5両1分2朱と永18文6分5厘)は表向きの割り当て金であるが、実際には
右(4両と永111文5分)の金額に示談して、助郷の惣代一同、並びに日野宿問屋
芳三郎も承知したことだ。
このことは当村に限り、惣代の役人と杢左衛門のほかは、他人へは知らさぬように
して、表向きは他の村と同様に出金したことと、帳簿にも記載したことである。」


と、日誌に書いています。
どのように工作したんだかわかりませんが、ちゃっかりとサービスしてもらったようです。
杢左衛門さんは
「是は平生之自愛ニ依而示談候・・・」
と書いているのですが、なんか面白いですね。

とはいうものの、新政府郡が江戸に入って以来、村々の負担が大きくなってきた
ことに違いはありません。
そして、このような状況の中で、前回ご紹介した「中山道蕨宿への当分助郷」の話が
降りかかってきたのです。


「ポチっと押すのだ。昨日、国会で決まったのだ。」
 にほんブログ村 歴史ブログ 幕末・明治維新へ
にほんブログ村
にほんブログ村 漫画ブログへ
にほんブログ村 
スポンサーサイト

訂正とお詫び、でございます

先ずはみなさん、ゴメンナサイ。
前回のブログにいくつか間違いがありましたので、訂正させてくださりませ。

「仁義隊・精忠隊・振武軍」は「精勇隊」の間違いでした。これは日誌本文、
つまり杢左衛門さんの記述には「精勇隊」と書いてあったのですが、巻末の
解説文には「精忠隊」と書かれていたため、そのままブログにも精忠隊と
書いてしまいました。
日誌を「そのまま猫でもわかるように紹介する」のが当ブログのコンセプト
ですから精勇隊に直しましたが、解説では何度も精忠隊と表記されている
ので、もしかしたら精忠隊の方が正しい名称なのかもしれません。
また、上野戦争を戦った彰義隊の中に精忠隊を名乗った一部隊が参加して
いたと書いてある本もあるので、こちらとの関連も気になるトコロです。
しかし、この時期は、幕府や各藩の脱走兵・脱藩兵、博徒、侠気にかられた
人たちによる武装諸隊があちこちに出現しました。それらがどのように作られ、
どういう運命を辿ったのかいちいち書いてある資料もないので、なかなか
追いきれません。

次に「撤兵隊」は「撒兵隊」の間違いです。コレは単純にワタクシのミス。
日誌の細かい字を読み間違えました。
ハズキルーペをかけて、出直します。
ところで、撒兵隊(さっぺいたい)とは、慶応3年(1867)に陸軍奉行小栗忠順
の建言でできたフランス式の鉄砲部隊のことです。
でも、ブログでご紹介した所沢に現れた部隊は、仁義隊と行動を共にしています。
杢左衛門さんの記述には「表向は撒兵隊ト号し」とあり、仁義隊が幕府の正規軍
を詐称していたように読み取れます。

さてもう一つ。
「田安殿」は田安亀之助ではなくその父の田安慶頼ではないかと、ご指摘を
いただきました。
慶喜が謹慎に入ってから、慶頼が徳川家をまとめ新政府との交渉役になります。
このとき田安家は長男の寿千代が継いでいました。
しかし、寿千代がすぐに亡くなったので弟の亀之助が田安家を継ぎます。
ですから「田安殿」を亀之助と書いたのですが、閏4月に亀之助が徳川宗家を継ぐと
慶頼は再び田安家の当主に治まります。
ですから、この時点での田安殿は田安慶頼ですね。
スミマセンでした。

精勇隊と撒兵隊については直しました。
田安殿についてはそのままにしてあります。

と、前回は間違った記述が多かったため、訂正に一回分使わせていただきました。
まだまだ勉強ですナ。
これからも、ワタクシにトンチキな記述があったらご指摘ください。
よろしくお願いいたします。


「ポチっと押すのだ。昨日、国会で決まったのだ。」
 にほんブログ村 歴史ブログ 幕末・明治維新へ
にほんブログ村 にほんブログ村 漫画ブログへ
にほんブログ村



東征軍からの呼び出し・・・どうする江川代官!?

明けましておめでとうございます。
今年も、気がついたら更新してるよ。くらいのペースで幕末(明治初期もね)の
多摩地域、東大和市域のお話をしていきたいと思います。
ときどき番外編、そして毎回のお楽しみ「新選組マンガ」もオシャレ小鉢のごとく
洩れなくついてきますので、お時間のある時にでもどうぞ遊びにいらしてください。

で、今年の1回目です。
正月3日に京都で起きた鳥羽・伏見の戦い。この戦争に勝利を収めた薩長を
中心とする新政府は、7日に慶喜の追討令を出します。
「錦旗の御旗」を掲げた新政府軍に刃を向けたというのが、その理由。
しかし、よく知られた話ですが、この御旗は天皇から授かったホンモノではなく、
薩摩が用意した真っ赤なニセモノ。つまり、旧幕府は新政府の詐欺にまんまと
引っ掛かっちゃったんですね。

でも詐欺であれ何であれ、天皇が新政府側についているのは紛れもない事実。
ていうか、薩長の手に天皇が握られている、といった方がいいかもしれません。
だから慶喜さんが平清盛や足利尊氏みたいに、「そんな天皇がナンボのもんじゃい!
俺様が真っ当な天皇を立てちゃるわい!」と屁とも思わないキャラだったら、また
違った展開もあったでしょうが、彼は尊王思想の老舗・水戸藩の出身です。
即位した天皇に逆らうなんてことは、「空はひび割れ、太陽は燃え尽き、海は枯れ
果てて、月が砕け散っても」出来ようはずがありません。
で、寛永寺に籠ってひたすら謹慎。謹慎。また謹慎。
新政府軍は望み通り武力討伐の口実ができたってんで、江戸へ進軍を開始します。

大ざっぱに日本を東西で分けると、西日本諸藩は新政府側につき、東日本諸藩は
未だ旧幕府側というのが、戊申戦争開始直後の勢力図でした。
そこで新政府東征軍は進軍途中でその先の領主らに先遣勅使を送り、
「お前ら、ワシら朝廷・新政府と、ヘタレ幕府とどっち側につくんじゃい!態度をハッキリ
させたらんかいッ」
と、敵か味方かを確認しながら進んで行きました。
幕府側に味方するといえば戦争に持ち込まれ、新政府に味方するといえば兵力や
食糧・弾薬などを供出しなければなりません。鳥羽・伏見の戦いまで幕府側だった藩
や領主にはキビしい選択が待っていました。

そしてついに、多摩地域を支配する江川代官の本拠地・韮山にも、東征軍からの
使者がやってくるのです。
「里正日誌」には、このときの東征軍勅使と江川代官とのやりとりの様子が細かく
記録されています。

「江川英武御用召
このほど、朝敵をことごとく追討するようにお上が仰せられたことについては、御用
の筋からわかっていることと思う。
そこで、これまで支配してきた地所の絵図面、石高帳、人別帳などを持って、伊勢国
桑名の駅まで至急罷り出ること。
  辰(慶応4年)2月        柳原侍従殿
                   橋本少将殿
    伊豆国韮山江川太郎左衛門殿
病気であったとしても押して罷り出ること。万が一桑名を立った後になってしまったら、
その御出陣の場所に罷り出ること。   」


柳原侍従と橋本少将という2人の勅使が、まず支配地の情報を渡すように江川代官に
言ってきたことが書かれています。
名目上幕府はなくなったとはいえ、そのシステムは事実上生きていましたから代官所を
統括している勘定奉行所に、江川代官はお伺いをたてます。
この出頭命令に従ってもいいのかどうか・・・?
江川家は鎌倉時代から続く名家であり、この韮山の地を治めてきていたのが、その代
官所を引き渡せというのは受け入れられない。
江川代官は非常に悩んだようですが、新政府軍に逆らうこともできないでしょう。
手代を派遣して時間稼ぎをしましたが、結局名古屋で面会をすることになります。
ちなみに、尾張徳川家は御三家の一つではありますが、早々に新政府側についていま
す。

「名古屋にて官軍に応接
一、辰2月12日韮山の県令江川太郎左衛門様、並びにお付き添いの手附柏木総蔵殿、
御用人雨宮新平殿たちが出発し、向かっていたところ、鎮撫使が尾張国名古屋に御滞
在とのことで、彼らの御用向きをお伺いなされた。
付き添いの長州藩応接役は兵隊を差し出すように、と申してきた。
代官が、誰の命令で遣わされてきたのか、と答えると、応接役は、お上からの仰せであ
るので、遣わせた者は分かったので言わなかった。
代官は、軍事力は僅かの代官なので兵隊はいないと答えると、彼は農兵を差し出すべ
きだと言った。
代官が、農兵はその土地の損害を防ぐために取り立てたもので、軍備に差し出すのは
難しいと答えた。
彼は、もっとものことではあるが、仰せ渡されたことでもあるので上京されることを申し
聞かされた。
そこで名古屋を出立上京して、その筋に付け届けをしてお伺いをしていたところ、御用
とのこともあるので滞在するように言われ、町の旅宿に泊まり、御用の連絡を待っていた。
 尾州名古屋応接は長州藩木戸準一郎の由     」


木戸準一郎というのは、後の木戸孝允のことです。
彼の若い頃の名前としては桂小五郎が有名ですが、33歳で木戸貫治と名乗り、次いで
準一郎、そして36歳から孝允と名乗りました。

江川代官はさっそく京都に行き、なにやら裏工作をしていたようです。
もしかしたら、木戸さんからアドバイスがあったのかもしれません。

ところで、江川代官が京都へ上っていたのは、ちょうど甲州街道の柏尾で新選組を
中心とする甲陽鎮撫隊クリック!)が新政府軍と一戦交えているときでした。
甲陽鎮撫隊には、江川代官領である日野宿の名主・佐藤彦五郎が率いる「春日隊」と
いう、農兵や剣術家で構成された部隊も参加していました。
領地の支配者である代官は京都に陳情に行き、領民は幕軍の一員として新政府軍と
戦うという、ヘンな状況が生まれています。

さて、京都でひたすら沙汰を待っていた江川代官の元に、新政府からの結論が出た
のは4月になってからでした。
この間、東征軍は3方向から進軍し江戸を包囲、総攻撃の準備に入ります。
江戸の町を戦火から救うため、勝海舟が西郷どんに会談を持ちかけたのが3月13、
14日でした。

「辰4月伊豆韮山の私領地・屋敷についての届け書き
(中略)江川家は古くは鎌倉時代前より伝え所持している屋敷や私領地を、国に返上
するべきか。あるいはこれまで通りに所持することを認めるか、太政官へ伺い奉った
ところ、家柄も代々続く名家であると別格の評価をもらい、これまで通り領地を預る
ことを許され、献上するには及ばずと仰せ渡された。
今もって、代官の身分をどうするかのご沙汰はなく、京都で謹慎をしております。
よってこのことを申上げます。以上。
  辰4月                江川太郎左衛門
    御勘定所    」


新政府から出された回答は、私領地についてはこれまで通り。新政府に返上しなくて
もよい、とのことでした。
上の通り、江川代官は早速このことを江戸の勘定奉行所へ報告しています。
4月の何日にこの回答が出されたのか、この書状だけではわかりませんが、江戸城は
11日に開城され、江戸は戦火を免れています。
江川代官への回答は、この江戸での動きを見計らってのものだったのでしょうか?

徳川家は大幅に領地を削られたのですから、土地を失った旗本・御家人は大勢います。
その中で江川英武さんは、自分の領地を守ることができました。
別の見方をすると、新政府への「借り」が一つできたことになります。

英武さんはその後秋になるまで京都に留まりました。そして10月、明治天皇(9月に
改元)が東幸し江戸城に入るとき、その先供としてようやく帰国するのです。

20140104.jpg

新選組の試衛館以来のメンバーは、ほとんどが江戸や多摩など東日本出身者で、
そうじゃないのは左之助さんくらいでしょう。
だけど、京都で入隊した隊士には播磨(兵庫県)出身の松原忠治、出雲(島根県)
出身の武田観柳斎、備中(岡山県)出身の谷三十郎などの幹部をはじめ、西日本
出身の人が結構います。
正月に雑煮を食べたか知りませんが、もし作ってたのなら東と西のどちらの雑煮
だったのでしょう?賄い方は両方用意したのでしょうか?


年明け早々、ワタクシ鹿児島県の屋久島に行ってまいりました。
そのために更新が遅れましてスミマセン
屋久島は一つの島の中に、亜熱帯から亜寒帯までの気候が同時に共存している
島だそうで、全島の2割にあたる部分が世界自然遺産に指定されています。
今回は積雪が30cmほどあるとかで、縄文杉などは見に行けなかったのですが、
2時間ほど原生林の中を歩いてマイナスイオンをビシャビシャになるほど浴びて
まいりました。

DSCF6676a.jpg

仏陀杉 樹齢1800年だそーです。

では、今年もよろしくお願いいたします。


2013年 正月

新年

明けまして

おめでとうございます


2013正月

今年もこんなカンジで、へなちょこ幕末話とぐだぐだ漫画を更新していきますので、

よろしゅうお願いいたします。

テスト2



テスト画像です。