村の名主が書き残した記録を読んでみて、以外に目につくのが手配書です。
いわゆる人相書きってヤツね。
もちろん似顔絵なんてものは残ってないんですが、顔の特徴とか背格好とか、
着ているものや持ち物なんかまで書いてあるものもあります。犯人が着替えて
たら、その情報かえって余計なんじゃない?って思うんですけど。
で、手配されてる犯人はっていうと「父母に乱暴をはたらいた上州八太郎」とか、
「外国人に傷をつけた」誰それとか、ほとんど世間には知られていないマイナー
選手がほとんどなんですが、中にはいるんですよね。現役バリバリのメジャー
リーガーが。
つまり、歴史に名前を残すような有名人!
文久2年(1862)3月、そんな大物の人相書きが東大和の村々に届きました。
清河八郎!デデンデンデデン・デデンデンデデン

(ターミネーターより)
「??誰だよ、知らねーよ。歴史とか幕末とかわかんねーって言ったじゃん。で、それは誰?
前川清と東八郎のハイブリッド?」
せっかくBGMを用意しての紹介だったんですが、ご存知ない方もいらっしゃるよう
なので、先ずはその手配書からお読みいただきましょう。
「 清川八郎
一、年齢31歳くらい
一、中肉中背でやや太りぎみ
一、色は白く、眼光並びに話し方はするどい
一、花が高く、顔は角ばっている
右の者は坊主に変装して、江戸の市中へ潜伏しているとの風聞がある。
長い間隠れていることはできないだろうから、必ず他国へ向かうことが予想されるので、
見つけた場合は逮捕するよう厳重に伝え、村々の組合の大小の惣代へも早急に連絡し、
対処できるよう取り計らうこと。
この廻状は名主が刻付をして順次村々を廻し、最後の村まできたら役所へ返すこと。
内藤新宿御用先
戌(文久2年)3月11日 関東取締出役
杉本麟次郎
加藤泰輔 」清河八郎という人物は、浅草芸人・東八郎の師匠・・・ってワケではなく。
幕末の思想家・運動家なんですね。この人。
長州に吉田松陰っていたでしょ。高杉晋作とか桂小五郎、伊藤博文なんかの先生。
あの松陰先生の「東日本版」が清川八郎だと思っていただければ、まぁOK。
出羽国庄内藩出身で、本名は斉藤元司っていうんですね。
子供の頃から学問ができて、上昇志向が強かったんでしょうな。18歳で江戸に出て
私塾や昌平黌(幕府の学校)で学び、剣も北辰一刀流を修めたんですね。
で、ついには自分で神田三河町に私塾を開いちゃった。生徒が40~50人は集まった
ってんだから、たいしたもんですよね。時に安政元年(1854)25歳のとき。
でも八郎はコレでよしとはしないんです。上昇志向強いから。
実はこの私塾を開いた頃に、名前を清河八郎と改めるんです。出身地の清川村から
取ったっていうんですけど、それなら清川八郎でいいじゃんと思いますよね。
でも「川」より「河」の方が大きいからって清河を名乗ったんだそうですよ。
ん~ン、上昇志向~ッ。
世の中は尊王攘夷論で沸き返っている時でしょ。八郎さんもコレに共鳴して、もともと
弁舌の立つほうなんで、たちまち同志たちのリーダーになるんですな。
当然、幕府・奉行所からはマークされる。
で、ついにやっちゃったんです。
何をって・・・、奉行所の下っぴきを斬り殺しちゃったんです。
こうなりゃ大変なコトですよ。全国指名手配です。
で、ご紹介の人相書きとなるわけ。
なにせ捜査官が殺されたんですから、奉行所も威信にかけて探し回る。東大和の村々
にも手配書が廻ってくるってもんです。
さて、この八郎さんがなぜ日本史の中でメジャー選手と言われるか・・・?
彼は逃亡中に、江戸周辺の浪人を集めて傭兵部隊を作ったらどうかと、友人を通じて
幕府に献策するんです。
幕府としては、治安問題になっている尊攘派の浪人たちを管理できると考えて、この
策に乗っかります。で、「ナイス・アイデア賞」として八郎さんの罪をチャラにしてくれた
んですよ。
八郎さんとしちゃ、まずはこっちの方が狙いだったんだから、やっぱ頭イイっすわ。
で、クローズアップされたのが、傭兵部隊として集められた浪人たち。
彼らは「浪士組」と名付けられるんですが、この「浪士組」の中から生まれたのが、あの
「新選組」なんですね。
八郎さんは幕府が集めた浪人たちを自分の支配下に置いて、逆に彼らを討幕の兵隊に
使おうと考えてたんですが、まぁ、世の中そう上手くはいきませんや。
集まった浪人の中に試衛館道場の面々や、水戸脱藩の芹沢鴨といったクセの強い人たち
がいまして、これが八郎さんの計算違い。
近藤勇や芹沢鴨らは、「そりゃ話が違うだろ」ってんで八郎ミッションに乗らなかったんです
ね。そして分離して作ったのが「新選組」。
モチロン、その過程にはいろいろと紆余曲折があるんですが、「新選組」誕生のきっかけ
を作ったのは、清河八郎と言えるんですよね。
八郎さんからすると、討幕派最大の敵を自分で作っちゃったことになります。あらららら。
彼が下っぴきを斬ったのが文久元年(1861)5月。この人相書きが東大和に廻って
きたのは1年近く経った文久2年(1862)3月になっています。
この頃、実際に八郎さんは九州辺りにいたんじゃないかと思われます。
久留米の真木和泉(まきいずみ)とか、筑前の平野国臣とかっていう尊攘派の大モノと
会って顔を売っていたんですね。たぶん討幕の話なども出ていたでしょう。
坊主に変装していたかはわかりませんが、こういった幕末のメジャー選手の手配書の写し
が、ここいらの村に残っていたということに、ちょっとビックリいたしました。
さて。
試衛館の連中が「浪士組」に参加したのは、永倉新八さんがその情報を持ってきたからと
いう説が有名です。
ところがもう一つの説があるんですね。
それは、勇さんが鈴ヶ森の刑場で、遺体を食い荒らす野犬を追い払ったことがあったそう
なんです。で、それを目撃した清河八郎が勇さんの腕前に感心して浪士組参加を持ち
かけたっていうんですよ。
偶然すぎるかもしれないけど、こっちの方がドラマチックですよね。

で、その後の清河八郎がどうなったかっていうと・・・利用されたことに
気づいた幕府も黙っちゃいなかったんですね。
文久3年(1863)4月13日、江戸麻布で幕府方の佐々木只三郎という
侍に暗殺されてしまいます。享年34歳でした。
ちなみに佐々木は、坂本龍馬を斬った男でもあります。
維新はどうなっていただろ?と考えさせられる人ですね。島津久光が文久2年3月10日、臣下に「有志と称する浪人が尊王攘夷を名として過激な説をとなえ・・・」として面会謝絶を命令しています。その対象に清河八郎が入っていたとされますし、この時、西郷は一時身を潜めた居たようです。
その後、がらりと天下は変わりを迎えます。その清河と近藤との出会いが鈴ヶ森の刑場だったとの話、とても面白く拝見しました。野火止用水
ありがとうございます。
清河八郎と近藤勇の出会いは、近藤の親戚の吉野豊次郎という
人が「近藤勇の生立と晩年」という中で語っているそうです。
私も未見なので読んでみたいのですが。
もしもこの説が本当だとすると、京都での近藤と清河の意見
の対立はより一層ドラマチックになりますね。
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