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仙台にて

仙台市博物館を後にして、その日は作並温泉まで行き宿泊。
ゆっくり温泉につかり、牛タンを」食べて、友人たちと久しぶりに夜中まで
談笑・・・というと聞こえはいいけど、つまりは学生時代と変わらぬバカ話。

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泊まったホテルの部屋から見た景色。
ちょうど紅葉が始まった頃でした。

「車でちょっと走れば山形だよ。」
と言って、友人が連れていってくれたのが東根市にある関山大滝。

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夏になるともっと水量が多くなって、迫力もあるんだそうですが、これはこれでイイ感じ
だと思います。

再び宮城側に戻って、また滝見物。鳳鳴四十八滝。

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滝って、なんか知らんけどテンション上がるよね!
コチラの滝は不動の滝とも云われてるようで、その名のとおり側には不動像が祀られて
いました。記録するの忘れましたが、幕末の作だったと思います。

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この後、定義山西方寺というお寺へ。

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ここは去年も連れてきてもらったのですが、参道もにぎやかで参拝客も多く、
関東でいうなら規模はともかく成田山に雰囲気が近いでしょうか。
「取り敢えず一回は行っとこーぜ!」みたいな。
参道で売っているデカい油揚げが名物とかで、みんな食べてる。
これが旨いんだ!前回来たときに食べました。
今年は昼食のあとだったので食べませんでしたが、コレはまた機会があれば
いただきたい。

西方寺というのは、平安時代の平重盛の重臣だった平貞能という武将が、壇ノ浦の
戦いの後に落ち延びてきてこの地にたどり着き、安徳天皇と平家一門の冥福を
祈って阿弥陀如来を安置したのが始まりだとか。
後で調べてみると、「定義」というのは貞能(さだよし)が改名した名前だそうです。

IMG_1359a.jpg

これは鞘堂ですが、この中に阿弥陀堂が置かれております。
この鞘堂も、先ほどの写真の山門もけっこう時代があるように見えたのですが、昭和に
入ってからの建造ということで、ちょっと意外でした。

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鞘堂(六角堂)の中には自由に入れまして、阿弥陀堂も見ることができます。
以前はここが本堂だったのでしょうが、現在は少し離れた場所に近代的なビッグな
新本堂が建てられておりまして、ご本尊はそちらにお移りになっているようです。

六角堂の隣りには、こんな御社が。

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説明書きを読みますと、勝軍地蔵とあります。
その内容は、要約するとこんな感じ・・・。

「その昔、ある村人が戦に向かう途中、奇妙に光る石を見つけたんだそうじゃ。
不思議に思ってその石に無事帰れるように祈ったところ、村人は祈ったとおり
帰ることができたのじゃ。それでその石に勝軍地蔵と名前を付けて、ここに安置
したというわけじゃよ・・・」(語り・常田富士男のイメージで)

勝軍地蔵というと、徳川家康が関ヶ原の戦いの戦勝を祈願したという愛宕山の
勝軍地蔵が有名ですが、ふつう、甲冑を身につけ馬に跨っている姿で表され
ます。
ところがこの勝軍地蔵は、何も刻まれていない石の板。
まぁ、伝承の通りと言ってしまえばその通りなのですが、このような勝軍地蔵は
初めて見ました。
地元に伝わる伝承と、既存の勝軍地蔵が結びついたものなのかもしれない
ですね。

勝軍地蔵の裏に小高い場所がありまして、そこは天皇塚と呼ばれています。
安徳天皇の遺品を埋めて祀った所なのだそうです。

IMG_1366aa.jpg

遺品を埋めた塚の上に2本のケヤキを植えたところ、この木が成長するに連れて
つながりだしたことから連理の欅と呼ばれるようになり、縁結び・子育ての信仰を
集めるようになったのだとか。
ワタクシ、平安とか鎌倉あたりはよく知らないのですが、安徳天皇にまつわる史跡が
壇ノ浦から遠く離れたこの仙台にあるとは知りませんでした。

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五重塔も有りーの。
但し、昭和61年建立。
沢尻エリカさんと同い年←どーでもいい情報。


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仙台市博物館「戊辰戦争150年展」

しばらく記事を更新していない間に、アッという間に12月です。
師走です。
金八先生も「ボクは死にましぇん!!」と言いながら走る季節です(嘘)。

先月の上旬になりますが、仙台に行ってきました。
東北に住む大学時代の友人と会い、そして仙台市博物館で開催されている「戊辰戦争
150年展」の企画展を見るためでした。
ここ何年か、仙台には毎年のように遊びに行ってるのですが、ワタクシの住む東大和市
からですと、大宮駅を経由して新幹線はやぶさに乗れば2時間で仙台駅まで行けるので、
案外近いのですね。

仙台駅で友人に車で迎えに来てもらい、仙台市博物館に連れていってもらいました。

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コチラの企画展、7月から8月にかけて新潟県立歴史博物館、9月から10月にかけて
福島県立博物館で催されまして、10月下旬から仙台市博物館で開催されています。
10月までは仕事やら講座やらがあり忙しかったので、ようやく友人を巻き込んで見学
に行けたという次第です。

で、仙台の展示でも前期・後期と内容が若干変わるようなのです。
でもワタクシの都合が前期の期間中しかなかったことと、前期だけの展示となる「奥羽
越列藩同盟旗」をどうしても見たかったので、この時期に行ってきました。

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※チラシの真ん中にある、星印の旗ね

去年から幕末・明治維新150年ってことで、いろいろな場所で、それぞれの博物館などで
企画展が行われています。
我が東大和市でも9月から10月にかけて、やはり市内の郷土博物館で企画展が催されて
おりました。ワタクシの講座もその流れのようなモノです。
しかし、この新潟・福島・仙台で開催された企画展の先ず目を引くのは、明治維新ではなく、
「戊辰戦争150年」と銘打っているところです。
まぁ、その気持ちはわかります。
やらんでもいい戦争に突入せざるを得なかった東北・北陸の方々から見れば、150年前
の出来事は維新などというスマートな言葉ではなく、戦争の一言に尽きるでしょう。

ということで、今回の企画展は仙台では「最後の藩主 伊達慶邦の決断」とサブタイトルが
付けられているものの、仙台藩だけの史資料だけでなく、長岡、会津、二本松、庄内等の
列藩同盟に関わった諸藩の史資料が一同に並び(モチロン、新政府側も)、見応え十分、
いや十分過ぎるほどの内容量でした。

中でも一番感動したのは、複製ではあったけど松平容保公が死ぬまで身に付けていたと
云われる御宸翰ですね。自分は逆賊では決してない!という絶対の証であり、心の依り
どころだもんね・・・。泣けるわ。

別の意味で心を動かされたのは、ワタクシの大好きな細谷十太夫の衝撃隊(別名鴉組)
の軍装束があったこと。
いやね、彼らは全身真っ黒クロスケの服装でゲリラ戦を展開してたっていうから、地味な
隊服を想像していたのですが、これがスゴイの!陣羽織だと思うのだけど、黒地の背中に
赤い日の丸が描かれ、その中に1羽の八咫烏。裾には荒れ狂う波がしらと水しぶきが
豪快に描かれているという、まるで火消しの頭が見にまとうような派手な一品。
もちろん、これは隊長の細谷十太夫の羽織で、他の隊員がみんな着ていたワケではない
んだろうけど、さすが細谷さん。博奕打ちのようなアウトローを上手く手懐ける人だけあって、
やっぱりケレン味のある趣味をしていたんだなぁ、と嬉しく感じました。
アヴィレックスとかバズリクソンでこのデザインを背中にプリントしたフライトジャケットとか
発売されたら、間違いなく買うな!

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コチラは写真撮影オケの、幕末のおしゃれ番長・額兵隊のリバーシブル軍装。
150年前にこのセンスってシビれるわ~。
さすが、隊長・ドン小西「どんどん防虫!」 (嘘。ホントは隊長・星恂太郎)

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これもお約束ですね。新選組はやっぱりハズせないもの。
展示資料には隊長・山口二郎のときの「新選組名簿」、猪苗代に援軍を求める「土方歳三
書状」、「母成峠布陣図」、中島登の「袖章」「戦友姿絵」などなど。
現在行われている後期展示では、最近発見された「藤田五郎写真」も展示されているハズ。
(この時にはありませんでした。)

企画展は12月9日までなので、仙台周辺の方はぜったい行くべき!



で、ワタクシの幕末趣味に友人を付き合わせてしまったので、友人の趣味にもお付き合い
させていただきました。

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仙台文学館で開催されていた「ガラスの仮面展」。
ワタクシ、全然読んだことないのですが、世代的にはドンピシャの漫画ですよね。
そういや、演劇部の同期に、コレに影響されて入部してきたヤツがいたもの!
そんなせいか、会場内は同世代と思わしき方々がいっぱい。
ワタクシも友人のガイドでけっこう楽しめました。
・・・泥まんじゅう、じゃり、じゃり・・・。


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地域発見講座より 東大和市と戊辰戦争②

3 振武軍、東大和に来る

1 振武軍の金策
振武軍は5月1日、田無村の西光寺に陣を構えました。そして、各組合村へ
廻状を回し、村の代表者を集めます。
蔵敷村の名主・内野杢左衛門も田無村へ呼び出されました。振武軍には、
遅れて上野の山から駆けつけて合流した者が次々と加わり300人ほどになり、
西光寺の他、光蔵寺、太子堂、観音寺に分宿していました。
渋沢が村々を呼びつけた理由は、金策でした。

右本陣西光寺着届致し候ところ、列席にて惣隊長申し聞くには、この度徳川氏
再興のため、金高を短冊にて申し達し候通り助力いたし候よう、頼み入り候旨
申し聞かされ、金20両重蔵と申す短冊下げ渡し相成り候間、品々歎願申し
あつめ候処、強勢に申し威し種々強談及ばされ候えども、お申し付けの金高は
とても自力難く及ぶ旨再び応じ歎願いたし、詰り金5両差し出しようやく勘弁いた
し貰い落手相成り・・・・(里正日誌)


重蔵とは蔵敷村で組頭をしている家ですが、当時組頭は商いをしている家が多く、
振武軍はそのような家に軍資金を要求してきたのです。
振武軍の要求は20両でしたが、重蔵は「とても応じられず歎願して」5両だけを
差し出します。これに振武軍が怒ったかというと、そうではなくおとなしくその金額を
受け取っています。

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2 村々の対応
振武軍の金策は重蔵だけではなく、他の村人へも向けられます。東大和市域が含まれた
所沢組合村では、どのくらいの金額が要求されたのでしょう。一例を上げておきます。


下安松村(所沢市) 名主 新助 150両→50両 
所沢村 百姓 伝右衛門 150両→50両      
所沢村 百姓 弁蔵 100両→30両         
所沢村 百姓 孫七 100両→30両
所沢村 百姓 源兵衛 100両→25両       
粂川村 年寄 太座衛門 100両→20両     
高木村 名主 庄兵衛 50両→10両
高木村 百姓代 清五郎 20両→7両
高木村 百姓代 宇兵衛 20両→5両
蔵敷村 組頭 重蔵 20両→5両

計22ヶ村 46人 2280両→726両

(左の金額は要求額。右は実際に支払った額)

振武軍は所沢組合の他からも、田無組合村々から730両、拝島組合村々から500両、
扇町谷組合村々から720両、日野組合村々から500両、府中組合村々から500両の
献金を受け取りました。どの組合も要求額よりは少なく納めたのでしょうが、それでも
3500両近くの金が集まったことになります。
杢左衛門の記述にあるように、村民にとって献金は強引に奪われたという印象があった
ようです。つまり、3500両という金額は大金ですが、それは決して村々が振武軍を支持
していたわけではなかったのです。

3 その後の振武軍
5月12日に田無村を立った振武軍は、小川村(小平市)を通過して箱根ヶ崎村(瑞穂町)
に布陣しました。ところが、15日に上野で戦争が起ったとの情報が入ります。振武軍は
急いで彰義隊の元へ駆けつけようとしますが、高円寺村(杉並区)で彰義隊の敗戦を聞き、
田無村へ引き返します。すると、彰義隊の敗走兵が次々とやってきて、彼らは振武軍と合流。
1200人程の集団になりました。(※天野八郎は逃亡先で捕縛され、後に獄中死しています。)
その後、振武軍は二隊に分かれて一隊は小川を通って箱根ヶ崎から扇町屋(入間市)へ。
もう一隊は所沢から扇町屋に入り、合流して飯能の能仁寺に立て籠もりました。
これに対し新政府軍は大村、筑前、備前、佐土原、久留米の各藩兵2000人余りを出陣させ
ます。彼らは田無村に泊まったので、賄い方として蔵敷組合も呼び出され働かされました。
そして23日、新政府軍と振武軍は戦闘に突入。激戦の結果、能仁寺をはじめとして飯能の
町は焼かれ振武軍は敗走しました。これを飯能戦争といいます。

渋沢成一郎や散り散りとなった振武軍、彰義隊士は、後に榎本武揚の海軍に合流。箱館で
再度彰義隊を結成し、渋沢が隊長に就任します。松前城攻略などで戦果を上げた彰義隊です
が、またしても内部分裂を起こし二隊に分裂。そのまま箱館戦争終戦を迎えます。


4 東大和の戊辰戦争

1 中山道蕨宿への当分助郷
振武軍が田無村へやって来て金策をしていた同じ頃、狭山丘陵の村々では別の問題に直面
していました。新政府軍が大挙して江戸へ下ってきたため、宿場での大量の継立が必要と
なったのです。
東大和周辺では後ヶ谷、奈良橋、蔵敷、清水、高木、芋窪、中藤、横田、砂川、廻田、久米川の
村々が、当分助郷として中山道蕨宿まで勤めるよう命令がありました。。
さらに、大宮、川崎、日野、府中の各宿場へも人馬負担が掛けられ、村々では大きな負担となり
ました。

2 他にも来た、諸隊
東大和周辺には振武軍の他にも、正体不明の怪しげな諸隊がやって来ています。
慶応4年閏4月11日、八王子に仁義隊という、300人ほどの佐幕方の一隊がやってきて
八王子宿や周辺の村々から金を、農兵隊からは銃、刀、鎗などを要求しました。さらに
仁義隊の中から30人程が分かれ撒兵隊と名乗って農兵から武器を調達しています。
仁義隊も振武軍と同じく多額の金銭を要求しましたが、村が少額の金額を提示すると
おとなしくその金額を受け取っています。

同じ頃、所沢に精勇隊と名乗る50人程の一隊もやってきます。彼らは新政府方阿波稲田
藩の附属とのことでした。ところが、彼らは所沢村の名主・助右衛門を拘束し、武器や金を
要求したのです。精勇隊は最初500両という高額を要求しましたが、結局白米50俵、金
30両で合意。蔵敷村名主・杢左衛門も願い出て助右衛門は解放されました。
ところがその直後、八王子に宿陣していた新政府軍の掛川藩から目付が100人程の兵を
率いてやってくると、あっさり降伏してしまいます。精勇隊は「官軍」を詐称する「ニセ官軍」
だったようです。

3 新政府の密偵
慶応4年9月6日(この2日後明治に改元)、蔵敷村の名主・内野杢左衛門の所へ新政府志筑
藩の兵藤雷太郎という男が訪ねてきました。彼は旧幕府領地域の人々がどのように新政府の
東征を考えているのかを探る密偵でした。

「・・・・さて上段に右雷太郎殿ならびに御同役壱人弐人都合四人列座、次の間に家来弐人
相見ひ、右問われ候は、第一精勇隊の情実、第二遠近重立ち候村役人の平常の取り扱い振り、
第三人気の動静、第四脱走人の金穀掠奪、第五最寄り村の重立ち役人の正不正、用不用、
気質の善悪(よしあし)など密密お尋ねにつき、事実有体に申し述べ候処、御同役逸逸書き取り
成られ、聞人弐人より外に何々廉(かど)承り候えども、これは実か虚かと尋ねられ候につき、実は
実虚は虚と相答え、・・・」(里正日誌 第10巻)


ここに至るまで、なぜ幕府領や旗本領の多い武蔵国で新政府への根強い抵抗があるのか、
新政府はその原因がよくつかめなかったようです。そこで、兵藤のような密偵を仕立てて、各地
への聞き込みを開始していました。杢左衛門は質問に毅然と答え、兵藤は「これまで雲霧相晴
れず、更に事情相分からず候処、貴殿の答弁にて誠に明白に相分かり」
と答えて去っていき
ました。
また、こうした情報収集の他に、慶応4年の8月には日本橋に目安幕が設置され、新政府は
広く一般庶民の考えや意見を聞こうともしています。

4 変わりゆく村
慶応4年1月の鳥羽・伏見の戦いから、5月の上野戦争の頃まで、多摩・狭山丘陵一帯は
無政府状態だったといえます。徳川時代の直接支配者だった代官は京都に行き、すでに
新政府に恭順。しかし、その新政府が旧天領を支配できていたかといえばそうではなく、
振武軍のような佐幕派が献金を求めてやってくる状況があったのです。
閏4月16日、芋久保村の住民2人が田無村へ向かう途中、小川村で2人組の強盗(1人は
侍)に襲われ10両の大金を奪われるという事件が起こります。強盗は青梅方面に逃げて行き、
芋久保の2人は大急ぎで村に帰りこのことを告げました。村では近隣の村々にも声を掛け、
武器を持って強盗を追いかけ、ついに三ツ木村で発見。周りを大勢に囲まれた強盗はすぐに
観念して捕まりました。住民らは強盗を芋久保と蔵敷の間にある狐塚に連れていくと、その場で
相談の上、斬首してしまいました。(「指田日記」「里正日誌」)

戊辰戦争により一時的にでも空洞化した狭山丘陵の村々では、お上の採決を待たずに自ら行動
を起こす空気が出来上がっていたのです。


ということで、9~10月にかけて市内で行った公民館講座の内容を記事にアップしてみました。
当ブログで過去に書いたことがほとんどですが、ざっくりとまとめて読むにはちょうどいい
機会だったかなと思います。
農兵隊などについては、これからも分かったことがあったら、その都度アップしていきたいと
思います。


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地域発見講座より 東大和市と戊辰戦争① 

東大和市地域発見講座の3回目は、東大和市と戊辰戦争の関わりです。
以前にもお話しましたが、戊辰戦争における実際の戦闘は、東京では上野で彰義隊の
戦いがあっただけですが、やはりその影響はその他の地域にもあるワケで。
そのひとつの例として、東大和市域のケースを上げたいと思います。


1 東征軍と江戸城開城

1 江川代官の恭順
慶応4年2月15日、東征大総督の有栖川宮熾仁親王は京都を出発し、慶喜追討のため
江戸に進軍します。
その少し前、東征軍の先触れが韮山の江川代官屋敷にやってきて、朝敵(慶喜)を討つ
ために今まで江川家が支配してきた支配地の絵図面や石高帳・人別帳を持って総督府
まで出頭せよと江川は命令を受けます。
江川英武は手附の柏木総蔵と共に名古屋へ行き、木戸準一郎(木戸孝允)と面談。
そこで兵力の供出を命じられます。しかし、代官所には兵隊はなく、農兵も他を攻撃する
ためのものではないことを江川は訴えました。
木戸は江川らに京都まで行き、事情を説明するよう言います。江川らはそのまま上京し、
10月まで滞在。3~4月頃、韮山の領地安堵を言い渡され新政府に恭順しました。

2 江戸開城と旧幕臣
3月12日から14日にかけて、新政府軍の西郷隆盛と旧幕府を代表して勝海舟が話し
合い、慶喜を水戸へ預けることと江戸城の明け渡しが決まりました。4月11日に江戸城は
無血開城しますが、海軍を率いる榎本武揚は軍艦の引き渡しを拒否して江戸湾を脱走。
また、陸軍の大鳥圭介も伝習隊の一部を率いて脱走し、これに土方歳三らも合流。北関東、
東北へと転戦していくことになります。
一方、江戸周辺に残りながら、新政府に抵抗を試みる幕臣を中心とする勢力もありました。
その代表とも言えるのが彰義隊です。

2 彰義隊と振武軍
                     
1 彰義隊の結成
慶喜が上野の寛永寺に謹慎をした時に、一橋家の家臣の中から慶喜の護衛をしたいと
いう有志が集まりました。彼らは会合を重ねるうちに人数を増やして行き67名が集まり
ます。彼らは「尊王恭順有志会」と名乗りその後「彰義隊」と改名、頭取に渋沢成一郎、
副頭取に天野八郎が就任しました。

②渋沢成一郎a➀天野八郎a
渋沢成一郎                   天野八郎


渋沢成一郎は武州榛沢郡血洗島(埼玉県深谷市)の豪農の出身。天保9年(1838)
生まれで、2歳下の従兄弟に明治の大実業家・渋沢栄一がいます。成一郎と栄一の
二人は江戸に出たところ、一橋家用人の平岡円四郎に誘われ、一橋家の家臣となり
ました。御三卿は大名家ではないので家臣が少なく、当主の慶喜が注目されてくるよう
になるに連れて有能な家臣が必要となっていたのです。慶応2年(1866)に慶喜が
徳川宗家を相続したことにより、2人も共に幕臣となりました。
栄一はフランスで行われた万国博に参加した慶喜の弟・徳川昭武の随行員として欧州に
派遣され、成一郎は陸軍奉行支配調役から奥右筆格に抜擢されるなど、活躍。鳥羽・
伏見の戦いでは、大坂に取り残された幕臣らを江戸まで帰還させる責任者を任されました。

天野八郎は上州甘楽(かんらく)郡磐戸村の庄屋の次男として、天保2年(1831)に生まれ
ます。本名は大井田林太郎。
父親が江戸神田で公宿を営んでいたことから江戸に出て、男谷精一郎門下生となり直心影流
の剣術を学んだといいます。その後、火消役与力・広瀬家の養子となりますが、すぐに離縁。
その頃から天野八郎と名乗り始めますが、その理由は不明です。
天野は幕臣でも一橋家の家臣でもないのですが、No.2の座に推されたのは人望があり、リー
ダーシップもあったからだと思われます。

彰義隊は慶喜の身辺警護を目的とした部隊であり、薩長と一戦交えてやろうという目的で
作られたものではありませんでした。特に頭取の渋沢は一橋家家臣でしたから、当主慶喜の
命だけは何としても守らなければならぬ、という気持ちが大きかったのです。
ところが次第に彰義隊の評判が広がり、入隊希望者が次々と集まってくるようになりました。
幕府がなくなり明日の希望が見えない状況に身を置いた幕臣らの受け皿と、彰義隊が見られ
てきたようです。こうして上野の山には300人以上が屯集するようになってきたのです。
しかし、ひたすら恭順し助命を嘆願する慶喜にとって、彰義隊は厄介な存在だと思ったのが
勝海舟です。そこで勝は彰義隊に江戸市中の取締りを命じ、その行動に責任を持つように
仕向けました。当時の江戸は治安が相当に悪化していたので、彰義隊は江戸っ子の評判を
呼びました。

ところがこの頃になると、彰義隊の中で意見の対立が起こり、渋沢派と天野派という二つの
派閥ができてしまいます。渋沢は先にも話したように、彰義隊の目的は慶喜の護衛であると
いうスタンスです。新入隊士も幕臣に限る、としていました。
しかし、集まってくる者の中には幕府の再興を考える者が多く、その意を汲み取っていたのが
天野でした。天野は隊士募集も「身分・前歴問わず」、薩長への反抗心があり戦う気持ちがあ
れば誰でも引き受けました。簡単に言ってしまうと、慶喜大事・慎重論の渋沢派と幕臣生活
大事・主戦論の天野派です。

3 彰義隊の分裂
次第に二派の衝突は表面化することになり、ついに「新政府に寝返らないこと」「降伏はしない
こと」を約束して天野派と渋沢派は分裂してしまいました。
この頃、4月11日、慶喜は水戸で謹慎するために江戸を出ます。彰義隊の大多数を率いること
になった天野は、1000人余りに増えた隊士とともに寛永寺座主・輪王寺宮公現法親王を守護
するため上野の山に入りました。新政府を撃退し、幕府を再興する。それが天野率いる彰義隊
の目的となったのです。

一方の渋沢は100人の隊士を連れて江戸を出ました。慶喜のいない江戸にいても仕方が
ないし、水戸は他藩ですから入れません。彼らは青梅街道を西に進み、田無村(西東京市)に
駐屯しました。
渋沢は彰義隊から分かれたこの隊に振武軍と命名します。

ここまでは、東大和市域はカンケイのない話ですが、これを話しておかないと振武軍が何者
なのかわかりません。それで、講座でもこのように彰義隊について触れさせていただきました。
さて、この振武軍が東大和市域にやってくるのですが、それはまた次回。


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地域発見講座より 東大和の農兵②

3 農兵の出動

1 第二次長州征伐
慶応2年(1866)2月、高杉晋作らにより藩論を討幕に定めた長州藩
に対して、幕府は2度目の長州征伐を行います。しかし、長州と薩摩の
密約(薩長同盟)や奇兵隊の活躍などがあり幕府は劣勢を強いられます。
幕府はこの状況を変えるべく、江川代官支配地の農兵を戦地に送る計画
を立てました。
6月14日、蔵敷村名主の杢左衛門は日野宿に逗留していた代官所役人に
呼び出され、幕府の要請を受け入れるように迫られました。
しかし、杢左衛門は「最初、農兵お取り立ての御趣意とは、相振れ候間、
村々へ談じ候ならでは、お請け仕りかね候旨申し上げ・・・」
(「里正日誌」)と、
その場では決められないと意見しました。

2 武州世直し一揆
幕府が江川農兵に長州出兵を要請していたまさにその時、上野国・武蔵国の
貧農層から一揆が起こりました。一揆は瞬く間に関東一円に広がり大きな騒乱
に発展します。
「武州世直し一揆」と呼ばれたこの騒動は、米価高騰などにより困窮した貧農層
が米穀商人、質屋、大地主などの豪農層に対して、米価の引き下げ、質地・質物
の返還、施米・施金の実施を要求し、叶わなければ打ちこわしを働き、これが同時
多発的に蜂起されたものでした。
6月13日に武蔵国秩父郡上名栗村から発生した一揆は、わずか7日間で東は
中山道筋、南は多摩川流域、北は上野・武蔵国境まで一気に拡大し、参加した民衆は
十数万人と云われています。
農兵を長州に派遣する話は、一揆勃発で完全に立ち消えました。

3 江川農兵の出動
江川代官所の農兵隊は正式に一揆鎮圧の出動命令が下されました。抵抗する者は
「打殺」してもよいとの許可も降ります。
6月16日早朝、粂川村から「粂川より大岱(おんた)・柳久保打ちこわしこれ有り」との
一報が入り、蔵敷村組合9ヶ村の農兵、人足合わせて300人が粂川に出動し警備に
付きました。粂川に一揆は来ませんでしたが、柳久保の打ちこわし現場では田無村
組合農兵が一揆勢と交戦し、即死8人、13人召し取りの活躍を見せます。
さらに同日、日比田村(所沢市)から打ちこわしの脅迫がきているとの救助嘆願があり、
蔵敷村・田無村両組合が日比田村に出動しますが、一揆勢は来ませんでした。

一方、多摩川流域の築地(ついじ)河原では、一揆勢を日野宿・八王子宿・駒木野村
組合農兵が迎え打ち、激しい戦闘となりました。日野宿では名主の佐藤彦五郎が
農兵隊の他、撃剣組を率いて出動。一揆勢が川を渡る前に狙撃、あるいは斬り倒し、
2000人いた暴徒は即死18人、召し取り41人を出して退散しました。その他、大久野
村でも五日市組合農兵が即死10人、召し取り26人の活躍を見せています。

※(補足)日野宿農兵隊のこの時の行動については、佐藤彦五郎の孫・仁氏の「籬蔭
史話」(その中編をまとめた「聞きがき新選組」)に詳しく記載されています。
また、五日市でも大きな戦いがあったことに注目です。
当ブログでも取り上げましたが、大久野の羽生家に近藤勇の手紙が残されている
一件(「羽生家と近藤勇書簡」)で、新政府の追手を逃れるために彦五郎が頼ったのが
羽生家だったことも、農兵隊の連携から考えれば理解ができます。

一揆勢は6月19日には壊滅し、警備や各地の見舞いに行った蔵敷村組合農兵や
杢左衛門も月末までには帰村しました。暴徒は各藩の藩兵や幕府軍によって鎮圧され
ましたが、特に江川農兵の攻撃が一揆勢の壊滅に効果的であったとされます。
この影響は各地でも広まります。
横浜では代官の今川要作が村々に農兵取立ての意向を示すと、寄場組合村でもこれ
を受け入れ、「綱島農兵隊」「川崎農兵隊」が誕生しています。

※(補足)今夏、横浜歴史博物館の企画展「戊辰の横浜」(「横浜歴史博物館『戊辰の
横浜』展」
)で横浜の農兵隊について見学してきました。「里正日誌」には、一揆
騒動の後日、今川要作が江川農兵隊を視察に訪れたことが書かれています。
「廿三日、御代官今川要作様八王子出立、砂川中飯、奈良橋継立、所沢泊まりにて
御通りにつき、警固として農兵差し出し候方然るべき旨砂川村名主源五右衛門申し
越し候間、大急ぎにて組合村農兵呼び立て奈良橋へ罷り出で候ところ、御手代衆
達しご遠慮なされ候につき、すぐさま引き取り銘々帰宅、然るところ粂川村内もつれ
の儀について、兼て頼み請け候儀これ有る間、昼九ツ半時頃罷り出で同村泊まり」


4 農兵はどう期待されていたのか
東大和市内に保存されている、当時の農兵が使った「農兵訓練の栞」には、農兵が
どのように隊列を組み、行進し、いざ戦闘の際には小隊をどう展開させるかが書かれ
ています。これはおそらく、芝新銭座で教育を受けた幹部候補生が地元での農兵訓練
のテキストとして書き留めたものだと推察できます。

DSCF0545a.jpg

上のページには「騎兵ニ向ヒ」と書かれ、農兵の対戦相手として、騎兵も想定されている
ことがわかります。

DSCF0553a.jpg

このページには「撒兵(さっぺい)」の文字が見えます。撒兵とは歩兵のこと。文久2年
(1862)の文久の改革で、幕府に設置された「陸軍」において、小普請組の御家人を
集めて作られた歩兵隊を撒兵隊といいました。農兵隊の号令は撒兵隊と同じだった
ようです。なお、「気を着け」「右向け右」などの号令は江川英龍が考案したものです。

この栞の内容は「歩兵練法」「歩兵心得」といった幕府陸軍所発行の書籍から引用した
ものである可能性が高いと思われます。
農兵の訓練にはこれらの本に書かれた訓練法を、便宜上使用しただけなのかもしれま
せんが、農兵設置の元々の目的「地域の治安維持」だけではなく、幕府は騎兵との戦いや、
幕府正規軍との合同行動が可能なように農兵を考えていた可能性も考えられます。

慶応3年(1867)3月に、蔵敷村農兵隊は観音崎警固の命令が出たので出張しましたが、
3回目の命令には断りを入れています。また、12月には芝新銭座の江川調練場の警備も
命じられますが、村ではこれも断りました。
村側は、あくまでも農兵は地域防衛のためであることに拘ったのです。

4 維新後の農兵

慶応3年(1867)12月の王政復古の大号令により、幕府は消滅します。しかし、京都の
新政府がすぐに全国を統治できるわけもなく、江戸周辺では旧幕府の支配体制はそのまま
存続しました。当然、天領の支配も代官所が継続して行っていました。
ところが戊辰戦争が始まり、東征軍が東海道を進んでくると、代官の江川英武(英敏の弟)は
いち早く新政府に恭順してしまいます。旧幕府と支配地域との繋がりは絶たれ、江川支配地
の農兵は消滅することになったのです。旧天領の村々はほとんどが新政府に恭順の姿勢を
取りましたが、中には日野宿農兵隊のように、新選組(甲陽鎮撫隊)と共に新政府に抵抗した
所もありました。
戊辰戦争が終わり明治の世の中となると、農兵制度は完全に廃止となります。しかし、政府
には予算もなく、警察組織は江戸時代と同様脆弱なままでした。そこで政府は旧幕府と同様に、
各地域では自ら治安維持を行うよう村々に委託せざるをえなかったのです。
明治3年(1870)4月に農兵が使ったゲベール銃は政府に引き取られましたが、ミニエー銃
(国産スプリングフィールド銃)はそのまま貸与されました。蔵敷村で6挺、奈良橋村、高木村、
後ヶ谷村でそれぞれ3挺ずつが明治8年(1875)まで貸し出されていたことがわかっています。

幕末の多摩・狭山丘陵一帯は治安が悪化し、民衆は命と財産を自ら武装して守るよりほか
ありませんでした。多摩一帯に天然理心流などの剣術が流行したのも、そのためです。農兵
政策はその自衛手段と意識をさらに一歩進めたことになりました。開国派の江川英龍が代官
として村々を指導したことも、多摩の農兵が西洋式の訓練に順応できた大きな要因となった
でしょう。
しかし、彼らの武力行使は、あくまでも自らの命や財産を守る自衛に限ったものでした。

西南戦争が終わると、多摩でも自由民権運動が活発化します。庶民が自らの権利を主張し
始めたとき、その中心にかつての農兵組合が置かれていた場所が多いのは、無関係では
ないでしょう。


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