このところ狭山丘陵一帯にやってきた武装集団の話を書いてきました。
その中には精勇隊のように正体のよく掴めない部隊もありますが、
仁義隊、振武軍のように旧幕側による新政府軍への抵抗勢力といった
類の部隊が多かったようです。
しかし、現実的には江戸城は開城され江戸は新政府軍の手中に落ちて
しまいました。
江戸から約50kmの距離にある東大和市域の村々に、新政府の影響は
どのように出ていたのでしょうか?
上野で彰義隊の戦争があった翌日の5月16日、江川代官所から
「領内の取締りを厳しくすることはもちろん、兵備を整え、賊徒が落ちて
きたときには速やかに討ち取るべし」という廻状が回ってきました。
さらに5月20日には、このような廻状が代官所から出されます。
「一、最近天皇の大権が復活し、政治にすべて打ち込み国内を平定して
万民の安堵を考えておられる。天領はもちろん私領に至るまで、全国
隅々まで速やかに朝廷の命令を戴き奉り、忠勤勉励すべきこと。
一、旧幕府は不正であり、自然と世情にも通じず人心不和を抱き、事件
など起きたときは、憚らず申し出ること。
(中略)
一、伊豆・相模に賊徒が屯集、潜伏していたときは見かけ次第早々に討ち
取ること。知っていながら見逃した者は、きっと大総督府よりご沙汰がある。、
家中末々に至るまで心得違いのないよう、念を押して達する。
一、何れの土地でも賊徒が来たときには、兵隊を繰り出し早々に討ち取る
べきこと。担当の役所までこのことを申し出ること。
一、万が一その領内へ賊徒が潜伏し隠した者が、後でいたと聞いたときには、
賊徒と同罪に処分するので、末々に至るまできっと心得違いのないように
達する。
一、賊徒は言うに及ばず、怪しき者は見当たり次第早々に召し捕え、所定の
所に置いておくべきこと。
一、無刀の者といえどもよく調べ、不振な点がないときは赦すべきこと。
一、両刀を差し、機械を持っている者は、早々に討ち取るべきこと。
右の通り、伊豆・相模両国の監察使よりお達しがあったことなので、その意を
心得て、早々に村へ送り名主の印を押して返すこと。以上
辰(慶応4年)5月20日 江川太郎左衛門役所 」天領の村民と幕府の間に入り管理をする者が代官です。つまり、村々にとって
代官といえば幕府のフロントマンだと、ずっと思ってきたワケです。
ところが、そのお代官さまが幕府再興のために戦った彰義隊を「賊徒なので
見かけ次第討ち取れ」と言っちゃってるんですね。
しかも以前お話したように、
このときの江川代官(

クリック!)は、新政府軍に
なんとか所領を安堵してもらおうと、京都に行って精一杯言い訳している最中
です。
廻状は代官所の役人が出したものでしょうが、この書状を受け取った村人の
誰もが「江川代官はもう幕府の人間ではない」と思ったことでしょう。
まぁ、幕府の総大将だった慶喜さんが謹慎、謹慎、また謹慎で、勝海舟らも
一生懸命に火ダネを消しまわってるときですから、この江川代官の動きは、
むしろ幕臣のスタンダードだったのかもしれませんが。
直接の支配者である代官が「新政府軍に協力しろ」って言ってるんですから、
新政府軍は遠慮なく狭山丘陵地域に要求を突き付けます。
「最近、官軍のご通行について人馬が多数必要である。これまでの定助郷だけ
では支障があるので追って宿村にてこれまで調べたところ、当分の間は武州
足立郡飯塚村はじめ他6ヵ村、同州新座郡田嶋村はじめ他18ヵ村、同州多摩
郡中里村はじめ他62ヵ村、同州入間郡堀口村はじめ他17ヵ村、同州埼玉郡
加倉村はじめ他10ヵ村、当分助郷を申し付けるようにとご沙汰があり、蕨淑の
役人たちより連絡が入り次第、人馬を差し出し滞りなく平等に務めること。
もし、遅れたり参加しなかったりしたときは、追って取り調べた上で必ずご沙汰
があるので、心得違いのないようにまじめに勤めるべきことである。
辰(慶応4年)5月 東山道
総督府
道中取締方
右村々
名主
組頭
百姓 」 村々に出された要求は、中山道蕨(わらび)宿への助郷でした。
以前にも書きましたが、助郷とは多くの人や物資の移動を可能にするための労働
税ですね。江戸時代の街道整備はこの助郷制度によって支えられていたと言って
もいいでしょう。
新政府軍の移動に際しても、大量の人と物の移動となるので近隣の村々も
当分助郷(とうぶんすけごう)として協力しろという命令です。
当分助郷というのは臨時の助郷という意味で、幕末にでてきた形態の助郷です。
これら助郷は各村が単独で請け負うのではなく、いくつかの村々で組合を作ります。
東大和市域の蔵敷・後ヶ谷・奈良橋・清水・高木・芋窪の村は、下里・前沢・柳窪・
南沢・小山・落合・門前・神山(以上東久留米市)・中藤・横田(以上武蔵村山市)・
砂川(立川市)・廻り田・粂川(以上東村山市)と一つの当分助郷組合を構成
しました。しかしですよ。
これらの村々って、果たして中山道に近い地域でしょうか?
お時間のある方はYahoo!でもGoogleでも地図検索してみてください。
そーとー距離があることを確認されるハズです。
事実、江戸時代を通じて、これらの村々が中山道蕨宿へ助郷に行かされるなんて
ことはありませんでした。和宮さんがお輿入れをするときに、警備として浦和や大宮
に行かされたことがあったくらいです。
このブログの史料・ネタ本として使わせていただいている「里正日誌」。何度も書いて
いますが蔵敷村名主だった内野杢左衛門さんが書き残した記録です。
この慶応4年(明治元年)は上中下の3巻からなりますが、下巻まるまる一冊がこの
中山道蕨宿への当分助郷に関する記事でできています。
これは杢左衛門さんが当分助郷組合の惣代を務めたからでもあるのですが、いかに
この負担が大きいものだったかを表している結果だとも言えるでしょう。
どんな苦労話があったのか・・・そのあたりを、チョイと見てみようと思います。
次回、お付き合いのほど、どぞヨロシク。
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領主様早々恭順のおかげで、さっそく6月には、東大和周辺は江川代官本拠地の「韮山県」になります。これには、さすがの名主達もビックリしたでしょう。いろいろ面白い話を聞かせて下さい。 野火止用水
代官が早々に新政府に恭順、それが返って明治期の自由民権運動にも繋がって
いくのですから皮肉ですね。
いよいよ幕末も最終コーナーに入るところですが、面白いエピソードはまだまだ
ありそうです。
以前ご紹介くださった、助郷回避の「袖の下作戦」が思い出されます。
村々が何とか免れようと画策した、助郷負担の重さ。
「天子様の御代」になって少しは軽減するかと思ったら
むしろ増大して、人々の失望感は大きかったのではないでしょうか。
戊辰戦争期は臨時の徴発が多く、特に旧幕方と新政府軍との双方から
要求を突きつけられた地域は、かなり苦しめられたことでしょう。
この出来事も大変興味深く、続きに期待しております。
仰るとおりで、新しい時代に希望はそれほど持てないぞ・・・といち早く
思ったのが多摩の農民たちだったかもしれません。
これも天領であったが故のことでしょうか。
いよいよ明治に入ってまいりますが、地方史ならではの面白い記事を見つけて
書いていきます。
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