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函館・・・むしろ箱館史跡廻り②

「箱館」2日目は、「そんな所に行ってなにが楽しいじゃぁぁぁぁぁぁッ!」と
嫌がる家族らを説き伏せ、ココに行ってきました。

函館8

碧血碑 です!

戊辰戦争とか幕末史を勉強している者にとっては、聖地といっても過言ではない
くらいの場所ですが、そうでない人にとっては確かに面白くはないかも・・・です。
ご覧の石碑があるだけですからね・・・。
でも!箱館に来たら、絶対に手を合わせたい場所ッ!

函館山の麓、函館八幡宮神社の駐車場に車を止めて、山の中を50~60mも
歩いていくと、目の前が開けてその奥に碑が立っております。
戊辰戦争全体の旧幕府軍戦死者約800人を慰霊する、「お墓」といってもいい
供養碑です。
榎本武揚や大鳥圭介らによって明治8年(1875)に建立されました。題字は
大鳥の書になるもので、「碧血碑」の意味ですが、これは非業に亡くなった忠臣
の血は3年経つと碧玉になる・・・という故事からきています。

ワタクシたちがお参りしたときには、平日だったせいか他に誰もいなくて、静か
な山の中により一層厳かな空気が流れているようでした。

碧血碑の1段下に柳川熊吉翁の碑というのがあります。

函館20

柳川熊吉は、江戸浅草出身の侠客。幕臣と交流があったといわれ、五稜郭
築城のときに人足を率いて箱館に渡り、工事に従事したそうです。
新政府軍は、敗れた旧幕府軍戦死者の埋葬を許可しなかったのですが、義憤
に駆られた熊吉は付近の寺に分けて埋葬し、逮捕されてしまいます。しかし、
その後許されると、熊吉は遺骨を箱館山の中腹に土地を買って改葬、それがこの
碧血碑の場所になるワケです。そして生涯を碧血碑の墓守として過ごしたとのこと。

このエピソードは、何か彰義隊隊士の遺体を埋葬した三河屋幸三郎と重なる印象
がありますね。他にも幕軍水夫の遺体を埋葬した清水の次郎長など、戊辰戦争
では任侠の人が、必ずといっていいほど顔を出します。
今まであまり注目はされていませんが、幕末史を考える上で、こういう任侠世界
の視点が今後必要なのではないかと思っています。

まぁ、でも、いろいろ説明しまして、歴史にほとんど興味のない甥も碧血碑について
「なるほど。見ておいて良かったよ」と言ってくれましたので、一安心。
「でもさ、何も見ないで、そーゆーこと語れるのって、ちょっと怖いよね」
「やかましい!」

車を駐車させてもらっていた函館八幡宮にもお参り。

函館9

社殿が、本殿、幣殿、拝殿と繋がって、権現造になっています。
にしても、あまり見ない様式だなぁ・・・と思い、後で調べてみたら聖天八棟造と
いうのだそうです。

その日はそれから車で江差へ移動。
およそ1時間半のドライブです。
江差の目的はなんといっても、コレ!

函館10

開陽丸!

まぁ、これを見に行くためにレンタカー借りたようなもんですわ。
旧幕府軍の旗艦。
この艦を持っていたことで、旧幕府軍は制海権を握っていたわけですが、松前攻略
のときに座礁、そのまま沈没してしまいました。
もし、開陽丸がそのままであれば、最終的に箱館戦争が新政府軍の勝利で終わった
にしても、旧幕府郡の被害はかなり食い止められたのではと思います。終戦条件も
もう少し違ったものになっていたでしょう。

函館11

艦の中は資料館になっていて、海底から引き揚げられた開陽丸の一部やら備品
やらが、多数展示してあります。
中でも驚くのは、ものすごい数の砲弾です。

函館14

コレ、一部ですけどね。
開陽丸そのものもそうですが、これだけの砲弾を一気に失ったのですから、榎本
さん始め蝦夷共和国の方々のショックは相当なものだったでしょうねぇ・・・。

艦内にはこんな人形も展示してありまして。

函館12

コチラは艦長室の様子。
座って書類を見ながら部下に命令を出しているのは、開陽丸艦長・沢太郎左衛門
さんです。
元々艦長だった榎本武揚が、旧幕府軍全体をまとめる立場になったため、沢さんが
副館長から艦長のポストに昇進していたのです。この2人は一緒に欧州へ留学して
いたこともあり、沢さんは榎本さんの右腕的存在でした。
開陽丸が沈んでからは何をしていたのかというと、その後の蝦夷共和国政府では
開拓奉行に任命されてモロラン(現室蘭)に赴任します。つまり、五稜郭から出され
てしまった。
一見すると左遷?と思いますが、蝦夷共和国のそもそもの目的は独立などではなく、
生活に困窮している幕臣らを蝦夷に呼び寄せ、開拓と外国からの領土防衛をさせ、
自治州として新政府に認めさせるということだったといいます。となると、沢さんの
就任した開拓奉行は榎本構想の重要な柱だったということになります。

沢太郎左衛門の関連する史跡が都内にもありますが、ご存知でしょうか?
それが、板橋区にある圧磨機圧輪記念碑です。

圧磨機圧輪

圧磨機圧輪とは、平たく言うと黒色火薬を作る機械で、こちらは幕末に幕府の命令
で沢が留学先のベルギーから持ち帰ったものなのです。
沢は当時最先端の火薬製造技術を手に入れるため、ベルギーの火薬工場に作業員
として従事し、この圧輪を始めとする多くの機材を輸入させることに成功しました。
幕末から明治初期にかけて、滝野川(石神井川)など水の豊富な板橋の辺りは火薬
工場が作られていたんですね。

開陽丸から車で3分ほど。高台にあるのが土方歳三嘆きの松です。

函館15

明治元年(1868)11月。座礁する開陽丸の姿をここから見ていた土方が、松の木
を叩いて悔しがったと伝わります。たしかに、この場所から海岸がよく見える。
ただし、この話はフィクションとの説もアリ。
でも、真実をゆがめるようなウソ・創作ならともかく、この程度の話はフィクションでも
許される範囲ではないでしょうか。後に宮古湾海戦で、アボルタージュで甲鉄艦を
乗っ取ろうとした歳さんだもの。開陽丸を失った悔しさは事実でしょう。

箱館から江差までは、国道227号線を走って山の中を抜けていくのが一番近い
みたいですね。ナビもそうでした。途中、厚沢部(あっさぶ)の道の駅がちょうどいい
休憩地点になりました。

最終日の3日目は、帰りを夜の飛行機にしたので夕方まで目いっぱい箱館を満喫。
朝市や、ちょうど戊辰戦争企画展をしていた函館博物館や赤レンガ倉庫街、函館山
の教会などを見学。

函館16
市立函館博物館 
常設展示も伊庭八郎の名札とか、中島三郎助の戦友姿絵とかシビれる展示。

函館17
函館18
赤レンガ倉庫
お土産屋さんが中心。修学旅行生と外国人がいっぱいでした。

この近くで食べたジンギスカン、美味しゅうございました。


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函館・・・むしろ箱館史跡廻り

9月に入り、平日に休みが取れたので2泊で北海道は函館に行って参り
ました。
当ブログをご存知の方なら、「管理人が函館に行くなら戊辰戦争の史跡
廻りだな!」とお思いでしょう。まさにそうなのですが、今回は両親やら
妹、甥を連れての家族旅行でしたので、あまりワガママは言いません。
マニアックな史跡はやめておきましたが、定番の史跡・名所はある程度
押さえて参りました。

函館といえば・・・と、ココでは敢えて「箱館」と言いましょう。
箱館に着いて真っ先に向かったのは、やはり五稜郭です。

函館1

五稜郭の敷地内に入っても、大きすぎて公園にいるようにしか感じないの
ですが、お隣の五稜郭タワーに登ると、ようやく全景がわかります。
中央にあるのが復元された函館奉行所です。

この五稜郭を設計したのは、伊予大洲藩出身の蘭学者・武田斐三郎という人。
一般にはあまり知名度の無い方かもしれませんが、さすが五稜郭ではその
功績を讃えた碑やら説明文、銅像などが置かれております。

函館2

斐三郎(あやざぶろう)さん、通称・あややは大坂で緒方洪庵に、江戸で伊東玄朴
や佐久間象山といった人に就いて学び、さらに英仏の築城術などを学んで幕臣
に推挙されました。
五稜郭は幕末当時、最新式の洋式城郭で、あややが学んだ築城術の技術が
導入されています。このほか、箱館戦争で新選組が最後まで戦った弁天台場の
築造もあややが行っています。

このあややの記念碑が東京にもあることをご存知でしょうか?

武田竹塘先生紀功碑

芝東照宮(増上寺の隣り)参道に建っている、「武田竹塘先生紀功碑」です。
教授となり、維新後は兵部省に出仕したあややの功績を讃えた石碑です。
ちなみに「竹塘(ちくとう)」は号、題額は有栖川宮熾仁親王、撰文は幕府奥医師
を勤め、維新後は陸軍軍医監になった石川桜所が行っています。
五稜郭を見たあと、芝に行かれた方は、コチラのあやや史跡にも訪れてみては
いかがでしょう。

函館a
「はっ、スミマセン!」 五稜郭タワー1階にある武田斐三郎像

あ、像といえば!
五稜郭タワーに展示してあるのが、2体の土方歳三像ですね!

函館3
函館4

上の立像は1階のらせん階段横、下の坐像は展望室にあります。
箱館ということで、やはり洋装なんですね。
ちなみにコチラが歳さんの出生地、日野は高幡不動にある土方像。

土方歳三1

それと、土方歳三資料館の庭先にある半身像。

土方歳三2

これで、土方歳三像はコンプリートでしょうか?
まだどこかにありましたら教えてください。
土方家の記録では、明治初期ですが石田散薬を東大和にも販売に来た
記載があるので、若き日の歳さんが東大和にやってきた可能性はあるわけ
です。東大和でも天然理心流を学んでいた家はありましたしね。
荷物を背負って竹刀を抱えた「薬売り・土方歳三像」を作って市役所前
とかに置いたら、みんな見に来てくれるかな?怒られる?

土方歳三といえば、土方歳三最期之地碑はハズせません。

函館6

明治2年(1869)5月11日、弁天台場に孤立した新選組の元に馬で向かった
土方歳三は、一本木関門で敵の銃弾によって絶命しました。
若松公園の敷地内に、一本木関門の複製と碑が建てられています。
この辺りは、五稜郭から箱館山へと行く半島部分の一番細くなっている部分。
一本木関門は、実際には若松公園から西(函館駅方面)に200mほど行った
所にありました。
この碑は昭和33年に若松小学校同窓会、父母・先生の会によって建てられたよう
ですが、北海道には歳さん個人のお墓がありませんので、この碑は歳さん参りを
する人から墓碑の代りとして献花が絶えないのだそうです。

それから、五稜郭と一本木関門の中間点に千代ヶ岡台場という台場が、当時あり
ました。現在は運動公園になっていますが、その近くに中島三郎助最後之地碑
あります。

函館5

中島三郎助も、一般にはあまり知られていない人物かもしれません。
この方は浦賀奉行所の役人で、ペリーが浦賀に来たときに真っ先に対応した
人なのです。そして幕末の動乱期を経て、戊辰戦争では旧幕軍に息子2人と身を
投じ、箱館までやって来たというわけ。まさに、
「は~るばる来たぜ、は~こだて~、息子と食べたい鮭茶漬け~」
元祖・サブちゃんであります。
蝦夷共和国では、サブちゃんは箱館奉行並という要職に就いていましたが、新政府
軍の猛攻が始まり、いよいよ敗色が濃厚となると、上層部に降伏を説きながら自らは
徹底抗戦を貫き、5月16日(五稜郭開城2日前)に息子2人とともに戦死しました。
よく幕末はいつからいつまでを指す時代か、ということを言われます。ワタクシもそう
ですが、、ペリー来航から箱館戦争終結までを幕末と考える方が多いと思います。
そうなると、サブちゃんこと中島三郎助は幕末の最初と最後に立ち会った人物と
いえるのです。

初日はこんなところで・・・。
宿泊は、函館の街と函館空港の間にある湯の川温泉に宿をとりました。

で、夜は函館山の夜景を見に。

函館7

ロープウェイで山頂に登ったのは19;30頃。
もうTシャツ1枚では少し肌寒い感じでしたね。
左側の湾内を見て、「あの辺りに蟠竜が・・・」とか想像してました。


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東大和市「歴史ロマンまち歩き」 湖底から移転した寺、蓮華寺・慶性院

久しぶりに舞台を東大和市へと戻しましょう。
東大和市の「東やまと観光ガイド」では、今年から市内の史跡、神社仏閣等を廻る
「歴史ロマンまち歩きガイド」を実施します。市内をいくつかの地域ごとに分けて、か
歩きながら史跡を訪れ、ガイドの解説を聞くというものです。
2時間ほどの行程で、料金は無料。

その第1回目が来月、9月17日(火)に行われます。
記念すべき第1回目のコースは「多摩湖から移転したお寺 蓮華寺・慶性院」です。
今回は、そのコースでどんな所を廻るのか、ダイジェストではありますが、ご紹介
いたします。

東大和市の北側(埼玉県所沢市との堺)には、人造湖の多摩湖(村山貯水池)が
あります。この場所は大正時代までは人家や田畑があり、東大和市域の村々の
中心的な場所でもありました。
今回はその多摩湖の石川と呼ばれた地域にあった2つの寺院を中心に、ガイドを
進めていきます。

スタートは、多摩都市モノレールの上北台駅。
先ず訪れるのは、蓮華寺です。
蓮華寺 本堂2a

石澤山愛染院蓮華寺。真義真言宗豊山派のお寺です。
文禄年中(1592~95)に承圓法印が蓮華坊として開創し、寛永9年(1632)に
承雲和尚が蓮華寺と改称したと伝わります。
本尊は不動明王です。
元々は現在の多摩湖(村山貯水池)の中にありましたが、湖建設のために狭山丘陵の
峰を越えた南側の芋窪地域に移転してきました。

蓮華寺 不動明王a

東大和市にとって、蓮華寺がクローズアップされるのは明治時代に入ってから。
幕末から明治初期にかけて、蓮華寺は住職不在だったこともあったようです。
それを立て直したのが栄雲和尚で、明治10年(1877)あたりから蓮華寺を盛ん
にします。折しも、世の中は薩長政権に不満を持つ人々から自由民権の動きが
出てきていた時でした。
栄雲和尚は明治11年(1878)、三多摩最初の自由民権学習結社とされる
衆楽会(しゅうらくかい)を、蓮華寺で指導しました。

蓮華寺 栄雲和尚墓碑a
栄雲和尚の墓碑。その経歴を記し、業績を讃えています。
多摩の自由民権運動と、その初期の中心地が東大和市域だったことは、これから
もっとクローズアップされてくるでしょう。

蓮華寺の南側に隣接して、要石があります。
要石a

フェンスに囲まれた中に御社があり、その前にあるのが要石です。
ちなみにこの場所は蓮華寺に隣接していますが、この場所から北の方にある
豊鹿島神社の敷地になっています。

要石は茨城県の鹿島神宮の要石が有名ですね。根の深い石がナマズの頭を
押さえていて、地震を防いでいると云われています。
この要石は、耕作地の真ん中にあって邪魔なので、村人が掘り起こそうとしたところ、
どこまで掘っても先が見えないので「こりゃ、要石に違いねぇべ」ってことになったそう
です。敷地が鹿島神社の土地だったことも関係あるでしょう。

この要石で、村人たちは「虫占い」をしたといいます。
1匹出れば1人、2匹出れば2人・・・という具合。もしも、死んだ虫が出たら大変!
子供は死産だというので、占う方は真剣だったそうです。

また、「東大和のよもやまばなし」に書かれている伝承によれば、遥かなる大古の昔、
健御雷命(たけみかづちのみこと)が東国に下ったときに、船をこの石に繋いだとも
言います。
単なる昔話と片付けてしまうのは簡単ですが、狭山丘陵一帯は200万年~70万年
前までは海の中だったことと無縁ではないのかも知れません。

続いてご紹介するのは、蓮華寺からさらに西に歩いた場所にある慶性院です。
慶性院 山門a

白部山医王寺。武蔵村山市中藤にある真福寺の末寺、真義真言宗豊山派。
本尊は不動明王です。
創建年代については詳しいことはわかっていませんが、開山をした承秀上人の
入寂を慶長6年(1601)とする説と、天文16年(1547)とする説があり、それ
以前に創建されたものと推察されています。
現・多摩湖となっている石川地域の中でも最も西側にありましたが、大正11年
(1922)に現地に移転しています。

当初の本尊は薬師如来だったようで、境内の奥には薬師堂が建っています。

慶性院 薬師堂a

狭山三十七薬師の第三十六番目として、信仰を集めていました。
中には桃山時代の作と推察される薬師如来像が安置されていますが、一般
非公開となっています。

寺の東側駐車場から境内に入ってすぐの場所に、3体の石像がありますが、
注目されるのはこの1体。

慶性院 水天像a

これは水天像です。
慶性院の19世住職円鏡法印慈賢が、江戸時代末期に建てたものといいます。
寺の移転とともに、この像も移されました。
水天は、世界を守護する十二天の一つで、水難除けや雨乞いの祈願の対象と
なるため、池や川のほとりに建てられる例が多いそうです。
水天像は、全国的にも例が少なく、都内には3基しかないうちの1其だそうです。
ただ、あとの2つはどこにあるのかわかりません。
ご存知の方はご一報をお願いします。

さらに見ていただきたいのが、コチラ。

慶性院 白山大権現a

白部山という寺の山号の元となった白山大権現です。
明治の神仏分離で引き離された白山大権現ですが、近年になって復興されました。
江戸時代の信仰の姿が再現されたわけです。

さて、現在の慶性院の山門は写真で見ていただいた通りなのですが、これは移転後に
建てられた新しい門です。
元々、石川地域(湖の中)に寺があった時は、別の山門がありました。
現在、その山門は多摩湖の北、所沢市との堺に保存されています。

慶性門 旧山門

茅葺屋根で、寺の門には珍しい長屋門の作りになっています。
痛みが激しいのが心配で、なんとかいい形で保存できないものかと思っています。
今回のガイドでは行きませんが、機会があればぜひ訪れてみてください。
メットライフドーム(西武ドーム球場)や山口観音の近くですので。

当日のまち歩きガイドでは、この他に市内最古(延宝8年・1680)の庚申供養塔や
旧道の辻に建てられて現存する馬頭観音像、狼の言い伝えの残る住吉神社などを
廻ります。

東やまと観光ガイド 歴史ロマンまち歩き
「多摩湖から移転したお寺 蓮華寺・慶性院を巡る」


9月17日(火) 13:30集合
集合・解散 多摩都市モノレール上北台駅 ロータリー広場
料金 無料
お問合せ・申し込み 東大和市市役所産業振興課(042-563-2111)
※当ブログ管理人イッセーは当日のガイドは担当しません。でも、ベテラン
  のガイドが詳しく楽しく解説いたします^^

徳島に行ってきました

昨年、学生時代に一緒に演劇をしていた親友が病気で亡くなりまして、今年の
夏は新盆になるものですから、当時の同期の仲間とともに、彼の墓がある
徳島県に行って線香をあげてきました。

徳島空港 正面a

徳島の玄関「徳島阿波おどり空港」。
そんなしんみりとした想いも、一気にブッ飛ばしてくれるアワオドラー像。
もう20年以上も前になりますが、亡くなった友人と8月に阿波踊りを見にきて、一緒に
踊ったことがありました。

その日のうちに、お墓参りとご実家への挨拶もすませ、旧友らともプチ同期会をして
その日は徳島駅前のホテルで一泊。

せっかく来たんだから、帰る前に周辺をブラついてみようと思いました。翌朝8:20に
チェックアウトをして向かった先は徳島城址。8:30に駐車場が開くので、それに合わせ
て訪れたわけです。

徳島城 堀石垣 (2)a

朝早ければそれほど暑くないかな・・・と思ったのが甘かった。
すでに気温30℃超えではないか?と思うほど。
先ずは堀端を歩きますが、日差しを遮るモノがない。帽子とペットボトルの水が命綱。

徳島城 堀石垣 (4)a

それにしても美しい石垣です。
打ち込み接ぎの積み方でしょうか。乱積みなので荒々しさがあっていいです。
徳島駅や徳島城のある場所は、地図で見ると吉野川河口の中州になるんですね。
なので堀の水は豊富で魚もたくさんいるようです。

徳島城 鷲の門a

徳島城址のランドマーク、「鷲の門」。
三木郭という曲輪に築かれていた門で、明治以降に城が破却された後もこの門だけは
残されていましたが、1945年7月の空襲で焼けてしまい、平成元年(1989)に復元
されたとのことです。

鷲の門を潜り、大手門(枡形だけ残る)を抜けると博物館がありますが、この日は開館
時間前だったし、この後友人らと待合せもあったのでそちらはスルー。

徳島城 蜂須賀家正公像a
藩祖・蜂須賀家政像。

城主の蜂須賀家は「太閤記」で有名な蜂須賀小六(正勝)から始まりますが、阿波
一国を秀吉から与えられたときには、正勝は60歳を超えていたため家督を息子
の家政に譲ります。そのため家政が初代藩主ということに。正勝は「家祖」って
ことでしょうか。
ちなみに、この家政像の場所には大正時代から戦前にかけては正勝の銅像が
建てられていたようです。Wikipediaなど見ると、その写真が出ていますが、長い
鎗を持った鎧武者姿の像です。しかし、戦中の金属供出で溶かされてしまったとか。

家政像の側から石段を上がって、本丸跡を目指します。
標高60mほどですから、たいした距離じゃない。しかし、気温すでに30℃か?って
中の登り道ですから昭和世代のおっさんには、わりとキツイ・・・!

徳島城 石垣a

なんとなく緑色がかった石は、青石といってお隣の眉山から運んだ石だそうです。
江戸城や外堀など、東京の石垣は伊豆石(安山岩)なので、それを見慣れていると
青石の石垣は新鮮味がありますね。
ワタクシは鉱物への知識があまりないのですが、たぶんこの石は秩父石(緑色片岩)
と同じモノなのではないかと思われます。関東だと、板碑に使われる石ですね。
板状に割りやすいので板碑に使われたというのを、何かで読んだ記憶がありますが、
同じ理由で石垣にも使われたのでしょうか。

徳島城 東二の丸 天守跡a

山の中腹に開けた場所。東二の丸です。
ココにかつて天守があったそうです。
なぜ、本丸のある頂上に天守を築かなかったのかは、わかっていないとか。

徳島城 本丸跡a
本丸跡です。今は何もないですけど。
ちょうど東側から西側に向かって写真を撮っています。
ここに立てば城下を一望できますが、夏で樹々の葉が生い茂り、下がほとんど
見えません。景色を堪能するなら、秋冬が良いと思われます。
眉山は写真の左方向にあります。

この後、友人らと合流して午前中いっぱい、喫茶店で談笑。
秋にOB会をやろうぜ!ってことで話がまとまり、幹事になってしまいました。

友人らと別れたあと、ワタクシの乗る飛行機の時間までまだ余裕があったので、また
ちょっと寄り道することに。
市内と空港のちょうど真ん中あたりに、興源寺というお寺があり、そこに蜂須賀家の
墓所があるので行ってみることにしました。

興源寺 山門a

臨済宗のお寺。
山門が特徴的です。

興源寺 山門 仁王像a

やたら原色な、仁王像さまがイカス。
墓域は山門をくぐらないで、左へ真っ直ぐ進みます。

興源寺 蜂須賀家墓所 家祖正勝a
蜂須賀家 家祖正勝の墓(右)
左は正室・松の墓
他の蜂須賀家の藩主の方々とは離れた場所にあります。

初代藩主家政からの歴代藩主の墓は、墓域の奥にまとまってありますが、これが
ビックリするくらい広い墓域です。

興源寺 蜂須賀家墓所a

少年野球なら軽くできそうなくらいの広さです。
開放感があって、近所に住んでいたらぜひお散歩コースに入れたい場所です。

興源寺 蜂須賀家墓所 藩祖家政 (2)a
初代藩主家政の墓。

正勝をはじめ、他の歴代藩主の墓石は五輪塔を用いていますが、家政の墓は
角柱の墓石が採用されています。

ここまで見て、そろそろ飛行機の(というよりレンタカー返却)時間が気になって
きましたので、徳島阿波おどり空港に向かいました。
サヨナラ徳島。
イ○ジ(友人)、また来るよ。

今回の徳島訪問は8月最初の土日。
今頃は徳島市内は阿波おどりで熱狂している頃でしょう。

最後に・・・。
空港のショップで買った、ウケ狙いスイーツ。

うどんキャラメルa
後ろはこんな。
0109214fabb335a6ed8c7828dead4a9594e5a2a39ba.jpg
観光課係長/うどん健、イイ男ですね。スーツの袖がなに気にプレスリー仕様。
実写化の際は大谷亮平さんを希望。

え?味ですか?
こーゆーグッズにそんなコトを聞くのは野暮ってもんですゼ、ダンナ。


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江戸楽アカデミー「江戸歌舞伎のスーパースター☆市川團十郎列伝」

秋の講座のお知らせです。
ワタクシが講師を勤めます小学館集英社プロダクション主催
江戸楽アカデミー秋期講座から。

江戸楽アカデミー 2019年 秋期講座
江戸歌舞伎のスーパースター☆
市川團十郎列伝


今回の講座は歌舞伎がテーマ。
江戸歌舞伎の代名詞、市川團十郎を中心に取り上げます。
先代の12代目が亡くなられてすでに6年が経ちました。その間に第5期の歌舞伎座も
出来上がりましたが、現在まで、その江戸歌舞伎最大の名前は空位のままでした。
しかし、来年5月、いよいよ市川海老蔵さんが13代目としてこの大名跡を継がれる
ことになりました。
これを契機に、江戸時代から始まる代々の「市川團十郎」を知ってみよう!というのが
今回の講座であります。

7月にも海老蔵さんの長男・堀越勸玄くんが、わずか6歳ながら十八番の「外郎売」の
長ゼリフを堂々と披露して見せ、ワタクシも度肝を抜かれたばかりであります。
(ワタクシも演劇をやっておりました時分に外郎売のセリフを覚えさせられましたが、
難しいんですよ、とても!)
たしか、勸玄くんも同時に市川新之助を8代目として襲名されるはず。

ということで、歌舞伎界最大級のイベントに先駆けまして、代々の團十郎について
ネタを仕入れておきませんか?
「そもそも海老蔵って名前は、初代團十郎の幼名なんだけど、2代目團十郎は3代目
に團十郎の名前を継がせてから海老蔵を名乗っててね・・・」
そんな会話で相手の興味を惹けば、きっとあなたもパーティーの主役に!

モチロン、あとラスト2年になりました「江戸文化歴史検定」の受験対策にも!


②初代團十郎 鳥居清倍a
「初代市川團十郎の竹抜き五郎」 鳥居清倍 元禄10年(1697)頃
顔を真っ赤に塗り、墨や紅で隈取りをつけて、怪力の豪傑を演じました。
なぜ荒事の芝居は江戸の人々の人気を集めたのでしょうか。

⑦5代目団十郎 鰕蔵 写楽a
「市川鰕蔵の竹村定之進」 東洲斎写楽 寛政6年(1794)
浮世絵としても超有名作品。知らない人はいないんじゃないか、というくらい。
ところが描かれている人物は、となると・・・???
市川鰕(えび)蔵は、5代目市川團十郎が6代目に名跡を譲った後に名乗った名前。
2代目團十郎と同じパターン。
でも、なぜ「海老」ではなくて「鰕」なのでしょうか?
答えは講座にて。

⑫勧進帳 7代目團十郎(海老蔵)
「勧進帳の初演」 歌川国貞(3代目豊国) 天保11年(1840)
7代目市川團十郎が、能の「安宅」をモチーフに作った「勧進帳」。
しかし、衣装などは現在の舞台とはかなり違ったものになっています。
弁慶を演じるのが7代目市川團十郎。しかし、このときには8代目に名跡を譲り、5代目
海老蔵に名前を戻していました。
その8代目團十郎は7代目の長男。義経を演じています。
右側の富樫を演じるのは2代目市川九蔵。7代目のお弟子さんで後に6代目市川團蔵
を名乗っています。ちなみに初代九蔵は2代目團十郎の初名です。
「勧進帳」ほか、歌舞伎十八番についてもお話します。

「江戸楽アカデミー」HPから。
「歌舞伎界の大名跡として現在に受け継がれる市川團十郎。このたび十三代目の襲名
が決まり話題になっています。本講座では、江戸時代に活躍した初代から九代目まで
を取り上げて、それぞれの生い立ちや活躍ぶり、関連した出来事などを解説しながら、
個性あふれる9人の「市川團十郎」の人物像を、講師独自の視点からお話しします。
江戸歌舞伎の知識と興味深い内容が満載です。」

■ 講義時間/2時間× 1回 ■ 定員/38名 ■ 受講料/3,300円
■ 講師 関 一成 (江戸文化歴史検定1級 文京学院大学生涯学習センター講師)
■ 日時 令和元年10月6日(日) 13:30~15:30
■ 会場 小学館集英社プロダクション・SP神保町第3ビル
      (東京都千代田区神田神保町2-18)
      [交通]地下鉄「神保町」駅A4出口より徒歩約2分・
           JR「水道橋」駅より徒歩約11分

お申込み、詳細は、小学館集英社プロダクション「江戸楽アカデミー」のHPまで。
江戸楽アカデミークリック!


「なんだー。このボタンちょっと押してみるんだな。うーん、なんだー。」



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