久しぶりに(更新もね)農兵の話に戻ります。
慶応2年(1866)、第二次長州征伐・・・幕軍と長州の戦争が始まりますが、
この年の1月に
薩長同盟が取り交わされています。すでに幕府にとっては
完全にアウェーの状態となっておりましたとさ。
そんな最中の6月13日、多摩地域の村々に江川代官所から書付が出され
ます。
朱色で「大急」と大書きされたところから見て、ただ事では
ありません。
「申し話す御用のことがあるので、明日14日に日野宿へ罷り出て、出張中の
増山健次郎(代官所役人)のところへ出向くこと。以上。」書付は代官所出入りの公事宿・植木屋藤兵衛から、田無、蔵敷、青梅、五日
市の4ヵ村に飛脚を使って廻されました。蔵敷村名主杢左衛門さんのところに
届いたのは14日の午前中のようです。
「やべッ、今日中じゃん!」
大急ぎの杢左衛門さん、午後2時頃日野へ向かいます。
さて、日野宿で杢左衛門さんたちと増山さんの間に、どのようなやりとりが
あったのでしょう?
「大急」とは何ごと?
「里正日誌」を追ってみることとします。
「増山健次郎様のご出張先へ罷り出でたところ、増山様が仰るのには、この
度大坂詰めの御老中・小笠原壱岐守様より、かねてより取り立てて置いた
農兵を早々に上坂させること を伊豆の韮山代官所
へ今月10日着の早飛脚を使って仰せになってきた。
右のご趣意を守ってお請けするように、とのお話であった。
しかし、最初農兵をお取立になるときのご趣意とは異なる出動要請なので、
村々へ相談しなければお請けすることはできないと申し上げ、その日は深夜に
なったので、いずれ明朝申し上げることを言い、その日は日野下宿の玉屋恵蔵
に引き取り休んだ。」つまり、お上から
「農兵を長州征伐に使いたい」と
言われたんですね。
しかし、農兵とは元々、外国の侵略から日本沿岸を守ることと、地域の治安維持
のために設置されたものです。
「そりゃ、話が違いますでござんショ、旦那。」
杢左衛門さんは即答を避けました。
そう都合よく使われちゃかなわねぇ、という思いもあったのでしょう。
「翌15日の朝、御用宿の日野屋久蔵方へ罷り出で、増山様へお目通りしていた
ところ、代官所より早急の書状が届いた。増山様がご覧になり仰るには、昨夜
話した農兵を上坂させる案は見送りとなったので、そう心得るようにと聞いた。
安心して早々にお暇を申上げて帰村した。」急遽、翌日になって書状が届き、農兵の長州征伐参加は取りやめとなったよう
です。
いやぁ~、よかったぁ。
ホッとした杢左衛門さんの顔が目に浮かびます。
ちなみに、この日杢左衛門さんが泊った宿屋「玉屋」は、たぶん私が前に
「土方歳三切手」を買いにいった日野宿交流館にあった宿屋でしょう。
この6月14日の杢左衛門さんの言動は、これまでのお上に対する蔵敷村の
対応とは明らかに違います。
幕府からの農兵従軍命令を、杢左衛門さんはかなり強く拒否しています。
ここに、東大和市域の村々が農兵政策にそもそも消極的だった姿勢が見て
とれますし、信頼関係を築いてきた江川家の命令に従わない状況が出てきた
ことに注目です。
清廉潔白だった英龍さんの頃と違い、この当時の江川代官所は資料でもご紹介
したように賄賂もオールOKな状況に変わりました。これは、支配地の村々にとって
都合のいいことではありますが、同時に絶対的信頼を寄せる存在ではなくなった
ことにもなるでしょう。
さらに、その上の幕府の行き詰まりは、おそらく名主・組頭クラスの村人なら感じて
いたハズです。
東大和市域の村々では、ジワジワと幕府に従わない空気が生まれてきていたの
かもしれません。
ただ、そのことと、実際に農兵の大坂出兵が中止になったことは別問題。
東大和の村民にとっては朗報ですが、なぜ急に幕府は農兵の上坂を取りやめたの
でしょうか。
え?西東京からは日大三高が行くことになったから、だって?
そりゃ高校野球の話でしョ。夏の甲子園でしョ。
実はこのとき、武蔵国に大事件が勃発していたのです!
つーワケで、また次回・・・・!

伊東甲子太郎センセーは新選組に入隊したものの、政治に対する考え方の
方向性は近藤さんや土方さんらとは大きく違うものでした。
伊東一派の剣の流派は北辰一刀流ですが、この流派は討幕寄りの考えを
持っている人が結果として多いんですね。
伊東センセーはちょっと自信過剰なトコロがあって、新選組をそっくり乗っ取って
討幕の先兵に仕立てるという考えがあったといいます。しかし、それが無理と
わかり、分離を考えるようになるんですね。
「波動砲、発射ッ!」

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東大和の村民にもこんなかたちで、明治の波が押し寄せてきたんですね。続編、期待!
調べてみると、初めて知ることばかりです。
しかし、教科書で覚えたこと以上に当時の村民はタフでしたたかだったようですね。
鍵を解く次回の紹介が楽しみです。
この当時の狭山丘陵周辺では生糸、蚕の取引が急速に高まり、経済的にも旧来からの範囲を限定された村支配が崩れようとしていたことが里正日誌からわかります。
村人達の間にも、お上からの云々では通用しない空気が生まれ、新しい地元意識が育ちつつあったように思います。
一方、英龍、英敏、英武と続いた江川家への関わりも、代を経るにつれ変化していたことが想像されます。すごい時代、切り込んで下さい。
野火止用水
ちょっとマニアックすぎるので紹介はしませんでしたが、この頃、上新井村を中心
とした村々が藍の組合を作ろうとして、蔵敷村などが〆売り・〆買いのもとになる
といって、代官所へ猛反対の陳情をしています。
村が次第に「ものを言う」時代へと変わっていく様子が覗えます。
野火止用水さんの仰るように、本当にドラマチックな時代ですね。
待ってました。意外に早く取り上げてくださって、ありがとうございます。
在坂老中は、農兵を最前線へ投入するつもりではなく、
幕府軍が長州攻めで出払った後の大坂警備に充てたかったのでしょう。
この上坂命令に関して、『佐藤彦五郎日記』からの抜粋↓
「翌十五日朝御役所より御用状ヲ以、増山様え被仰越候は、
農兵上坂之義は、
其筋へ御断切相成趣ニ付、右御談是迄ニ候旨被仰聞候、」
代官所はすでに幕府上層へ中止を上申していた、と読み取れます。
一方、村々に対しては、やむなく命令を伝えたのでしょう。
村々代表が難色を示すことも承知していて、もしも中止がなかなか決まらないようなら
「領民の同意が得られません」とさらに上申するつもりだったのかも…
この時点ではまだ大事件を切迫した状況と捉えてはいなかったようですが、
小事件は頻発しており、農兵が地元で必要になる事態を予測していたと思われます。
それはそれとして、幕府の権威低下と民衆の発言力拡大は確かでしょう。
『里正日誌』に大事件がどのように記述されているのか、楽しみにしています。
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