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徳島に行ってきました

昨年、学生時代に一緒に演劇をしていた親友が病気で亡くなりまして、今年の
夏は新盆になるものですから、当時の同期の仲間とともに、彼の墓がある
徳島県に行って線香をあげてきました。

徳島空港 正面a

徳島の玄関「徳島阿波おどり空港」。
そんなしんみりとした想いも、一気にブッ飛ばしてくれるアワオドラー像。
もう20年以上も前になりますが、亡くなった友人と8月に阿波踊りを見にきて、一緒に
踊ったことがありました。

その日のうちに、お墓参りとご実家への挨拶もすませ、旧友らともプチ同期会をして
その日は徳島駅前のホテルで一泊。

せっかく来たんだから、帰る前に周辺をブラついてみようと思いました。翌朝8:20に
チェックアウトをして向かった先は徳島城址。8:30に駐車場が開くので、それに合わせ
て訪れたわけです。

徳島城 堀石垣 (2)a

朝早ければそれほど暑くないかな・・・と思ったのが甘かった。
すでに気温30℃超えではないか?と思うほど。
先ずは堀端を歩きますが、日差しを遮るモノがない。帽子とペットボトルの水が命綱。

徳島城 堀石垣 (4)a

それにしても美しい石垣です。
打ち込み接ぎの積み方でしょうか。乱積みなので荒々しさがあっていいです。
徳島駅や徳島城のある場所は、地図で見ると吉野川河口の中州になるんですね。
なので堀の水は豊富で魚もたくさんいるようです。

徳島城 鷲の門a

徳島城址のランドマーク、「鷲の門」。
三木郭という曲輪に築かれていた門で、明治以降に城が破却された後もこの門だけは
残されていましたが、1945年7月の空襲で焼けてしまい、平成元年(1989)に復元
されたとのことです。

鷲の門を潜り、大手門(枡形だけ残る)を抜けると博物館がありますが、この日は開館
時間前だったし、この後友人らと待合せもあったのでそちらはスルー。

徳島城 蜂須賀家正公像a
藩祖・蜂須賀家政像。

城主の蜂須賀家は「太閤記」で有名な蜂須賀小六(正勝)から始まりますが、阿波
一国を秀吉から与えられたときには、正勝は60歳を超えていたため家督を息子
の家政に譲ります。そのため家政が初代藩主ということに。正勝は「家祖」って
ことでしょうか。
ちなみに、この家政像の場所には大正時代から戦前にかけては正勝の銅像が
建てられていたようです。Wikipediaなど見ると、その写真が出ていますが、長い
鎗を持った鎧武者姿の像です。しかし、戦中の金属供出で溶かされてしまったとか。

家政像の側から石段を上がって、本丸跡を目指します。
標高60mほどですから、たいした距離じゃない。しかし、気温すでに30℃か?って
中の登り道ですから昭和世代のおっさんには、わりとキツイ・・・!

徳島城 石垣a

なんとなく緑色がかった石は、青石といってお隣の眉山から運んだ石だそうです。
江戸城や外堀など、東京の石垣は伊豆石(安山岩)なので、それを見慣れていると
青石の石垣は新鮮味がありますね。
ワタクシは鉱物への知識があまりないのですが、たぶんこの石は秩父石(緑色片岩)
と同じモノなのではないかと思われます。関東だと、板碑に使われる石ですね。
板状に割りやすいので板碑に使われたというのを、何かで読んだ記憶がありますが、
同じ理由で石垣にも使われたのでしょうか。

徳島城 東二の丸 天守跡a

山の中腹に開けた場所。東二の丸です。
ココにかつて天守があったそうです。
なぜ、本丸のある頂上に天守を築かなかったのかは、わかっていないとか。

徳島城 本丸跡a
本丸跡です。今は何もないですけど。
ちょうど東側から西側に向かって写真を撮っています。
ここに立てば城下を一望できますが、夏で樹々の葉が生い茂り、下がほとんど
見えません。景色を堪能するなら、秋冬が良いと思われます。
眉山は写真の左方向にあります。

この後、友人らと合流して午前中いっぱい、喫茶店で談笑。
秋にOB会をやろうぜ!ってことで話がまとまり、幹事になってしまいました。

友人らと別れたあと、ワタクシの乗る飛行機の時間までまだ余裕があったので、また
ちょっと寄り道することに。
市内と空港のちょうど真ん中あたりに、興源寺というお寺があり、そこに蜂須賀家の
墓所があるので行ってみることにしました。

興源寺 山門a

臨済宗のお寺。
山門が特徴的です。

興源寺 山門 仁王像a

やたら原色な、仁王像さまがイカス。
墓域は山門をくぐらないで、左へ真っ直ぐ進みます。

興源寺 蜂須賀家墓所 家祖正勝a
蜂須賀家 家祖正勝の墓(右)
左は正室・松の墓
他の蜂須賀家の藩主の方々とは離れた場所にあります。

初代藩主家政からの歴代藩主の墓は、墓域の奥にまとまってありますが、これが
ビックリするくらい広い墓域です。

興源寺 蜂須賀家墓所a

少年野球なら軽くできそうなくらいの広さです。
開放感があって、近所に住んでいたらぜひお散歩コースに入れたい場所です。

興源寺 蜂須賀家墓所 藩祖家政 (2)a
初代藩主家政の墓。

正勝をはじめ、他の歴代藩主の墓石は五輪塔を用いていますが、家政の墓は
角柱の墓石が採用されています。

ここまで見て、そろそろ飛行機の(というよりレンタカー返却)時間が気になって
きましたので、徳島阿波おどり空港に向かいました。
サヨナラ徳島。
イ○ジ(友人)、また来るよ。

今回の徳島訪問は8月最初の土日。
今頃は徳島市内は阿波おどりで熱狂している頃でしょう。

最後に・・・。
空港のショップで買った、ウケ狙いスイーツ。

うどんキャラメルa
後ろはこんな。
0109214fabb335a6ed8c7828dead4a9594e5a2a39ba.jpg
観光課係長/うどん健、イイ男ですね。スーツの袖がなに気にプレスリー仕様。
実写化の際は大谷亮平さんを希望。

え?味ですか?
こーゆーグッズにそんなコトを聞くのは野暮ってもんですゼ、ダンナ。


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江戸楽アカデミー「江戸歌舞伎のスーパースター☆市川團十郎列伝」

秋の講座のお知らせです。
ワタクシが講師を勤めます小学館集英社プロダクション主催
江戸楽アカデミー秋期講座から。

江戸楽アカデミー 2019年 秋期講座
江戸歌舞伎のスーパースター☆
市川團十郎列伝


今回の講座は歌舞伎がテーマ。
江戸歌舞伎の代名詞、市川團十郎を中心に取り上げます。
先代の12代目が亡くなられてすでに6年が経ちました。その間に第5期の歌舞伎座も
出来上がりましたが、現在まで、その江戸歌舞伎最大の名前は空位のままでした。
しかし、来年5月、いよいよ市川海老蔵さんが13代目としてこの大名跡を継がれる
ことになりました。
これを契機に、江戸時代から始まる代々の「市川團十郎」を知ってみよう!というのが
今回の講座であります。

7月にも海老蔵さんの長男・堀越勸玄くんが、わずか6歳ながら十八番の「外郎売」の
長ゼリフを堂々と披露して見せ、ワタクシも度肝を抜かれたばかりであります。
(ワタクシも演劇をやっておりました時分に外郎売のセリフを覚えさせられましたが、
難しいんですよ、とても!)
たしか、勸玄くんも同時に市川新之助を8代目として襲名されるはず。

ということで、歌舞伎界最大級のイベントに先駆けまして、代々の團十郎について
ネタを仕入れておきませんか?
「そもそも海老蔵って名前は、初代團十郎の幼名なんだけど、2代目團十郎は3代目
に團十郎の名前を継がせてから海老蔵を名乗っててね・・・」
そんな会話で相手の興味を惹けば、きっとあなたもパーティーの主役に!

モチロン、あとラスト2年になりました「江戸文化歴史検定」の受験対策にも!


②初代團十郎 鳥居清倍a
「初代市川團十郎の竹抜き五郎」 鳥居清倍 元禄10年(1697)頃
顔を真っ赤に塗り、墨や紅で隈取りをつけて、怪力の豪傑を演じました。
なぜ荒事の芝居は江戸の人々の人気を集めたのでしょうか。

⑦5代目団十郎 鰕蔵 写楽a
「市川鰕蔵の竹村定之進」 東洲斎写楽 寛政6年(1794)
浮世絵としても超有名作品。知らない人はいないんじゃないか、というくらい。
ところが描かれている人物は、となると・・・???
市川鰕(えび)蔵は、5代目市川團十郎が6代目に名跡を譲った後に名乗った名前。
2代目團十郎と同じパターン。
でも、なぜ「海老」ではなくて「鰕」なのでしょうか?
答えは講座にて。

⑫勧進帳 7代目團十郎(海老蔵)
「勧進帳の初演」 歌川国貞(3代目豊国) 天保11年(1840)
7代目市川團十郎が、能の「安宅」をモチーフに作った「勧進帳」。
しかし、衣装などは現在の舞台とはかなり違ったものになっています。
弁慶を演じるのが7代目市川團十郎。しかし、このときには8代目に名跡を譲り、5代目
海老蔵に名前を戻していました。
その8代目團十郎は7代目の長男。義経を演じています。
右側の富樫を演じるのは2代目市川九蔵。7代目のお弟子さんで後に6代目市川團蔵
を名乗っています。ちなみに初代九蔵は2代目團十郎の初名です。
「勧進帳」ほか、歌舞伎十八番についてもお話します。

「江戸楽アカデミー」HPから。
「歌舞伎界の大名跡として現在に受け継がれる市川團十郎。このたび十三代目の襲名
が決まり話題になっています。本講座では、江戸時代に活躍した初代から九代目まで
を取り上げて、それぞれの生い立ちや活躍ぶり、関連した出来事などを解説しながら、
個性あふれる9人の「市川團十郎」の人物像を、講師独自の視点からお話しします。
江戸歌舞伎の知識と興味深い内容が満載です。」

■ 講義時間/2時間× 1回 ■ 定員/38名 ■ 受講料/3,300円
■ 講師 関 一成 (江戸文化歴史検定1級 文京学院大学生涯学習センター講師)
■ 日時 令和元年10月6日(日) 13:30~15:30
■ 会場 小学館集英社プロダクション・SP神保町第3ビル
      (東京都千代田区神田神保町2-18)
      [交通]地下鉄「神保町」駅A4出口より徒歩約2分・
           JR「水道橋」駅より徒歩約11分

お申込み、詳細は、小学館集英社プロダクション「江戸楽アカデミー」のHPまで。
江戸楽アカデミークリック!


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文京学院大学生涯学習センター 「江戸の名勝地・王子」④

王子駅前はかつて一面の田畑で、その中に反別7畝28分の村有地があったと
「王子町史」にあります。俗に装束畑と称し、常に雑草の生い茂った寂しい場所
だったそうです。その中央に榎の古木がそびえており、この木を装束榎といいま
した。江戸時代までは2本あったと「新編武蔵風土記稿」にあります。明治中期に
榎の大木は枯れましたが、装束榎の記念碑が建てられました。戦前は榎町という
町名にもなっています。
新しい榎も植えられましたが、昭和4年(1929)、道路拡張のために榎は切り倒され
てしまいます。
それが、前回ご紹介した、王子の黄色いランドマーク「ほりぶん」前。

装束榎が切り倒されたあと、その東部に社が建てられ記念碑も移されました。昭和20
年(1945)の空襲で東南方面から延焼してきた火災がここで止まり、北西一帯の住民
が助かったことから社殿が建立されることになります。
それが装束稲荷神社です。

101 装束稲荷神社a

地元の方の話によると、王子稲荷神社、装束榎跡(ほりぶん前)、そしてこの装束稲荷
神社は一直線でつながるんだとか。地図で見ると、確かに!

装束榎碑

これが元々、榎のあった場所に建てられていた装束榎の記念碑
史跡の写真を撮るなら夏よりも秋冬がいいですね。夏はこうやって植物が生い茂って
見事に被写体のジャマをしてくれます。
冬になったら、もう1回写真撮り直しに行こう、だわ・・・。

駅前に戻りまして、ぜひとも寄りたいのがコチラのお店。

70 扇谷a

卵焼きの扇屋さんです。
音無親水公園から王子駅へ向かう間にあります。
扇屋は、慶安元年(1648)に初代弥左衛門が農業のかたわら「農間煮売商人」の
看板をかけ掛茶屋をしたのが始まりで、現在15代目。寛政11年(1799)に料理屋と
なり、八尾善、平清、酔月楼と並び一流と評され、主に武家を客としました。
落語「王子の狐」にも出てきますので、思い出す方も多いのでは。

扇屋a

コチラがかつて、料理屋を営んでいた頃の扇屋さん。
明治期に3階部分を建て増した頃の写真だそうです。

現在、諸々の御事情により料理屋は閉店されていますが、名物の卵焼きをスタンドで
販売されています。
これが、ヒジョーに美味し!
江戸風の甘い味付けであります。王子のお土産といったら、コレです。

もし、お店に15代目のご主人が出ていらっしゃったら、ラッキー!
ご主人は王子の観光ガイドもされていらっしゃるので、王子の歴史について
聞けばいろいろと教えていただけます。

以上をもちまして、文京学院大学生涯学習学習センター講座 「江戸の名勝地・王子」
のまち歩き、終了です。
実際にはブログでご紹介した史跡の他にも、立ち寄った所はありましたが、中心の
ポイントだけを書き出しておきました。

最後に、講座らしく王子に関係する2人の著名人をご紹介しておきましょう。

先ず1人目は、二代目瀬川菊之丞

二代目瀬川菊之丞a
「執着獅子」 三代目歌川豊国

江戸中期の歌舞伎役者。屋号は「濱村屋」。俳名「路考」。
王子の農家・清水半六の子として生まれますが、初代・菊之丞が王子の農家の
娘に産ませた子という説が有力で、寛延3年(1750)5歳のときに初代の養子と
なります。宝暦6年(1756)初代が演じた「百千鳥娘道成寺」を披露して、二代目
を襲名しました。
容姿にすぐれ、地芸・所作、時代・世話を兼ね、本格的な女形としては初の江戸
出身だったため「王子路考」と呼ばれて、大人気をとりました。「路考髷」「路考茶」「路
考櫛」など路考にちなむファッションが、女性の間で大ブームを呼びました。現在の
歌舞伎・日本舞踊でも人気演目である「鷺娘」は、二代目菊之丞が初演したものです。

2人目は万延元年(1860)10月、開港直後の日本にやってきたイギリス人のロバート・
フォーチュン Robert Fortune


ロバートフォーチュンa

スコットランド生まれ。エジンバラ王立園芸協会所属の著名な園芸学者で、東洋植物の
ヨーロッパ移植を成功させた先駆者として知られます。
日本に滞在していた約1年余りの間に、長崎、神奈川、江戸、兵庫などを訪れました。その
旅行中の見聞記「江戸と北京」(Yedo and Peking, 1863)には、王子を歩いたときのことが
印象的に記されています。

王子は、言わば、日本のリッチモンド(ロンドン西郊の住宅地)で、そこにはイギリスの「スター
・アンド・ガーター・ホテル」に匹敵する有名な茶屋がある。ここは江戸の善良な市民達が一日
の遊楽や気晴らしに来る所で、たしかこれ以上の娯楽場を探すのはむずかしいだろう。
やがて道は小丘の下へ出た。道の両側には、郊外の平凡な住宅や庭の生垣がつづいていた。
村に近づくと多勢の人々が外国人を見に出て来た。近頃では外人もとくに珍しいことではない
のに・・・・・・。幾人かの子供に馬をあずけて、われわれは茶屋の中へ案内され、愛想のよい
娘に迎えられた。
茶屋のささやかな庭には、木々の枝や緑の岸や美しい花々でおおわれた小川が流れていた。
近辺一帯がすこぶる愉快で、娯楽を求める江戸の人びとが愛好するに足る場所だと思った。
われわれの前に運ばれた茶や菓子、ゆで卵その他珍味のお相伴をしてから、その辺の田舎
へ散歩に行こうとした。 「三宅馨・訳」


幕末当時の日本の庶民の様子が、外国人の視点からよく描写されています。
リッチモンドとか、スター&ガーターホテルって、そんなに王子やそこにあった茶屋に似てるのだ
ろうかと、いろいろ検索してみましたら、出てきました。

スター&ガーターホテルa
Star and Garter Hotel

こ、これ・・・王子に似てます・・・?

ちなみに下の絵が「江戸名所図会」に出てくる、音無川と周辺の茶屋の絵。

江戸名所図会・音無川a

・・・・・・・・・・・・・・。
まぁ、その・・・。
フォーチュン兄さん、褒めていただき、あざーす!!

「江戸の名勝地・王子」編 完。


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文京学院大学生涯学習センター 「江戸の名勝地・王子」③

王子駅前まで出たら、ガード下を潜らず線路と平行するように西に進みます。
やがて見えてくるのが王子稲荷神社です。

71 王子稲荷神社a

なかなか趣のある山門です。
写真の左端に水色の柵のようなモノが見えます。これ、滑り台だったかな。
神社には幼稚園が併設されてまして、平日に行きますとクレヨンなシンちゃんたちが
キャッキャと元気な声を上げております。
この門は幼稚園の正門も兼ねているようで、開園日は閉まっていてここから境内へは
入れません。横に廻って坂道を登ると直接境内に通じる入口があります。
まち歩きガイド当日は土曜日でしたので、このまま中へ入れました。

さて、この王子稲荷。元は「岸稲荷」と称していました。
創建は不詳ですが、治承4年(1180)に源頼朝が、義家の腹巻・薙刀を奉納したと
いいます。
往時から関東総社と称し、関西の伏見稲荷に対して、関東の稲荷社を総括統一してい
ました。康平年中(1058~1065)に源頼義が奥州征伐の際に立ち寄り、「関東稲荷
総司」としたのですが、この「関東」を別当寺である金輪寺が、陸奥国までも含む「東国
三十三国」と解釈したため、江戸中期までは「東国三十三国稲荷総司」の扁額を掲げて
おりました。これを、寛政の改革で「関八州稲荷総司」に変更させられたといいます。
「お前、守備範囲が東日本は言い過ぎ。せいぜい、関東までだわ」
ってトコロでしょうか。

まぁ、そういう歴史マニア向けの話はさておいて、この神社が有名なのは、というより
王子が全国的に有名なのは、毎年、大晦日の夜、日本各地から狐が集まり、少し
離れた場所にある大榎(装束榎)で装束を整えて王子稲荷に参詣した、という言い伝え
があるからなのです。この時に見える狐火の様子で、土地の農民は田畑の吉凶を占った
といいます。
そんなワケで、ここ王子とこの王子稲荷は狐のメッカということになっているのです。

装束榎a
名所江戸百景「王子装束ゑの木」 歌川広重

「名所江戸百景」は広重の代表作ですが、画題は全て実際のリアルな風景(多少の
誇張はあるでしょうが)なのですが、この「王子装束ゑの木」だけは幻想的な狐が
集まる絵となっています。広重もそう描かざるをえないほど、王子といえば狐のイメ
ージが江戸の庶民に根付いていたんですね。
この画面の右中ほどに描かれた山が王子稲荷のある場所で、手前の装束榎という
大榎に集まった狐たちが稲荷を目指して行列をつくって歩いていくわけです。

では、その装束榎があった場所はどこかというと・・・

ほりぶん

ここです。JRのガードを越えて王子駅前からやや西方の、交差点のド真ん中。
道路拡張の影響などにより、榎はもうありません。
「ほりぶん」というやたら目立つ黄色いビルが目印です。これは食品スーパーらしい
のですが、現在は営業をやめているようです。

王子稲荷に戻りましょう。
本殿の裏は武蔵野大地の高い崖になっていますが、階段を上っていくと狐の穴
祀られております。

79 王子稲荷神社 狐穴a

こういうのを見ると、狐伝説もまんざら全くのデタラメではないのかな、と。

東京はけっこう「狐の穴」の史跡があって、私が今までまち歩きガイドをした中でも
文京区の沢蔵司稲荷、上野公園の弥左衛門狐の穴稲荷などがあります。
江戸の人たちにとって狐はリアルに身近な動物だったのですね。
私の住んでいる東大和市も、大正時代頃までは狐がいたそうですが、今はいません。
狸は狭山丘陵の山に今でもいますが、狐は里に住む動物なので環境の変化に敏感
なのでしょうね。

王子稲荷をさらに西に進むと、前回ご紹介した金輪寺、その隣に名主の滝公園
あります。

名主の滝公園

安政年間(1854~1860)、王子村の名主・畑野孫八が自らの屋敷地に滝を築き、
茶を栽培し、一般に開放したのがはじまりです。将軍が鷹狩りのときに立ち寄られた
こともあり、名声を得たとのこと。
この公園に王子七滝の一つ、名主の滝がありました。

名主の滝

コチラが、現在の公園内にある滝の一つ「男滝」。
明治中期以降、公園として整備され、男滝、女滝、独鈷の滝、湧玉の滝の4滝が
作られていて、かつての王子七滝をイメージさせるものになっています。
もっとも、現在の滝は自然のものではなく地下水をポンプで汲み上げているそうです
けどね。

次回につづく。


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文京学院大学生涯学習センター 「江戸の名勝地・王子」②

不動の滝a
名所江戸百景「王子不動之滝」 歌川広重

飛鳥山を降りると目の前に石神井川が流れています。王子の辺りでは音無川とも
呼ばれています。豊島氏が紀州にちなんで名付けたのは、前回に書いた通り。
武蔵野台地と川との落差により王子周辺にはかつて多くの滝があり、「王子七滝」
と呼ばれていました。
王子が江戸の名勝地と呼ばれる由縁の一つですね。

上の絵は、王子七滝の中でも最も有名だったと云われる不動の滝です。
「新編武蔵風土記稿」は「病者ツトイ来テ浴セリ」と書いています。

しかし、川がたびたび氾濫したので、近代以降は護岸工事が行われ景観はすっかり
変わり、ほぼ全ての滝が姿を消してしまいました。
不動の滝があった場所は正受院というお寺の裏。正受院は現在も残っていますが、
滝が流れていた所は、今はこんな感じ。

不動の滝b
矢印の辺りが滝の流れていた場所と思われます。

石神井川の流れも江戸時代とはだいぶ変わってしまっています。
かつては飛鳥山の麓を沿うように流れていましたが、現在は飛鳥山の下を暗渠として
通しています。

53 音無橋a

この橋は音無橋。江戸時代にはこの場所に橋はありませんでした。
石神井川(音無川)の王子神社傍らに渡したアーチ型鉄筋コンクリート橋で、昭和4年
(1929)12月に起工し、同6年1月に竣工しました。王子町と滝野川町を繋ぎ、交通の
便が図られました。渋沢栄一が建築や音無橋開通式協賛会へ支援したといいます。
川はこの橋の手前から暗渠になっています。

渋沢栄一といえば、飛鳥山に邸宅を構えていたことで知られていますね。
庭園が公開されていますし、史料館もあります。
今回のまち歩きでは時間の関係で寄りませんでしたけど、新紙幣の肖像画に渋沢栄一
が採用されたとあって、王子では今、ちょっとした渋沢ブームが起きています。

33 渋沢資料館a

渋沢が紙幣の顔に選ばれたのは、彼が日本経済の父というところからなのでしょうけど、
元はといえば幕臣で、陸軍奉行支配調役として京都に赴任。新選組の土方歳三と捕物
に出動したこともある人物です。
明治以降、紙幣の肖像に選ばれた人物は、文化人や学者を除けば明治新政府側の
人物ばかりだっただけに、江戸幕府の中枢にいた人が初めて選ばれたということに、佐幕
派のワタクシとしては感慨深いモノを感じます。

さて、暗渠になってしまった音無川の替わりに、その流れを再現した公園が音無橋の下に
作られています。音無親水公園です。

68 音無親水公園a

この写真を撮った日は平日でしたし、まち歩き当日は小雨模様だったので人影はまばら
ですが、休日ともなれば子連れファミリーが大勢やってくるようです。今頃は水遊びで
盛況でしょうね。
ちなみに、この水路の水はろ過装置による循環水だそうです。

写真に橋が写ってますが、もちろんコレは公園を整備するときに作った橋。
今はもうありませんが、現在の王子駅のやや西側、ガード下のあたりに、あすか橋という
橋があったことが古地図を見るとわかります。
この橋は、あすか橋を再現しているのかも、と思いました。

順序が逆になってしまいましたが、先ほどの音無橋を渡るとすぐ右側にあるのが
王子神社です。

58 王子神社a

それ創建年代は不明ですが、平安時代の康平年間(1058~1064)に源義家が
前九年の役で立ち寄り、戦死した兵を弔うために金輪寺を建立し、この神社には甲冑
を納めたといいますから、それ以前の建立ということになりますね。
ただし、この頃はまだ王子神社という名称ではなく、祭神もわかりません。

豊島氏代々が崇敬していましたが、元亨2年(1322)に豊島氏が紀州熊野三社より王子
大神を勧請して、「若一(にゃくいち)王子宮」又は「王子権現」として再興しました。
祭神は、伊邪那岐命、伊邪那美命、天照大神、速玉之男命、事解之男命の五柱の神様。
これらの神様を総称して「王子大神」といいます。若一王子は天照大神のことです。
王子は熊野三社権現(本宮、那智、新宮)の御子神の呼称です。
ざっくり言えば、熊野権現=王子権現ということになります。
明治以降、王子神社と改めました。

元々、この辺りは岸村と言っていたのですが、これより王子村と村の名前も変わります。

さて、義家が建立した金輪寺は、王子権現の別当寺(神社を管理するお寺)として江戸
時代まで広大な寺域をもっていました。歴代将軍が鷹狩りや日光参詣の際に立ち寄り、
御膳所や休息所としても使われました。
ところが、幕末に火災にあい、その後の廃仏毀釈の影響でそのまま廃寺となってしまい
ます。現在の北区区役所のある辺りが金輪寺のあった場所です。

北区区役所

明治36年(1903)に、湯島の霊雲寺と地元の檀家がはかり、残っていた支院(塔頭)の
藤本坊に金輪寺の名跡を継がせます。
これが、王子駅の西方にある、現在の王子山金輪寺です。

88 金輪寺a
写真ではわかりませんが、本堂の屋根に葵紋が燦然と輝いております。
将軍家との繋がりを感じさせますね。

以下、つづく。



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